父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ大和柳生藩1万2500万石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖にして『兵法家伝書』で「活人剣」「治国・平天下」を説いた「日本兵法の総元締」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照柳生 宗矩(但馬守)
1571年 〜 1646年
80点※
柳生宗矩(但馬守)の寸評
柳生宗矩(但馬守)の史実
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1571年
大和柳生城主の柳生宗厳の五男に柳生宗矩が出生
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1571年
秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37度・真剣勝負19度に無敗で212人を斃し上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝えた塚原卜伝が故郷の常陸鹿島にて死去(享年82)、創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれる
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1571年
一土豪の次男から旧主の大内氏・尼子氏を滅ぼして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を征服した毛利元就が吉田郡山城にて死去(享年72)、山中鹿介の尼子再興・大内輝弘の乱を鎮圧した吉川元春・小早川隆景(元就の次男・三男で「毛利両川」と称される)が家督の毛利輝元(元就の嫡孫)を担いで毛利家を宰領し迫り来る織田信長に対峙
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1571年
[辰市城の戦い]松永久秀への抵抗を続ける筒井順慶・興福寺が十市遠勝の死に乗じて大和十市城を攻略し、前線に辰市城を築いて多聞山城を圧迫、織田信長に背いて近江戦線から大和に戻った松永久秀・久通は筒井討伐に乗り出すが有力家臣の多くを討取られる大敗、信長についた順慶に筒井城を落とされ孤立した久秀は信長包囲網に活路を託す
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1571年
上泉伊勢守信綱が京都を退去し上野上泉へ帰国、柳生宗厳に一国一人の印可を授けて新陰流正統を託し併せて「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」を公案として課す
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1571年
[比叡山焼き討ち]織田信長が信長包囲網への反撃開始、平安時代から続く宗教畏怖観を破って延暦寺焼き討ちを敢行し数千の僧兵と居るはずのない女子供の悉くを誅殺
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1571年
松永久秀から大和筒井城を奪還した筒井順慶が明智光秀(妻の義兄)・佐久間信盛の斡旋により織田信長に臣従し久秀と小競り合いを繰返しつつ光秀の与力として信長の天下統一戦に従う、久秀方で活躍し柳生の庄(所領は2千石ほど)を保った柳生家厳は嫡子の柳生宗厳に家督を譲り隠遁
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1571年
関東の雄北条氏康が死去(享年57)、嫡子北条氏政は「上杉謙信との越相同盟を捨て、武田信玄と同盟し直せ」との遺言に従い甲相同盟を再締結し再び上杉謙信と敵対
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1571年
戸次鑑連(立花道雪)が大友宗麟から筑前守護職に補され立花山城主となり立花氏の名跡を承継、岩屋城・宝満城の高橋紹運や柑士岳城の臼杵鎮続らを統率して秋月種実・筑紫広門・龍造寺隆信・宗像氏貞・原田隆種・龍造寺隆信の猛攻を凌ぎ1578年の耳川敗戦まで大友領を死守する
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1571年
大村純忠がポルトガル船の寄港地を肥前横瀬浦から長崎へ移し南蛮貿易が活発化(長崎貿易)、肥前の領袖有馬義貞(純忠の実父)が家督と島原城を次男晴信に譲り隠居、有馬晴信は当初キリスト教を弾圧するが数年後改宗し純忠と共に熱心なキリシタン大名となる
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1572年
[一言坂の戦い]三方ヶ原の戦いの前哨戦、武田信玄に遠江二俣城を奪われた徳川家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛される(忠勝の通称は平八郎)
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1572年
