武市半平太の「土佐勤皇党」から長州藩尊攘派に合流し浪士群を率いて高杉晋作の功山寺挙兵や薩長同盟に大活躍、薩土密約と陸援隊で武力討幕に備えたが戊辰戦争直前に暗殺された幕末浪士随一の殊勲者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照中岡 慎太郎
1838年 〜 1867年
90点※
中岡慎太郎の寸評
中岡慎太郎の史実
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1838年
土佐安芸郡北川郷の大庄屋中岡小伝次の嫡子に中岡慎太郎が出世
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1850年
武市半平太が小野派一刀流の麻田直養に入門、忽ち上達し高知城下に剣名を馳せる
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
武市半平太が西国筋形勢視察の藩命を受けるが待遇上の不満により辞退
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1853年
土佐藩主山内容堂が吉田東洋を参政に抜擢し藩政改革を推進
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1854年
吉田東洋が松下嘉兵衛打擲事件を起し長浜に蟄居処分、密かに少林塾を開き後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎を教育
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1854年
中岡慎太郎が高知へ出て間崎哲馬の私塾に入門(吉村寅太郎・岩崎弥太郎は同窓)
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1854年
武市半平太が高知城下新町に剣術道場を開く
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1854年
武市半平太が麻田直養より皆伝を授かる
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
安政の大地震、武市半平太は大津波で倒壊した自宅兼道場を新築
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1855年
武市半平太が槍術家で義叔父の島村寿之助と共同経営の道場を開業、中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕ら多くの門人が参集
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1855年
岩崎弥次郎リンチ事件により岩崎弥太郎が江戸から帰国、安芸郡奉行所を挑発し投獄される
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
白札格郷士の武市半平太が土佐藩の臨時御用に選ばれ江戸遊学
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1856年
武市半平太が桃井春蔵(鏡心明智流)の士学館に入門、すぐに皆伝を授かり塾頭に任じられる
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1857年
喧嘩両成敗で岩崎弥太郎が出獄、蟄居中に私塾を開き近藤長次郎・池内蔵太らを教育
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1857年
祖母が通風で倒れたため士学館塾頭の武市半平太が土佐へ戻り道場主に復帰、門人は100名を突破
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1858年
江戸で剣名を馳せた武市半平太を麻田直養が上士に推挙するが土佐藩は終生二人扶持でお茶を濁す
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1858年
吉田東洋が土佐藩主山内容堂に蟄居を解かれ江戸出府、参政に復帰し配下の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らを登用(新おこぜ組)
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
岩崎弥太郎が土佐藩に郷廻役で出仕し長崎出張へ出るが公金横領で辞職、井ノ口村で隠遁
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1859年
安政の大獄により一橋派諸侯処分、山内容堂は隠居し豊範が16代藩主となる
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860年
武市半平太が武術修行の名目で九州遊学を許され尊攘派志士を歴訪
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1861年
尊攘運動に目覚めた武市半平太が土佐藩庁に願出て江戸出向、薩長の志士と交流し久坂玄瑞に感化される
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1861年
武市半平太が土佐藩郷士を糾合し土佐勤皇党を結成、坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・岡田以蔵ら192人が加盟
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1861年
和宮降嫁の勅許、薩長土の尊攘派志士が三藩主上洛を約束
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1861年
武市半平太が土佐へ戻り破約攘夷への藩論転換運動
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1861年
長井雅楽の航海遠略策が藩論となり長州藩が公武周旋に乗出すが吉田松陰門下の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞らは猛反対
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1862年
武市半平太の使者として坂本龍馬が長州と土佐を往来
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1862年
坂下門外の変~水戸浪士が老中安藤信正を襲撃
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1862年
和宮降嫁~孝明天皇妹宮の和宮親子内親王と将軍徳川家茂の婚礼
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1862年
武市半平太の土佐勤皇党が佐幕派の執政吉田東洋を暗殺し藩政を掌握、土佐藩主山内容堂は怒りを堪え黙認
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1862年
平野国臣が『尊攘英断録』を薩摩藩に献じ武力討幕を提案、大久保利通は追払うが有馬新七ら精忠組急進派が賛同し上洛した平野は「島津久光の討幕挙兵近し!」と吹聴し尊攘派は狂奔
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1862年
平野国臣の扇動により土佐藩の吉村寅太郎・坂本龍馬らが脱藩
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1862年
長州藩が長井雅楽の「航海遠略策」を朝廷に建白するが老中安藤信正の失脚により公武周旋を断念、長井は失脚し木戸孝允・久坂玄瑞ら尊攘派が優勢となる
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1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
幕府により山内容堂の謹慎が解かれる
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1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らが「四奸二嬪」を弾劾し岩倉具視を辞官隠居へ追込む
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
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1862年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
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1862年
武市半平太の工作により土佐藩主山内豊範が京都へ立寄り国事周旋の勅命を受ける
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1862年
武市半平太が他藩応接役に任じられる
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1862年
岩崎弥太郎が下横目となり吉田東洋暗殺犯探索の任に就くが辞職、井ノ口村で帰農し富豪となる
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1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
久坂玄瑞が江戸入り、長土連携のため世子毛利定広と山内容堂の酒宴をアレンジ
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1862年
平井収二郎・中岡慎太郎土佐勤皇党の「五十人組」が東上
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士がイギリス公使館焼き討ち
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士が神奈川外人襲撃を企てるが土佐藩の横槍で中止
