近江日野の名門豪族の嫡子に生れ、六角氏滅亡に伴い織田信長に仕えて娘婿となり本能寺事変後は豊臣秀吉に臣従、武功を重ねて会津92万石に抜擢され伊達政宗の妨害を排して奥州仕置を完遂、徳川家康の抑え役を期待され本人は天下も夢見たが惜しくも40歳で病没した文武両道の大器
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照蒲生 氏郷
1556年 〜 1595年
60点※
蒲生氏郷の寸評
蒲生氏郷の史実
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1556年
南近江国主六角義賢の被官で日野城主の蒲生賢秀の嫡子に蒲生氏郷が出生
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1556年
[長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継(道三方の明智城主明智光安・光久兄弟は討死し逃亡した甥の明智光秀は諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官)、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず
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1556年
[稲生の戦い]斎藤道三の敗死を好機とみた織田信行(信長の同母弟)と柴田勝家・林秀貞らが挙兵、織田信長は佐久間信盛・森可成らを味方につけて勝利するが信行を偏愛する生母土田御前の仲介により赦免、斎藤義龍と結んだ織田信広(信長の庶兄)も謀反し清洲城奪取を企てるが未遂に終わり降伏・赦免
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1556年
67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国
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1557年
[防長経略]毛利元就が陶晴賢の勢力を駆逐して大内家を乗取り周防・長州を奪取、陶の傀儡大内義長(義隆の甥)は実兄の大友義鎮(宗麟)に見捨てられ自害(毛利氏は義長の助命を申送ったが身内への猜疑心が強い義鎮はむしろ処刑を要求したとも)、元就は北九州へ食指を伸ばすが義鎮は筑前古処山城主の秋月文種を自害させるなど毛利方勢力を掃討して豊前・筑前を制圧(実行役は立花道雪)
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1557年
第3次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1557年
織田信長に帰順した柴田勝家が織田信行の再謀反を密告、信長は病と称して弟の信行を清洲城に誘い込み殺害、信行の遺児(津田信澄)は助命され勝家に託される
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1557年
武田晴信(信玄)が川中島の戦いで対峙する長尾景虎(上杉謙信)の後方撹乱を図り西上野侵攻を開始、長野業正は配下の「箕輪衆」と上野国人を糾合し抗戦・上野勢は足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍の業正は鮮やかな退却戦を演じて箕輪城に籠城し夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し景虎の来援を得て防衛に成功、信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆く
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1558年
[北白川の戦い]将軍足利義輝・細川晴元が挙兵し京都奪回を図るが、三好康長・三好実休・安宅冬康・十河一存ら阿波勢の来援を得た三好長慶が勝利、晴元派の庇護者六角義賢も和睦に動き義輝・晴元は降伏し5年ぶりに京都へ帰還、室町幕府を牛耳った三好政権は摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路を掌握し最後は河内・大和まで10カ国を勢力圏に収めて全盛期を迎える
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1559年
[浮野の戦い]織田信長が犬山城主織田信清と同盟し織田一門の宗家で岩倉城主の織田信賢を撃破、守護斯波義銀も追放し尾張一国を平定~武功を挙げた前田利家は「槍の又左」(利家の字は又左衞門)の異名をとり母衣衆(信長親衛隊)に抜擢されて妻まつ(芳春院)を迎えるが、笄を盗んだ同朋衆(給仕役)拾阿弥(信長の異母弟説あり)を斬殺し信長の勘気を蒙って織田家を追放される
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1559年
三好長慶・松永久秀の傀儡将軍からの脱却を期す足利義輝が抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達晴宗・織田信長・斉藤義龍・武田晴信(信玄)・長尾景虎(上杉謙信)・北条氏政・最上義光・毛利元就・尼子晴久・大友義鎮(宗麟)・島津貴久らと誼を通じ三好政権打倒を画策、信長と景虎は上洛して義輝に拝謁し義鎮は鉄砲を献上
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1559年
北条氏康が永禄飢饉救済のため徳政令を施行、領主層を納得させるため建前上引責隠居し次男北条氏政(長男は夭逝)に家督を譲る
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1559年
北白川の戦いに敗れ三好政権に屈した六角義賢が家督を嫡子義治に譲り隠居
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1559年
和漢融合様式を確立して職業画家集団「狩野派」を興し分業制作体制により大徳寺大仙院方丈・妙心寺霊雲院・石山本願寺など多くの障壁画を描いた狩野元信が死去、孫の狩野永徳(三男松栄の嫡子)が武家好みの豪快な画風で織田信長・豊臣秀吉に寵遇され狩野派400年の繁栄をもたらす
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1560年
[桶狭間の戦い(日本三大奇襲)]松平元康(徳川家康)の三河を属国とし武田・今川との同盟で背後を固めた駿河・遠江守護今川義元(足利将軍の一族で百万石の太守)が4万の軍勢で尾張に侵攻、20万石・兵力3千人の織田信長は籠城策を捨てて奇襲を敢行し田楽狭間で休息中の今川義元を殺害(享年42)、織田信長は天下に志を抱き、無能な嫡子今川氏真が承継した駿河国は武田・徳川・北条の好餌となる
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1560年
桶狭間敗戦を受け松平元康(徳川家康)が尾張の前線から岡崎に帰還、岡崎城と三河領を常駐管理していた今川家臣が逃げ帰り祖父松平清康以来悲願の完全独立を達成、織田方諸城を攻め潰して三河国を制圧し尾張へ侵攻、今川家に打倒織田信長を促すも煮え切らない新当主今川氏真(義元の嫡子)に愛想を尽かし、義元の元を捨てて家康に改名
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1560年
[野良田の戦い]六角義賢に従属した弱腰の浅井久政に対し嫡子浅井長政と家臣団がクーデター、久政から家督を奪った長政(このとき賢政から改名)は六角氏と手切れして諸豪を調略、愛知郡肥田城主高野備前守の寝返りに激怒し攻め寄せた六角義賢軍を撃退し浅井氏は北近江の支配権を確立、敗れた六角氏は南近江支配も脅かされ衰亡へ向かう
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1560年
眼病で視力が低下し隠居した富田勢源(中条流当主は弟の富田景政・越前朝倉氏家臣)が神道流兵法者(梅津某)の挑戦を断り切れず斎藤義龍の招きに応じて美濃稲葉山城下で立合い、勢源は小太刀の名手だが40cm足らずの薪を手に「眠り猫」の態で対すると瞬時に相手の二の腕と頭を叩き割る神業で圧勝、「無刀」を追求する勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせ更に研鑽を積む
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1561年
[小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る
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1561年
斎藤道三を殺害して美濃国を奪った斎藤義龍が病死(ハンセン病ともいわれる)、嫡子斎藤龍興が家督相続
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1561年
織田信長家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の浅野長勝(姉の子浅野長政が家督相続)の養女で杉原定利(嫡子木下家定、その五男が小早川秀秋)の実娘ねね(北政所)と結婚(ねねの母方木下家への婿入り説が有力)
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1561年
[第4次川中島の戦い]啄木鳥戦法を見破った上杉謙信が敵本陣に斬り込み武田信玄に一太刀浴びせるが武田軍が防戦に成功、武田軍の被害も甚大で信玄の弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死
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1561年
武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率いて上野を攻めるが輝虎の来援で撤退、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る
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1561年
ポルトガル人殺傷事件が発生し肥前平戸への来航停止、肥前三城主大村純忠は自領の横瀬浦へポルトガル船を誘致し平戸領主松浦隆信から南蛮貿易の利を奪取、2年後に改宗し日本初のキリシタン大名となる
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1562年
[清洲同盟]三河岡崎城主の松平家康(徳川家康)が今川氏真を見限り織田信長の誘いに応じて攻守同盟締結、元康は三河の今川方諸城を攻め取り、東方の安全を確保した信長は清洲から小牧山に本城を移し美濃攻略に専念
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1562年
[久米田の戦い・教興寺の戦い]和泉岸和田城主十河一存(三好長慶の弟)の急死に乗じた畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢と連携し細川晴之(晴元の次男)を担いで挙兵、三好長慶は三好義興(嫡子)・安宅冬康(弟)・松永久秀の奮闘で挟撃の危機を凌ぐが(高政を再追放して河内を回復し六角と和睦して京都を奪回)、一存と共に兄長慶を支えた三好実休が敗死、両翼を喪って弱体化した三好政権は反三好勢・将軍足利義輝の反抗に手を焼き家中では松永久秀の勢力が伸張
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1563年
[観音寺騒動]六角義賢の嫡子義治が筆頭重臣後藤賢豊の権勢を恐れ暗殺、家臣団の離反により義賢・義治は近江観音寺城を追われるが、蒲生定秀・賢秀(賢豊の娘婿)父子の奔走で和睦し帰城(義治は廃嫡され次男義定が家督相続)、蒲生定秀は家老に出世するが名門六角家は風前の灯
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1564年
[第二次国府台合戦]北条氏康が江戸川を越えて里見義堯・義弘率いる上杉派房総連合軍を攻撃、緒戦は家臣の勇み足で落としたが北条綱成の奇襲反撃により敵将正木信茂を討取る快勝、上総国を制圧し里見氏を安房に追い詰めるが上杉輝虎(謙信)対策に手間取り戦線膠着
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1564年
[山王堂の戦い]北関東で上杉輝虎(謙信)方の佐竹義昭・宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹と北条氏康方の小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤の抗争が激化、上野平井で出馬要請を受けた輝虎は8千余騎を従え「神速」で常陸真壁郡山王堂に駆け付け小田勢を討滅(余りの速さに関東勢は遅参)、輝虎は征服した常陸小田城を義昭に預け武田信玄に対するため越後へ撤退、義昭は氏治を藤沢城に追込み継室の実家大掾氏も傘下に収めて常陸平定をほぼ達成
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1564年
[三河一向一揆]岡崎上宮寺での米穀徴発に端を発し一向一揆が発生、松平家康(徳川家康)の弾圧策が火に油を注ぎ旧三河守護の吉良氏ら土豪にくわえ松平家臣の多くが武装蜂起、窮地の家康は屈辱的条件で和睦するが約を違えて一向宗寺院を悉く破却(首謀者の一人本多正信は松永久秀に寄寓したのち加賀一向一揆に加わり、流浪の末に帰参を赦され家康の軍師となる)、反撃の好機を座視した今川氏真は逆に東三河の拠点吉田城を奪われ、松平家康が三河一国を制圧
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1564年
陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」三好長慶が死去(享年43)、三好長慶・三好実休・安宅冬康・十河一存の四兄弟を一挙に喪った三好政権は内部分裂で瓦解し京都・堺・奈良の三大都市を握る松永久秀が台頭、織田信長の畿内侵攻に遭って三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は掃討され、久秀と長慶の養嗣子三好義継は信長に降るが最後は謀反し滅ぼされる
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1564年
第5次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1564年
主君斎藤龍興と側近からの侮辱に怒った竹中半兵衛重治が手勢14人で稲葉山城を急襲し占領、舅の安藤守就も駆けつけて龍興は逃亡、織田信長から美濃半国を条件に城を明渡すよう誘われたが断って龍興に返還し、北近江に移って浅井長政の客将となるが1年で禄を辞して美濃岩手に戻り隠棲
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1565年
[永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周暠は殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展
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1565年
興福寺に幽閉された将軍足利義輝の弟一乗院覚慶(足利義昭)が三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は近江甲賀の和田惟政邸で足利将軍家の家督を宣言し南近江守護六角義賢が献上した野洲郡の矢島御所に移り還俗して足利義秋(義昭へ改名)を名乗り、関東管領上杉輝虎(謙信)・河内守護畠山高政・能登守護畠山義綱らに三好三人衆・松永久秀打倒を要請するが三好長逸に矢島御所を襲撃され六角義治(義賢の嫡子)に内通疑惑が生じたため若狭守護武田義統を頼り亡命、力不足の武田家を去り越前朝倉氏を頼るが朝倉義景は重い腰を上げず
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1566年
織田信長が美濃稲葉山城を攻撃(木下藤吉郎(豊臣秀吉)による墨俣一夜城伝説あり)、猛反撃に遭って力攻めを断念するが、稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全の美濃三人衆や竹中半兵衛重治を懐柔して斎藤龍興を孤立させ攻略に成功(近江に逃亡した斎藤龍興は、三好三人衆、最後は越前朝倉義景の客将となって抗戦を続けるが1573年に戦死)
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1566年
[箕輪城落城]局地戦では無敵ながら関東に安定基盤を築けない上杉輝虎(謙信)の権威が低下し守将の北条高広まで離反、最後の拠点上野箕輪城を武田信玄に落とされ長野業盛(業正の後嗣)は自刃し上野長野氏は滅亡、輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦するが挽回できず関東制覇を断念、代わりに北条氏康が関東諸豪を切崩し勢力を回復
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1566年
箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
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1566年
[第二次月山富田城の戦い]毛利元就・吉川元春が5年に及んだ月山富田城攻囲戦を征し尼子義久が降伏開城(尼子義久・倫久・秀久兄弟は助命され子孫は毛利家臣として存続、後に尼子再興軍を旗揚げする山中鹿介は上京へ逃れ諸国巡歴)、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇
