僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照竹中 半兵衛
1544年 〜 1579年
60点※
竹中半兵衛の寸評
竹中半兵衛の史実
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1544年
美濃池田郡大御堂の豪族竹中重元の嫡子に竹中半兵衛重治が出生
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1544年
土岐政頼と土岐頼芸が打倒斎藤道三で和解・連携し越前朝倉孝景・尾張織田信秀の加勢を得て南北から美濃国に侵攻、斎藤道三は防衛に成功し政頼を革手城に・頼芸を揖斐北方城に迎え入れる条件で停戦合意
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1545年
[河東一乱]駿河・遠江守護今川義元が関東管領山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興後嗣)と連携し富士川を越えて東駿河へ侵攻、北条綱成の武蔵河越城も攻囲され北条氏康は挟撃の危地に陥るが、武田晴信(信玄)の斡旋で河東地域割譲を条件に今川と和睦し河越城救援に向かう
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1546年
[河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(氏康の妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され氏康が立てた傀儡の次男義氏(氏康娘婿)に古河公方職を奪われ、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙
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1546年
河越夜戦で関東管領山内上杉憲政に従った上野箕輪城主長野業正が北条氏康に敗れ嫡子吉業を喪うが「箕輪衆」を結束させ西上野の支配圏を堅持(上杉家臣の大胡氏・上泉伊勢守信綱らも長野氏に臣従)、業正は憲政を保護した越後の長尾景虎(上杉謙信)に臣従し北条氏康・武田晴信(信玄)と対峙
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1546年
[舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)
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1547年
三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)
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1547年
[加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡
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1548年
連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成
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1548年
[第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる
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1548年
[天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭
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1549年
斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる
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1549年
[キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)
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1549年
今川義元と織田信秀の合戦で松平家・岡崎衆は今川方先鋒として三河安祥城を攻略し城主の織田信広(信長の庶兄)を確保(本多忠勝の父本多忠高が戦死)、太原雪斎の献策により竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が成立・竹千代は駿府に移され当主を人質にとられた松平家は今川の属国となり家臣は虐待され合戦ごとに最前線の危地に送られる
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1549年
[江口の戦い~細川政権崩壊と三好政権発足]三好長慶が細川氏綱・遊佐長教と提携し一門のライバルで細川晴元側近の三好政長を襲撃し政長以下800人を討取る大勝、晴元と将軍足利義輝は六角定頼を頼って近江坂本へ逃亡、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立して室町幕府の実権を掌握するが、以後9年も晴元・義輝との抗争は継続、三好家家宰の松永久秀は京都所司代の重職を与えられ40歳で歴史舞台に登場(摂津滝山城主・堺代官も兼務して富を築き三好家中第一の勢力家へ台頭)
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1550年
[二階崩れの変]豊後・肥後・筑後守護の大友義鑑が長子義鎮の廃嫡を企て反対派の重臣を誅殺するが反撃に遭って擁立を企てた三男到明と共に討取られ(義鎮の陰謀疑惑が濃厚)、大友義鎮(宗麟)が戸次鑑連(立花道雪)の後見を得て家督相続、義鑑に加担した入田親誠は岳父の阿蘇惟豊を頼って肥後に逃れるが鑑連に攻められて自害に追込まれる
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1550年
ポルトガル商船が肥前平戸へ来航し南蛮貿易がスタート、平戸領主松浦隆信と肥前の領袖有馬晴純(大村純忠の実父で有馬晴信の祖父)は貿易の利で勢力を伸ばすがキリスト教は禁断
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1550年
毛利元就が大内義隆の協力を得て盲人の小早川又鶴丸(戦死した正平の嫡子)を出家に追込み田坂全慶ら反対派を大粛清して婿養子の三男小早川隆景が家督を承継(高山城主に納まった隆景は沼田川対岸に新高山城を築き転居)、竹原・沼田の両小早川家を乗取り安芸・備後沿岸部の支配を確立した元就は大内家からの独立を果たす
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1550年
筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)
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1551年
一代で尾張国の旗頭に成り上がった織田信秀が死去、うつけの悪評が高い嫡子織田信長が家督相続、主筋の清洲城主織田信友が反逆し柴田勝家・林秀貞ら宿老も織田信行(信長の同母弟)擁立を企て尾張は内戦状態となる
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1551年
信濃中部まで制圧した武田晴信(信玄)が北信濃に再侵攻、大苦戦に陥るも真田幸隆が謀略で戸石城を攻略、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)に亡命、武田氏は甲斐・信濃二国を制圧
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1551年
[大寧寺の変]周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前守護の大内義隆が権臣(元寵童)陶隆房(晴賢)の謀反により自害(嫡子義尊も討たれ戦国大名大内氏は事実上滅亡)、陶は大友義長(宗麟の弟で大内義隆の甥)を義隆の養子に迎えて名目上の当主に担ぎ大内家を簒奪、毛利元就は陶に属して安芸・備後を転戦、陶と同盟した大友義鎮(宗麟)は貿易都市博多を確保し戸次鑑連(立花道雪)が土豪を切従えて大内領の筑前・豊前の実権を掌握し龍造寺隆信ら肥前の大内勢力も一掃
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1551年
大友義鎮(宗麟)がフランシスコ=ザビエルを豊後府内に招聘、ザビエルは数千の信者を獲得し2か月滞在後にインドへ去るが(義鎮自身のキリスト教入信は30年後)、キリスト教は大友領内で繁栄し南蛮船・中国船の来航が数倍となって府内は殷賑を極め大友氏は貿易の利を占める
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1552年
南近江守護六角定頼が死去(子の義賢が後継)し庇護者を失った細川晴元派は弱体化、近江朽木に籠る将軍足利義輝は三好長慶に帰順し京都へ帰還するが翌年晴元と共に反乱を起し再び近江朽木へ逃亡
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1552年
北条氏康に追い詰められた関東管領上杉憲政が上野平井城を棄て長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に亡命、箕輪城主長野業正は「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止め、業正の援軍要請に応じた景虎は関東に派兵して平井城を奪還するが北条氏を敵に回したうえ北信濃・上野の両戦線で武田晴信(信玄)と対峙する苦境に陥る
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1552年
[萱津の戦い]織田信長の家督相続の混乱に乗じて尾張土豪が蜂起、織田信友の下で清洲織田家の実権を握る坂井大膳は信長方の松葉城を攻略するが、反撃に出た織田信長・信光に大敗し清洲城へ撤退~柴田勝家は敵方の家老を討取り、前田利家は首級を挙げて初陣を飾る
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1553年
織田信長の傅役平手政秀が諌死、斎藤道三と娘婿の織田信長が尾張・美濃国境の富田正徳寺で会見・「うつけ者」の悪評が高い信長の異能を感じ取った道三は子孫の臣従を予言(子孫は信長の馬の轡をとる)
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1553年
[第1次川中島の戦い]長尾景虎(上杉謙信)が村上義清・小笠原長時・高梨政頼らの領地返還を求め北信濃に進軍、武田晴信(信玄)軍と対峙し戦闘5回・11年に渡る川中島の戦いが勃発
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1554年
[甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)]武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が相互に婚姻を結び同盟、三強連携体制で武田は信濃・北条は関東・今川は尾張の攻略に専念