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1862年
土佐勤皇党の平井収二郎・間崎哲馬らが青蓮院宮から藩政改革を促す令旨を得る
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1862年
会津藩主松平容保が京都守護職として入洛
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1862年
武市半平太が京都へ戻り上士身分の留守居組に昇格
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1862年
坂本龍馬が松平春嶽の紹介で勝海舟に面会を許され門人となる
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1863年
京都守護職松平容保の配下に壬生浪士組(新撰組)結成
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1863年
坂本龍馬が勝海舟の口利で土佐藩より脱藩罪を赦され神戸海軍操練所の設立準備に奔走
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1863年
久坂玄瑞・中岡慎太郎・山縣半蔵が志士を歴訪し京都へ凱旋
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1863年
長州藩で久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作ら尊攘派が実権を掌握し公武合体派の長井雅楽が自害
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
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1863年
幕府が神戸海軍操練所の設立を許可、勝海舟は土佐浪士の受皿として坂本龍馬を塾頭に神戸海軍塾を設立
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1863年
青蓮院宮から令旨の一件を聞いた山内容堂が土佐へ戻り吉田東洋暗殺犯の捜索と土佐勤皇党の粛清を開始
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1863年
久坂玄瑞が長州に戻り入江九一・吉田稔麿・山縣有朋ら松下村塾生を糾合し光明寺党を結成
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1863年
京都で薩長和解工作を進める武市半平太が山内容堂に召還され土佐へ帰国
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1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
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1863年
長州藩の高杉晋作が奇兵隊を創設、一流蘭学者の大村益次郎が長州藩諸隊の洋式軍制改革・軍備増強を推進
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1863年
山内容堂が青蓮院宮令旨事件を起した平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太を切腹に処す
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1863年
尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺される
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1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
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1863年
福井藩の松平春嶽・横井小楠が挙藩上洛計画を企てるが中根雪江ら守旧派の反対で決行直前に中止
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1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
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1863年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
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1863年
山内容堂が武市半平太ら土佐勤皇党幹部を投獄
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1863年
中岡慎太郎が七卿落ちの情勢を探るため周防三田尻へ出向
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1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
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1863年
長州藩で俗論党が盛返すが高杉晋作が奇兵隊を小郡へ転陣し山口政庁を威嚇、高杉と久坂玄瑞が政務座役に就く(高杉は奇兵隊総管を退き河上弥市・滝弥太郎に託す)
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1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1863年
長州藩で世子毛利定広の上洛決定、真木和泉の扇動により出兵論が過熱
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1863年
土佐浪士の中岡慎太郎が上京し長州藩復権運動
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1863年
長州藩尊攘派が俗論党の坪井九右衛門を逮捕し野山獄で処刑
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1864年
高杉晋作が暴発寸前の遊撃軍の制止に赴くが来島又兵衛に妨害され二度目の脱藩事件を起し上方へ出奔
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1864年
高杉晋作が来島又兵衛・久坂玄瑞らの激発を抑えるべく京都で長州藩復権運動、島津久光要撃を企てる
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1864年
長州藩が高杉晋作を召還し脱藩罪により野山獄へ投獄
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1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
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1864年
参預会議瓦解を受けて久坂玄瑞が長州藩庁に即時出兵を進言
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1864年
徳川慶喜が将軍後見職を辞して江戸幕府を離れ禁裏御守衛総督となり京都政局を牛耳る
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1864年
天狗党の乱~武田耕雲斎ら水戸尊攘派の暴発と瓦解
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1864年
強盗罪で逮捕され土佐藩に送還された岡田以蔵が拷問に怯え自白
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1864年
幕府が神戸海軍操練所を開設し勝海舟は軍艦奉行・2千石に昇進
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1864年
幕府が神戸海軍操練所を開設し勝海舟は軍艦奉行・2千石に昇進
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1864年
池田屋事件
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1864年
長州藩世子毛利定広の上洛・出兵に最後まで反対した周布政之助が逼塞に処される
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1864年
来島又兵衛の遊撃軍300人が上方へ発進し久坂玄瑞・真木和泉が率いる諸隊が続く
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1864年
高杉晋作が出獄を許され自宅座敷牢へ移される
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1864年
禁門の変、久坂玄瑞が京都鷹司邸にて自刃(享年25)
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
遊撃隊で奮戦した中岡慎太郎が長州へ帰還
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1864年
馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる
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1864年
中岡慎太郎が京畿に潜入し情勢視察
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1864年