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1566年
松平家康が改姓し徳川家康を名乗る(松平氏は三河賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、家祖徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河一国の太守に相応しい源姓・名字徳川に改めたと考えられる)
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1567年
織田信長が美濃国を制圧、中国周王朝の発祥地に因んで稲葉山城を岐阜城へと改名し本拠を移動、国境を接した武田信玄を贈物攻勢と婚姻政策で宥めつつ「天下布武」を掲げて京都を窺う
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1567年
丸目蔵人長恵が愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ世人に真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず、師の上泉伊勢守信綱は長恵に新陰流の印可を授与(「殺人刀」教授は認めるが「活人剣」は秘匿すべしとの制限付)、長恵は肥後人吉へ戻り相良晴広の命により薩摩大口城守将の東伊勢守の旗下に入る
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1567年
北近江小谷城主の浅井長政が越前朝倉氏に背かないことを条件に上洛を望む織田信長と同盟し南近江の六角義賢攻めを加速、信長の妹で「近国無双の美人」市は浅井長政に入輿し茶々(豊臣秀吉側室で嗣子秀頼の生母淀殿)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠正室)を出産する
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1567年
[三船山合戦]北条氏政(氏康嫡子)が安房に攻め入り里見義堯・義弘に決戦を挑むが水陸両戦でまさかの大敗、房総情勢は里見氏優位に転換(その後一時降伏(房相一和)するも反北条を貫く)
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1567年
駿河侵攻を企図する武田信玄が嫡子武田義信を今川氏の妻と離縁させ廃嫡のうえ幽閉し(2年後自害に追込む)傅役の飯富虎昌らも謀反の疑いで殺害、信玄の四男武田勝頼が信濃高遠城から甲府躑躅ヶ崎館に召還され跡継ぎ的立場となる
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1567年
武田信玄を恐れる織田信長が養女(姪)を世子武田勝頼に嫁がせ(遠山夫人)武田信勝が出生、上機嫌の信玄は信勝を跡継ぎに定め娘松姫と信長嫡子信忠の婚約を認める(後に武田と織田は手切れとなり婚姻は成立せず)
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1567年
[東大寺大仏殿の戦い]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に三好康長・安宅信康・篠原長房・池田勝正ら三好家重臣と大和の筒井順慶が加勢し将軍足利義栄からも討伐令を出された松永久秀が大和多聞山城に孤立(柳生家厳・宗厳父子は久秀方で参戦)、畠山高政・安見宗房・根来衆と同盟し挽回を図るも堺を落とされ逃亡するが、三好家当主義継の寝返りを誘って盛り返し三人衆が陣取る東大寺を夜襲で撃退(東大寺大仏殿は失火で全焼し大仏は首が焼落、奇しくも10年後の同日10月10日に松永久秀は自爆死)、順慶とゲリラ戦術に手を焼いた久秀は局面打開のため織田信長に名物茶器「九十九髪茄子」を献じて帰服、信長は久秀に大和一国・義継に河内半国の切取り次第を許す
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1568年
将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が阿波に居た足利義栄(11代将軍義澄の孫で13代義輝の従弟)を担ぎ出して14代室町将軍の宣下を受けるが、専横を強める松永久秀と三好一門衆の抗争が勃発し将軍義栄は入京できぬまま半年後に病死
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1568年
足利義昭(三好三人衆・松永久秀が弑殺した将軍足利義輝の弟)が上洛要請に応じない朝倉義景に失望し幕臣の細川藤孝・新参の明智光秀の手引きで越前を脱走し尾張の織田信長へ鞍替え、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀・三好義継は逸早く投降)、入洛して義昭を15代室町将軍に擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を剥奪し松永久秀が敷いたキリスト教宣教師追放令も撤廃
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1568年
[観音寺城の戦い]上洛に向かう織田信長が通路確保のため南近江の六角義賢に従軍を要請するが拒絶(領地明渡しや臣従の強要ではなかったが、義賢は近江で争う浅井長政と同盟した信長を警戒、将軍足利義栄を担ぐ三好三人衆に与して信長に抵抗)、支城の箕作城を一夜で落とされた義賢は観音寺城を放棄して逃亡し鎌倉幕府創立から続く佐々木氏嫡流の六角氏は滅亡、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は嫡子蒲生氏郷を人質に出して降伏、蒲生氏の義理堅さに感じた信長は氏郷を近侍させ厚遇する
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1568年
織田信長軍団の高級将校木下藤吉郎(豊臣秀吉)が六角義賢討伐・観音寺城の戦いで主戦場となった支城の箕作城攻めで活躍(信頼できる資料に初登場)、翌年京都警備役(師団長格)に大抜擢され1万石の所領を得る
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1568年
[甲相同盟破綻と越相同盟]武田信玄が徳川家康と今川領の東西分割を約し駿河侵攻開始、難なく駿府城を落として今川氏真を遠江掛川城へ追い払うが、甲相同盟を解消した北条氏康の侵攻により甲府へ撤退、北条氏康は宿敵上杉輝虎(謙信)に上野国支配と関東管領職を認めて越相同盟を結び元盟友武田信玄を圧迫(今川と北条に塩の移出を止められ難渋する武田信玄に上杉謙信が越後の塩商人を派遣した「敵に塩を送る」逸話はこのときの出来事)
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1568年
[毛利氏の伊予出兵]大友宗麟と通じる大洲城主宇都宮豊綱・土佐中村城主一条兼定が湯築城主河野通宣を攻撃、河野重臣の村上通康(渦中に病死し嫡子の来島通総が家督と来島村上水軍を承継)から援軍要請を受けた毛利元就は小早川隆景・乃美宗勝を派遣し宇和島の西園寺公広と同盟して大洲城を攻略、元就は元寇の勇将河野通有以来伊予を支配した河野氏と村上通康ら水軍衆を支配下に置くも九州大友氏との二方面戦争を余儀なくされ敗戦で没落した一条家では被官の長宗我部元親が台頭する
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1569年
[本圀寺の変]織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が将軍足利義昭が仮寓する京都本圀寺を襲撃、引き返して反乱を一蹴した信長は豪壮な二条御所(烏丸中御門第)を造営して将軍の権威を示し衰微した皇室の経営再建にも尽力、「幕府再興」に有頂天の将軍義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが信長は逆に『殿中御掟』を突きつけて傀儡将軍の増長を掣肘、義昭から貿易都市堺支配のお墨付き得た信長は町衆を脅して自治権を剥奪し外国貿易と鉄砲・煙硝の供給ルートを掌握(信長は堺商人で侘茶名人の千利休を茶頭に召抱える)
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1569年
織田信長の滝川一益軍団が伊勢に侵攻、三男信孝を神戸氏・弟信包を長野氏の当主に据え、伊勢国司(飛騨姉小路・土佐一条と並ぶ三国司)北畠具教の大河内城を攻囲・恭順させて次男信雄を養嗣子に据え名門北畠家と伊勢国を奪取(北畠具教は塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪であったが、1576年三瀬の変で一族と共に殺戮された)~信長近侍の蒲生氏郷が初陣し介添役無しで首級を挙げる活躍、信長は自ら烏帽子親となって岐阜城で氏郷を元服させ、娘の冬姫を妻に与え近江日野城への帰還を許す
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1569年
[青山・土器山の戦い]播磨に野心を抱く備前国主浦上宗景が播磨守護赤松義祐に加担して赤松政秀領へ侵攻するが、政秀は足利義昭を介して織田信長の援軍を招来し宇喜多直家も離反の色を立てたため浦上勢は備前へ撤退、一転優位となった政秀は手薄な姫路城を攻めるが小寺孝高(黒田官兵衛)の伏兵戦術に敗れ撤退、翌月再攻するも播磨英賀城主三木通秋の加勢を得た官兵衛に本陣を奇襲されて潰走、機に乗じた浦上宗景に龍野城を攻められ降伏した政秀は間もなく毒殺され龍野赤松氏は衰亡(家督は嫡子広秀が相続)、浦上宗景に帰順した宇喜多直家は辛くも助命される
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1569年
[掛川城攻略]武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙
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1569年
戦国大名屈指の名門で駿河・遠江・三河を領有した今川氏が滅亡、今川氏真は流転の末に徳川幕府に庇護され77歳の長寿を全うし子孫は高家旗本として存続
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1569年
織田信長の木下藤吉郎(豊臣秀吉)軍団が但馬に侵攻、山名祐豊を降し生野銀山(秀吉の強力な経済基盤となる)などを制圧
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1569年
[三増峠の戦い]武田信玄が上杉輝虎(謙信)と和睦し安房里見・常陸佐竹と同盟したうえで駿河侵攻を阻む北条氏康の小田原城を攻囲、北条軍を相模国境三増峠で撃破し駿河一国の制圧に成功、常陸の北条方小田氏治が佐竹氏に大敗降伏し北条氏康の関東制覇の野望が費える
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1570年
織田信長が朝倉義景討伐で越前に攻め込むが浅井長政離反により撤退、殿軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)の決死の奮戦で挟撃の窮地を脱出(金ヶ崎の退き口)、逃避行に随従した松永久秀は近江朽木谷城主の朽木元綱の協力を取り付ける活躍
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1570年
出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)が権臣中野宗時・牧野久仲父子を追放し父伊達晴宗を隠居に追込んで家中を掌握、鬼庭左月斎・遠藤基信を側近に登用して外交活動を展開、蘆名氏との同盟を保ちつつ南奥羽諸豪の紛争を調停し織田信長・柴田勝家・北条氏政らと友好関係を構築
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1570年
六角義賢が柴田勝家・佐久間信盛が守る南近江の長光寺城を攻めるが敗退(瓶割り柴田)、近江源氏佐々木氏の名門六角家は没落
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1570年
[姉川の戦い]織田信長・徳川家康連合軍が近江姉川河原(長浜市)で浅井長政・朝倉義景連合軍と激突、浅井軍の猛攻で織田陣は13段のうち11段まで突破され信長の本陣も危うかったが朝倉軍を破った徳川勢の奮闘で辛勝(本多忠勝は単騎駆けで戦端を開き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍)、合戦後も戦力を残した浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、信長は比叡山焼き討ちや磯野員昌ら浅井・朝倉家臣の離間工作で応戦
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1570年
美濃岩手城主竹中半兵衛重治が舅の安藤守就の勧めで朋輩の牧村利貞・丸毛兼利と共に織田信長に帰服、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力に加えられた軍師半兵衛は旧知の堀家家老を口説いて長亭軒城を寝返らせ浅井長政が固めた美濃・近江の陸上封鎖を打破、姉川の戦いにも従軍し弟の竹中重矩が浅井家の豪傑遠藤直経を討取る活躍、合戦後最前線の近江横山城に留め置かれた藤吉郎は小谷城の浅井長政と対峙し半兵衛の軍略により均衡を保つ
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1570年
[石山合戦・信長包囲網(第一次)]織田信長の石山本願寺明け渡し要求を拒んだ顕如が挙兵し石山合戦が勃発(下間頼廉・鈴木重秀の指揮のもと11年も織田軍団の猛攻を凌ぎ切る)、呼応して起った伊勢一向一揆で信長の弟織田信興が戦死、浅井・朝倉・本願寺・延暦寺の攻囲に晒された織田信長は将軍足利義昭の仲介で正親町天皇の勅命を得て和睦に漕ぎ着け窮地を脱出、和睦を成功に導いた明智光秀(このときは義昭・信長への両属)は近江坂本城10万石を与えられ44歳で一城の主となり、春日井堤の合戦で単騎踏み留まり味方の潰走を食止めた前田利家は信長から「日本無双の槍」と激賞され1万石余の加増を受けて織田家大名衆に加わる
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1570年
本願寺顕如の要請を受けた雑賀衆の鈴木重意が根来衆と協力し鉄砲隊600余を率いて三好三人衆に加勢し織田信長軍団と交戦(佐々成政を負傷させる)、石山合戦が起ると鈴木重秀(重意の次男)が石山本願寺に入り下間頼廉と共に一向一揆軍団の軍事指揮を担う(大坂左右大将)
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1571年
[越中大乱]上杉謙信が関東から越中に主戦場を移し椎名康胤を猛攻するが、本願寺顕如と結ぶ武田信玄に扇動された越中一向一揆の猛反撃に遭い富山城を巡り6年に及ぶ争乱に発展
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1571年
一土豪の次男から旧主の大内氏・尼子氏を滅ぼして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を征服した毛利元就が吉田郡山城にて死去(享年72)、山中鹿介の尼子再興・大内輝弘の乱を鎮圧した吉川元春・小早川隆景(元就の次男・三男で「毛利両川」と称される)が家督の毛利輝元(元就の嫡孫)を担いで毛利家を宰領し迫り来る織田信長に対峙
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1571年
上泉伊勢守信綱が京都を退去し上野上泉へ帰国、柳生宗厳に一国一人の印可を授けて新陰流正統を託し併せて「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」を公案として課す
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1571年
[比叡山焼き討ち]織田信長が信長包囲網への反撃開始、平安時代から続く宗教畏怖観を破って延暦寺焼き討ちを敢行し数千の僧兵と居るはずのない女子供の悉くを誅殺
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1571年
松永久秀から大和筒井城を奪還した筒井順慶が明智光秀(妻の義兄)・佐久間信盛の斡旋により織田信長に臣従し久秀と小競り合いを繰返しつつ光秀の与力として信長の天下統一戦に従う、久秀方で活躍し柳生の庄(所領は2千石ほど)を保った柳生家厳は嫡子の柳生宗厳に家督を譲り隠遁
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1571年
関東の雄北条氏康が死去(享年57)、嫡子北条氏政は「上杉謙信との越相同盟を捨て、武田信玄と同盟し直せ」との遺言に従い甲相同盟を再締結し再び上杉謙信と敵対
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1571年
戸次鑑連(立花道雪)が大友宗麟から筑前守護職に補され立花山城主となり立花氏の名跡を承継、岩屋城・宝満城の高橋紹運や柑士岳城の臼杵鎮続らを統率して秋月種実・筑紫広門・龍造寺隆信・宗像氏貞・原田隆種・龍造寺隆信の猛攻を凌ぎ1578年の耳川敗戦まで大友領を死守する
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1571年
大村純忠がポルトガル船の寄港地を肥前横瀬浦から長崎へ移し南蛮貿易が活発化(長崎貿易)、肥前の領袖有馬義貞(純忠の実父)が家督と島原城を次男晴信に譲り隠居、有馬晴信は当初キリスト教を弾圧するが数年後改宗し純忠と共に熱心なキリシタン大名となる
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1572年