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1554年
斎藤道三が建前上嫡子義龍に家督を譲り隠居するが、義龍廃嫡と次男竜重擁立を企てる
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1555年
織田信長に内通した尾張守護斯波義統を清洲城主織田信友が殺害、嫡子斯波義銀を保護した信長は叔父の守山城主織田信光と協力して主筋の信友を討ち(織田大和守家滅亡)清洲城と守護所を奪取
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1555年
第2次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1555年
朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる
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1555年
[厳島の戦い(日本三大奇襲)]乾坤一擲の劣勢挽回を図る毛利元就が反間の計で大内軍を狭い厳島に誘い込み、小早川隆景の調略で村上武吉・村上通康の村上水軍を味方に付け海上封鎖したうえで闇夜に渡海上陸し山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、一気に視界が開けた元就は直ちに大内家乗取りに奔走
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1555年
能島村上水軍の村上武吉・来島村上水軍の村上通康が小早川隆景からの「1日だけの味方」要請に勝利を予見し毛利元就の厳島合戦に参戦、村上水軍の手引きで闇夜に紛れて厳島へ渡り退路を封じた毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅、村上水軍は毛利による大内家乗取り(防長経略)に協力して勢力を伸ばし塩飽諸島や備後小早川氏の水軍衆と提携して瀬戸内海を掌握
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1555年
天文の乱を制し家督を継いだ伊達晴宗(政宗の祖父)が弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し男児を岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児を二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力回復に努め、後援する将軍足利義輝をしてより奥州探題に補される
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1555年
北条氏康が上野大胡城を攻略するが箕輪城主長野業正が奪回、主君の大胡氏と共に長野家臣団に編入された上泉伊勢守信綱(上泉城主)は武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦して武名を轟かせ同時に新陰流兵法も発展を遂げる
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1556年
[長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継(道三方の明智城主明智光安・光久兄弟は討死し逃亡した甥の明智光秀は諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官)、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず
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1557年
第3次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1557年
織田信長に帰順した柴田勝家が織田信行の再謀反を密告、信長は病と称して弟の信行を清洲城に誘い込み殺害、信行の遺児(津田信澄)は助命され勝家に託される
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1557年
武田晴信(信玄)が川中島の戦いで対峙する長尾景虎(上杉謙信)の後方撹乱を図り西上野侵攻を開始、長野業正は配下の「箕輪衆」と上野国人を糾合し抗戦・上野勢は足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍の業正は鮮やかな退却戦を演じて箕輪城に籠城し夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し景虎の来援を得て防衛に成功、信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆く
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1558年
[北白川の戦い]将軍足利義輝・細川晴元が挙兵し京都奪回を図るが、三好康長・三好実休・安宅冬康・十河一存ら阿波勢の来援を得た三好長慶が勝利、晴元派の庇護者六角義賢も和睦に動き義輝・晴元は降伏し5年ぶりに京都へ帰還、室町幕府を牛耳った三好政権は摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路を掌握し最後は河内・大和まで10カ国を勢力圏に収めて全盛期を迎える
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1558年
浦上政宗に与する赤松義祐が浦上宗景派の父赤松晴政から家督を奪い播磨置塩城から追放、晴政を庇護した龍野城主赤松政秀が第三勢力へ台頭し小寺政職など国人衆を巻き込んで備前・播磨情勢は混迷を深める
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1558年
竹中重元(半兵衛の父)が不破郡の豪族岩手弾正から所領と岩手城(菩提山城)を奪い、稲葉山城斎藤氏の被官となる
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1559年
[浮野の戦い]織田信長が犬山城主織田信清と同盟し織田一門の宗家で岩倉城主の織田信賢を撃破、守護斯波義銀も追放し尾張一国を平定~武功を挙げた前田利家は「槍の又左」(利家の字は又左衞門)の異名をとり母衣衆(信長親衛隊)に抜擢されて妻まつ(芳春院)を迎えるが、笄を盗んだ同朋衆(給仕役)拾阿弥(信長の異母弟説あり)を斬殺し信長の勘気を蒙って織田家を追放される
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1559年
和漢融合様式を確立して職業画家集団「狩野派」を興し分業制作体制により大徳寺大仙院方丈・妙心寺霊雲院・石山本願寺など多くの障壁画を描いた狩野元信が死去、孫の狩野永徳(三男松栄の嫡子)が武家好みの豪快な画風で織田信長・豊臣秀吉に寵遇され狩野派400年の繁栄をもたらす
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1560年
[桶狭間の戦い(日本三大奇襲)]松平元康(徳川家康)の三河を属国とし武田・今川との同盟で背後を固めた駿河・遠江守護今川義元(足利将軍の一族で百万石の太守)が4万の軍勢で尾張に侵攻、20万石・兵力3千人の織田信長は籠城策を捨てて奇襲を敢行し田楽狭間で休息中の今川義元を殺害(享年42)、織田信長は天下に志を抱き、無能な嫡子今川氏真が承継した駿河国は武田・徳川・北条の好餌となる
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1560年
桶狭間敗戦を受け松平元康(徳川家康)が尾張の前線から岡崎に帰還、岡崎城と三河領を常駐管理していた今川家臣が逃げ帰り祖父松平清康以来悲願の完全独立を達成、織田方諸城を攻め潰して三河国を制圧し尾張へ侵攻、今川家に打倒織田信長を促すも煮え切らない新当主今川氏真(義元の嫡子)に愛想を尽かし、義元の元を捨てて家康に改名
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1560年
[野良田の戦い]六角義賢に従属した弱腰の浅井久政に対し嫡子浅井長政と家臣団がクーデター、久政から家督を奪った長政(このとき賢政から改名)は六角氏と手切れして諸豪を調略、愛知郡肥田城主高野備前守の寝返りに激怒し攻め寄せた六角義賢軍を撃退し浅井氏は北近江の支配権を確立、敗れた六角氏は南近江支配も脅かされ衰亡へ向かう
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1560年
眼病で視力が低下し隠居した富田勢源(中条流当主は弟の富田景政・越前朝倉氏家臣)が神道流兵法者(梅津某)の挑戦を断り切れず斎藤義龍の招きに応じて美濃稲葉山城下で立合い、勢源は小太刀の名手だが40cm足らずの薪を手に「眠り猫」の態で対すると瞬時に相手の二の腕と頭を叩き割る神業で圧勝、「無刀」を追求する勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせ更に研鑽を積む
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1560年
竹中重元の死去に伴い17歳の嫡子竹中半兵衛重治が菩提山城主となり、美濃国主斎藤義龍の被官となる
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1561年
[小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る
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1561年
斎藤道三を殺害して美濃国を奪った斎藤義龍が病死(ハンセン病ともいわれる)、嫡子斎藤龍興が家督相続
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1561年
[森部の戦い]斎藤義龍の死に乗じた織田信長が美濃に侵攻、森部村の守将長井利房・日比野清実らを討取り斎藤龍興の稲葉山城へ進撃するが攻略できず撤退~謹慎中の前田利家は真先駆けて突入し首級二つを挙げる活躍、信長から3年越しの勘気を赦免され加増を受けて(合計450貫)下級将校に連なる
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1561年
織田信長家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の浅野長勝(姉の子浅野長政が家督相続)の養女で杉原定利(嫡子木下家定、その五男が小早川秀秋)の実娘ねね(北政所)と結婚(ねねの母方木下家への婿入り説が有力)
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1561年
[第4次川中島の戦い]啄木鳥戦法を見破った上杉謙信が敵本陣に斬り込み武田信玄に一太刀浴びせるが武田軍が防戦に成功、武田軍の被害も甚大で信玄の弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死
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1561年
武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率いて上野を攻めるが輝虎の来援で撤退、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る
