剣術道場主から久坂玄瑞に啓発され「土佐勤皇党」を結成、吉田東洋暗殺で藩政を握り長州藩と連携して「破約攘夷」運動を牽引したが下克上を嫌う山内容堂に誅殺され土佐藩は中央政局から脱落
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照武市 半平太
1829年 〜 1865年
90点※
武市半平太の寸評
武市半平太の史実
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1829年
土佐藩の白札格郷士武市正恒の嫡子武市半平太が土佐長岡郡吹井村にて出生
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1841年
武市半平太が高知城下に出て一刀流の千頭伝四郎に入門
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1849年
武市半平太が父母の急死に伴い富子と結婚
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1850年
武市半平太が小野派一刀流の麻田直養に入門、忽ち上達し高知城下に剣名を馳せる
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
武市半平太が西国筋形勢視察の藩命を受けるが待遇上の不満により辞退
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1853年
土佐藩主山内容堂が吉田東洋を参政に抜擢し藩政改革を推進
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1854年
吉田東洋が松下嘉兵衛打擲事件を起し長浜に蟄居処分、密かに少林塾を開き後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎を教育
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1854年
武市半平太が高知城下新町に剣術道場を開く
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1854年
武市半平太が麻田直養より皆伝を授かる
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
安政の大地震、武市半平太は大津波で倒壊した自宅兼道場を新築
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1855年
武市半平太が槍術家で義叔父の島村寿之助と共同経営の道場を開業、中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕ら多くの門人が参集
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1855年
岩崎弥次郎リンチ事件により岩崎弥太郎が江戸から帰国、安芸郡奉行所を挑発し投獄される
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
白札格郷士の武市半平太が土佐藩の臨時御用に選ばれ江戸遊学
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1856年
武市半平太が桃井春蔵(鏡心明智流)の士学館に入門、すぐに皆伝を授かり塾頭に任じられる
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1857年
喧嘩両成敗で岩崎弥太郎が出獄、蟄居中に私塾を開き近藤長次郎・池内蔵太らを教育
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1857年
祖母が通風で倒れたため士学館塾頭の武市半平太が土佐へ戻り道場主に復帰、門人は100名を突破
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1858年
江戸で剣名を馳せた武市半平太を麻田直養が上士に推挙するが土佐藩は終生二人扶持でお茶を濁す
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1858年
吉田東洋が土佐藩主山内容堂に蟄居を解かれ江戸出府、参政に復帰し配下の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らを登用(新おこぜ組)
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
岩崎弥太郎が土佐藩に郷廻役で出仕し長崎出張へ出るが公金横領で辞職、井ノ口村で隠遁
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1859年
安政の大獄により一橋派諸侯処分、山内容堂は隠居し豊範が16代藩主となる
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
徳川斉昭が蟄居中に急死(享年61)、幕府は融和路線に転じ徳川慶喜・松平春嶽らを赦免
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1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860年
武市半平太が武術修行の名目で九州遊学を許され尊攘派志士を歴訪
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1861年
尊攘運動に目覚めた武市半平太が土佐藩庁に願出て江戸出向、薩長の志士と交流し久坂玄瑞に感化される
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1861年
武市半平太が土佐藩郷士を糾合し土佐勤皇党を結成、坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・岡田以蔵ら192人が加盟
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1861年
和宮降嫁の勅許、薩長土の尊攘派志士が三藩主上洛を約束
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1861年
武市半平太が土佐へ戻り破約攘夷への藩論転換運動
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1861年
長井雅楽の航海遠略策が藩論となり長州藩が公武周旋に乗出すが吉田松陰門下の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞らは猛反対
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1862年
武市半平太の使者として坂本龍馬が長州と土佐を往来
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1862年
坂下門外の変~水戸浪士が老中安藤信正を襲撃
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1862年
和宮降嫁~孝明天皇妹宮の和宮親子内親王と将軍徳川家茂の婚礼
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1862年
武市半平太の土佐勤皇党が佐幕派の執政吉田東洋を暗殺し藩政を掌握、土佐藩主山内容堂は怒りを堪え黙認
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1862年
平野国臣が『尊攘英断録』を薩摩藩に献じ武力討幕を提案、大久保利通は追払うが有馬新七ら精忠組急進派が賛同し上洛した平野は「島津久光の討幕挙兵近し!」と吹聴し尊攘派は狂奔
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1862年
平野国臣の扇動により土佐藩の吉村寅太郎・坂本龍馬らが脱藩
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1862年
長州藩が長井雅楽の「航海遠略策」を朝廷に建白するが老中安藤信正の失脚により公武周旋を断念、長井は失脚し木戸孝允・久坂玄瑞ら尊攘派が優勢となる
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1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
幕府により山内容堂の謹慎が解かれる
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1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らが「四奸二嬪」を弾劾し岩倉具視を辞官隠居へ追込む
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
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1862年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
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1862年
武市半平太の工作により土佐藩主山内豊範が京都へ立寄り国事周旋の勅命を受ける
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1862年
武市半平太が他藩応接役に任じられる
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1862年
岩崎弥太郎が下横目となり吉田東洋暗殺犯探索の任に就くが辞職、井ノ口村で帰農し富豪となる
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1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
久坂玄瑞が江戸入り、長土連携のため世子毛利定広と山内容堂の酒宴をアレンジ
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1862年
平井収二郎・中岡慎太郎土佐勤皇党の「五十人組」が東上
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士がイギリス公使館焼き討ち
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士が神奈川外人襲撃を企てるが土佐藩の横槍で中止
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1862年
土佐勤皇党の平井収二郎・間崎哲馬らが青蓮院宮から藩政改革を促す令旨を得る
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1862年
会津藩主松平容保が京都守護職として入洛
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1862年