[一言坂の戦い]三方ヶ原の戦いの前哨戦、武田信玄に遠江二俣城を奪われた徳川家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛される(忠勝の通称は平八郎)
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1572年
[三方ヶ原の戦い]上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保し将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携した武田信玄が織田信長討伐軍を率いて京都へ進発、道中の遠江浜松北方で戦を仕掛けてきた徳川軍を一蹴するが追撃せず浜松城に逃れた徳川家康は九死に一生を得る(左翼を担った本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を撃退、殿軍の大役を果し家康を浜松城へ逃すが叔父本多忠真が討死)
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1572年
[木崎原の戦い(九州の桶狭間)]大隅の肝付氏が島津貴久の死に乗じて島津領へ侵攻、呼応した日向の伊東義祐は伊東祐安に精鋭3千を与え三ツ山城(小林城)から真幸院の加久藤城・飯野城を急襲するが、通謀した相良義陽の肥後勢は奇計に嵌って逃げ帰り、僧侶と農民を掻き集めて兵300で迎撃した島津義弘の猛勇と「釣り野伏せ」戦法の前に祐安以下800余名を討たれ壊滅、日向戦線は一気に逆転し過半の武将を喪った伊東氏は衰亡へ向かう(伊東崩れ)
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1573年
長大剣で富田勢源の相手を務め奇形剣士となった18歳の佐々木小次郎が新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流と家督を承継)に秘剣「燕返し」でまさかの勝利、師と門弟の恨みを買った小次郎は越前一条谷を出奔し1m近い愛刀備前長光(「物干し竿」と称される)を背に諸国を巡歴し次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せる
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1573年
武田信玄・将軍足利義昭と通謀した松永久秀が織田信長に叛逆、久秀は多聞山城・嫡子久通は信貴山城・三好義継は河内若江城に籠城するが信玄急死で信長包囲網が瓦解、義継を佐久間信盛に討取られ(若江城の戦い)孤立した久秀は信長に投降、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、信盛与力として石山合戦に従軍
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1573年
[室町幕府滅亡]武田信玄挙兵に奮起した将軍足利義昭が洛中で織田信長討伐軍を挙兵するが宇治槇島城を大軍に包囲され降伏、義昭を見限った明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣は信長に奔り、半年後に追放され室町幕府滅亡(羽柴秀吉の献言で助命されるが毛利領の備後鞆に亡命し反信長策動を続ける)
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1573年
三河野田城を落とし織田信長との決戦を目前に病に倒れた武田信玄が山県昌景に「明日は瀬田に旗を立てよ」と言い残して信濃下伊奈で陣没(享年53)し武田軍は継戦不能で撤退、甲斐・信濃・駿河3国と上野・遠江・三河に及ぶ大封を相続した武田勝頼(側室腹の四男)は信玄の遺命に従い上杉謙信と和親を講じるが信玄が望んだ保守路線を捨てて積極的な外征戦略を採り織田信長領の東美濃・徳川家康領の遠江へ侵攻、子飼いの長坂釣閑・跡部勝資を重用し次第に信玄遺臣との軋轢が深まる
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1573年
武田信玄の急死により信長包囲網(第二次)が瓦解、織田信長は越前一乗谷城の朝倉義景・北近江小谷城の浅井長政を攻め滅ぼし近江・越前を征服、長政の妻市(信長の妹)と茶々(後の豊臣秀吉側室の淀殿)・初(後の京極高次正室)・江(後の徳川秀忠正室)の三姉妹は現地指揮官の羽柴秀吉(豊臣秀吉)救出される
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1573年
織田信長の家臣木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の長臣柴田勝家と丹羽長秀の字をもらい羽柴秀吉へ改姓、浅井長政討滅の大功により浅井家遺領全部20数万石を与えられ近江長浜城(今浜・小谷城から改名)に拠って織田家中屈指の将領となる
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1573年
備前の実力者浦上宗景が毛利・尼子氏勢力に対抗するため織田信長に帰順し主家赤松氏の頭越しに備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められるが、国人勢力の反発が広がるなか家臣宇喜多直家は簒奪の隙を窺う
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1574年
[天正最上の乱]出羽山形城主最上義光に反発する天童頼貞ら「最上八楯」が隠居の最上義守を担いで蜂起、白鳥長久・細川直元・大宝寺義氏・上山満兼ら国人衆と米沢城主伊達輝宗(義守の娘婿)が同調し寒河江兼広も降伏、四面楚歌の義光は必死の防戦で和睦に漕ぎ着け伊達氏からの完全独立を果す
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1574年
武田勝頼が織田信長領の東美濃へ侵攻し明知城をはじめ支城18城を攻略、そのまま徳川家康領の東遠江に入り長篠近くの大野田新城を落とし小笠原長忠を降して拠点の高天神城を奪取、家康の経済官僚大賀弥四郎に誘われて岡崎城へ向かうが陰謀が露見し弥四郎は処刑され、勝頼は振上げた拳を信玄没後家康に奪われた三河設楽郡長篠城へ向けるが奥平貞能・貞昌父子の抵抗頑強で長陣となる
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1574年
[長島一向一揆平定]織田信長の滝川一益軍団が長島一向一揆(盟主は本願寺顕如)を猛攻、信長の庶兄織田信広と弟の織田秀成も戦死する激戦となるが、九鬼嘉隆の織田水軍による海上封鎖・兵糧攻めで優位に立ち門徒2万人を全滅に追込む
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1574年
織田信長が上杉謙信との対決を回避すべく狩野永徳の傑作『洛中洛外図屏風』などの贈物攻勢で機嫌を取結ぶ(『洛中洛外図』は上杉家で受継がれ現在は米沢市上杉博物館に収蔵)
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1575年
[長篠の戦い]徳川家康領を狙う武田勝頼の軍勢1万3千が奥平貞昌が守る三河長篠城を攻囲、織田信長は武田軍を恐れつつも徳川家康の強迫により兵3万を率いて出陣し徳川軍8千を救援、信玄遺臣らは甲府撤退あるいは長篠城優先策を進言するが長坂釣閑・跡部勝資に煽られた勝頼は野戦を選択、酒井忠次の夜襲で鳶ヶ巣山を奪われ逆上した武田軍は設楽ヶ原に殺到するが馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など存命の武田二十四将13人のうち7名が戦死する大敗を喫す~佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊5奉行として奮戦した前田利家は佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられ尾張荒子城から越前府中(武生)城へ移る
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1575年
小寺孝高(黒田官兵衛)の策動により播磨御着城主小寺政職が三木城主別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)と共に織田信長に帰服申入れ、官兵衛は岐阜城で信長に謁見し名刀「圧切」を拝領、翌年明けに京都で政職・長治・広秀を信長に謁見させる
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1575年
[越前一向一揆平定]富田長繁ら朝倉遺臣が土一揆と結託し織田信長が越前守護代に任じた前波吉継を殺害、当初支援した本願寺顕如は加賀一向一揆から下間頼照・七里頼周を送り込み富田らを攻め滅ぼして越前国を制圧するが七里の暴政で民心が離反し信長が3万余の大軍を率いて来襲すると忽ち一揆勢は瓦解(下間頼廉は七里頼周に自重を促すが間に合わず)、柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据え前田利家・佐々成政・不破光治らを与力につけて織田家北陸軍団を編成し加賀一向一揆・越後の上杉謙信と対峙
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1575年
織田信長が家督と美濃・尾張を嫡子織田信忠に譲る
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1575年
織田信長の明智光秀・細川藤孝軍団が丹波攻略に着手
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1576年
織田信長が近江安土城の築城を開始し障壁画の制作を狩野派の狩野永徳に委託、3年後の完成に伴い信長は岐阜城を嫡子織田信忠に譲り本拠を安土城に移す
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1576年
[第一次木津川口の戦い]毛利から石山本願寺への水上補給路遮断のため九鬼嘉隆の織田水軍が戦を仕掛けるが乃美宗勝率いる毛利・小早川・村上の水軍勢が撃退(能島・来島・因島の三島村上水軍は揃って従軍、村上武吉は嫡子の村上元吉に能島水軍を率いさせ自らは出陣せず)
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1576年
織田信長に京都から追放された前将軍足利義昭が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の護衛で三好義継の河内若江城に寄寓後毛利輝元に亡命し備後鞆に居住、義昭は将軍在任を主張し諸侯に「御内書」を送って打倒信長・室町幕府再興を呼掛ける
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1577年
[甲相同盟]長篠の戦いに敗れ織田信長・徳川家康に圧迫された武田勝頼が北条氏政の妹を継室に迎えて甲相同盟を強化し同盟した将軍足利義昭・本願寺顕如を通じて上杉謙信と和親を図る
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1577年
[紀州征伐]各地の一向一揆に手を焼き本拠地の石山本願寺を攻めあぐねた織田信長が根来衆と雑賀衆三組(中郷・南郷・宮郷)を帰服させ自ら大軍を率いて紀州を制圧、本願寺軍指揮官で雑賀衆首領の鈴木重秀(雑賀孫一)は不利を悟って進んで帰順し父の鈴木重意(十ヶ郷)も中野城を落とされ降伏するが、織田軍が引上げると抗戦派の土橋守重(雑賀荘)が盛返し重意も与して雑賀衆三組を追討し再び本願寺顕如と連携して信長に反旗を翻す
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1577年
[英賀合戦]一向衆門徒の播磨英賀城主三木通秋が石山合戦勃発に伴い織田家を離反して毛利氏と同盟、乃美宗勝が毛利水軍を率いて英賀に上陸し5千の兵で小寺政職領に侵攻、防衛軍5百を率いる小寺孝高(黒田官兵衛)は農民に軍旗を掲げさせる偽装援軍の奇計で撃退、愚鈍な小寺政職の嫡子氏職の身代わりに嫡子黒田長政を人質に送って信長に中国征伐を促す
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1577年
[越中大乱~七尾城の戦い~信長包囲網(第三次)]上杉謙信が逆臣椎名康胤と国人衆を討ち平らげて越中を制圧、そのまま温井景隆の要請で能登へ攻め込み七尾城を奪った織田方の長続連・綱連父子を討滅(傀儡守護の管領畠山氏は滅亡)、越後・越中・能登の三国を征した謙信は本願寺顕如・一向一揆と和睦し毛利輝元・波多野秀治・紀州雑賀衆らと連携して織田信長と対峙
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1577年
[手取川の戦い]長篠の戦いで武田軍に勝利し自信を得た織田信長が上杉謙信との決戦を決意、柴田勝家に3万余の大軍を授け能登七尾城救援に派遣するが加賀南部手取川で上杉謙信に迎撃され惨敗、主将の柴田勝家と対立し無断帰国した羽柴秀吉(豊臣秀吉)は毎日酒宴を開いて遊び惚けることで信長の疑惑と怒りをかわす
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1577年
上杉謙信の挙兵上洛を期待する松永久秀が織田軍団の北陸攻めに乗じて再び叛逆するが、謙信急死で上杉軍は撤兵し、織田信忠・細川藤孝・明智光秀・筒井順慶の軍勢に大和信貴山城を攻囲され、信長所望の名物茶器「平蜘蛛」を破壊して自害し己の首を火薬で爆破(享年68。10年前の東大寺大仏殿焼討ちと同じ10月10日の同時刻であったという)、嫡子松永久通と妾腹の二児も処刑されて松永氏は滅亡し大和の遺領は筒井順慶に与えられる
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1577年
織田信長の明智光秀・細川藤孝軍団が丹波亀山城を奪取、ここを前線拠点に丹波全域を平定、波多野秀治は帰順し信長は本領安堵を許す
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1577年
小寺政職家臣で姫路城代の小寺孝高(黒田官兵衛)の要請を受けた織田信長が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に軍団を預け中国毛利攻めに着手(官兵衛は姫路城を提供し嫡子長政を人質に送って小寺家との両属の形で信長に臣従、秀吉の与力に加えられ竹中半兵衛と並ぶ軍師となる)、秀吉軍団は播磨・美作・備前国境の要衝上月城を忽ち攻め落とすが、別所長治が離反し三木城に籠城すると東播磨諸豪の大半が毛利方へ寝返り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に宇喜多忠家(直家は仮病を使って従軍せず弟忠家を派遣)の軍勢3万が続々来襲
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1578年
[御館の乱・甲相同盟決裂]軍神上杉謙信が織田信長討伐の大動員令を発した直後に後継を定めず急逝(享年49)、養子の上杉景勝(長尾政景の子で謙信の甥)・上杉景虎(北条氏政の弟)の家督争いが勃発し、氏政の出陣要請に応じた武田勝頼は信濃飯山で景勝軍を撃破するが寵臣長坂釣閑・跡部勝資の策動に乗り上杉家の臣従と東上野割譲・膨大な献上物・妹菊姫の入輿に釣られ景勝へ乗換え(甲越同盟)、景勝は景虎・道満丸父子と上杉憲政(山内上杉氏の家督と関東管領職を禅譲した謙信養父)を滅ぼし家督を継ぐが弱体化した上杉家は信長の侵攻に晒され防戦一方(18歳の腹心直江兼続は奏者番を務め忽ち頭角を現す)、激怒した氏政は甲相同盟を破棄して織田・徳川と同盟を結び武田領上野へ侵入、勝頼は挟撃の窮地に陥るも積極姿勢を崩さず諸戦線を転戦
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1578年
[尼子再興(第三回)~上月城の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)・小寺孝高(黒田官兵衛)の中国侵攻に従った山中鹿介幸盛の尼子再興軍は、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利方の吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、捕捉された鹿介は斬殺(享年32)、秀吉陣中にあって難を逃れた亀井茲矩は尼子再興軍を承継し徳川家康に転じて因幡鹿野藩初代藩主(次代に石見津和野藩へ加転封)となる
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1578年
[第2次木津川口の戦い]大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍が村上武吉率いる毛利・小早川・村上水軍を撃破、石山本願寺への補給路を絶たれた顕如は継戦が困難となる
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1578年
[月岡野の戦い]上杉謙信の急死に乗じた織田信長が上杉の本領越後と北陸遠征軍の分断を図り斎藤利治・佐々成政を派遣、守備の薄い飛騨口から越中中部に侵入した織田軍は月岡野で河田長親の上杉軍を撃破、以後越後は織田・上杉に両分され睨み合いが続く
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1578年
毛利に属しながら織田にも誼を通じ吉川春元・小早川隆景の暗殺も企てた備前国主宇喜多直家が小寺孝高(黒田官兵衛)の説得に応じて羽柴秀吉(豊臣秀吉)へ内通を申送り上京して織田信長に臣従(このとき直家は道案内役に堺商人小西隆佐の次男小西行長を召出す)
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1578年