長州藩主毛利敬親から全権委任された高杉晋作が有利な条件で馬関戦争の講和を実現、高杉は政務座役に復帰するがすぐに辞任
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1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
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1864年
神戸海軍塾生の不祥事により勝海舟が江戸に召還され軍艦奉行罷免、坂本龍馬ら神戸海軍塾生を薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛に託す
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1864年
中岡慎太郎が長州藩諸隊(浪士隊)の忠勇隊総督となる
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1864年
長州藩で俗論党(佐幕恭順派)が主導権を握り正義派(尊攘派)を粛清、絶望した周布政之助が山口にて自殺(享年42)
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1864年
中岡慎太郎が五卿遷座の周旋工作、西郷隆盛ら薩摩藩士と連携
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1864年
俗論党政府が奇兵隊ら諸隊の解散を命令、諸隊は結束して従わず
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1864年
高杉晋作が萩を脱出し筑前へ亡命
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1864年
高杉晋作が長州へ舞戻り長府に駐屯する諸隊に決起を促す
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1864年
高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)
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1864年
野根山屯集事件
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1864年
山内容堂が新おこぜ組を藩政に復帰させ後藤象二郎・板垣退助を大監察に任じ土佐勤皇党の尋問を強化(尊攘派の板垣は辞職し江戸へ遊学)
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1865年
高杉晋作率いる諸隊が大田・絵堂の戦いに勝利し正義派が長州藩の政権を奪回
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1865年
高杉晋作が西欧渡航の許可を得て伊藤博文と共に長崎へ
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1865年
高杉晋作・伊藤博文が長崎でグラバーから第二次長州征討の動きを聞き長州へ帰還
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1865年
高杉晋作・伊藤博文・井上馨が西欧列強を抱込むため下関開港を策動するが攘夷派に狙われ高杉は四国へ・井上は豊後別府へ逃避
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1865年
禁門の変で失踪した木戸孝允が長州藩に戻り藩政を掌握
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1865年
木戸孝允が馬関開港を白紙撤回して長府藩を抑え高杉晋作・井上馨を長州へ呼戻す
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
高杉晋作が第二次長州征討に備えるべく戦時物資調達の責任者に就任、井上馨・伊藤博文を長崎へ派遣
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1865年
俗論党首領の椋梨藤太が野山獄で斬首される
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1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立
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1865年
長州系土佐浪士の中岡慎太郎・土方久元が上京して薩摩屋敷に滞在し薩長和解工作
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1865年
薩摩系土佐浪士の坂本龍馬が長州藩で薩長和解工作
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1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
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1865年
長州藩が亀山社中を介して大量の洋式兵器とユニオン号を購入
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1865年
西郷隆盛が下関での木戸孝允との会談をドタキャン、薩長和解工作のため黒田清隆を長州へ派遣
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1865年
薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らが上京し宮廷工作で幕府の長州再征を妨害
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1865年
中岡慎太郎が京都で西郷隆盛に薩長和解工作、田中顕助・那須盛馬・大橋慎三(元長州藩忠勇隊士)らと会盟
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1865年
中岡慎太郎が大宰府へ赴き三条実美から五卿応接掛に任じられる
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1865年
高杉晋作・井上馨が長州の藩論を薩長和解に纏め木戸孝允を京都へ送出す
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1866年
薩長同盟
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1866年
坂本龍馬が伏見寺田屋で幕吏に襲われ負傷、鹿児島へ逃れる
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1866年
上海渡航を志す高杉晋作が伊藤博文を伴い長崎へ出向、長州藩庁に無断で丙寅丸を購入
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1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
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1866年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
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1866年
坂本龍馬がユニオン号に乗り長州藩の小倉渡海作戦に参加
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1866年
高杉晋作が大島口奇襲で勝利
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1866年
大村益次郎が浜田城制圧
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1866年
高杉晋作が馬関口陸海軍参謀に任じられる
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1866年
高杉晋作の活躍で老中小笠原長行が守る小倉城が陥落し長州藩の勝利が決定的となる(高杉は肺結核が悪化し翌年病没)
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1866年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
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1866年
土佐藩執政の後藤象二郎が藩政改革と洋式軍備導入のため開成館を創設・岩崎弥太郎が実務を差配
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1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866年
孝明天皇崩御
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1867年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
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1867年
中岡慎太郎が幕府の動向視察のため上京、土佐藩に藩政改革案を示し薩摩藩の西郷隆盛を紹介
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1867年
坂本龍馬が長崎で後藤象二郎と会談、後藤は上海へ視察旅行
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1867年
高杉晋作が下関にて死去(享年27)、下関郊外吉田の清水山に埋葬される
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1867年