[三方ヶ原の戦い]上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保し将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携した武田信玄が織田信長討伐軍を率いて京都へ進発、道中の遠江浜松北方で戦を仕掛けてきた徳川軍を一蹴するが追撃せず浜松城に逃れた徳川家康は九死に一生を得る(左翼を担った本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を撃退、殿軍の大役を果し家康を浜松城へ逃すが叔父本多忠真が討死)
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1572年
[木崎原の戦い(九州の桶狭間)]大隅の肝付氏が島津貴久の死に乗じて島津領へ侵攻、呼応した日向の伊東義祐は伊東祐安に精鋭3千を与え三ツ山城(小林城)から真幸院の加久藤城・飯野城を急襲するが、通謀した相良義陽の肥後勢は奇計に嵌って逃げ帰り、僧侶と農民を掻き集めて兵300で迎撃した島津義弘の猛勇と「釣り野伏せ」戦法の前に祐安以下800余名を討たれ壊滅、日向戦線は一気に逆転し過半の武将を喪った伊東氏は衰亡へ向かう(伊東崩れ)
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1573年
長大剣で富田勢源の相手を務め奇形剣士となった18歳の佐々木小次郎が新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流と家督を承継)に秘剣「燕返し」でまさかの勝利、師と門弟の恨みを買った小次郎は越前一条谷を出奔し1m近い愛刀備前長光(「物干し竿」と称される)を背に諸国を巡歴し次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せる
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1573年
武田信玄・将軍足利義昭と通謀した松永久秀が織田信長に叛逆、久秀は多聞山城・嫡子久通は信貴山城・三好義継は河内若江城に籠城するが信玄急死で信長包囲網が瓦解、義継を佐久間信盛に討取られ(若江城の戦い)孤立した久秀は信長に投降、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、信盛与力として石山合戦に従軍
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1573年
[室町幕府滅亡]武田信玄挙兵に奮起した将軍足利義昭が洛中で織田信長討伐軍を挙兵するが宇治槇島城を大軍に包囲され降伏、義昭を見限った明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣は信長に奔り、半年後に追放され室町幕府滅亡(羽柴秀吉の献言で助命されるが毛利領の備後鞆に亡命し反信長策動を続ける)
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1573年
三河野田城を落とし織田信長との決戦を目前に病に倒れた武田信玄が山県昌景に「明日は瀬田に旗を立てよ」と言い残して信濃下伊奈で陣没(享年53)し武田軍は継戦不能で撤退、甲斐・信濃・駿河3国と上野・遠江・三河に及ぶ大封を相続した武田勝頼(側室腹の四男)は信玄の遺命に従い上杉謙信と和親を講じるが信玄が望んだ保守路線を捨てて積極的な外征戦略を採り織田信長領の東美濃・徳川家康領の遠江へ侵攻、子飼いの長坂釣閑・跡部勝資を重用し次第に信玄遺臣との軋轢が深まる
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1573年
武田信玄の急死により信長包囲網(第二次)が瓦解、織田信長は越前一乗谷城の朝倉義景・北近江小谷城の浅井長政を攻め滅ぼし近江・越前を征服、長政の妻市(信長の妹)と茶々(後の豊臣秀吉側室の淀殿)・初(後の京極高次正室)・江(後の徳川秀忠正室)の三姉妹は現地指揮官の羽柴秀吉(豊臣秀吉)救出される
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1573年
[尼子再興(第二回)]伯耆尾高城を脱走した山中鹿介幸盛が諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成、海賊働きで因幡に割拠し、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り(この後も寝返りを繰返した豊国は家臣に追放される)、但馬の山名祐豊も毛利と和睦(芸但和睦)、鹿介は若桜鬼ヶ城に籠って吉川元春・小早川隆景の猛攻を凌ぐが挽回ならず撤退、尼子再興軍は織田信長に臣従し明智光秀軍に加わる
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1573年
織田信長の家臣木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の長臣柴田勝家と丹羽長秀の字をもらい羽柴秀吉へ改姓、浅井長政討滅の大功により浅井家遺領全部20数万石を与えられ近江長浜城(今浜・小谷城から改名)に拠って織田家中屈指の将領となる