織田信長配下の荒木村重謀反、明智光秀(嫡子荒木村次の岳父)の説得を拒絶して摂津有岡城で1年間籠城するが毛利の援軍は来ず側近の中川清秀と高山右近が寝返り、荒木村重は単身脱走、信長は残された荒木一族と重臣36人・女房衆122人のほか匿った高野山僧数百人を惨殺、主君小寺政職に欺かれ使者に入った黒田官兵衛は1年間有岡城の土牢に幽閉されるも半死半生ながら救出され生還(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、官兵衛反意を疑う信長が殺害を厳命した人質の嫡子黒田長政も竹中半兵衛重治に密かに匿われて無事
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1578年
[耳川の戦い]伊東義祐の哀願に応じた大友宗麟が立花道雪の制止を振り切って島津討伐を号令(宗麟は道雪を疎んじて従軍させず)、キリスト教国建設を掲げ寺社を破壊しつつ日向へ攻入るが、田原親賢率いる3万余の大軍は島津義久・家久の「釣り野伏せ」戦法の前に3千名を討取られる壊滅的敗北(日本初上陸の洋式大砲「国崩し」も島津軍に分捕られ、現在でも鹿児島市の尚古集成館に陳列されている)、島津氏は日向の支配を固めて全九州に威名を轟かせ、田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を喪った大友氏の威信は地に落ち筑前の秋月種実や肥前の龍造寺隆信らの反大友勢力が勢いづく
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1578年
龍造寺隆信が島原半島で抵抗を続けた大村純忠・有馬晴信(純忠の甥)を降して肥前統一を達成、家督を嫡子政家に譲るが実権は保持し、大友宗麟の耳川合戦大敗に乗じて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏に収め、九州は島津・大友・龍造寺の三国鼎立状態となる
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1578年
(詳細不明)自ら「体用の間」を体得した伊東一刀斎景久が師匠の戸田一刀斎(鐘捲自斎)に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「妙剣」「絶妙剣」「真剣」「金翅鳥王剣」「独妙剣」を授受、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達す(一刀流創始)
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1578年
丹波で土一揆が蜂起、織田信澄・滝川一益・丹羽長秀・細川藤孝の援軍を得た明智光秀はすぐに鎮圧するが、一揆扇動を疑う織田信長は波多野討伐を命令、織田軍は八上城を攻囲するが嶮城のため攻めあぐむ
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1579年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の与力で名軍師の竹中半兵衛重治が播磨三木城攻囲の陣中で病没(享年36)
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1579年
明智光秀・丹羽長秀・羽柴秀長(秀吉の弟)が競って丹波攻略に専念、波多野秀治の八上城・赤井直正の黒井城が落城し捕えられた波多野秀治・秀尚・秀香兄弟は安土に送られ磔刑、光秀は近江坂本に加えて丹波を与えられ(合計25万石または60万石)福知山城を築いて統治拠点とする(功を焦った光秀が養育の恩ある叔母を人質に差し出し本領安堵と欺いて波多野兄弟を捕縛、そのため叔母は磔で殺されたという説があるが信憑性は低く、助命に釣られた波多野家臣が主君兄弟を捕えた可能性が高い)、若狭計略を担当した光秀与力の細川藤孝は若狭守護一色義道を討ち嫡子一色義定に娘を娶せ丹後北半を安堵して和睦し自身は丹後南半11万石を与えられ宮津城に入る
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1579年
徳川家康の正室築山殿(今川一族で義元の養女)の武田勝頼への内通が露見(徳姫(織田信長の娘)の告口により徳川家康の正室築山殿(今川一族で義元の養女)の武田勝頼への内通が発覚(徳姫は唐人医師減敬との密通を含め不仲な姑の12ヶ条の罪状を列挙)、安土へ釈明に赴いた酒井忠次は不用意発言もあって嫌疑を晴らせず信長は断罪を指令・家康は築山殿を殺害し関与を疑われた嫡子信康を自害させる
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1580年
[三木合戦]羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が毛利方に寝返った別所長治の播磨三木城を兵糧攻めで攻略(三木の干殺し)、御着城も落城し小寺政職は官兵衛の嘆願で助命され流浪の果てに備後鞆で野垂れ死に(嫡子小寺氏職は官兵衛に拾われる)、備前の宇喜多直家を降して播磨攻防の激戦を征した織田信長は毛利領の備中・山陰へ侵出、官兵衛は主家小寺氏滅亡により織田家専属・秀吉与力となり揖東郡福井庄1万石を与えられる
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1580年
織田信長が本願寺顕如・下間頼廉を降伏させ11年に及んだ石山合戦を征し信長包囲網を完全破壊、顕如は石山本願寺を明け渡して(直後に焼亡)紀伊鷺森別院(鷺森本願寺)に退去し頼廉は各地の一向一揆を説諭し反乱を収拾、90年続いた加賀一向一揆も解体され加賀・能登を制圧した柴田勝家軍団は加賀尾山城(金沢)に佐久間玄蕃盛政・能登七尾城に前田利家を配して防御を固め上杉景勝領の越中に侵出
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1580年
甲越同盟成立で上杉と北条の抗争が再燃、再び東上野が争地になると武田勝頼旗下の真田昌幸が北条領を侵食し拠点の沼田城を攻撃、城主藤田信吉の要請で北条氏直・氏邦が来援し長篠合戦の雪辱に燃える勝頼も大軍を繰出すが氏直は小田原へ退去、戦線膠着のなか真田昌幸は離間工作で藤田信吉の投降を誘い沼田城を奪取、昌幸は旧領主沼田景義を謀殺して禍根を断ち、城代に据えた同族の海野幸光・輝幸父子も無実の罪で誅殺、なりふり構わず沼田の領国化を進める
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1580年
織田信長の躁鬱が激化、無断外出した女中数名を斬り殺し、最古参の佐久間信盛・林秀貞と安藤守就を過去の罪状をあげつらい突然追放(佐久間信盛は高野山にも受入れを拒否され唯一人落ち延びた奥吉野で餓死)
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1580年
キリシタン大名大村純忠が長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進、領民に改宗を強制し反抗者や仏僧を迫害
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1580年
土佐の長宗我部元親が明智光秀との縁(正室が斎藤利三の異父妹)を通じて織田信長と同盟し三好長治・十河存保・三好康俊ら三好一族を掃討し阿波・讃岐の大部を制圧するが(伊予の河野氏は毛利氏に属して抗戦)、全国制覇に乗り出した信長が土佐以外の放棄を要求すると元親は同盟を解消し反抗の色を立てる
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1580年
織田信長が天下布武に向けた多方面作戦遂行のため家臣を再編成し軍団(方面軍)制を確立~柴田勝家軍団=北越・上杉景勝、明智光秀軍団=近畿平定後遊軍、羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団=中国・毛利輝元、滝川一益軍団=関東・北条氏政、織田信孝・丹羽長秀軍団=四国・長宗我部元親、織田信忠=美濃・尾張・飛騨の抑え、織田信雄=伊勢・伊賀方面の抑え、徳川家康(同盟国)=東海道の抑え
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1581年
[高天神城の戦い]徳川家康の長期攻囲により岡部元信(今川遺臣)が守備する遠江高天神城が陥落、城兵見殺しで面目を失った武田勝頼は北条氏政領の東上野を侵して鬱憤を晴らすが諸豪・領民の動揺は収まらず、人質の織田勝長(信長の五男)を返還し織田信長と講和を図るが悉く拒否され、防御を固めるべく韮崎新府城の造営と軍団再編を始めるが過剰な戦費負担は更なる離心を招く
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1581年
[京都御馬揃え]躁に転じた織田信長が各方面の軍団を京都に召還し大軍事パレードを挙行
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1581年
[新発田重家の乱]御館の乱で上杉景勝に味方した越後蒲原郡新発田城主の新発田重家(加地衆首領)が上田衆優先の論功行賞に不満を抱く反乱分子を糾合し出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)・会津黒川城主蘆名盛隆を後ろ盾に反旗を掲げ新潟城に拠って独立(両者の板挟みとなった安田顕元が自害)、輝宗と連携する柴田勝家の織田信長軍団は西方から上杉領を脅かす(重家は以後7年に渡って抵抗を続けるが豊臣政権を後ろ盾に付けた景勝に滅ぼされる)、揺れる上杉家中で刃傷事件が発生し景勝は横死した直江信綱の未亡人(船)に側近の樋口兼続を娶わせ直江家の家督と越後与板城を継がせる(兼続は超無口な景勝に代わって家政を宰領し上杉家は事実上の二頭体制となる)
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1581年
立花道雪が盟友高橋紹運に頼み込んで長男統虎(立花宗茂)を誾千代の婿養子に貰い受け家督を継がせる、秋月種実との石坂合戦で初陣した14歳の統虎は敵将堀江備前を討取る活躍
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1581年
織田信長が反攻を止めない高野山金剛峰寺を襲い千余人の僧侶を処刑、金剛峰寺と連携して高野大衆一揆で抵抗する紀州根来寺も襲撃
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1581年
[天正伊賀の乱]織田信長の織田信雄・滝川一益・丹羽長秀軍団が伊賀の領国支配に抵抗する地侍・忍者の勢力を殲滅
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1581年
有力者暗殺で伸上り主君浦上宗景から備前を奪い毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保った宇喜多直家が病没(享年53。死因は梅毒で面貌が崩れていたとも、見苦しく家臣らに殉死を望んだとも伝わる)、末期に後を託された羽柴秀吉(豊臣秀吉)は嫡子宇喜多秀家を厚遇し後に五大老に抜擢するが(直家は秀家の生母円融院を秀吉に献上したとも)関ヶ原合戦で西軍についた秀家は改易され子孫は徳川時代を流刑地の八丈島で過ごす
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1581年
[鳥取の渇え殺し]播磨・但馬・備前を完全制圧した織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が山陰毛利領に侵攻、山名豊国を追放して吉川経家(毛利一族)が守る鳥取城を米穀買占めによる兵糧攻めで落とし因幡全域を制圧(秀吉の母の従妹の子加藤清正が初めて戦功を立てる)、決死の覚悟で伯耆国境を守る吉川元春との対決は回避
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1581年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が安土城に赴き織田信長に中国経営の凱旋報告、夥しい量の土産物で大いに歓心を買う
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1581年
織田信長より正式に能登一国23万石を与えられた前田利家が交通不便な七尾城を廃城し港近くに小丸山城を築城、前田利久は2千石・養嗣子の前田慶次郎利益は5千石で利家に召抱えられる
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1581年
[響野原の戦い]耳川合戦の大勝で肥後国人衆を靡かせた島津義久が大軍を率いて肥後へ侵攻、人吉城主相良義陽は水俣城を包囲され降伏、すぐに阿蘇氏攻伐を命じられた義陽は宇城響野原で親友甲斐宗運と戦い討死(次男頼房が生延びて初代人吉藩主となり幕末まで相良家は存続)
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1582年
キリシタン大名の大村純忠・有馬晴信・大友宗麟が名代として天正少年使節派遣
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1582年
[甲州征伐・天目山の戦い]強敵上杉謙信が急逝し本願寺顕如を降して畿内を平定した織田信長が木曽福島城主木曽義昌(信玄の娘婿)の寝返りを機に武田勝頼討伐を号令、伊奈・飛騨口から織田軍、駿河口から徳川家康軍、関東口から北条氏政軍が甲斐へ殺到すると、伊奈口の武田信廉(信玄の弟)らは潰走し駿河を預かる穴山信君(同娘婿)は家康の案内役を買って出る始末、高遠城主仁科盛信(同五男)・武田信豊(同甥)は奮戦討死したが深志城主馬場昌房らは降伏開城、軍勢が2万余騎から3千に減り孤立した勝頼は韮崎新府城を落ちて郡内(大月)岩殿城へ辿着くが小山田信茂の寝返りで入城を拒まれ寵臣の長坂釣閑・跡部勝資まで逃走、天目山麓で織田勢に迫られた勝頼は嫡子信勝と一族郎党90余人を道連れに自害(享年37)、木曽・穴山(武田宗家を継承するが本能寺事変の渦中に落命)を除く武田一族を誅戮し甲斐・信濃を平定した織田軍は越中・関東へ進み滝川一益軍団は厩橋城・箕輪城を攻略して上野を制圧~北条氏邦へ内通し討伐を免れた真田昌幸は武田残党を吸収して武力を増し次男の真田信繁(真田幸村)を人質に出して信長に帰順・真田家飛領の上野沼田城には滝川儀太夫(前田慶次郎の実父)を置き防御を固める
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1582年
甲州征伐を終えた織田信長が安土城に凱旋、駿河全部を与えられた徳川家康と武田勝頼を裏切って本領安堵された穴山信君が御礼言上のため安土を訪問、信長が明智光秀を接待役に就けて饗応する最中、豊臣秀吉の使者が来着し信長は中国出馬要請を快諾し光秀・細川忠興・池田信輝らに先発を命令、出陣支度のため丹波亀山城へ戻った光秀は愛宕権現に参籠し里村紹巴を招いて連歌興行を開催(愛宕百韻)、光秀が「ときは今あめが下しる五月かな」と発句すると紹巴は「花落つる流れの末を関とめて」と対句
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1582年
[高松城水攻め]織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が毛利方清水宗治が守る備中国高松城を水没させ兵糧攻め、吉川元春・小早川隆景の救援軍も手を出せず、秀吉は手柄献上のため信長に出陣を要請するが本能寺の変が勃発
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1582年
[6月2日:本能寺の変]羽柴秀吉(豊臣秀吉)の要請に応じ毛利攻めに向かう織田信長が京都本能寺に滞在すると先発を命じられた明智光秀は丹波亀山城から引返し本能寺を急襲、信長は奮闘の末に自害し(享年49)嫡子織田信忠も二条新御所で自刃、空白の京都・近江を制圧した光秀は近衛前久ら公家と朝廷に献金して征夷大将軍の宣下を受け畿内を固めるべく与力の細川藤孝・忠興や筒井順慶ら諸大名に加勢を求める
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1582年
[6月3日:魚津城の戦い]織田信長の柴田勝家軍団が大軍で越中魚津城を攻囲、越中・信濃・上野の三方面から織田軍が本国越後に迫ったため上杉景勝は開城和睦に応じ救援軍を引くが、柴田勝家・佐々成政が和議を破って城を攻め上杉方の守将13人悉くが自害、本能寺の変勃発で織田軍は撤退するが激怒した上杉軍に足止めされ明智光秀討伐に間に合わず
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1582年
[神君伊賀越え]堺見物中に本能寺の変報を受けた徳川家康は本多忠勝の制止で殉死を思止まり茶屋四郎次郎と服部半蔵正成(伊賀上忍服部家当主)の手引きで供廻34人(酒井忠次・石川数正・井伊直政・榊原康政・大久保忠隣ら重臣は軒並み同行)と共に伊賀越えを果し伊勢白子から海路で三河岡崎城へ生還(道中別れた穴山信君は木津川畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命)、柘植清広(松尾芭蕉は柘植氏と同族の福地氏の末裔)など協力した忍者の多くは徳川家に召抱えられ伊賀同心・甲賀同心として服部半蔵の支配下に置かれる
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1582年
[中国大返し]本能寺の変の2日後、備中高松陣で長谷川宋仁から織田信長の悲報をを受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、高松城主清水宗治切腹と備中・備後・伯耆割譲の妥協的条件で即時毛利氏と和睦し(因幡・美作は放棄)総員全速力で京畿の明智光秀討伐に向かい200kmを10日で駆け抜ける、間もなく信長討死の事実を知った毛利家では主戦論の吉川元春が追撃を主張するが小早川隆景が制止
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1582年
織田信長を討った明智光秀軍が近江に侵攻、安土城を守る蒲生賢秀は殉死を覚悟するが織田将兵が逃亡し断念、嫡子氏郷と共に生駒氏ら信長の妻妾を居城の近江日野城へ護送、その2日後に光秀が安土城を占領するが蒲生父子は光秀に帰順せず、間もなく安土城は焼亡(気が動転した信長の次男信雄による放火説が有力)