岩崎弥太郎が後藤象二郎の招聘により貨殖局長崎出張所に勤務、実質上の責任者となる
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1867年
坂本龍馬の亀山社中が薩摩藩から土佐藩へ転籍し土佐海援隊に改編
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1867年
土佐海援隊の「いろは丸」が紀州藩軍艦と衝突し沈没
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1867年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
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1867年
京都で島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の四候会議開催
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1867年
将軍徳川慶喜と四候の二条城会談が決裂、薩摩藩が武力討幕の方針を固める
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1867年
坂本龍馬が後藤象二郎に「夕顔丸」船上で船中八策を提案
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1867年
薩土密約
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1867年
薩土同盟
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1867年
イカロス号事件、坂本龍馬の土佐海援隊が疑われる
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1867年
中岡慎太郎が京都の土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を結成
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1867年
西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通の薩摩首脳が長州藩に立寄り山縣有朋・品川弥二郎らに薩長同盟を確認
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1867年
坂本龍馬が土佐に小銃1000挺を運び、上京
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1867年
土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静に大政奉還の建白書を提出
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1867年
西郷隆盛が不逞浪士を江戸へ遣わし幕府を挑発、謀略に掛った江戸市中取締の庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼打ち
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1867年
薩摩藩・西郷隆盛が土佐藩・後藤象二郎からの出兵延期要請を拒否
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
西郷隆盛と木戸孝允が山口で討幕挙兵を確認、西郷は薩摩へ
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1867年
薩摩藩主島津忠義が周防国三田尻で長州藩世子毛利広封と会見し討幕出兵を協約
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1867年
薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)
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1867年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
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1867年
坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が京都近江屋で見廻組に襲われ死去
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1867年
京都霊山護国神社に葬られる
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1867年
土佐海援隊の陸奥宗光らが天満屋事件を起す
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1871年
義甥の中岡照行が中岡慎太郎の家督を相続
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1891年
吉田松蔭・高杉晋作・久坂玄瑞・周布政之助・武市半平太・中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎・平野国臣・有馬新七・宮部鼎蔵ら明治維新の功労者に追贈正四位(有馬のみ従四位)、武市は高知市武市邸跡地の瑞山神社に祀られる
中岡慎太郎の交遊録
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山内容堂
見限った主君
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山内豊範
容堂養嗣子の土佐藩主
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間崎哲馬
学問の先生・土佐勤皇党同志
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岩崎弥太郎
間崎塾同門・東洋門人
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吉村寅太郎
間崎塾同門・土佐勤皇党の同志
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武市半平太
土佐勤皇党首領
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坂本龍馬
土佐勤皇党副首領・薩長同盟の同志
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大石弥太郎
土佐勤皇党員
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平井収二郎
土佐勤皇党員
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中岡慎太郎
土佐勤皇党員
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岡田以蔵
土佐勤皇党員の人斬り
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那須信吾
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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大石団蔵
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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安岡嘉助
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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土方久元
土佐勤皇党員・招賢閣同志
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田中光顕
土佐勤皇党員・陸援隊幹部
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那須盛馬
陸援隊員
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大橋慎三
陸援隊員
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香川敬三
陸援隊員
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山内民部
重臣の同志
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小南五郎右衛門
重臣の同志
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清岡道之助
野根山屯集事件を起した同志
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吉田東洋
武市が暗殺した土佐藩執政
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後藤象二郎
吉田の甥で後継執政
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板垣退助
討幕の後継者
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福岡孝悌
陸援隊取締役
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小笠原唯八
陸援隊取締役
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佐々木高行