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1561年
ポルトガル人殺傷事件が発生し肥前平戸への来航停止、肥前三城主大村純忠は自領の横瀬浦へポルトガル船を誘致し平戸領主松浦隆信から南蛮貿易の利を奪取、2年後に改宗し日本初のキリシタン大名となる
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1562年
[清洲同盟]三河岡崎城主の松平家康(徳川家康)が今川氏真を見限り織田信長の誘いに応じて攻守同盟締結、元康は三河の今川方諸城を攻め取り、東方の安全を確保した信長は清洲から小牧山に本城を移し美濃攻略に専念
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1562年
[久米田の戦い・教興寺の戦い]和泉岸和田城主十河一存(三好長慶の弟)の急死に乗じた畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢と連携し細川晴之(晴元の次男)を担いで挙兵、三好長慶は三好義興(嫡子)・安宅冬康(弟)・松永久秀の奮闘で挟撃の危機を凌ぐが(高政を再追放して河内を回復し六角と和睦して京都を奪回)、一存と共に兄長慶を支えた三好実休が敗死、両翼を喪って弱体化した三好政権は反三好勢・将軍足利義輝の反抗に手を焼き家中では松永久秀の勢力が伸張
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1563年
[観音寺騒動]六角義賢の嫡子義治が筆頭重臣後藤賢豊の権勢を恐れ暗殺、家臣団の離反により義賢・義治は近江観音寺城を追われるが、蒲生定秀・賢秀(賢豊の娘婿)父子の奔走で和睦し帰城(義治は廃嫡され次男義定が家督相続)、蒲生定秀は家老に出世するが名門六角家は風前の灯
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1564年
浦上政宗が弟の浦上宗景に降参、復権を期す政宗は黒田職隆に接近し黒田家の娘(官兵衛の養妹か)を嫡子浦上清宗の妻に迎えるが、室山城での婚礼当日に龍野城主赤松政秀(赤松晴政の庇護者)の夜襲を受け政宗・清宗父子が討死、翌年晴政が病没し政秀は赤松義祐(政宗と組んで晴政から家督を奪った晴政嫡子)と一時和解するも播磨制覇の野心は捨てず
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1564年
[第二次国府台合戦]北条氏康が江戸川を越えて里見義堯・義弘率いる上杉派房総連合軍を攻撃、緒戦は家臣の勇み足で落としたが北条綱成の奇襲反撃により敵将正木信茂を討取る快勝、上総国を制圧し里見氏を安房に追い詰めるが上杉輝虎(謙信)対策に手間取り戦線膠着
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1564年
[山王堂の戦い]北関東で上杉輝虎(謙信)方の佐竹義昭・宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹と北条氏康方の小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤の抗争が激化、上野平井で出馬要請を受けた輝虎は8千余騎を従え「神速」で常陸真壁郡山王堂に駆け付け小田勢を討滅(余りの速さに関東勢は遅参)、輝虎は征服した常陸小田城を義昭に預け武田信玄に対するため越後へ撤退、義昭は氏治を藤沢城に追込み継室の実家大掾氏も傘下に収めて常陸平定をほぼ達成
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1564年
[三河一向一揆]岡崎上宮寺での米穀徴発に端を発し一向一揆が発生、松平家康(徳川家康)の弾圧策が火に油を注ぎ旧三河守護の吉良氏ら土豪にくわえ松平家臣の多くが武装蜂起、窮地の家康は屈辱的条件で和睦するが約を違えて一向宗寺院を悉く破却(首謀者の一人本多正信は松永久秀に寄寓したのち加賀一向一揆に加わり、流浪の末に帰参を赦され家康の軍師となる)、反撃の好機を座視した今川氏真は逆に東三河の拠点吉田城を奪われ、松平家康が三河一国を制圧
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1564年
陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」三好長慶が死去(享年43)、三好長慶・三好実休・安宅冬康・十河一存の四兄弟を一挙に喪った三好政権は内部分裂で瓦解し京都・堺・奈良の三大都市を握る松永久秀が台頭、織田信長の畿内侵攻に遭って三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は掃討され、久秀と長慶の養嗣子三好義継は信長に降るが最後は謀反し滅ぼされる
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1564年
第5次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1564年
主君斎藤龍興と側近からの侮辱に怒った竹中半兵衛重治が手勢14人で稲葉山城を急襲し占領、舅の安藤守就も駆けつけて龍興は逃亡、織田信長から美濃半国を条件に城を明渡すよう誘われたが断って龍興に返還し、北近江に移って浅井長政の客将となるが1年で禄を辞して美濃岩手に戻り隠棲
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1565年
[永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周暠は殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展
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1565年
興福寺に幽閉された将軍足利義輝の弟一乗院覚慶(足利義昭)が三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は近江甲賀の和田惟政邸で足利将軍家の家督を宣言し南近江守護六角義賢が献上した野洲郡の矢島御所に移り還俗して足利義秋(義昭へ改名)を名乗り、関東管領上杉輝虎(謙信)・河内守護畠山高政・能登守護畠山義綱らに三好三人衆・松永久秀打倒を要請するが三好長逸に矢島御所を襲撃され六角義治(義賢の嫡子)に内通疑惑が生じたため若狭守護武田義統を頼り亡命、力不足の武田家を去り越前朝倉氏を頼るが朝倉義景は重い腰を上げず
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1566年
織田信長が美濃稲葉山城を攻撃(木下藤吉郎(豊臣秀吉)による墨俣一夜城伝説あり)、猛反撃に遭って力攻めを断念するが、稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全の美濃三人衆や竹中半兵衛重治を懐柔して斎藤龍興を孤立させ攻略に成功(近江に逃亡した斎藤龍興は、三好三人衆、最後は越前朝倉義景の客将となって抗戦を続けるが1573年に戦死)
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1566年
[箕輪城落城]局地戦では無敵ながら関東に安定基盤を築けない上杉輝虎(謙信)の権威が低下し守将の北条高広まで離反、最後の拠点上野箕輪城を武田信玄に落とされ長野業盛(業正の後嗣)は自刃し上野長野氏は滅亡、輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦するが挽回できず関東制覇を断念、代わりに北条氏康が関東諸豪を切崩し勢力を回復
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1566年
箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
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1566年
[第二次月山富田城の戦い]毛利元就・吉川元春が5年に及んだ月山富田城攻囲戦を征し尼子義久が降伏開城(尼子義久・倫久・秀久兄弟は助命され子孫は毛利家臣として存続、後に尼子再興軍を旗揚げする山中鹿介は上京へ逃れ諸国巡歴)、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇
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1566年
松平家康が改姓し徳川家康を名乗る(松平氏は三河賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、家祖徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河一国の太守に相応しい源姓・名字徳川に改めたと考えられる)
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1566年
島津貴久が隠居し嫡子島津義久が16代島津宗家を承継、義久・義弘・歳久・家久の島津4兄弟による九州統一への挑戦が始まる
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1567年
毛利元就に通謀した秋月種実(文種の次男)が筑前で挙兵し呼応した筑前宝満城・岩屋城主の高橋鑑種と筑後の筑紫惟門が大友宗麟に反旗を掲げ筑前の宗像氏貞・原田隆種と肥前の龍造寺隆信も呼応、征伐軍を率いる戸次鑑連(立花道雪)は戸次一族と譜代重臣の多くを喪う激戦の末に立花山城を攻略し(城主の立花鑑載は自害)筑前・筑後の反抗勢力を鎮圧
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1567年
織田信長が美濃国を制圧、中国周王朝の発祥地に因んで稲葉山城を岐阜城へと改名し本拠を移動、国境を接した武田信玄を贈物攻勢と婚姻政策で宥めつつ「天下布武」を掲げて京都を窺う
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1567年
丸目蔵人長恵が愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ世人に真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず、師の上泉伊勢守信綱は長恵に新陰流の印可を授与(「殺人刀」教授は認めるが「活人剣」は秘匿すべしとの制限付)、長恵は肥後人吉へ戻り相良晴広の命により薩摩大口城守将の東伊勢守の旗下に入る
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1567年
北近江小谷城主の浅井長政が越前朝倉氏に背かないことを条件に上洛を望む織田信長と同盟し南近江の六角義賢攻めを加速、信長の妹で「近国無双の美人」市は浅井長政に入輿し茶々(豊臣秀吉側室で嗣子秀頼の生母淀殿)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠正室)を出産する
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1567年
[三船山合戦]北条氏政(氏康嫡子)が安房に攻め入り里見義堯・義弘に決戦を挑むが水陸両戦でまさかの大敗、房総情勢は里見氏優位に転換(その後一時降伏(房相一和)するも反北条を貫く)
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1567年