武市半平太が京都へ戻り上士身分の留守居組に昇格
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1862年
坂本龍馬が松平春嶽の紹介で勝海舟に面会を許され門人となる
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1863年
京都守護職松平容保の配下に壬生浪士組(新撰組)結成
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1863年
坂本龍馬が勝海舟の口利で土佐藩より脱藩罪を赦され神戸海軍操練所の設立準備に奔走
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1863年
長州藩で久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作ら尊攘派が実権を掌握し公武合体派の長井雅楽が自害
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
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1863年
幕府が神戸海軍操練所の設立を許可、勝海舟は土佐浪士の受皿として坂本龍馬を塾頭に神戸海軍塾を設立
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1863年
青蓮院宮から令旨の一件を聞いた山内容堂が土佐へ戻り吉田東洋暗殺犯の捜索と土佐勤皇党の粛清を開始
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1863年
久坂玄瑞が長州に戻り入江九一・吉田稔麿・山縣有朋ら松下村塾生を糾合し光明寺党を結成
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1863年
京都で薩長和解工作を進める武市半平太が山内容堂に召還され土佐へ帰国
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1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
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1863年
長州藩の高杉晋作が奇兵隊を創設、一流蘭学者の大村益次郎が長州藩諸隊の洋式軍制改革・軍備増強を推進
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1863年
山内容堂が青蓮院宮令旨事件を起した平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太を切腹に処す
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1863年
尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺される
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1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
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1863年
福井藩の松平春嶽・横井小楠が挙藩上洛計画を企てるが中根雪江ら守旧派の反対で決行直前に中止
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1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
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1863年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
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1863年
山内容堂が武市半平太ら土佐勤皇党幹部を投獄
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1863年
中岡慎太郎が七卿落ちの情勢を探るため周防三田尻へ出向
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1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
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1863年
長州藩で俗論党が盛返すが高杉晋作が奇兵隊を小郡へ転陣し山口政庁を威嚇、高杉と久坂玄瑞が政務座役に就く(高杉は奇兵隊総管を退き河上弥市・滝弥太郎に託す)
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1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1863年
長州藩で世子毛利定広の上洛決定、真木和泉の扇動により出兵論が過熱
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1863年
土佐浪士の中岡慎太郎が上京し長州藩復権運動
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1864年
高杉晋作が暴発寸前の遊撃軍の制止に赴くが来島又兵衛に妨害され二度目の脱藩事件を起し上方へ出奔
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1864年
高杉晋作が来島又兵衛・久坂玄瑞らの激発を抑えるべく京都で長州藩復権運動、島津久光要撃を企てる
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1864年
長州藩が高杉晋作を召還し脱藩罪により野山獄へ投獄
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1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
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1864年
参預会議瓦解を受けて久坂玄瑞が長州藩庁に即時出兵を進言
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1864年
徳川慶喜が将軍後見職を辞して江戸幕府を離れ禁裏御守衛総督となり京都政局を牛耳る
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1864年
天狗党の乱~武田耕雲斎ら水戸尊攘派の暴発と瓦解
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1864年
強盗罪で逮捕され土佐藩に送還された岡田以蔵が拷問に怯え自白
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1864年
幕府が神戸海軍操練所を開設し勝海舟は軍艦奉行・2千石に昇進
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1864年
池田屋事件
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1864年
禁門の変、久坂玄瑞が京都鷹司邸にて自刃(享年25)
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる
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1864年
長州藩主毛利敬親から全権委任された高杉晋作が有利な条件で馬関戦争の講和を実現、高杉は政務座役に復帰するがすぐに辞任
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1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
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1864年
神戸海軍塾生の不祥事により勝海舟が江戸に召還され軍艦奉行罷免、坂本龍馬ら神戸海軍塾生を薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛に託す
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1864年
中岡慎太郎が長州藩諸隊(浪士隊)の忠勇隊総督となる
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1864年
長州藩で俗論党(佐幕恭順派)が主導権を握り正義派(尊攘派)を粛清、絶望した周布政之助が山口にて自殺(享年42)
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1864年
中岡慎太郎が五卿遷座の周旋工作、西郷隆盛ら薩摩藩士と連携
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1864年
高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)
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1864年
野根山屯集事件
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1864年
山内容堂が新おこぜ組を藩政に復帰させ後藤象二郎・板垣退助を大監察に任じ土佐勤皇党の尋問を強化(尊攘派の板垣は辞職し江戸へ遊学)
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1865年
高杉晋作率いる諸隊が大田・絵堂の戦いに勝利し正義派が長州藩の政権を奪回
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1865年
禁門の変で失踪した木戸孝允が長州藩に戻り藩政を掌握
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立
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1865年
長州系土佐浪士の中岡慎太郎・土方久元が上京して薩摩屋敷に滞在し薩長和解工作
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1865年
薩摩系土佐浪士の坂本龍馬が長州藩で薩長和解工作
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1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
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1884年
