織田信長が美濃稲葉山城を攻撃(木下藤吉郎(豊臣秀吉)による墨俣一夜城伝説あり)、城主斎藤龍興は凡庸ながら猛反撃に遭って力攻めを断念、稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全の美濃三人衆や竹中半兵衛重治を懐柔して斎藤龍興を孤立させ攻略に成功(近江に逃亡した斎藤龍興は、三好三人衆、最後は越前朝倉義景の反信長軍で転戦するが1573年に戦死)
1566年
織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。