駿河侵攻を企図する武田信玄が嫡子武田義信を今川氏の妻と離縁させ廃嫡のうえ幽閉し(2年後自害に追込む)傅役の飯富虎昌らも謀反の疑いで殺害、信玄の四男武田勝頼が信濃高遠城から甲府躑躅ヶ崎館に召還され跡継ぎ的立場となる
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1567年
[明禅寺合戦~備中兵乱]沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々に謀殺し身代を併せた宇喜多直家が主君浦上宗景を圧伏して備前の実権を掌握、父の三村家親(毛利元就被官の備中領袖)を直家に暗殺された嫡子の三村元親は大軍を率いて備前へ攻め込むが撃退され、直家は毛利・三村勢が九州遠征に出た隙を衝いて備中へ攻め返し松山城・猿掛城を奪取するも毛利軍来援で撤退
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1567年
武田信玄を恐れる織田信長が養女(姪)を世子武田勝頼に嫁がせ(遠山夫人)武田信勝が出生、上機嫌の信玄は信勝を跡継ぎに定め娘松姫と信長嫡子信忠の婚約を認める(後に武田と織田は手切れとなり婚姻は成立せず)
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1567年
小寺職隆が小寺家主席家老を辞して隠居し嫡子小寺孝高(黒田官兵衛)が家老となり姫路城代を承継、孝高は主君政職の姪(櫛橋伊定の娘)を妻に迎え翌年嫡子黒田長政が誕生
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1567年
[東大寺大仏殿の戦い]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に三好康長・安宅信康・篠原長房・池田勝正ら三好家重臣と大和の筒井順慶が加勢し将軍足利義栄からも討伐令を出された松永久秀が大和多聞山城に孤立(柳生家厳・宗厳父子は久秀方で参戦)、畠山高政・安見宗房・根来衆と同盟し挽回を図るも堺を落とされ逃亡するが、三好家当主義継の寝返りを誘って盛り返し三人衆が陣取る東大寺を夜襲で撃退(東大寺大仏殿は失火で全焼し大仏は首が焼落、奇しくも10年後の同日10月10日に松永久秀は自爆死)、順慶とゲリラ戦術に手を焼いた久秀は局面打開のため織田信長に名物茶器「九十九髪茄子」を献じて帰服、信長は久秀に大和一国・義継に河内半国の切取り次第を許す
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1568年
将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が阿波に居た足利義栄(11代将軍義澄の孫で13代義輝の従弟)を担ぎ出して14代室町将軍の宣下を受けるが、専横を強める松永久秀と三好一門衆の抗争が勃発し将軍義栄は入京できぬまま半年後に病死
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1568年
足利義昭(三好三人衆・松永久秀が弑殺した将軍足利義輝の弟)が上洛要請に応じない朝倉義景に失望し幕臣の細川藤孝・新参の明智光秀の手引きで越前を脱走し尾張の織田信長へ鞍替え、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀・三好義継は逸早く投降)、入洛して義昭を15代室町将軍に擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を剥奪し松永久秀が敷いたキリスト教宣教師追放令も撤廃
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1568年
[観音寺城の戦い]上洛に向かう織田信長が通路確保のため南近江の六角義賢に従軍を要請するが拒絶(領地明渡しや臣従の強要ではなかったが、義賢は近江で争う浅井長政と同盟した信長を警戒、将軍足利義栄を担ぐ三好三人衆に与して信長に抵抗)、支城の箕作城を一夜で落とされた義賢は観音寺城を放棄して逃亡し鎌倉幕府創立から続く佐々木氏嫡流の六角氏は滅亡、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は嫡子蒲生氏郷を人質に出して降伏、蒲生氏の義理堅さに感じた信長は氏郷を近侍させ厚遇する
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1568年
織田信長軍団の高級将校木下藤吉郎(豊臣秀吉)が六角義賢討伐・観音寺城の戦いで主戦場となった支城の箕作城攻めで活躍(信頼できる資料に初登場)、翌年京都警備役(師団長格)に大抜擢され1万石の所領を得る
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1568年
長宗我部元親が瓜生野城攻囲中に宿敵本山茂辰が死去し嫡子本山親茂を降伏させて土佐中部を平定、翌年の八流の戦いで安芸国虎を攻め滅ぼし土佐東部も制圧した元親は土佐統一を臨み毛利氏の伊予出兵に敗れ衰亡へ向かう伊予国司一条兼定を標的に据える
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1568年
[甲相同盟破綻と越相同盟]武田信玄が徳川家康と今川領の東西分割を約し駿河侵攻開始、難なく駿府城を落として今川氏真を遠江掛川城へ追い払うが、甲相同盟を解消した北条氏康の侵攻により甲府へ撤退、北条氏康は宿敵上杉輝虎(謙信)に上野国支配と関東管領職を認めて越相同盟を結び元盟友武田信玄を圧迫(今川と北条に塩の移出を止められ難渋する武田信玄に上杉謙信が越後の塩商人を派遣した「敵に塩を送る」逸話はこのときの出来事)
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1568年
[毛利氏の伊予出兵]大友宗麟と通じる大洲城主宇都宮豊綱・土佐中村城主一条兼定が湯築城主河野通宣を攻撃、河野重臣の村上通康(渦中に病死し嫡子の来島通総が家督と来島村上水軍を承継)から援軍要請を受けた毛利元就は小早川隆景・乃美宗勝を派遣し宇和島の西園寺公広と同盟して大洲城を攻略、元就は元寇の勇将河野通有以来伊予を支配した河野氏と村上通康ら水軍衆を支配下に置くも九州大友氏との二方面戦争を余儀なくされ敗戦で没落した一条家では被官の長宗我部元親が台頭する
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1569年
[本圀寺の変]織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が将軍足利義昭が仮寓する京都本圀寺を襲撃、引き返して反乱を一蹴した信長は豪壮な二条御所(烏丸中御門第)を造営して将軍の権威を示し衰微した皇室の経営再建にも尽力、「幕府再興」に有頂天の将軍義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが信長は逆に『殿中御掟』を突きつけて傀儡将軍の増長を掣肘、義昭から貿易都市堺支配のお墨付き得た信長は町衆を脅して自治権を剥奪し外国貿易と鉄砲・煙硝の供給ルートを掌握(信長は堺商人で侘茶名人の千利休を茶頭に召抱える)
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1569年
織田信長の滝川一益軍団が伊勢に侵攻、三男信孝を神戸氏・弟信包を長野氏の当主に据え、伊勢国司(飛騨姉小路・土佐一条と並ぶ三国司)北畠具教の大河内城を攻囲・恭順させて次男信雄を養嗣子に据え名門北畠家と伊勢国を奪取(北畠具教は塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪であったが、1576年三瀬の変で一族と共に殺戮された)~信長近侍の蒲生氏郷が初陣し介添役無しで首級を挙げる活躍、信長は自ら烏帽子親となって岐阜城で氏郷を元服させ、娘の冬姫を妻に与え近江日野城への帰還を許す
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1569年
[青山・土器山の戦い]播磨に野心を抱く備前国主浦上宗景が播磨守護赤松義祐に加担して赤松政秀領へ侵攻するが、政秀は足利義昭を介して織田信長の援軍を招来し宇喜多直家も離反の色を立てたため浦上勢は備前へ撤退、一転優位となった政秀は手薄な姫路城を攻めるが小寺孝高(黒田官兵衛)の伏兵戦術に敗れ撤退、翌月再攻するも播磨英賀城主三木通秋の加勢を得た官兵衛に本陣を奇襲されて潰走、機に乗じた浦上宗景に龍野城を攻められ降伏した政秀は間もなく毒殺され龍野赤松氏は衰亡(家督は嫡子広秀が相続)、浦上宗景に帰順した宇喜多直家は辛くも助命される
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1569年
[掛川城攻略]武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙
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1569年
戦国大名屈指の名門で駿河・遠江・三河を領有した今川氏が滅亡、今川氏真は流転の末に徳川幕府に庇護され77歳の長寿を全うし子孫は高家旗本として存続
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1569年
織田信長の木下藤吉郎(豊臣秀吉)軍団が但馬に侵攻、山名祐豊を降し生野銀山(秀吉の強力な経済基盤となる)などを制圧
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1569年
[三増峠の戦い]武田信玄が上杉輝虎(謙信)と和睦し安房里見・常陸佐竹と同盟したうえで駿河侵攻を阻む北条氏康の小田原城を攻囲、北条軍を相模国境三増峠で撃破し駿河一国の制圧に成功、常陸の北条方小田氏治が佐竹氏に大敗降伏し北条氏康の関東制覇の野望が費える
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1569年
尾張荒子城主の前田利久が後妻の産んだ前田慶次郎利益(胤は前夫の滝川儀太夫か)を後嗣とするが織田信長の命令で隠居させられ弟の前田利家が前田家と4千石の所領を承継
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1569年
筑前・筑後を制圧した戸次鑑連(立花道雪)が龍造寺隆信討伐のため肥前へ転戦すると、龍造寺と通謀する毛利元就が豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景が拠点の立花山城を攻略、鑑連は龍造寺と和睦して馳せ戻り最前線で奮戦するも戦線は膠着、大友宗麟が軍師吉岡長増の後方撹乱策を容れて山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)を誘発すると毛利軍は撤退、宗麟は戸次鑑連(立花道雪)・高橋鎮種(紹運)を守将に据え筑前・筑後支配を確立
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1569年
[尼子再興(第一回)]山中鹿介幸盛ら尼子残党が京都東福寺にいた尼子勝久(新宮党国久の孫)を還俗させて主君に担ぎ大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、隠岐から本土に渡って兵を募り、北九州攻めで手薄な毛利勢の虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻し月山富田城に迫るが、大友宗麟と和睦した毛利元就が次男吉川元春に大軍を預け派遣、間もなく元就が病没するが元春は弔い合戦と称して踏み留まり児玉就英の毛利水軍が制海権を奪い最後の拠点新山城も攻略、鹿介は捕捉されるが偽りの投降で助命され監視の目を逃れて伯耆尾高城から脱走