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1573年
備前の実力者浦上宗景が毛利・尼子氏勢力に対抗するため織田信長に帰順し主家赤松氏の頭越しに備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められるが、国人勢力の反発が広がるなか家臣宇喜多直家は簒奪の隙を窺う
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1574年
[天正最上の乱]出羽山形城主最上義光に反発する天童頼貞ら「最上八楯」が隠居の最上義守を担いで蜂起、白鳥長久・細川直元・大宝寺義氏・上山満兼ら国人衆と米沢城主伊達輝宗(義守の娘婿)が同調し寒河江兼広も降伏、四面楚歌の義光は必死の防戦で和睦に漕ぎ着け伊達氏からの完全独立を果す
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1574年
武田勝頼が織田信長領の東美濃へ侵攻し明知城をはじめ支城18城を攻略、そのまま徳川家康領の東遠江に入り長篠近くの大野田新城を落とし小笠原長忠を降して拠点の高天神城を奪取、家康の経済官僚大賀弥四郎に誘われて岡崎城へ向かうが陰謀が露見し弥四郎は処刑され、勝頼は振上げた拳を信玄没後家康に奪われた三河設楽郡長篠城へ向けるが奥平貞能・貞昌父子の抵抗頑強で長陣となる
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1574年
[長島一向一揆平定]織田信長の滝川一益軍団が長島一向一揆(盟主は本願寺顕如)を猛攻、信長の庶兄織田信広と弟の織田秀成も戦死する激戦となるが、九鬼嘉隆の織田水軍による海上封鎖・兵糧攻めで優位に立ち門徒2万人を全滅に追込む
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1574年
14歳の前原弥五郎(伊東一刀斎景久)が三島神社で富田一放(富田重政の高弟)に挑み勝利し神主から宝刀「瓶割刀」を授かる、江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(鐘捲自斎。柳生宗厳にも教授した富田景政高弟)に入門
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1574年
織田信長が上杉謙信との対決を回避すべく狩野永徳の傑作『洛中洛外図屏風』などの贈物攻勢で機嫌を取結ぶ(『洛中洛外図』は上杉家で受継がれ現在は米沢市上杉博物館に収蔵)
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1575年
[長篠の戦い]徳川家康領を狙う武田勝頼の軍勢1万3千が奥平貞昌が守る三河長篠城を攻囲、織田信長は武田軍を恐れつつも徳川家康の強迫により兵3万を率いて出陣し徳川軍8千を救援、信玄遺臣らは甲府撤退あるいは長篠城優先策を進言するが長坂釣閑・跡部勝資に煽られた勝頼は野戦を選択、酒井忠次の夜襲で鳶ヶ巣山を奪われ逆上した武田軍は設楽ヶ原に殺到するが馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など存命の武田二十四将13人のうち7名が戦死する大敗を喫す~佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊5奉行として奮戦した前田利家は佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられ尾張荒子城から越前府中(武生)城へ移る
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1575年
小寺孝高(黒田官兵衛)の策動により播磨御着城主小寺政職が三木城主別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)と共に織田信長に帰服申入れ、官兵衛は岐阜城で信長に謁見し名刀「圧切」を拝領、翌年明けに京都で政職・長治・広秀を信長に謁見させる
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1575年
[四万十川の戦い]長宗我部元親が重臣を篭絡して土佐国司一条兼定を追放し嫡子一条内政に娘を嫁がせて傀儡当主に擁立、豊後へ逃れた兼定は舅の大友宗麟の力添えで土佐中村御所に舞戻るが来襲した長宗我部軍に四万十川の守りを破られ潰走、土佐統一を果した元親は織田信長と同盟を結び一領具足を率いて強敵不在の四国平定に乗出す
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1575年
[越前一向一揆平定]富田長繁ら朝倉遺臣が土一揆と結託し織田信長が越前守護代に任じた前波吉継を殺害、当初支援した本願寺顕如は加賀一向一揆から下間頼照・七里頼周を送り込み富田らを攻め滅ぼして越前国を制圧するが七里の暴政で民心が離反し信長が3万余の大軍を率いて来襲すると忽ち一揆勢は瓦解(下間頼廉は七里頼周に自重を促すが間に合わず)、柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据え前田利家・佐々成政・不破光治らを与力につけて織田家北陸軍団を編成し加賀一向一揆・越後の上杉謙信と対峙