田中光顕・土方久元・佐々木高行らが武市半平太ら土佐勤皇党殉難者の偉業を伝えるため瑞山会を結成
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1891年
吉田松蔭・高杉晋作・久坂玄瑞・周布政之助・武市半平太・中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎・平野国臣・有馬新七・宮部鼎蔵ら明治維新の功労者に追贈正四位(有馬のみ従四位)、武市は高知市武市邸跡地の瑞山神社に祀られる
武市半平太の交遊録
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山内容堂
最悪の主君
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山内豊範
容堂養嗣子の土佐藩主
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千頭伝四郎
剣術の先生
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麻田直養
剣術の先生
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島村寿之助
道場を共同経営した妻の叔父
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桃井春蔵
士学館の師匠
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坂本龍馬
土佐勤皇党副首領
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大石弥太郎
土佐勤皇党員
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間崎哲馬
土佐勤皇党員
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平井収二郎
土佐勤皇党員
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中岡慎太郎
土佐勤皇党員
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吉村寅太郎
土佐勤皇党員
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岡田以蔵
土佐勤皇党員の人斬り
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那須信吾
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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大石団蔵
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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安岡嘉助
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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田中光顕
土佐勤皇党員
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土方久元
土佐勤皇党員
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佐々木高行
上士の同志
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谷干城
上士の同志
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山内民部
重臣の同志
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小南五郎右衛門
重臣の同志
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清岡道之助
野根山屯集事件を起した同志
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吉田東洋
暗殺した土佐藩執政
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後藤象二郎
吉田の甥で後継執政
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板垣退助
吉田の子分だが尊攘派
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福岡孝悌
吉田の子分
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岩崎弥太郎
後藤の子分
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毛利敬親
長州の「そうせい侯」
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毛利定広
敬親養嗣子の長州藩世子
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久坂玄瑞
長州の同志・武市盟友
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木戸孝允
長州の同志
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高杉晋作
長州の同志
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周布政之助
長州の同志
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大村益次郎
長州の同志
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井上馨
長州の同志
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伊藤博文
長州の同志
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長井雅楽
久坂の政敵
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三条実美
長州系公卿
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姉小路公知
長州系公卿
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岩倉具視
「四奸二嬪」の政敵
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青蓮院宮
軽口公家
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真木和泉
困った扇動家
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平野国臣
困った扇動家
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島津久光
薩摩藩国父・政敵
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西郷隆盛
薩摩の謀臣
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大久保利通
薩摩の謀臣
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小松帯刀
薩摩の謀臣
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有馬新七
薩摩の過激派
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田中新兵衛
西郷舎弟の人斬り・武市義兄弟
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桐野利秋
西郷舎弟の人斬り
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河上彦斎
熊本藩の人斬り
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佐久間象山
河上に斬殺された西洋兵学者
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徳川家茂
上洛させた将軍
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徳川慶喜
最後の将軍
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松平春嶽
慶喜の傅役
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松平容保
京都守護職
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松平定敬
容保実弟の京都所司代
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近藤勇
新撰組局長
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土方歳三
新撰組鬼の副長
武市半平太と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 100点
武市半平太は、大業を成す前に主君の山内容堂に殺されたが、僻遠の土佐藩を国事に目覚めさせた点は長州藩の吉田松蔭や薩摩藩の島津斉彬に等しく、土佐勤皇党の絶対的領袖として中央政局に乗出した点は薩摩藩の西郷隆盛と同じ役柄であり、武市無くして同志の坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・田中光顕・土方久元・佐々木高行らの活躍は無く、土佐藩が「薩長土肥」の末席を汚し山内容堂陣営の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・谷干城らが明治政府で出世することもなかっただろう。文武両道の達人で人格・威望に優れ同志はもちろん他藩士からも尊敬された武市半平太の存在は本人の没後も土佐人を陽のあたる場所へ導いた。
減点 -10点
武市半平太は、「人斬り」と恐れられた岡田以蔵や田中新兵衛らを操って京都で暗殺を繰返し天誅騒ぎを巻起した。土佐藩執政の吉田東洋の暗殺は大老井伊直弼暗殺事件(桜田門外の変)と同様に時代の要請でやむを得なかったといえようが、その他の暗殺はほとんど政治的効果のない無暗な殺人に過ぎなかった。天誅騒ぎで幕府陣営も先鋭化し会津藩や新撰組・見廻組が猛反撃を開始、坂本龍馬を含む多くの尊攘派志士が殺され池田屋事件も誘発した。また武市半平太の過激路線と暴走は山内容堂に粛清を決断させる要因となり、突然梯子を外された武市は投獄され罪状未確定ながら「不敬罪」で無念の切腹、武市と共に「挙藩勤皇」の夢は崩壊した。