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1582年
明智光秀が与力で丹後宮津城主の細川藤孝に出陣を促すが藤孝は剃髪隠居して家督を嫡子細川忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)忠興正室ガラシャ(光秀の娘)を幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ滅亡、藤孝は早速秀吉に帰順し明智についた娘婿の一色義定(丹後北半の領主)を攻め滅ぼし丹後全域の支配を認められる
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1582年
[6月13日:山崎の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍が洛外天王山で明智光秀軍と激突、光秀は近親の細川藤孝・忠興父子(細川忠興の正妻ガラシャは光秀の娘)に加え筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に見放され、織田信孝・丹羽長秀軍を糾合し兵数に勝る羽柴軍が圧勝、明智光秀は逃亡中に伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに遭い落命、近江坂本城も落城し明智氏滅亡
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1582年
[神流川の戦い~天正壬午の乱]織田信長討死で甲州征伐間もない旧武田領に激震、甲斐の守将河尻秀隆が殺害され、上野には同盟を破った北条氏直が侵攻し野戦に敗れた滝川一益が厩橋城・箕輪城を放棄し逃走、越後の上杉景勝も北信濃に侵出し甲斐には徳川家康が押寄せ徳川・北条・上杉の三つ巴戦へ発展するが、新発田重家の乱勃発で上杉は信濃北部4郡で妥協し撤退、甲斐で北条氏直の大軍を破った徳川家康は北条への上野割譲および家康の娘督姫と氏直の婚姻を条件に和睦同盟、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃五ヶ国の太守へ躍進した家康は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対峙し、徳川・北条連合に対抗する上杉景勝は秀吉に誼を通じ直江兼続と石田三成が昵懇の間柄となる~武田残党を糾合して勢力を増した真田昌幸は弟の真田信尹と叔父の矢沢頼綱を派遣して上野沼田城を奪回、上杉・北条・徳川と帰服先を替えて領土保全を図るが、家康からの沼田割譲要求に反発し上杉方へ転じる
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1582年
[6月27日:清洲会議]織田信長遺臣の柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・池田恒興が尾張清洲城に参集、焦点の織田家の家督争いで三男織田信孝を推す勝家を抑え秀吉が幼少の嫡孫三法師(織田秀信)擁立に成功(後見に信孝)、信長直轄領の美濃は信孝・尾張は次男信雄に分与され、仇討の殊勲者秀吉は明智光秀の旧領丹波・山城・河内など28万石、筆頭家老の勝家は秀吉の旧領近江長浜12万石と信長の妹市を妻にもらい、光秀征伐に参加した丹羽・池田・堀秀政と日和見の細川藤孝・筒井順慶にも加増あり
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1582年
織田信孝・丹羽長秀率いる四国征伐軍が和泉岸和田に終結し渡航直前に本能寺の変が勃発、四国征伐軍は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の明智光秀討伐に合流し阿波の三好康長は河内へ撤退、窮地を脱した長宗我部元親は阿波勝瑞城を攻落とし讃岐へ逃れた十河存保(阿波三好氏首領)を追撃して十河城に追詰める
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1582年
紀伊雑賀衆首領の鈴木重秀が反織田の土橋守重を暗殺し反対派を押えるが直後に本能寺の変が勃発、父の鈴木重意・土橋党に主導権を奪われ孤立した重秀は逃亡し羽柴秀吉(豊臣秀吉)に帰順する
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1582年
織田信長の茶頭を務めた千利休が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の茶頭に出仕、二束三文の粗末な茶器を名器に仕立てる錬金術と侘茶接待で秀吉の大名統治に貢献、秀吉は利休を持て囃し「利休道具」に更に箔を付けて諸大名に与える好循環を演出
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1582年
近江を平定した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀についた諸豪の領地5千石を没収し、岳父織田信長への義理をとおした日野城主蒲生氏郷に与える(蒲生領は合して6万石)
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1583年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が激しい調略戦、勝家は滝川一益・織田信孝(信長の三男)と結んで秀吉弾劾状を諸大名にばら撒き四国の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を動かして後方撹乱に励むが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に織田信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝
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1583年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)についた蒲生氏郷が妹とらを秀吉の側室に献上(三条殿)
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1583年
[賤ヶ岳の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)が柴田勝家討伐を宣言、近江長浜城等を調略して岐阜城の織田信孝と分断し、弟の羽柴秀長・蒲生氏郷(織田信長の娘婿)に軍勢を預けて滝川一益の守る伊勢にも侵攻、勝家は近江に出陣するが佐久間盛政の軍令違反や前田利家の戦線離脱により大敗(譜代家臣の乏しい秀吉は奮闘した加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元を「賤ヶ岳の七本槍」と喧伝し各々3千石余を与えて部隊長に昇格させる)、秀吉は越前北ノ庄城へ追撃して勝家を討滅し(享年62。織田信長の妹市は夫勝家に殉じるが茶々・初・江の姉妹は助命確保)柴田方諸城を落として加賀・能登まで制圧、織田信孝も自害させて織田家簒奪を完遂(信孝の辞世:昔より主を内海の浦なれば むくいを待てよ羽柴筑前*自害した知多内海は源義朝が家人の長田忠致に騙し討ちにされた土地)~勝家を見限って秀吉に帰順した前田利家は北ノ庄攻めの先鋒を務め(北ノ庄城攻撃の直前に勝家と面会した利家は秀吉と仲が良いのだから必ず降伏するよう諭された、と前田家は伝えるが眉唾である)、能登の安堵に加賀二郡を加増され能登小丸山城から加賀尾山(金沢)城へ本拠を移転
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1583年
毛利輝元・小早川隆景が毛利秀包(元就末子で隆景養子)を人質に差出して羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵される(宇喜多秀家領との境界線の確定は2年後)、秀吉は新たな本拠地として石山本願寺跡地に大坂城の築城を開始・総奉行に黒田官兵衛を任命
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1583年
狩野派を率いる狩野永徳が豊臣秀吉に寵遇され息つく間もなく大坂城・聚楽第・内裏・八条宮家の障壁画を制作する
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1583年
本願寺顕如が紀伊鷺森別院(鷺森本願寺)から和泉貝塚の末寺(願泉寺)へ移動、羽柴秀吉(豊臣秀吉)・徳川家康から一向宗の加勢を求められるが下間頼廉は武力放棄・局外中立を堅持し純粋な宗教団体としての本願寺の姿勢を打ち出すことで存続を図る
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1584年
徳川家康配下の真田昌幸が信濃に上田城を築き戸石城から本拠を移転、北条氏への引渡要求を拒絶する上野沼田城には矢沢頼綱を送って籠城の構えをとり、実力行使に出た北条氏邦の軍勢を巧みな防戦により撃退
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1584年
[沖田畷の戦い]蒲池鎮漣一族皆殺しや無慈悲な人質殺害など龍造寺隆信の過酷な国人統治に離反が相次ぐなか、肥前島原城主有馬晴信(妹が龍造寺政家の正室)が島津義久に人質を差出して服属、島津との決戦を決意した隆信は2万5千(諸説あり)を率いて北から島原へ侵攻、肥後平定の途上で大友宗麟と対峙する島津義久は大軍を送れず弟の島津家久に兵3千(諸説あり)を託して先発隊を派遣、八代から島原へ渡り有馬勢を併せた家久は圧倒的劣勢ながら敵軍殲滅の策を講じ湿地帯の沖田畷に誘い込んで鉄砲隊で急襲、大混乱に陥った龍造寺軍は撫で斬りにされ龍造寺隆信以下成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直ら重臣の悉くが討取られる歴史的大惨敗、肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前の遺領を奪った島津義久は九州統一を果たすべく大友宗麟討伐へ転戦(隆信の嫡子龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されるが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と一子高房を滅ぼし佐賀藩簒奪を完遂する)
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1584年
[小牧・長久手の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)に宣戦した織田信雄に徳川家康が加担、旧柴田勝家方の長宗我部元親(四国)・雑賀衆(紀州)・佐々成政(越中)及び北条氏政(関東)とも連携し秀吉包囲網を形成、寡勢の徳川軍が池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し強さを示すが、秀吉に調略された信雄が無断で単独講和、名目を失った家康も次男秀康(羽柴→結城)を秀吉の養子に差し出し停戦~蒲生氏郷は常に先陣駈ける奮闘で木造具正ら信雄方伊勢国人を掃討し、秀吉の小牧退却戦の殿軍も果たす
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1584年
長久手の戦いで徳川家康に池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅された羽柴秀吉(豊臣秀吉)が兵2万を率いて反撃に出るが手勢5百で駆けつけた本多忠勝の妨害で攻めあぐね家康の小牧山城帰還で撤退、停戦後秀吉は忠勝の豪胆な武者ぶりを激賞
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1584年
徳川家康の武将榊原康政が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の織田家簒奪を非難する檄文をばら撒き図星を衝かれ激怒した秀吉は康政の首に10万石の懸賞を掛ける
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1584年
明智光秀を裏切り大和郡山城18万石を保った筒井順慶が病死し養嗣子の筒井定次が家督相続、翌年羽柴(豊臣)秀長の大和入封により伊賀上野へ移封される(定次は関ヶ原の戦いで東軍に属すが突如改易され筒井氏は滅亡する)
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1584年
[沼尻の合戦]上野を制した北条氏を牽制するため常陸の佐竹義重・宇都宮国綱ら北関東勢が下野に攻入り北条方の小泉城・小山城を攻撃するが逆に長沼城を奪われ敗退、北条氏の個別撃破作戦に苦しむ義重は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に帰服して再三援軍を要請
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1584年
徳川家康と同盟した長宗我部元親が羽柴秀吉(豊臣秀吉)が讃岐へ送った仙石秀久・小西行長を撃退し十河存保(阿波三好氏首領)の籠る十河城・虎丸城を攻落として讃岐を制圧、伊予へ転戦した元親は毛利軍を追払い湯築城主河野通直・宇和島黒瀬城主西園寺公広を降伏させ土佐・阿波・讃岐・伊予の四国統一を達成
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1584年
立花道雪・高橋紹運が大友領の筑後奪回戦に出陣、兵1千で立花山城の守備を託された立花宗茂は兵8千で攻め寄せた秋月種実を火計・夜襲・同士討ちの計略で撃退、立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回
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1584年
出羽米沢城主伊達輝宗が三春城主田村清顕の加勢を得て丸森城・金山城を攻略、20年抗争を続けた小高城主相馬盛胤と和睦した輝宗は父稙宗時代の勢力圏南奥羽11郡余の回復を果し18歳の嫡子伊達政宗に家督を譲り隠居城の舘山城へ移る(次男伊達政道の当主擁立を図る正室義姫を抑えるため相続を急いだとも)
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1584年
織田信長の娘婿で豊臣秀吉に臣従して伊勢攻略や小牧・長久手の戦いで武功を挙げた蒲生氏郷が近江日野6万石から伊勢松ヶ崎(松ヶ島城)12万石へ加転封、氏郷は四五百の森を松阪へ改名して築城し日野から近江商人を招致して大商業都市を建設
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1584年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師黒田官兵衛が播磨国宍粟郡篠の丸城5万石の大名となるが、天下人となった秀吉に次第に遠ざけられて参謀長的立場を失い豊臣政権の主導権は石田三成ら秀吉の子飼い部将へ移る
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1584年
上山城主上山満兼・小国城主細川直元・庄内領主大宝寺義氏を謀略で各個討滅した山形城主最上義光が総仕上げ、羽州探題を僭称する白鳥長久を山形城に誘込んで自ら斬殺し谷地城を奪取、強豪延沢満延の嫡子光昌に娘を嫁がせて寝返りを誘い「最上八楯」を切崩すと寒河江城主寒河江高基・東根城主東根頼景を攻め滅ぼし「最上八楯」の盟主天童頼澄を天童城から追放して出羽最上郡平定を達成
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1585年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が藤原氏五摂家筆頭の近衛前久の猶子となり関白に就任、微賤の出で譜代家臣の無い秀吉は弟の羽柴秀長を大和郡山城100万石(筒井定次は伊賀へ転封)に封じ加藤清正・福島正則・石田三成・小西行長ら子飼い武将に官位・官職を与え加増して大名格に引上げる
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1585年
[紀州征伐]織田家を掌握し徳川家康と停戦した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が天下統一戦を開始、自ら10万を率い小牧・長久手合戦で徳川に加勢した雑賀衆(太田城)・根来衆(根来寺)を攻め滅ぼし和泉・紀伊を平定、逸早く秀吉に帰順し小牧・長久手合戦で鉄砲頭を務めた鈴木重秀は父の鈴木重意を説いて降伏を促し子の鈴木孫一郎を秀吉の人質に出して忠誠を示すが秀吉は後顧の憂いを絶つべく藤堂高虎に命じて重意を謀殺、ここに紀伊の鉄砲傭兵集団は滅亡し僅かに鈴木重朝(重秀の後継者)らが体制秩序で命脈を保つ
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1585年
[四国攻め]紀州征伐に並行して羽柴秀吉(豊臣秀吉)が総大将羽柴秀長・軍監黒田官兵衛・三好秀次・宇喜多秀家・小早川隆景の総勢10万余を派兵し阿波・讃岐・伊予の三方から四国へ侵攻、長宗我部元親は阿波白地城に籠って抵抗するが圧倒的大軍の前に為す術なく土佐一国の安堵を条件に降伏、秀吉は没収領の伊予を小早川隆景・讃岐を仙石秀久と十河存保・阿波を蜂須賀家政に与える
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1585年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命により毛利輝元・小早川隆景から所領と来島村上水軍を取戻した来島通総が四国伊予攻めに従軍し旧主河野氏の討滅に働いて伊予風早郡1万4千石の大名に栄達(のち通総は朝鮮役で戦死、後嗣の来島長親は関ヶ原の戦いで西軍に属すが福島正則の取成しで赦され豊後森藩1万4千石を立藩)、秀吉に反抗し従軍命令に背いた村上武吉(能島村上水軍)は小早川に攻められて根拠地の能島を奪われ備後竹原へ移される(後嗣の村上元吉・景親は毛利家に仕え子孫は長州藩船手組組頭として存続)