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1570年
織田信長が朝倉義景討伐で越前に攻め込むが浅井長政離反により撤退、殿軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)の決死の奮戦で挟撃の窮地を脱出(金ヶ崎の退き口)、逃避行に随従した松永久秀は近江朽木谷城主の朽木元綱の協力を取り付ける活躍
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1570年
出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)が権臣中野宗時・牧野久仲父子を追放し父伊達晴宗を隠居に追込んで家中を掌握、鬼庭左月斎・遠藤基信を側近に登用して外交活動を展開、蘆名氏との同盟を保ちつつ南奥羽諸豪の紛争を調停し織田信長・柴田勝家・北条氏政らと友好関係を構築
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1570年
六角義賢が柴田勝家・佐久間信盛が守る南近江の長光寺城を攻めるが敗退(瓶割り柴田)、近江源氏佐々木氏の名門六角家は没落
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1570年
[姉川の戦い]織田信長・徳川家康連合軍が近江姉川河原(長浜市)で浅井長政・朝倉義景連合軍と激突、浅井軍の猛攻で織田陣は13段のうち11段まで突破され信長の本陣も危うかったが朝倉軍を破った徳川勢の奮闘で辛勝(本多忠勝は単騎駆けで戦端を開き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍)、合戦後も戦力を残した浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、信長は比叡山焼き討ちや磯野員昌ら浅井・朝倉家臣の離間工作で応戦
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1570年
美濃岩手城主竹中半兵衛重治が舅の安藤守就の勧めで朋輩の牧村利貞・丸毛兼利と共に織田信長に帰服、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力に加えられた軍師半兵衛は旧知の堀家家老を口説いて長亭軒城を寝返らせ浅井長政が固めた美濃・近江の陸上封鎖を打破、姉川の戦いにも従軍し弟の竹中重矩が浅井家の豪傑遠藤直経を討取る活躍、合戦後最前線の近江横山城に留め置かれた藤吉郎は小谷城の浅井長政と対峙し半兵衛の軍略により均衡を保つ
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1570年
[石山合戦・信長包囲網(第一次)]織田信長の石山本願寺明け渡し要求を拒んだ顕如が挙兵し石山合戦が勃発(下間頼廉・鈴木重秀の指揮のもと11年も織田軍団の猛攻を凌ぎ切る)、呼応して起った伊勢一向一揆で信長の弟織田信興が戦死、浅井・朝倉・本願寺・延暦寺の攻囲に晒された織田信長は将軍足利義昭の仲介で正親町天皇の勅命を得て和睦に漕ぎ着け窮地を脱出、和睦を成功に導いた明智光秀(このときは義昭・信長への両属)は近江坂本城10万石を与えられ44歳で一城の主となり、春日井堤の合戦で単騎踏み留まり味方の潰走を食止めた前田利家は信長から「日本無双の槍」と激賞され1万石余の加増を受けて織田家大名衆に加わる
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1570年
本願寺顕如の要請を受けた雑賀衆の鈴木重意が根来衆と協力し鉄砲隊600余を率いて三好三人衆に加勢し織田信長軍団と交戦(佐々成政を負傷させる)、石山合戦が起ると鈴木重秀(重意の次男)が石山本願寺に入り下間頼廉と共に一向一揆軍団の軍事指揮を担う(大坂左右大将)
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1570年
[今山の戦い]毛利元就を撃退して豊前・筑前の支配を固めた大友宗麟が傘下で台頭する龍造寺隆信を討つため6万の大軍を率いて肥前へ侵攻、佐賀城に追詰められた隆信は鍋島直茂の提言を容れて敵本陣への夜襲を敢行、敵将大友親貞(宗麟の従弟)をはじめ2千人を討取る大戦果を挙げて宗麟と和睦、大友氏の干渉を脱した隆信は肥前諸豪を切り従え大友・島津に対抗する第三極へ躍進
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1570年
島津家久の軍勢が相良氏に奪われた薩摩大口城を攻囲、肥後人吉城主相良義陽は援軍を派遣するが丸目蔵人長恵(柳生宗厳と双璧を為す上泉信綱の高弟でタイ捨流兵法の創始者)の勇み足により大敗(義陽は激怒し長恵を逼塞に処す)、菱刈氏の降伏開城で大口城を奪回した島津義久は東郷氏・入来院氏も降伏させて薩摩統一を達成
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1571年
[越中大乱]上杉謙信が関東から越中に主戦場を移し椎名康胤を猛攻するが、本願寺顕如と結ぶ武田信玄に扇動された越中一向一揆の猛反撃に遭い富山城を巡り6年に及ぶ争乱に発展
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1571年
傀儡将軍足利義昭が恩人の織田信長を裏切り信長包囲網に加担し「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・延暦寺・六角義賢に内通し仇敵の松永久秀・三好三人衆へも決起を呼掛け上杉謙信・毛利輝元には上洛を要請、遠江・三河の徳川家康領に侵攻した武田信玄に期待を掛け使者を遣わして信長討伐を懇請
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1571年
一土豪の次男から旧主の大内氏・尼子氏を滅ぼして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を征服した毛利元就が吉田郡山城にて死去(享年72)、山中鹿介の尼子再興・大内輝弘の乱を鎮圧した吉川元春・小早川隆景(元就の次男・三男で「毛利両川」と称される)が家督の毛利輝元(元就の嫡孫)を担いで毛利家を宰領し迫り来る織田信長に対峙
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1571年
上泉伊勢守信綱が京都を退去し上野上泉へ帰国、柳生宗厳に一国一人の印可を授けて新陰流正統を託し併せて「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」を公案として課す
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1571年
[比叡山焼き討ち]織田信長が信長包囲網への反撃開始、平安時代から続く宗教畏怖観を破って延暦寺焼き討ちを敢行し数千の僧兵と居るはずのない女子供の悉くを誅殺
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1571年
松永久秀から大和筒井城を奪還した筒井順慶が明智光秀(妻の義兄)・佐久間信盛の斡旋により織田信長に臣従し久秀と小競り合いを繰返しつつ光秀の与力として信長の天下統一戦に従う、久秀方で活躍し柳生の庄(所領は2千石ほど)を保った柳生家厳は嫡子の柳生宗厳に家督を譲り隠遁
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1571年
関東の雄北条氏康が死去(享年57)、嫡子北条氏政は「上杉謙信との越相同盟を捨て、武田信玄と同盟し直せ」との遺言に従い甲相同盟を再締結し再び上杉謙信と敵対
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1571年
戸次鑑連(立花道雪)が大友宗麟から筑前守護職に補され立花山城主となり立花氏の名跡を承継、岩屋城・宝満城の高橋紹運や柑士岳城の臼杵鎮続らを統率して秋月種実・筑紫広門・龍造寺隆信・宗像氏貞・原田隆種・龍造寺隆信の猛攻を凌ぎ1578年の耳川敗戦まで大友領を死守する
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1571年
大村純忠がポルトガル船の寄港地を肥前横瀬浦から長崎へ移し南蛮貿易が活発化(長崎貿易)、肥前の領袖有馬義貞(純忠の実父)が家督と島原城を次男晴信に譲り隠居、有馬晴信は当初キリスト教を弾圧するが数年後改宗し純忠と共に熱心なキリシタン大名となる
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1572年
[一言坂の戦い]三方ヶ原の戦いの前哨戦、武田信玄に遠江二俣城を奪われた徳川家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛される(忠勝の通称は平八郎)
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1572年
[三方ヶ原の戦い]上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保し将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携した武田信玄が織田信長討伐軍を率いて京都へ進発、道中の遠江浜松北方で戦を仕掛けてきた徳川軍を一蹴するが追撃せず浜松城に逃れた徳川家康は九死に一生を得る(左翼を担った本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を撃退、殿軍の大役を果し家康を浜松城へ逃すが叔父本多忠真が討死)
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1572年
[木崎原の戦い(九州の桶狭間)]大隅の肝付氏が島津貴久の死に乗じて島津領へ侵攻、呼応した日向の伊東義祐は伊東祐安に精鋭3千を与え三ツ山城(小林城)から真幸院の加久藤城・飯野城を急襲するが、通謀した相良義陽の肥後勢は奇計に嵌って逃げ帰り、僧侶と農民を掻き集めて兵300で迎撃した島津義弘の猛勇と「釣り野伏せ」戦法の前に祐安以下800余名を討たれ壊滅、日向戦線は一気に逆転し過半の武将を喪った伊東氏は衰亡へ向かう(伊東崩れ)
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1573年
長大剣で富田勢源の相手を務め奇形剣士となった18歳の佐々木小次郎が新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流と家督を承継)に秘剣「燕返し」でまさかの勝利、師と門弟の恨みを買った小次郎は越前一条谷を出奔し1m近い愛刀備前長光(「物干し竿」と称される)を背に諸国を巡歴し次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せる
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1573年
武田信玄・将軍足利義昭と通謀した松永久秀が織田信長に叛逆、久秀は多聞山城・嫡子久通は信貴山城・三好義継は河内若江城に籠城するが信玄急死で信長包囲網が瓦解、義継を佐久間信盛に討取られ(若江城の戦い)孤立した久秀は信長に投降、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、信盛与力として石山合戦に従軍
