高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)

1864

奇兵隊などの諸隊は、長州藩庁による解散を免れるため、三条実美ら五卿を擁して長府に転陣し藩庁と交渉を続けた。奇兵隊総管赤根武人は俗論党に懐柔されて藩庁の政務座役に兼任され、山縣有朋や福田侠平らの幹部連中も赤根に引きずられて「正俗調和」の慎重論へ傾いた。高杉晋作は必死の説得を試みたが諸隊長の反応は鈍く、決起に応じたのは河瀬真孝・中岡慎太郎ら遊撃隊士(浪士軍)と伊藤博文・前原一誠らごく少数で、諸隊750人のうち従う兵力は遊撃隊60人と力士隊30人ばかりであった。しかし高杉晋作は、長府功山寺に在する五卿に「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と宣言し颯爽と兵を挙げ、三田尻で藩の軍艦3隻を奪い、東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固め、遂に長州藩正規軍を破り長州回天を成功させた。伊藤博文は後に高杉晋作の墓所がある下関郊外清水山の「東行碑文」に「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。衆目駭然としてあえて正視するものなし。これわが東行高杉君にあらずや。」と揮毫したが、功山寺の情景を眼前に現す名文である。功山寺には、三条実美ら七卿の御在所が現在も保存されており、境内には馬上挙兵に乗出す高杉晋作を映した見事な一鞭回天像があるが、傍らに「一将功成って万骨枯る」の碑が立つ。力士隊を率い決死の行軍に参じた伊藤博文は大功労者だが、肝心要の功山寺挙兵で日和見しながら位人臣を極め椿山荘やら無鄰菴やらを築いた山縣有朋への面当てのようでもある。実際、山縣の汚点となったに違いなく、伊藤の生存中はこれを憚り軍事に徹して政治に距離を置いたとされる。なお赤根武人は、高杉の反乱軍が優勢になると上方へ逃亡、幕府に捕縛されて走狗となり、第二次長州征討で大目付永井尚志の随員として長州入りし不戦を説いたが全く相手にされず、逆に捕らえられ1866年に山口で処刑された。
日本史年表