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1585年
[第一次上田合戦]羽柴秀吉(豊臣秀吉)への対抗上北条氏との同盟強化を望む徳川家康が上野沼田領の引渡しを拒絶する真田昌幸を攻撃、昌幸は一度寝返った上杉景勝に次男の真田信繁(真田幸村)を人質に送って援軍を乞い、信濃上田城に来襲した徳川軍を奇計で壊滅させ沼田城を襲った北条氏邦も撃退するが、再び上杉を見限って天下人秀吉に鞍替え(4年後に真田信繁は越後を脱出し岳父大谷吉継を通じて人質として秀吉に近侍する)、武田信玄の庶子海野竜宝を担ぎ出して徳川領を侵食するも秀吉の仲裁で家康と和睦し嫡子真田信之の妻に本多忠勝の娘小松姫(家康養女)を迎える
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1585年
[富山の役]賤ヶ岳の戦い不参加で本領安堵された越中の佐々成政(柴田勝家与力)が小牧・長久手の戦いに呼応し前田利家の加賀へ攻め込むが撃退され(末森城の後巻)羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康の和睦停戦により孤立、成政は厳冬の「さらさら越え」で浜松へ赴き家康に再挙を促すが断られ越中を秀吉・利家に攻囲され降伏、秀吉は成政の越中領を没収するが(新川一郡のみ安堵)命は助けて御伽衆に採用、旧佐々領を与えられた前田利家は加賀・能登に越中を併せ三国の太守となる
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1585年
[阿蘇合戦]島津義弘の軍勢が阿蘇惟光を打破り肥後平定を達成、九州統一を目論む島津義久は大友宗麟への攻勢を強め豊後・筑前へ殺到
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1585年
島津氏と反大友勢力の猛攻に晒された立花道雪が立花宗茂・高橋紹運・朽網鑑康を率いて必死の防戦、豊後へ長駆して大友宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家(宗麟の次男)の援軍が戦線離脱するなか道雪・紹運は高良山に布陣して3倍の敵軍を撃退、島津軍を押し返す勢いを示すが柳川城攻撃中に高良山陣中で無念の病死(享年73。「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言したが養嗣子の宗茂は敵中に残し置くのを儚み遺骸を伴って立花城へ帰還)、大黒柱を喪った大友氏は完全に死に体となり島津方への寝返りが相次ぐ
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1585年
徳川家康重臣の石川数正が羽柴秀吉(豊臣秀吉)方に電撃移籍、徳川家は旧武田軍に倣って軍法を刷新し本城を駿府城に移転
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1585年
[惣無事令(九州)]島津氏に圧迫され滅亡目前の大友宗麟の陳情を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が九州諸大名に私戦禁止を発令、島津氏は無視して領土拡張戦争を継続
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1585年
[人取橋の戦い]佐竹義重・蘆名氏に属する小浜城主大内定綱が伊達政宗の家督相続に伴い帰順するが出羽米沢城視察を終えると再び反逆、政宗は小手森城・小浜城を攻落とし定綱を匿った二本松城主畠山義継を降伏させるが御礼言上のため小浜宮森陣を訪れた義継は輝宗を拉致して逃走、鷹狩りから馳せ戻り阿武隈川東岸で追いついた政宗は晴宗諸共義継を銃殺し二本松城を攻囲するが常陸の佐竹義重率いる南奥羽連合軍3万が来襲(伊達氏縁戚の蘆名亀王丸・岩城常隆・石川昭光も加盟)、鬼庭左月斎が身代りとなって政宗は窮地を脱し足並み乱れた連合軍は追撃の好機を放棄、南奥羽の主導権は佐竹に奪われるが政宗は翌年二本松城を攻略し伊達成実を城将に据えて反撃の機を窺う
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1585年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城下町活性化のために顕如を大坂に呼び戻し天満本願寺を創建
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1585年
大和郡山城100万石に入封した羽柴(豊臣)秀長が太閤検地を実施、柳生の庄を治める柳生宗厳は隠田摘発により全所領(2千石ほど)を没収され石舟斎(浮かばぬ船)と号す(柳生を去り京都で近衛前久に寄食したとも)、子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求めて出奔し宗厳は資質の優れた利厳(厳勝の次男)を手元に留め新陰流を授ける
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1586年
関白羽柴秀吉(豊臣秀吉)が年頭の参内で正親町天皇に「黄金の茶室」を披露、茶頭千利休は秀吉の成金趣味に眉をひそめつつ妙喜庵待庵に代表される草庵風茶室(下地窓・連子窓や躙口をあけた二畳の茶室)を完成させ楽茶碗や竹の花入・茶柄杓・茶杓などの道具に工夫を凝らし侘茶の境地を開く
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1586年
石田三成・直江兼続の策動により越後の上杉景勝が上洛し養子義真を人質に出して羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従、越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められた景勝は新発田重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、1589年信濃川中島四郡(武田勝頼遺領)と出羽庄内三郡(最上義光から奪回)の支配が確定し合計90万石の太守となる
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1586年
[岩屋城の戦い]島津義久が派した5万の大軍が筑前・筑後に侵攻、秋月種実・龍造寺政家・原田隆種・城井鎮房ら国人衆は挙って島津氏へ靡き総勢10万余で風前の灯火の大友方三城を猛攻、岩屋城の高橋紹運は徹底抗戦の末に城兵763人全員が玉砕して果て、宝満山城の高橋統増(紹運の次男。後の立花直次)は降伏開城して島津氏の捕虜となるが、立花山城の立花宗茂(紹運長男で道雪養嗣子)は詐降の計で油断を誘い大友宗麟の豊後攻めに転じた島津軍を追撃して数百を討取り、奇襲で原田・秋月の軍勢を痛撃、星野鎮胤・鎮元兄弟の高鳥居城を皆殺しにして攻取り岩屋城・宝満山城を奪回、九州征伐後宗茂は秀吉から「忠義・剛勇鎮西一」と激賞され直臣大名として筑後柳川城13万2千石を与えられる
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1586年
天下統一を急ぐ羽柴秀吉(豊臣秀吉)がライバル徳川家康との宥和路線に切替え、秀吉の妹あさひ(朝日姫)の輿入れに続いて母なか(大政所)を人質に差し出された家康は臥薪嘗胆で臣従、秀吉は早速九州征伐に乗り出し、豊臣政権運営では家康牽制のため旧知の前田利家を対抗馬に擁立
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1586年
[戸次川の戦い]肥後から島津義弘・日向から島津家久の軍勢4万が豊後大友領に殺到、大友宗麟の哀訴に応じた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は長宗我部元親率いる先発隊2万を派遣、戸次川を挟んで家久軍1万3千と対峙するが功を焦った軍監仙石秀久が無謀な冬季渡川を敢行し島津の「釣り野伏せ」戦法に嵌って副将の十河存保と長宗我部信親までが戦死する惨敗(溺愛する嫡子信親を喪った元親は悲嘆のあまり人が替わったような暴君となり長宗我部氏は破滅へ向かう。一方、味方を見捨てて一目散に領国讃岐へ逃げ帰った秀久は所領没収のうえ高野山へ追放されるが、小田原征伐の「仙石原合戦」で奮戦し信濃小諸5万石の大名に返り咲く)、家久は府内城を落として(城主大友義統は敵前逃亡)宗麟の臼杵城を包囲、島津義久は筑前立花城・岩屋城・宝満城で抗戦を続ける立花宗茂を残し九州制覇を達成
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1586年
羽柴秀吉が関白位を養子(甥)の羽柴秀次に譲り太政大臣に就任、朝廷から豊臣姓を賜り以後豊臣秀吉を名乗る
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1586年
豊臣秀吉からの出陣要請を固辞してきた吉川元春が小早川隆景・黒田官兵衛の説得に応じ病を押して九州征伐に参陣するが豊前小倉城で陣没(享年57)、半年後に嫡子吉川元長も日向都於郡の陣中で病没(次弟の広家が家督相続)
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1586年
備前岡山城主宇喜多秀家(直家の嫡子)が前田利家の娘で豊臣秀吉の養女豪姫を妻に迎え豊臣一門衆に列す
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1587年
会津黒川城主蘆名亀王丸が夭逝、蘆名家中は養子の人選を巡り伊達政道(政宗の弟)と白河義広(白河義親の養子に入っていた佐竹義重の次男)を推す両派が対立するが金上盛備の佐竹派が勝利し義広が蘆名盛隆の養女に入婿して家督を承継、佐竹氏は広大な蘆名領を不戦で併呑
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1587年
[九州征伐・根白坂の戦い]徳川家康を服属させた豊臣秀吉が島津征伐を号令、豊臣秀長(秀吉の弟)率いる毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家・黒田官兵衛らの10万余が豊後へ侵攻すると北部九州の諸豪は悉く帰順、劣勢の島津義弘・家久は豊後府内城を放棄して日向へ撤退し、秀吉の本体10万余が手薄な肥後へ入り隈本・宇土を攻略、日向高城で本国危うしの報を得た島津義久・義弘は打って出て秀長の攻囲軍に決戦を挑むが衆寡敵せず大敗、薩摩内城に戻った義久は義弘らの徹底抗戦論を抑え剃髪入道のうえ降伏謝罪、秀吉は義久に薩摩一国・義弘に新恩として大隅一国など島津本領をほぼ安堵し豊臣姓を与えた義弘が17代島津宗家当主を承継(義弘は太閤検地を通じて石田三成と親密になる)、渦中に家久が日向佐土原城で急病死~黒田官兵衛・石田三成の両参謀が博多の町割りをはじめとする戦後復興任務を遂行
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1587年
肥後人吉城主相良頼房が島津氏を見限り豊臣秀吉に帰順して本領安堵(投降に働いた執政の深水長智は秀吉の信任を得て豊臣直臣にスカウトされるが固辞)、薩摩大口城敗戦の罪で致仕された丸目蔵人長恵は17年ぶりに帰参を赦され兵法指南役(117石)に就任し長恵のタイ捨流は相良家のみならず東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及(上泉信綱の新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる)
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1587年
北部九州の島津方で唯一豊臣秀吉への帰順を拒む秋月種実が筑前秋月城に籠城、支城の豊前岩石城の抑えに配された蒲生氏郷は決死の嘆願で秀吉から攻城を許可され前田利長(利家嫡子)・羽柴秀勝(信長実子で秀吉養子)・石川数正(秀吉が引き抜いた元徳川家康家臣)の加勢を得て攻略に成功
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1587年
豊臣秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟が島津義久の降伏直前に豊後津久見で陣没(享年58。戸次川の戦いで敵前逃亡の醜態を晒しながらも家督を継いだ嫡子大友義統は、朝鮮役碧蹄館の戦いで再び敵前逃亡し激怒した秀吉に改易され九州一の名門大友氏は滅亡、関ヶ原の戦いで西軍総大将毛利輝元の援助を得て九州で大友再興軍を起すが黒田官兵衛に一蹴される)
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1587年
[バテレン追放令]大村純忠がイエズス会に長崎港を寄進した事実に驚愕し、宣教師ガスパール・コエリョがスペイン艦隊の武威を笠に傲慢な態度を示したことに立腹した豊臣秀吉が宣教師追放を発令(この時点では実利優先で南蛮貿易は容認され布教活動も事実上黙認)
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1587年
九州征伐後の領土再編で黒田官兵衛が播磨篠の丸城5万石から豊前6郡12万石に増転封され中津城の築城を開始(12万石は功績に比して過小であり嫡子黒田長政と幕僚は政敵石田三成への憎悪を募らせる)、小早川隆景は筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石に封じられて毛利家から独立した大大名の扱いとなる
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1587年
[北野大茶会]九州征伐から京都に凱旋した豊臣秀吉が庶民自由参加の大茶会を開催・黄金の茶室も披露
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1587年
豊臣秀吉が京都に政庁兼邸宅の聚楽第を建設(作事奉行は石田三成、演出は茶頭の千利休、障壁画は狩野派の狩野永徳が担当)、後陽成天皇の行幸を迎え諸大名列席の祝賀式では秀吉に懇願された徳川家康が臣下の礼をとり権威付けに協力
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1587年
[惣無事令(関東・奥羽)]西日本を九州まで平定した豊臣秀吉が関東・奥羽諸大名に私戦禁止を発令、伊達政宗は無視して領土拡張戦争を継続
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1587年
[肥後国人一揆]小牧・長久手の戦いで改易された佐々成政が九州征伐の武功で肥後一国の太守に返り咲くが、豊臣秀吉の指示に反して検地を断行し反発する国人が一斉蜂起、成政は筑後柳川城主立花宗茂の援軍を得てようやく鎮圧するも切腹に処され、秀吉は肥後54万石のうち北半分(熊本城25万石)を加藤清正・南半分(宇土城24万石万石)を小西行長に与える
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1587年
黒田官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙を衝いて領国の豊前で野中鎮兼ら国人衆が蜂起し、伊予への転封を拒否し3万石を改易された城井鎮房が呼応し旧居城井谷城を占拠、強圧に出た留守役の黒田長政は失敗するが、帰還した官兵衛が兵站を断つ持久戦に切替え無事鎮圧、鎮房を謀殺して反抗勢力を一掃し支配を固める
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1588年
豊臣秀吉が南蛮貿易拠点の肥前長崎を直轄領とする
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1588年
[刀狩令・海賊停止令]豊臣秀吉政権による領民統治政策、来島通総(来島村上水軍)は進んで秀吉に帰服し伊予風早郡1万4千石の陸大名へ転身を遂げたが、独立保持に固執し抵抗を続けた村上武吉の能島村上水軍は解体され(武吉は備後竹原から筑前へ移され小早川隆景の庇護下で余生を繋ぐ)政権秩序への加入を拒んだ配下の海賊衆は芸予諸島の隅へ逃れ蔑視の対象とされる(第二次大戦前後に姿を消した船上生活者「家船」のルーツとも)
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1589年
[寺内成敗]聚楽第落書犯の逃走を幇助し斯波義銀ら政治犯を匿ったとして豊臣秀吉(執行役は石田三成)が天満本願寺寺内町を徹底捜索、顕如は譴責処分で留まるが孫の願得寺顕悟および町人63名が処刑され本願寺町奉行に任じられた下間頼廉が事態を収拾
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1589年
黒田官兵衛が家督を嫡子長政に譲り隠居(秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞いた官兵衛が粛清を予見して即時引退を決意したという)、官兵衛は軍師留任を命じられて畿内に留まり豊前中津の領地経営は長政に託される
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1589年
[摺上原の戦い]出羽米沢城主伊達政宗が兵2万を率いて蘆名義広(佐竹義重の次男)襲封で揺れる蘆名領へ侵攻し猪苗代盛国の寝返りを誘って猪苗代城を占拠、近郊の摺上原で決戦を挑むと反佐竹派の富田氏実の戦線離脱で蘆名勢は瓦解し5千余の戦死者を出す惨敗、義広は佐竹領へ奔り戦国大名蘆名氏は滅亡、蘆名領を併呑し会津黒川城に入った政宗は結城義親・石川昭光・岩城常隆ら佐竹方諸豪を降伏させ反抗した叔母阿南の方の二階堂氏を滅ぼして会津四郡・仙道七郡を平定し北方の大崎・葛西氏も掌握、南奥羽を征し150万石の太守となった政宗は父祖譲りの巧みな外交を展開し豊臣秀吉・豊臣秀次・前田利家・浅野長政・徳川家康らの機嫌を取結びつつ秀吉の惣無事令を無視して周辺所豪族を片端から攻め潰し北条氏政にも通じて佐竹義重挟撃に策動、一方の佐竹義重は伊達・北条からの南北挟撃の危機に晒され豊臣秀吉に助けを求める(嫡子佐竹義宣に家督を譲るが実権は保持)