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1575年
[備中兵乱~天神山城の戦い]宇喜多直家が浦上久松丸(政宗の孫)を担ぎ主君浦上宗景に反旗、直家の謀略で備前・備中・美作の浦上被官の離反が相次ぎ、備中を支配する毛利氏は小早川隆景が吉川元春の反対を押切って直家と同盟し織田信長へ寝返った備中松山城三村元親(直家は父家親の仇)を討滅、備前天神山城を攻囲された宗景は播磨へ逃亡し織田家荒木村重の支援を得てゲリラ戦を継続するが4年後に掃討され戦国大名浦上氏は滅亡(晩年は黒田長政の庇護下で余生をつなぐ)、梟雄宇喜多直家は備前一国を掌握し毛利氏に従って播磨へ侵攻
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1575年
織田信長が家督と美濃・尾張を嫡子織田信忠に譲る
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1575年
織田信長の明智光秀・細川藤孝軍団が丹波攻略に着手
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1576年
織田信長が近江安土城の築城を開始し障壁画の制作を狩野派の狩野永徳に委託、3年後の完成に伴い信長は岐阜城を嫡子織田信忠に譲り本拠を安土城に移す
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1576年
[第一次木津川口の戦い]毛利から石山本願寺への水上補給路遮断のため九鬼嘉隆の織田水軍が戦を仕掛けるが乃美宗勝率いる毛利・小早川・村上の水軍勢が撃退(能島・来島・因島の三島村上水軍は揃って従軍、村上武吉は嫡子の村上元吉に能島水軍を率いさせ自らは出陣せず)
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1576年
織田信長に京都から追放された前将軍足利義昭が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の護衛で三好義継の河内若江城に寄寓後毛利輝元に亡命し備後鞆に居住、義昭は将軍在任を主張し諸侯に「御内書」を送って打倒信長・室町幕府再興を呼掛ける
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1577年
[甲相同盟]長篠の戦いに敗れ織田信長・徳川家康に圧迫された武田勝頼が北条氏政の妹を継室に迎えて甲相同盟を強化し同盟した将軍足利義昭・本願寺顕如を通じて上杉謙信と和親を図る
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1577年
愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀も導入して「剣術諸流の原始」「剣聖」と謳われた上泉伊勢守信綱が死去(享年69)、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され新陰流は将軍家お家流となり隆盛を極める(信綱嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝に拾われ子孫は米沢藩士として命脈を保つ)
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1577年
[紀州征伐]各地の一向一揆に手を焼き本拠地の石山本願寺を攻めあぐねた織田信長が根来衆と雑賀衆三組(中郷・南郷・宮郷)を帰服させ自ら大軍を率いて紀州を制圧、本願寺軍指揮官で雑賀衆首領の鈴木重秀(雑賀孫一)は不利を悟って進んで帰順し父の鈴木重意(十ヶ郷)も中野城を落とされ降伏するが、織田軍が引上げると抗戦派の土橋守重(雑賀荘)が盛返し重意も与して雑賀衆三組を追討し再び本願寺顕如と連携して信長に反旗を翻す
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1577年
[英賀合戦]一向衆門徒の播磨英賀城主三木通秋が石山合戦勃発に伴い織田家を離反して毛利氏と同盟、乃美宗勝が毛利水軍を率いて英賀に上陸し5千の兵で小寺政職領に侵攻、防衛軍5百を率いる小寺孝高(黒田官兵衛)は農民に軍旗を掲げさせる偽装援軍の奇計で撃退、愚鈍な小寺政職の嫡子氏職の身代わりに嫡子黒田長政を人質に送って信長に中国征伐を促す
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1577年
[越中大乱~七尾城の戦い~信長包囲網(第三次)]上杉謙信が逆臣椎名康胤と国人衆を討ち平らげて越中を制圧、そのまま温井景隆の要請で能登へ攻め込み七尾城を奪った織田方の長続連・綱連父子を討滅(傀儡守護の管領畠山氏は滅亡)、越後・越中・能登の三国を征した謙信は本願寺顕如・一向一揆と和睦し毛利輝元・波多野秀治・紀州雑賀衆らと連携して織田信長と対峙
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1577年