陸援隊取締役
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谷干城
上士の同志
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陸奥宗光
龍馬舎弟
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毛利敬親
長州の「そうせい侯」
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毛利定広
敬親養嗣子の長州藩世子
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久坂玄瑞
長州の同志・武市盟友
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木戸孝允
長州の同志
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高杉晋作
長州の同志・巧山寺挙兵の盟主
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周布政之助
長州の同志
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大村益次郎
長州の同志
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井上馨
長州の同志・巧山寺挙兵の同志
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伊藤博文
長州の同志
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長井雅楽
久坂の政敵
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前原一誠
招賢閣の世話掛
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佐々木男也
招賢閣の世話掛
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河瀬真孝
遊撃隊の同志
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赤根武人
奇兵隊の裏切り者
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山縣有朋
巧山寺挙兵で日和見した奇兵隊首領
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真木和泉
招賢閣の親分
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宮部鼎蔵
招賢閣の同志
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長谷川鉄之助
忠勇隊の同志
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真木外記
忠勇隊の同志
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平野国臣
過激派同志
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三条実美
長州系公卿・主人
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姉小路公知
長州系公卿
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三条西季知
七卿
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四条隆謌
七卿
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東久世通禧
七卿
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壬生基修・
七卿
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錦小路頼徳
七卿
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澤宣嘉
七卿
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岩倉具視
懇意の薩摩系公卿
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青蓮院宮
軽口公家
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島津久光
高杉の指示で襲撃を試みた薩摩公
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島津忠義
薩摩藩主を継いだ久光長子
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西郷隆盛
薩摩の謀臣
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大久保利通
薩摩の謀臣
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小松帯刀
薩摩の謀臣
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吉井友実
薩摩藩の同志
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田中新兵衛
西郷舎弟の人斬り・武市義兄弟
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桐野利秋
西郷舎弟の人斬り
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有馬新七
薩摩の過激派
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河上彦斎
熊本藩の人斬り
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佐久間象山
河上に斬殺された西洋兵学者
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徳川家茂
上洛させた将軍
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徳川慶喜
最後の将軍
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松平春嶽
慶喜の傅役
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松平容保
京都守護職で坂本・中岡暗殺の命令者
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松平定敬
容保実弟の京都所司代
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近藤勇
新撰組局長
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土方歳三
新撰組鬼の副長
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勝海舟
薩長和解を勧めた幕臣・龍馬の師匠
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佐々木唯三郎
坂本・中岡暗殺を実行した見廻組幹部
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今井信郎
坂本・中岡暗殺を実行した見廻組士
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渡辺篤
坂本・中岡暗殺を実行した見廻組士
中岡慎太郎と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 90点
中岡慎太郎は、17歳で武市半平太の剣術道場に入門し土佐勤皇党へ加盟、若輩で庶民の出自(大庄屋の豪農だが)ながら頭角を現し、脱藩後は長州藩に参集した浪士団に加わり大物志士の真木和泉・宮部鼎蔵らと肩を並べた。八月十八日政変・七卿落ち後の長州藩で浪士団は隠然たる勢力を占め過激路線を牽引、中岡慎太郎は禁門の変や馬関戦争で実戦を闘い、第二次長州征討では三条実美ら五卿の座す大宰府を拠点に西郷従道や吉井友実と連絡し長州藩の苦戦に備え薩摩藩の援軍工作に任じた。配下の田中光顕は高杉晋作の「丙寅丸」に同乗して大島海戦を戦い小倉城攻撃でも武功を挙げている。中岡慎太郎の最大の功績は、高杉晋作の功山寺挙兵に率先加わったことだろう。後に解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦したが、当初決起に応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであった。藩政奪回の功労者となった中岡慎太郎は、木戸孝允・高杉晋作に薩長和解を説いて「薩賊会奸」を忘れさせ、土佐浪士という中立的立場を活かして西郷隆盛の懐に飛込み薩長同盟の周旋役を果した。薩長和解自体は時代の要請だが、この時機を逃すと第二次長州征討で長州藩が敗北し歴史が変わったかも知れない。その後の中岡慎太郎は、乗遅れた土佐藩を中央政局へ導いて薩長陣営(武力討幕勢力)への抱込みを図り、板垣退助を啓発して薩土密約を結ばせ、京都土佐藩邸に浪士を集め討幕戦に備えた(陸援隊)。なお、薩長同盟といえば坂本龍馬が有名だが、坂本はもともと勝海舟の子分で、神戸海軍操練所の閉鎖に伴い勝が薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀に坂本ら門人の庇護を頼んだのが事の起りで、亀山社中は長州藩への輸入武器供与のために薩摩藩が設けたダミー会社であった。自由闊達な坂本龍馬は土佐藩に金を出させて世界の海援隊を志したが、薩摩藩での重みは長州藩における中岡慎太郎とは全く異なった。