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1589年
豊臣秀吉の側室茶々(浅井長政・市の長女)が嫡子鶴松を出産、茶々は褒美に山城淀城を与えられ「淀殿(淀の方)」と称される
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1589年
[太閤検地]豊臣秀吉政権が全国各地の検地を開始(石田三成が主導)
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1589年
[名胡桃城事件]北条氏直の上洛を促す豊臣秀吉が懸案の沼田問題を裁定し真田昌幸に上杉への引渡しを命じるが、昌幸の懇願を容れて利根川西域と名胡桃城を真田に残したことが禍根となり、北条家臣の沼田城代猪俣邦憲が真田家臣の名胡桃城代鈴木重則を騙して城を奪取、鈴木は自害し昌幸は秀吉に強訴、激怒した秀吉は北条の言逃れを許さず小田原征伐を号令
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1590年
肥前佐賀城主の龍造寺政家(隆信の嫡子)が豊臣秀吉の命令で家督を嫡子高房に譲り隠居、隆信没後龍造寺の実権を握る鍋島直茂は秀吉から施政権のお墨付きを与えられる
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1590年
豊臣秀吉に弁明使を送りつつ図太くも北条氏政と連携し佐竹義重を攻め続けた伊達政宗が小田原落城を目前に投降を決意、兄の最上義光に通じ政宗毒殺を企てたとして母義姫を放逐し火種の弟伊達政道を暗殺して反抗の芽を摘み(政宗の狂言説が濃厚)主戦派の伊達成美に留守を託して越後・信濃・甲斐経由で小田原へ参陣、禿髪に白麻の陣羽織の異装・千利休を招いての茶の稽古で演出好みの秀吉の感心を引き誼を通じる徳川家康・前田利家・浅野長政らの取成しで助命されるが会津黒川城150万石から本領の出羽米沢城72万石に減転封
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1590年
[小田原征伐・天下統一]後北条氏家臣猪俣邦憲による真田昌幸領侵犯・惣無事令違反を名分に豊臣秀吉が20万の大軍を率いて侵攻、支城を落とし小田原城を重包囲(大谷吉継・長束正家と共に忍城・館林城攻略を命じられ初めて実戦を指揮した石田三成は「猿真似」で水攻めを試みるが大失敗)、徳川家康(氏直は娘婿)が早期降伏を促すが断念、北条氏政・氏直父子は3ヶ月の「小田原評定」の末に結局降伏し後北条氏滅亡し(最後の説得役は軍師黒田官兵衛)秀吉は天下統一を達成~戦後仕置で秀吉は強敵家康から駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国150万石を召上げ武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総の6カ国と下野・常陸の一部250万石へ移封、家康は黙って従い江戸城を本拠とし大規模都市開発に着手
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1590年
上野から侵攻した上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの北陸軍が大道寺政繁の松井田城など支城を次々と攻略(石田三成が指揮した忍城攻略のみ失敗)、悲願の沼田領奪回を果した真田昌幸は次男真田信繁(真田幸村)と共に豊臣秀吉への忠勤に励み徳川家康牽制の一翼を担うが、嫡子の真田信之は本多忠勝の娘婿で徳川家康に臣従
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1590年
[宇都宮仕置・奥州仕置]豊臣秀吉が大軍を率いて会津まで進み北関東・東北諸大名の領土再編を断行、佐竹義重(常陸太田城54万石)・最上義光(出羽山形城24万石)・南部信直(陸奥九戸城10万石)・相馬義胤(陸奥小高城4万8千石)・秋田実季(出羽秋田5万2千石)・小野寺義道(出羽横手4万7千石)・戸沢盛安(出羽角館4万4千石)・津軽為信(出羽津軽3万石)らは本領安堵、遅参した伊達政宗は本領72万石のみ安堵され本拠の会津も没収されて150万石から大減封(会津黒川城から米沢城へ移動)、反抗した葛西晴信・大崎義隆他は改易、没収領は蒲生氏郷に会津など42万石(伊勢松阪12万石から増転封、氏郷は黒川を若松に改名し増改築した鶴ヶ城へ転居、翌年再加増されて92万石)、木村吉清・清久父子に葛西・大崎領30万石(知行5千石から破格の出世)を付与、奥羽司令官任官且つ飛躍的増封ながら天下への夢絶たれ嘆く蒲生氏郷と領地奪回を企む伊達政宗の暗闘が勃発、仕置後の統治政策は検地奉行の石田三成が主導
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1590年
[葛西大崎一揆]奥州仕置軍の退去後間もなく旧大崎・葛西領で検地に反抗する百姓一揆が蜂起、葛西大崎遺臣団が参戦主導し伊達政宗が財貨を与えて扇動したため内戦に発展、俄か大名の木村吉清・清久父子と急拵えの家臣団は成す術なく佐沼城に閉塞、会津若松城から救援に出た蒲生氏郷は政宗の露骨な妨害に苦しみつつも一揆勢を破って木村父子を救出し二本松城へ生還、氏郷の告訴で政宗の策謀が露見するが明攻めを急ぐ豊臣秀吉は徳川家康・前田利家らの取成しもあって出羽米沢城72万石から陸奥玉造郡岩出山城58万石(仙台北郊)への減転封で政宗を赦免(政宗は金箔張りの磔柱を先頭に立てて上洛し演出好きの秀吉を和らげる)、命拾いした政宗は京都から戻ると忽ち自作自演の一揆を平定
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1590年
関八州250万石へ移封された徳川家康が家臣団の領地を再編、「徳川四天王」の井伊直政(家康の養女婿)は上野箕輪城12万石(高崎城へ移動)・本多忠勝は上総大多喜城10万石・榊原康政は上野館林城10万石・酒井家次(忠次の嫡子)は下総臼井3万7千石(忠次が不満を訴えると家康は「お前も子が可愛いか」と信康事件の報復を仄めかす)、大久保忠世は相模小田原城4万5千石・嫡子の大久保忠隣は武蔵羽生2万石、後に台頭する本多正信は相模玉縄1万石に封じられ大名に列す
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1590年
祖父の狩野元信が興した職業画家集団「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手 狩野永徳が東福寺法堂の天井画を制作中に過労死(享年47)、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨する
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1590年
徳川家康家臣の服部半蔵正成が遠江に知行8千石を与えられ正式に伊賀・甲賀衆の支配役に任じられる
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1590年
前田利家の家臣で中条流当主の富田重政(景政の婿養子で実父は山崎景隆)が佐々成政を撃退した「末森城の後巻」での一番槍・小田原征伐の武蔵八王子城攻めの武功により大名並みの1万3千石を与えられ「名人越後」と称される(武将としての知行だが1万石以上を得た兵法家は後の柳生宗矩のみ、ただし後嗣重康の没後に富田家と中条流=富田流は衰退する)
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1590年
不行跡を改めない前田慶次郎利益が主君で義叔父の前田利家と衝突し出奔(改心を装って利家を茶の湯に招き水風呂に叩き込んでそのまま逃走したという伝説あり)、京都で気儘な浪人生活を送り「穀蔵院飄戸斎(ひょっとさい)」なるふざけた名乗りで里村紹巴・九条稙通・古田織部・細川藤孝ら一流文化人と交流(豊臣秀吉の諸大名饗応に紛れ込んだ慶次郎が「猿真似の猿舞」で秀吉をおちょくったという伝説あり)
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1591年
豊臣秀吉の弟で名参謀の豊臣秀長が死去(謀殺説あり)、甥で婿養子の豊臣秀保が後を継ぎ重臣藤堂高虎が盛り立てるが4年後に秀保が後嗣無く急逝し秀長の大和豊臣家は断絶する
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1591年
豊臣秀吉の突然の命令により「利休道具」の錬金術と侘茶接待で大名統治に貢献した茶頭千利休が切腹(享年70)、千家は閉門となり茶頭は高弟の古田織部に引継がれるが蒲生氏郷・細川忠興ら「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しで赦免され、孫の千宗旦の子が武者小路千家・表千家・裏千家を興し「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて今日まで繁栄を続ける
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1591年
豊臣秀吉が洛中の四周を取り囲む御土居を建築(防衛上の理由よりも大規模建築による権力誇示、あるいは戦乱終息に伴う失業軍人対策と考えられる)
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1591年
豊臣秀吉唯一の男児鶴松(生母は側室淀殿)が2歳で夭折
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1591年
[身分統制令]豊臣秀吉政権による領民統治政策(明侵攻のための兵力と年貢米確保のための施策であり、世襲身分の固定化は企図せず)
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1591年
[九戸政実の乱・奥州再仕置]北奥羽南部家で家督争いから一族の九戸政実が反乱挙兵、奥州仕置に反発する土豪一揆が呼応したが、京都から馳せ戻った蒲生氏郷が豊臣秀次・徳川家康の加勢を得て忽ち討平、秀吉は大崎・葛西一揆の戦後処理を兼ねて奥州大名再編を実施し氏郷は会津若松城42万石に7郡加増で92万石、木村吉清・清久父子は所領没収(氏郷の客将となる)、伊達政宗は出羽米沢城72万石から陸奥玉造郡岩出山城58万石(仙台北郊)への減転封、氏郷と政宗は秀吉の命を受けた前田利家の仲裁で一応和解
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1591年
豊臣秀吉が明侵攻(唐入り)を宣言し前線拠点の肥前に名護屋城を築城、明の属国李氏朝鮮には道案内を要請するが双方に義理のある対馬領主宗義智のごまかしで交渉がこじれ激怒した秀吉は朝鮮征伐を断行
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1591年
豊臣秀吉が姉日秀の子豊臣秀次に関白位を譲り太閤(前関白)となる
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1591年
豊臣秀吉から寺内成敗の罪を赦された顕如が本願寺教団を再興、大阪天満から京都堀川六条の現在地に本願寺を移築(西本願寺)
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1592年
[文禄の役・朝鮮出兵開始]豊臣秀吉が明の属国李氏朝鮮に宣戦し当時世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍を派遣(総大将は豊臣一門扱いの宇喜多秀家、総奉行石田三成、軍監黒田官兵衛・浅野長政、一番隊小西行長、二番隊加藤清正、三番隊黒田長政、四番隊島津義弘、五番隊福島正則、六番隊小早川隆景、七番隊毛利輝元ほか2隊と加藤嘉明・藤堂高虎・九鬼嘉隆・脇坂安治ら水軍隊の大編成で総勢15万余)、日本軍は戦わずに逃走する宣祖王・朝鮮軍を追って首都漢城を落とし平壌まで制圧し、加藤清正隊は更に宣祖王を追って朝鮮北辺に達し満州国境で臨海君・順和君の二王子を捕縛、水軍勢は釜山浦の戦いで李舜臣の朝鮮水軍を撃破するが、端から和平を望み秀吉をも欺く石田三成・小西行長・宗義智らと命令遵守の加藤清正・福島正則・黒田長政らの対立が深まる
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1592年
[梅北一揆]朝鮮出兵に向かう島津軍で梅北国兼が反逆し肥後佐敷城を占拠するが忽ち鎮圧されて国兼は討死、島津義弘は豊臣秀吉から「日本一の遅陣」と咎められ、豊臣秀吉は監察使細川藤孝を薩摩に派遣し島津義久は加担嫌疑の島津歳久を誅殺(藤孝は大隅に3千石の加増を受ける)、家臣が一揆に加わった罪で阿蘇惟光も斬刑に処され阿蘇氏は滅亡
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1592年
豊臣秀吉の母なか(大政所)死去
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1592年
織田信長を最も苦しめた本願寺顕如が死去(享年50)、嫡子教如が本願寺法主を継承するが武闘派のため豊臣秀吉に廃され穏健派の三男准如が法主に就任(西本願寺)、本願寺町奉行の下間頼廉は異議を唱え秀吉の勘気を蒙るが准如に忠誠を誓い赦免される(西本願寺刑部卿家)
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1592年
豊臣秀吉が織田秀信(信長の嫡孫)を美濃国の大名に封じ岐阜城を返還
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1593年
軍監として朝鮮出兵に従った黒田官兵衛と浅野長政が石田三成・小西行長との確執により無断帰国、官兵衛は三成の讒言で豊臣秀吉の勘気を蒙るが剃髪入道して赦免される(如水と号す)
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1593年
[碧蹄館の戦い]李如松率いる明の大軍(10万とも30万とも)が日本軍を急襲、休戦講和と偽られ攻め込まれた小西行長隊は平壌を放棄して漢城へ撤退し、後詰の大友義統隊は敵前逃亡(宗麟の嫡子。秀吉の逆鱗に触れて改易され戦国大名大友氏は滅亡、後に名門を惜しむ徳川家康が嫡子義乗を召抱え高家旗本として家名存続)、総大将の宇喜多秀家と石田三成・増田長盛・大谷吉継らの幕僚は漢城籠城を主張するが小早川隆景の反対で軍議は野戦に決定、先鋒を託された立花宗茂は兵3千弱を率いて漢城北方20キロ碧蹄館の隘路で決死の迎撃に打って出て2千余人を討取る快勝、毛利・宇喜多の本隊が押返されるなか立花勢の突撃と背後に回った小早川勢の奇襲により明軍を壊走させるが、漢城の食料貯蔵庫を焼かれた日本軍は明と講和し釜山まで撤退、秀吉には面従腹背で講和を進める三成・行長ら文治派と勇敢に戦ったのに讒言で貶められた加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派の対立が深刻化
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1593年
豊臣秀吉の側室淀殿が嫡子拾丸を出産(豊臣秀頼)、淀殿は乳母の大蔵卿局・子の大野治長を重用して豊臣家の奥向きを掌握しつつ加藤清正(秀吉の又従兄弟)・福島正則(同従弟)・黒田長政(官兵衛の嫡子)ら北政所ライン(武断派)と敵対する石田三成(文治派)に接近し政治への介入姿勢を強める
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1593年
[小金ヶ原の決闘]伊東一刀斎景久に命じられた小野善鬼と神子上典膳が流儀相伝を賭け真剣勝負し勝った典膳が一刀流を相伝(唯授一人)、徳川家康に招聘された一刀斎は忽然と消息を絶ち代わりに推挙した典膳が200石で召抱えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任(典膳は小野忠明へ改名)、武芸一筋の忠明は将軍秀忠に嫌われるが一刀流は幕末まで柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇る(明治維新後の剣道主査会の5人のうち2人は北辰一刀流・1人は小野派一刀流の系統、小野派と中西派を継いだと称する山岡鉄舟は一刀正伝無刀流を興す)
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1594年
豊臣秀吉が男児の無い毛利輝元の養嗣子に羽柴秀俊(小早川秀秋。秀吉正室北政所の甥)を押付けるが小早川隆景は甥の毛利秀元への家督相続を主張して峻拒し代わりに小早川家の養嗣子に秀秋を迎え入れる、能島村上水軍の村上武吉・元吉父子は小早川家を辞して毛利輝元へ転籍(次男の村上景親は隆景死去まで小早川家に残留)
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1594年
兵法大名の徳川家康が浪人中の柳生石舟斎宗厳を洛北鷹ヶ峯の居宅に招き試技、67歳の宗厳は素手で家康の木剣をもぎとって「無刀取り」の奥義を披露し(師の上泉伊勢守信綱から与えられた公案)感服した家康は宗厳の代わりに随行していた末子の柳生宗矩を200石で召抱える、宗矩は関ヶ原合戦後に旧領柳生の庄2千石を回復し将軍徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万石を立藩(江戸柳生)、宗厳嫡孫の柳生利厳も尾張徳川家の兵法指南役となり(尾張柳生)、柳生新陰流は将軍家お家流として隆盛を極める)
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1595年
豊臣秀吉が「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しにより誅殺した千利休の遺族を赦免、家督を継いだ嫡子千道安は豊前小倉城主細川忠興に茶頭として招かれるが間もなく後嗣無く病没、利休娘婿の千少庵が後を継ぎ嫡子千宗旦の三児が「三千家」(武者小路千家・表千家・裏千家)を興す