[手取川の戦い]長篠の戦いで武田軍に勝利し自信を得た織田信長が上杉謙信との決戦を決意、柴田勝家に3万余の大軍を授け能登七尾城救援に派遣するが加賀南部手取川で上杉謙信に迎撃され惨敗、主将の柴田勝家と対立し無断帰国した羽柴秀吉(豊臣秀吉)は毎日酒宴を開いて遊び惚けることで信長の疑惑と怒りをかわす
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1577年
上杉謙信の挙兵上洛を期待する松永久秀が織田軍団の北陸攻めに乗じて再び叛逆するが、謙信急死で上杉軍は撤兵し、織田信忠・細川藤孝・明智光秀・筒井順慶の軍勢に大和信貴山城を攻囲され、信長所望の名物茶器「平蜘蛛」を破壊して自害し己の首を火薬で爆破(享年68。10年前の東大寺大仏殿焼討ちと同じ10月10日の同時刻であったという)、嫡子松永久通と妾腹の二児も処刑されて松永氏は滅亡し大和の遺領は筒井順慶に与えられる
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1577年
松永久秀滅亡により筒井順慶が大和の支配者となるが柳生宗厳は十市遠長ら国侍と結んで半独立体制を保つ
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1577年
織田信長の明智光秀・細川藤孝軍団が丹波亀山城を奪取、ここを前線拠点に丹波全域を平定、波多野秀治は帰順し信長は本領安堵を許す
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1577年
小寺政職家臣で姫路城代の小寺孝高(黒田官兵衛)の要請を受けた織田信長が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に軍団を預け中国毛利攻めに着手(官兵衛は姫路城を提供し嫡子長政を人質に送って小寺家との両属の形で信長に臣従、秀吉の与力に加えられ竹中半兵衛と並ぶ軍師となる)、秀吉軍団は播磨・美作・備前国境の要衝上月城を忽ち攻め落とすが、別所長治が離反し三木城に籠城すると東播磨諸豪の大半が毛利方へ寝返り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に宇喜多忠家(直家は仮病を使って従軍せず弟忠家を派遣)の軍勢3万が続々来襲
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1577年
[伊東崩れ]木崎原合戦の大勝で一転優位に立った島津義弘が日向国主伊東義祐を逆襲、高原城・三ツ山城(小林城)を落とされても栄華に耽る義祐は動かず諸豪・家臣は相次いで離反、飫肥城を攻略され北部土持氏との挟撃の危機に晒された義祐は一戦もせずに佐土原城から逃亡、命からがら豊後に辿り着き大友宗麟に島津征伐を哀願、日向を制圧した島津義久は薩摩・大隅・日向の三州統一を達成
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1578年
[御館の乱・甲相同盟決裂]軍神上杉謙信が織田信長討伐の大動員令を発した直後に後継を定めず急逝(享年49)、養子の上杉景勝(長尾政景の子で謙信の甥)・上杉景虎(北条氏政の弟)の家督争いが勃発し、氏政の出陣要請に応じた武田勝頼は信濃飯山で景勝軍を撃破するが寵臣長坂釣閑・跡部勝資の策動に乗り上杉家の臣従と東上野割譲・膨大な献上物・妹菊姫の入輿に釣られ景勝へ乗換え(甲越同盟)、景勝は景虎・道満丸父子と上杉憲政(山内上杉氏の家督と関東管領職を禅譲した謙信養父)を滅ぼし家督を継ぐが弱体化した上杉家は信長の侵攻に晒され防戦一方(18歳の腹心直江兼続は奏者番を務め忽ち頭角を現す)、激怒した氏政は甲相同盟を破棄して織田・徳川と同盟を結び武田領上野へ侵入、勝頼は挟撃の窮地に陥るも積極姿勢を崩さず諸戦線を転戦
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1578年
[尼子再興(第三回)~上月城の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)・小寺孝高(黒田官兵衛)の中国侵攻に従った山中鹿介幸盛の尼子再興軍は、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利方の吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、捕捉された鹿介は斬殺(享年32)、秀吉陣中にあって難を逃れた亀井茲矩は尼子再興軍を承継し徳川家康に転じて因幡鹿野藩初代藩主(次代に石見津和野藩へ加転封)となる
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1578年
[第2次木津川口の戦い]大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍が村上武吉率いる毛利・小早川・村上水軍を撃破、石山本願寺への補給路を絶たれた顕如は継戦が困難となる
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1578年
毛利に属しながら織田にも誼を通じ吉川春元・小早川隆景の暗殺も企てた備前国主宇喜多直家が小寺孝高(黒田官兵衛)の説得に応じて羽柴秀吉(豊臣秀吉)へ内通を申送り上京して織田信長に臣従(このとき直家は道案内役に堺商人小西隆佐の次男小西行長を召出す)