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1573年
[室町幕府滅亡]武田信玄挙兵に奮起した将軍足利義昭が洛中で織田信長討伐軍を挙兵するが宇治槇島城を大軍に包囲され降伏、義昭を見限った明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣は信長に奔り、半年後に追放され室町幕府滅亡(羽柴秀吉の献言で助命されるが毛利領の備後鞆に亡命し反信長策動を続ける)
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1573年
三河野田城を落とし織田信長との決戦を目前に病に倒れた武田信玄が山県昌景に「明日は瀬田に旗を立てよ」と言い残して信濃下伊奈で陣没(享年53)し武田軍は継戦不能で撤退、甲斐・信濃・駿河3国と上野・遠江・三河に及ぶ大封を相続した武田勝頼(側室腹の四男)は信玄の遺命に従い上杉謙信と和親を講じるが信玄が望んだ保守路線を捨てて積極的な外征戦略を採り織田信長領の東美濃・徳川家康領の遠江へ侵攻、子飼いの長坂釣閑・跡部勝資を重用し次第に信玄遺臣との軋轢が深まる
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1573年
武田信玄の急死により信長包囲網(第二次)が瓦解、織田信長は越前一乗谷城の朝倉義景・北近江小谷城の浅井長政を攻め滅ぼし近江・越前を征服、長政の妻市(信長の妹)と茶々(後の豊臣秀吉側室の淀殿)・初(後の京極高次正室)・江(後の徳川秀忠正室)の三姉妹は現地指揮官の羽柴秀吉(豊臣秀吉)救出される
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1573年
[尼子再興(第二回)]伯耆尾高城を脱走した山中鹿介幸盛が諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成、海賊働きで因幡に割拠し、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り(この後も寝返りを繰返した豊国は家臣に追放される)、但馬の山名祐豊も毛利と和睦(芸但和睦)、鹿介は若桜鬼ヶ城に籠って吉川元春・小早川隆景の猛攻を凌ぐが挽回ならず撤退、尼子再興軍は織田信長に臣従し明智光秀軍に加わる
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1573年
織田信長の家臣木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の長臣柴田勝家と丹羽長秀の字をもらい羽柴秀吉へ改姓、浅井長政討滅の大功により浅井家遺領全部20数万石を与えられ近江長浜城(今浜・小谷城から改名)に拠って織田家中屈指の将領となる
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1573年
備前の実力者浦上宗景が毛利・尼子氏勢力に対抗するため織田信長に帰順し主家赤松氏の頭越しに備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められるが、国人勢力の反発が広がるなか家臣宇喜多直家は簒奪の隙を窺う
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1573年
島津義久が禰寝氏・肝付氏・伊地知氏らを帰順させ大隅国を平定
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1574年
[天正最上の乱]出羽山形城主最上義光に反発する天童頼貞ら「最上八楯」が隠居の最上義守を担いで蜂起、白鳥長久・細川直元・大宝寺義氏・上山満兼ら国人衆と米沢城主伊達輝宗(義守の娘婿)が同調し寒河江兼広も降伏、四面楚歌の義光は必死の防戦で和睦に漕ぎ着け伊達氏からの完全独立を果す
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1574年
武田勝頼が織田信長領の東美濃へ侵攻し明知城をはじめ支城18城を攻略、そのまま徳川家康領の東遠江に入り長篠近くの大野田新城を落とし小笠原長忠を降して拠点の高天神城を奪取、家康の経済官僚大賀弥四郎に誘われて岡崎城へ向かうが陰謀が露見し弥四郎は処刑され、勝頼は振上げた拳を信玄没後家康に奪われた三河設楽郡長篠城へ向けるが奥平貞能・貞昌父子の抵抗頑強で長陣となる
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1574年
[長島一向一揆平定]織田信長の滝川一益軍団が長島一向一揆(盟主は本願寺顕如)を猛攻、信長の庶兄織田信広と弟の織田秀成も戦死する激戦となるが、九鬼嘉隆の織田水軍による海上封鎖・兵糧攻めで優位に立ち門徒2万人を全滅に追込む
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1574年
織田信長が上杉謙信との対決を回避すべく狩野永徳の傑作『洛中洛外図屏風』などの贈物攻勢で機嫌を取結ぶ(『洛中洛外図』は上杉家で受継がれ現在は米沢市上杉博物館に収蔵)
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1575年
[長篠の戦い]徳川家康領を狙う武田勝頼の軍勢1万3千が奥平貞昌が守る三河長篠城を攻囲、織田信長は武田軍を恐れつつも徳川家康の強迫により兵3万を率いて出陣し徳川軍8千を救援、信玄遺臣らは甲府撤退あるいは長篠城優先策を進言するが長坂釣閑・跡部勝資に煽られた勝頼は野戦を選択、酒井忠次の夜襲で鳶ヶ巣山を奪われ逆上した武田軍は設楽ヶ原に殺到するが馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など存命の武田二十四将13人のうち7名が戦死する大敗を喫す~佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊5奉行として奮戦した前田利家は佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられ尾張荒子城から越前府中(武生)城へ移る
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1575年
小寺孝高(黒田官兵衛)の策動により播磨御着城主小寺政職が三木城主別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)と共に織田信長に帰服申入れ、官兵衛は岐阜城で信長に謁見し名刀「圧切」を拝領、翌年明けに京都で政職・長治・広秀を信長に謁見させる
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1575年
[四万十川の戦い]長宗我部元親が重臣を篭絡して土佐国司一条兼定を追放し嫡子一条内政に娘を嫁がせて傀儡当主に擁立、豊後へ逃れた兼定は舅の大友宗麟の力添えで土佐中村御所に舞戻るが来襲した長宗我部軍に四万十川の守りを破られ潰走、土佐統一を果した元親は織田信長と同盟を結び一領具足を率いて強敵不在の四国平定に乗出す
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1575年
[越前一向一揆平定]富田長繁ら朝倉遺臣が土一揆と結託し織田信長が越前守護代に任じた前波吉継を殺害、当初支援した本願寺顕如は加賀一向一揆から下間頼照・七里頼周を送り込み富田らを攻め滅ぼして越前国を制圧するが七里の暴政で民心が離反し信長が3万余の大軍を率いて来襲すると忽ち一揆勢は瓦解(下間頼廉は七里頼周に自重を促すが間に合わず)、柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据え前田利家・佐々成政・不破光治らを与力につけて織田家北陸軍団を編成し加賀一向一揆・越後の上杉謙信と対峙
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1575年
[備中兵乱~天神山城の戦い]宇喜多直家が浦上久松丸(政宗の孫)を担ぎ主君浦上宗景に反旗、直家の謀略で備前・備中・美作の浦上被官の離反が相次ぎ、備中を支配する毛利氏は小早川隆景が吉川元春の反対を押切って直家と同盟し織田信長へ寝返った備中松山城三村元親(直家は父家親の仇)を討滅、備前天神山城を攻囲された宗景は播磨へ逃亡し織田家荒木村重の支援を得てゲリラ戦を継続するが4年後に掃討され戦国大名浦上氏は滅亡(晩年は黒田長政の庇護下で余生をつなぐ)、梟雄宇喜多直家は備前一国を掌握し毛利氏に従って播磨へ侵攻
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1575年
織田信長が家督と美濃・尾張を嫡子織田信忠に譲る
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1575年
織田信長の明智光秀・細川藤孝軍団が丹波攻略に着手
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1576年
織田信長が近江安土城の築城を開始し障壁画の制作を狩野派の狩野永徳に委託、3年後の完成に伴い信長は岐阜城を嫡子織田信忠に譲り本拠を安土城に移す
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1576年
[第一次木津川口の戦い]毛利から石山本願寺への水上補給路遮断のため九鬼嘉隆の織田水軍が戦を仕掛けるが乃美宗勝率いる毛利・小早川・村上の水軍勢が撃退(能島・来島・因島の三島村上水軍は揃って従軍、村上武吉は嫡子の村上元吉に能島水軍を率いさせ自らは出陣せず)
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1576年
織田信長に京都から追放された前将軍足利義昭が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の護衛で三好義継の河内若江城に寄寓後毛利輝元に亡命し備後鞆に居住、義昭は将軍在任を主張し諸侯に「御内書」を送って打倒信長・室町幕府再興を呼掛ける
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1577年
[甲相同盟]長篠の戦いに敗れ織田信長・徳川家康に圧迫された武田勝頼が北条氏政の妹を継室に迎えて甲相同盟を強化し同盟した将軍足利義昭・本願寺顕如を通じて上杉謙信と和親を図る
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1577年
[紀州征伐]各地の一向一揆に手を焼き本拠地の石山本願寺を攻めあぐねた織田信長が根来衆と雑賀衆三組(中郷・南郷・宮郷)を帰服させ自ら大軍を率いて紀州を制圧、本願寺軍指揮官で雑賀衆首領の鈴木重秀(雑賀孫一)は不利を悟って進んで帰順し父の鈴木重意(十ヶ郷)も中野城を落とされ降伏するが、織田軍が引上げると抗戦派の土橋守重(雑賀荘)が盛返し重意も与して雑賀衆三組を追討し再び本願寺顕如と連携して信長に反旗を翻す
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1577年
[英賀合戦]一向衆門徒の播磨英賀城主三木通秋が石山合戦勃発に伴い織田家を離反して毛利氏と同盟、乃美宗勝が毛利水軍を率いて英賀に上陸し5千の兵で小寺政職領に侵攻、防衛軍5百を率いる小寺孝高(黒田官兵衛)は農民に軍旗を掲げさせる偽装援軍の奇計で撃退、愚鈍な小寺政職の嫡子氏職の身代わりに嫡子黒田長政を人質に送って信長に中国征伐を促す
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1577年