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1595年
織田信長の娘婿で豊臣秀吉から奥州支配を託された蒲生氏郷が肥前名護屋で陣没(享年40。辞世:限りあれば 吹かねど花は 散るものを こころ短き 春の山風)、嫡子蒲生秀行は遺領収公の危機を逃れて会津92万石を相続するが、力量不足で徳川家康の抑え役は務まらず重臣の争い(蒲生騒動)を理由に宇都宮18万石へ減転封、会津には120万石で上杉景勝が入る(徳川家康の娘振姫を妻に迎えた秀行は関ヶ原合戦後に会津60万石に返り咲くが、後継の次男忠知の代で蒲生氏は無嗣断絶となる)
蒲生氏郷の交遊録
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蒲生定秀
六角義賢を救い家老となった祖父
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蒲生賢秀
父
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蒲生秀行
嫡子・正室は家康娘
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とら(三条殿)
秀吉側室に献上した妹
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冬姫
信長娘の妻
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蒲生郷安
蒲生姓を与えた筆頭重臣・蒲生騒動の元凶
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蒲生郷可
蒲生姓を与えた重臣
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蒲生頼郷
蒲生姓を与えた重臣
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蒲生郷成
蒲生姓を与えた重臣
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蒲生郷舎
郷成後嗣
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岡左内
重臣
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岡半七
乞食坊主となった左内弟
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町野繁仍
乳母婿の老臣
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名古屋山三郎
出雲阿国の情夫で歌舞伎の祖となった元家臣
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佐久間安政
信濃飯山藩主(3万石)に出世した家臣
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本多正重
徳川家へ去り大名に出世した家臣・正信弟
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本多正信
三弥兄・家康謀臣
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木村吉清
与力大名→客将・福島県の名付け親
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木村清久
吉清嫡子
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六角義賢
信長に敗れた近江の主君
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六角義治
祖父を殺した義賢嫡子
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六角義定
義賢次男
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後藤賢豊
義治に討たれた祖父
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後藤高治
賢豊後嗣
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三好長慶
六角氏のライバル
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松永久秀
長慶謀臣から信長に帰順
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足利義輝
三好衆に討たれた将軍
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足利義昭
信長が担いだ将軍
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浅井長政
六角氏から独立した信長妹婿
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浅井久政
長政の父
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磯野員昌
織田に寝返った浅井家臣
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朝倉義景
信長が滅ぼした越前国主
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神戸具盛
定秀娘婿・信長党の伊勢国人
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関盛信
定秀娘婿・信長党の伊勢国人
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関一政
盛信嫡子の妹婿
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木造具正
討平した信雄党伊勢国人
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北畠具教
滅ぼした伊勢国司
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織田信長
主君で岳父
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織田信忠
本能寺の変で斃れた信長嫡子
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織田秀信(三法師)
秀吉が擁立した信長嫡孫
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織田信雄
秀吉の庇護で生き永らえた信長次男
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織田信孝
秀吉に滅ぼされた信長三男
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羽柴秀勝
秀吉養子の信長四男
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豊臣秀吉
良き主君
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豊臣秀長
優秀な秀吉弟
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豊臣秀次
秀次事件で滅ぼされた秀吉甥の後継関白
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豊臣秀頼
秀吉待望の男児
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茶々(淀殿)
秀頼を産んだ側室
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ねね(北政所)
秀吉妻
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浅野長政
奥州仕置奉行
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石田三成
同郷の五奉行・死後蒲生家を掻き回す
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蜂須賀小六
秀吉古参
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竹中半兵衛
秀吉軍師
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黒田官兵衛
秀吉軍師
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加藤清正
秀吉子飼い
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福島正則
秀吉子飼い
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前田利家
秀吉親友
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前田利長
利家嫡子の仲良し
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千利休
茶道の師匠
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高山右近
利休七哲仲間でキリシタンの先導者
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細川忠興
利休七哲仲間
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細川藤孝
忠興父・文芸の先達
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古田織部
利休七哲仲間
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徳川家康
抑え役を任された秀吉のライバル
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徳川秀忠
家康後嗣・利常舅
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明智光秀
義父の敵
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柴田勝家
秀吉に滅ぼされた元上司
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佐々成政
馬印を継いだ反秀吉武将
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滝川一益
伊勢攻略の敵
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丹羽長秀
秀吉についた重鎮
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池田恒興
秀吉についた重鎮
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池田輝政
恒興後嗣
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堀秀政
秀吉についた重鎮
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稲葉一鉄
軍事の先生
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大友宗麟
島津攻めの名目
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大友義統
宗麟の愚息
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島津義久
秀吉に降伏した島津氏当主
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島津義弘
秀吉が懐柔した島津氏新当主
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島津家久
島津兄弟の猛将
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秋月種実
出世の踏み台
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北条氏康
関東の雄
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北条氏政
秀吉に滅ぼされた氏康嫡子
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北条氏直
氏政嫡子
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佐竹義重
常陸の雄
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佐竹義宣
義重嫡子
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最上義光
秀吉派奥州大名
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相馬義胤
秀吉派奥州大名
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秋田実季
秀吉派奥州大名
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津軽為信
秀吉派奥州大名
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南部信直
秀吉派奥州大名
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戸沢盛安
秀吉派奥州大名
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伊達政宗
宿敵
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片倉景綱
政宗謀臣
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伊達成実
政宗重臣
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葛西晴信
政宗派奥州大名
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大崎義隆
政宗派奥州大名
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九戸政実
出世の踏み台
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上杉謙信
信長の強敵
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上杉景勝
死後会津に入った謙信後嗣
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直江兼続
景勝愛
蒲生氏郷と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 60点
蒲生氏郷は、近江日野城主の嫡子で、六角氏滅亡に伴い織田信長に仕えて娘婿となり本能寺事変後は豊臣秀吉に臣従、武功を重ねて会津92万石に抜擢され伊達政宗の妨害を排して奥州仕置を完遂、徳川家康の抑え役を期待され本人は天下も夢見たが惜しくも40歳で病没した文武両道の大器である。「銀鯰尾兜」を着けて常に兵卒の先頭に立ち、松阪・会津に商業都市を築いた経済通、家臣には軍規厳正ながら気前良く、利休七哲筆頭の一流文化人、父祖譲りの義理堅さも備えた万能の武将であり、存命ならポスト秀吉政局を左右したに違いない。1568年織田信長の上洛軍を扼した六角義賢が滅ぼされ(観音寺城の戦い)、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は13歳の嫡子氏郷を人質に出して降伏した。翌年の伊勢侵攻で初陣した氏郷が介添役無しで首級を挙げる活躍を示すと、信長は烏帽子親となって氏郷を元服させ娘の冬姫を妻に与えて日野城への帰還を許した。蒲生氏郷は、姉川、長島、長篠、有岡城、伊賀攻めと順調に戦歴を積んで織田一門のホープとなったが、1582年本能寺の変が勃発、安土城から日野城へ信長の妻妾を護送して明智光秀と対峙し、山崎合戦で仇討を果した豊臣秀吉に帰服した。賤ヶ岳合戦では羽柴秀長旗下で伊勢攻めの先鋒を務め、木造具正ら織田信雄方伊勢国人を掃討、小牧合戦では秀吉退却の殿を務め、1584年伊勢松ヶ崎12万石へ加転封され松阪城に移った。その後も蒲生氏郷は秀吉に従って各地を転戦、九州征伐の岩石城攻略で武名を轟かせ、1590年小田原征伐後の奥州仕置で会津42万石に躍進、天下への夢絶たれたと嘆きつつも、間もなく大崎・葛西一揆が起ると伊達政宗の妨害を排して木村吉清・清久父子を救出し、九戸政実の乱も忽ち討平して92万石に大加増された。朝鮮出兵が始まると秀吉の供をして肥前名護屋に入ったが病に倒れ、「限りあれば 吹かねど花は 散るものを こころ短き 春の山風」の見事な辞世を遺して陣没した。嫡子の蒲生秀行は、一旦会津領の相続を許されるも力量不足で上杉景勝と交代、関ヶ原合戦後に会津藩主に復帰したが、重臣の抗争が絶えず、次男の代で蒲生家は無嗣断絶となった。