第二次佐藤栄作内閣(自民党・鉄道官僚・自主路線)発足
1967年
佐藤栄作は、吉田茂の後継者ながら実兄岸信介の自主外交を踏襲、高度経済成長の円熟期に歴代2位の長期政権と自民党黄金時代を現出させ、沖縄返還を達成しノーベル平和賞を受賞した。山口県から上京し東大法学部を卒業した佐藤栄作は松岡洋右(妻の伯父)の推薦で鉄道省に出仕、次官コースから外れ大阪鉄道局長で終戦を迎えたが、左遷が幸いして公職追放を免れ運輸次官に浮上した。1948年吉田茂の引きで政界へ転じた佐藤栄作はいきなり内閣官房長官に抜擢され、翌年の総選挙で衆議院議員初当選ながら自由党幹事長に就任、1951年第三次吉田茂内閣で初入閣を果した。佐藤栄作は「造船疑獄」で糾弾され(国連加盟の恩赦で免訴)1955年の「保守合同」では吉田茂に殉じ与党自民党を離れたが、鳩山一郎の政界引退で自民党加入を許され第二次岸信介内閣で蔵相に就任、「安保闘争」に乗じ倒閣に動いた池田勇人と袂を別ち首相官邸で兄を支えた。続く池田勇人内閣では、佐藤栄作は閣内にあって池田首相の経済至上主義を批判し三選を阻止すべく自民党総裁選に出馬、池田が勝利するも間もなく病気で退陣し1964年佐藤栄作内閣が発足した(池田裁定)。佐藤栄作首相は岸信介の自主外交を復活させ「沖縄返還」に挑戦、ジョンソン米大統領との会談では、ベトナム戦争への軍事協力を拒否しつつ1970年に控える安保条約更新を切札に「数年以内の沖縄返還」合意を引出した。反核世論に腐心した佐藤栄作首相は「非核三原則」「核抜き・本土並み」を建前としつつ、非常時の核兵器持込みと日本の繊維輸出自主規制を認めた「密約」でニクソン米大統領の妥協を引出し1972年沖縄返還を達成した。しかし「糸で縄を買った」批判のなか佐藤栄作首相は「繊維密約」に白を切り、激怒したニクソン・キッシンジャー政権は直ちに報復に乗出し1971年同盟国日本に無断で電撃的に「ニクソン訪中」を宣言しドル兌換停止(ドル切下げ)も断行(ニクソン・ショック)、さらに米国務省は「尖閣問題」の日本支持を修正し態度を曖昧化させた。アメリカに敵視された佐藤栄作首相は沖縄返還を花道に退陣を余儀なくされ、3年後に74歳で永眠した。