[越中大乱~七尾城の戦い~信長包囲網(第三次)]上杉謙信が逆臣椎名康胤と国人衆を討ち平らげて越中を制圧、そのまま温井景隆の要請で能登へ攻め込み七尾城を奪った織田方の長続連・綱連父子を討滅(傀儡守護の管領畠山氏は滅亡)、越後・越中・能登の三国を征した謙信は本願寺顕如・一向一揆と和睦し毛利輝元・波多野秀治・紀州雑賀衆らと連携して織田信長と対峙
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1577年
[手取川の戦い]長篠の戦いで武田軍に勝利し自信を得た織田信長が上杉謙信との決戦を決意、柴田勝家に3万余の大軍を授け能登七尾城救援に派遣するが加賀南部手取川で上杉謙信に迎撃され惨敗、主将の柴田勝家と対立し無断帰国した羽柴秀吉(豊臣秀吉)は毎日酒宴を開いて遊び惚けることで信長の疑惑と怒りをかわす
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1577年
上杉謙信の挙兵上洛を期待する松永久秀が織田軍団の北陸攻めに乗じて再び叛逆するが、謙信急死で上杉軍は撤兵し、織田信忠・細川藤孝・明智光秀・筒井順慶の軍勢に大和信貴山城を攻囲され、信長所望の名物茶器「平蜘蛛」を破壊して自害し己の首を火薬で爆破(享年68。10年前の東大寺大仏殿焼討ちと同じ10月10日の同時刻であったという)、嫡子松永久通と妾腹の二児も処刑されて松永氏は滅亡し大和の遺領は筒井順慶に与えられる
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1577年
織田信長の明智光秀・細川藤孝軍団が丹波亀山城を奪取、ここを前線拠点に丹波全域を平定、波多野秀治は帰順し信長は本領安堵を許す
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1577年
小寺政職家臣で姫路城代の小寺孝高(黒田官兵衛)の要請を受けた織田信長が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に軍団を預け中国毛利攻めに着手(官兵衛は姫路城を提供し嫡子長政を人質に送って小寺家との両属の形で信長に臣従、秀吉の与力に加えられ竹中半兵衛と並ぶ軍師となる)、秀吉軍団は播磨・美作・備前国境の要衝上月城を忽ち攻め落とすが、別所長治が離反し三木城に籠城すると東播磨諸豪の大半が毛利方へ寝返り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に宇喜多忠家(直家は仮病を使って従軍せず弟忠家を派遣)の軍勢3万が続々来襲
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1577年
[伊東崩れ]木崎原合戦の大勝で一転優位に立った島津義弘が日向国主伊東義祐を逆襲、高原城・三ツ山城(小林城)を落とされても栄華に耽る義祐は動かず諸豪・家臣は相次いで離反、飫肥城を攻略され北部土持氏との挟撃の危機に晒された義祐は一戦もせずに佐土原城から逃亡、命からがら豊後に辿り着き大友宗麟に島津征伐を哀願、日向を制圧した島津義久は薩摩・大隅・日向の三州統一を達成
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1578年
[御館の乱・甲相同盟決裂]軍神上杉謙信が織田信長討伐の大動員令を発した直後に後継を定めず急逝(享年49)、養子の上杉景勝(長尾政景の子で謙信の甥)・上杉景虎(北条氏政の弟)の家督争いが勃発し、氏政の出陣要請に応じた武田勝頼は信濃飯山で景勝軍を撃破するが寵臣長坂釣閑・跡部勝資の策動に乗り上杉家の臣従と東上野割譲・膨大な献上物・妹菊姫の入輿に釣られ景勝へ乗換え(甲越同盟)、景勝は景虎・道満丸父子と上杉憲政(山内上杉氏の家督と関東管領職を禅譲した謙信養父)を滅ぼし家督を継ぐが弱体化した上杉家は信長の侵攻に晒され防戦一方(18歳の腹心直江兼続は奏者番を務め忽ち頭角を現す)、激怒した氏政は甲相同盟を破棄して織田・徳川と同盟を結び武田領上野へ侵入、勝頼は挟撃の窮地に陥るも積極姿勢を崩さず諸戦線を転戦
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1578年
[尼子再興(第三回)~上月城の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)・小寺孝高(黒田官兵衛)の中国侵攻に従った山中鹿介幸盛の尼子再興軍は、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利方の吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、捕捉された鹿介は斬殺(享年32)、秀吉陣中にあって難を逃れた亀井茲矩は尼子再興軍を承継し徳川家康に転じて因幡鹿野藩初代藩主(次代に石見津和野藩へ加転封)となる
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1578年
[第2次木津川口の戦い]大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍が村上武吉率いる毛利・小早川・村上水軍を撃破、石山本願寺への補給路を絶たれた顕如は継戦が困難となる
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1578年
[月岡野の戦い]上杉謙信の急死に乗じた織田信長が上杉の本領越後と北陸遠征軍の分断を図り斎藤利治・佐々成政を派遣、守備の薄い飛騨口から越中中部に侵入した織田軍は月岡野で河田長親の上杉軍を撃破、以後越後は織田・上杉に両分され睨み合いが続く
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1578年
毛利に属しながら織田にも誼を通じ吉川春元・小早川隆景の暗殺も企てた備前国主宇喜多直家が小寺孝高(黒田官兵衛)の説得に応じて羽柴秀吉(豊臣秀吉)へ内通を申送り上京して織田信長に臣従(このとき直家は道案内役に堺商人小西隆佐の次男小西行長を召出す)
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1578年
織田信長配下の荒木村重謀反、明智光秀(嫡子荒木村次の岳父)の説得を拒絶して摂津有岡城で1年間籠城するが毛利の援軍は来ず側近の中川清秀と高山右近が寝返り、荒木村重は単身脱走、信長は残された荒木一族と重臣36人・女房衆122人のほか匿った高野山僧数百人を惨殺、主君小寺政職に欺かれ使者に入った黒田官兵衛は1年間有岡城の土牢に幽閉されるも半死半生ながら救出され生還(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、官兵衛反意を疑う信長が殺害を厳命した人質の嫡子黒田長政も竹中半兵衛重治に密かに匿われて無事
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1578年
[耳川の戦い]伊東義祐の哀願に応じた大友宗麟が立花道雪の制止を振り切って島津討伐を号令(宗麟は道雪を疎んじて従軍させず)、キリスト教国建設を掲げ寺社を破壊しつつ日向へ攻入るが、田原親賢率いる3万余の大軍は島津義久・家久の「釣り野伏せ」戦法の前に3千名を討取られる壊滅的敗北(日本初上陸の洋式大砲「国崩し」も島津軍に分捕られ、現在でも鹿児島市の尚古集成館に陳列されている)、島津氏は日向の支配を固めて全九州に威名を轟かせ、田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を喪った大友氏の威信は地に落ち筑前の秋月種実や肥前の龍造寺隆信らの反大友勢力が勢いづく
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1578年
龍造寺隆信が島原半島で抵抗を続けた大村純忠・有馬晴信(純忠の甥)を降して肥前統一を達成、家督を嫡子政家に譲るが実権は保持し、大友宗麟の耳川合戦大敗に乗じて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏に収め、九州は島津・大友・龍造寺の三国鼎立状態となる
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1578年
(詳細不明)自ら「体用の間」を体得した伊東一刀斎景久が師匠の戸田一刀斎(鐘捲自斎)に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「妙剣」「絶妙剣」「真剣」「金翅鳥王剣」「独妙剣」を授受、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達す(一刀流創始)
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1578年
丹波で土一揆が蜂起、織田信澄・滝川一益・丹羽長秀・細川藤孝の援軍を得た明智光秀はすぐに鎮圧するが、一揆扇動を疑う織田信長は波多野討伐を命令、織田軍は八上城を攻囲するが嶮城のため攻めあぐむ
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1579年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が織田信長の子秀勝を養子にもらい近江の領国経営を任せて忠誠を示す
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1579年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の与力で名軍師の竹中半兵衛重治が播磨三木城攻囲の陣中で病没(享年36)
竹中半兵衛の交遊録
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竹中重元
父
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竹中重矩
武勇の弟
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竹中重門
嫡子
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竹中重利
従弟で妹婿・豊後府内藩2万石の大名に出世
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安藤守就
岳父・信長に帰服した美濃三人衆
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斎藤道三
父の主君
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斎藤義龍
道三を殺した嫡子
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斎藤龍興
信長に滅ぼされた義龍嫡子の主君
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斎藤竜重
義龍に殺された道三の子
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斎藤竜定
義龍に殺された道三の子
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斎藤利治
信長に仕え越中侵攻に活躍した道三末子
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斎藤利三
道三娘婿で光秀重臣
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土岐頼芸
道三が追放した美濃守護
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土岐政頼
道三が追放した美濃守護
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稲葉一鉄
信長に帰服した美濃三人衆
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稲葉重通
一鉄嫡子
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牧村利貞
重通息・共に秀吉に出仕
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丸毛兼利
一鉄娘婿・共に秀吉に出仕
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氏家卜全
信長に帰服した美濃三人衆
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金森長近
織田家先輩の美濃国人
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織田信長
絶対君主
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織田信忠
信長嫡子
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織田信雄
信長次男
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織田信孝
信長三男
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羽柴秀勝
秀吉養子の信長四男
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豊臣秀吉
寄親
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豊臣秀長
優秀な秀吉弟
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ねね(北政所)
秀吉糟糠の妻
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木下家定
ねねの実兄
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小早川秀秋
家定の愚息
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浅野長政
長勝後嗣
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豊臣秀勝
秀吉甥で養子
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豊臣秀次
秀次事件で滅ぼされた秀吉甥の後継関白
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蜂須賀小六
秀吉古参
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前野長康
秀吉古参
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黒田官兵衛
秀吉軍師の後継者
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黒田長政
命を救った官兵衛嫡子
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加藤清正
秀吉子飼い
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福島正則
秀吉子飼い
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石田三成
秀吉子飼い
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大谷吉継
秀吉子飼い
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小西行長
秀吉子飼い
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千利休
秀吉茶頭
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柴田勝家
織田軍団長
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前田利家
勝家与力・秀吉親友
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佐々成政
勝家与力
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丹羽長秀
織田軍団長
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明智光秀
織田軍団長
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細川藤孝
光秀与力
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滝川一益
織田軍団長
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九鬼嘉隆
一益与力・織田水軍の将
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森蘭丸
信長の寵童
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池田恒興
信長の乳母の子
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堀秀政
信長重臣
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蒲生氏郷
信長娘婿
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徳川家康
信長舎弟
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足利義昭
恩知らず将軍
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山名祐豊
滅ぼした但馬守護
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浅井長政
1年客将として帰参・秀吉の踏み台
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浅井久政
長政の父
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磯野員昌
味方につけた浅井家臣
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朝倉義景
秀吉の踏み台
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本願寺顕如
信長の強敵
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武田信玄
信長の強敵
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武田勝頼
信長が滅ぼした信玄嫡子
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小寺政職
裏切った播磨国人
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別所長治
裏切った播磨国人
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尼子勝久
見殺しにした織田方武将
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山中鹿介幸盛
見殺しにした織田方武将
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宇喜多直家
懐柔した備前の梟雄
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宇喜多秀家
直家嫡子・秀吉養女婿
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上杉謙信
信長の強敵
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毛利元就
中国地方の覇者
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吉川元春
元就次男の強敵
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小早川隆景
元就三男の強敵
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安国寺恵瓊
毛利の謀僧
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毛利輝元
元就嫡孫
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長宗我部元親
四国の雄
基礎点 60点
竹中半兵衛重治は、僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師である。美濃岩手を所領する竹中重元の嫡子に生れ、父に従って道三亡き斎藤家の被官となったが、柔和な容貌から龍興主従の苛めに遭い、報復を決意した20歳の半兵衛は手勢14人で稲葉山城を急襲し占領してしまった。織田信長から美濃半国を条件に城の明渡しを誘われたが断って龍興に返還し、北近江の浅井長政に身を寄せた後、美濃岩手に戻り隠棲した。2年後の1566年、清洲同盟で東方を固めた織田信長が美濃に侵攻、竹中半兵衛は舅の安藤守就に従って信長に帰順し斎藤氏滅亡を傍観、1570年遁世欲を封印して豊臣秀吉の与力・軍師になると、長亭軒城を調略して美濃・近江の陸上封鎖を打破し、姉川合戦を戦った。徳川勢の奮闘で辛勝したものの信長包囲網が結成され、最前線の近江横山城に残された秀吉は苦境に置かれたが、軍師半兵衛の指揮で3年間浅井氏の反撃を凌ぎ、1573年武田信玄急死・信長包囲網瓦解と同時に一気に浅井・朝倉氏を討滅、殊勲者の秀吉は浅井遺領20数万石を与えられ長浜城に拠って織田家中屈指の将領に躍進した。1577年黒田官兵衛の要請を受けた織田信長が秀吉に軍団を預けて中国侵攻に着手すると、半兵衛・官兵衛「両兵衛」の軍略で秀吉軍団は播磨地方を席巻、別所長治の裏切りで山中鹿介の守る上月城を落とされ(上月城の戦い)、荒木村重謀反で使者に立った官兵衛が捕捉されたが、毛利方の備前国主宇喜多直家を寝返らせ、別所氏を三木城に追い詰めた。官兵衛反意を疑う信長は人質の嫡子黒田長政の殺害を厳命したが、竹中半兵衛は成敗覚悟で密かに長政を匿い、病身を押して東奔西走した後、三木城攻囲の陣中で力尽きた。中国大返しを差配して豊臣秀吉を天下人に押し上げた黒田官兵衛、関ヶ原合戦で小早川秀秋の寝返りを誘った黒田長政と比べると、裏方に徹した竹中半兵衛の業績は目立たず軍記者で和製張良に仕立てられたが、実像も誠実・智謀の名軍師であった。