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1578年
織田信長配下の荒木村重謀反、明智光秀(嫡子荒木村次の岳父)の説得を拒絶して摂津有岡城で1年間籠城するが毛利の援軍は来ず側近の中川清秀と高山右近が寝返り、荒木村重は単身脱走、信長は残された荒木一族と重臣36人・女房衆122人のほか匿った高野山僧数百人を惨殺、主君小寺政職に欺かれ使者に入った黒田官兵衛は1年間有岡城の土牢に幽閉されるも半死半生ながら救出され生還(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、官兵衛反意を疑う信長が殺害を厳命した人質の嫡子黒田長政も竹中半兵衛重治に密かに匿われて無事
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1578年
[耳川の戦い]伊東義祐の哀願に応じた大友宗麟が立花道雪の制止を振り切って島津討伐を号令(宗麟は道雪を疎んじて従軍させず)、キリスト教国建設を掲げ寺社を破壊しつつ日向へ攻入るが、田原親賢率いる3万余の大軍は島津義久・家久の「釣り野伏せ」戦法の前に3千名を討取られる壊滅的敗北(日本初上陸の洋式大砲「国崩し」も島津軍に分捕られ、現在でも鹿児島市の尚古集成館に陳列されている)、島津氏は日向の支配を固めて全九州に威名を轟かせ、田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を喪った大友氏の威信は地に落ち筑前の秋月種実や肥前の龍造寺隆信らの反大友勢力が勢いづく
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1578年
龍造寺隆信が島原半島で抵抗を続けた大村純忠・有馬晴信(純忠の甥)を降して肥前統一を達成、家督を嫡子政家に譲るが実権は保持し、大友宗麟の耳川合戦大敗に乗じて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏に収め、九州は島津・大友・龍造寺の三国鼎立状態となる
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1578年
(詳細不明)自ら「体用の間」を体得した伊東一刀斎景久が師匠の戸田一刀斎(鐘捲自斎)に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「妙剣」「絶妙剣」「真剣」「金翅鳥王剣」「独妙剣」を授受、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達す(一刀流創始)
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1579年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の与力で名軍師の竹中半兵衛重治が播磨三木城攻囲の陣中で病没(享年36)
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1579年
明智光秀・丹羽長秀・羽柴秀長(秀吉の弟)が競って丹波攻略に専念、波多野秀治の八上城・赤井直正の黒井城が落城し捕えられた波多野秀治・秀尚・秀香兄弟は安土に送られ磔刑、光秀は近江坂本に加えて丹波を与えられ(合計25万石または60万石)福知山城を築いて統治拠点とする(功を焦った光秀が養育の恩ある叔母を人質に差し出し本領安堵と欺いて波多野兄弟を捕縛、そのため叔母は磔で殺されたという説があるが信憑性は低く、助命に釣られた波多野家臣が主君兄弟を捕えた可能性が高い)、若狭計略を担当した光秀与力の細川藤孝は若狭守護一色義道を討ち嫡子一色義定に娘を娶せ丹後北半を安堵して和睦し自身は丹後南半11万石を与えられ宮津城に入る
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1579年
徳川家康の正室築山殿(今川一族で義元の養女)の武田勝頼への内通が露見(徳姫(織田信長の娘)の告口により徳川家康の正室築山殿(今川一族で義元の養女)の武田勝頼への内通が発覚(徳姫は唐人医師減敬との密通を含め不仲な姑の12ヶ条の罪状を列挙)、安土へ釈明に赴いた酒井忠次は不用意発言もあって嫌疑を晴らせず信長は断罪を指令・家康は築山殿を殺害し関与を疑われた嫡子信康を自害させる
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1580年
[三木合戦]羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が毛利方に寝返った別所長治の播磨三木城を兵糧攻めで攻略(三木の干殺し)、御着城も落城し小寺政職は官兵衛の嘆願で助命され流浪の果てに備後鞆で野垂れ死に(嫡子小寺氏職は官兵衛に拾われる)、備前の宇喜多直家を降して播磨攻防の激戦を征した織田信長は毛利領の備中・山陰へ侵出、官兵衛は主家小寺氏滅亡により織田家専属・秀吉与力となり揖東郡福井庄1万石を与えられる
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1580年
織田信長が本願寺顕如・下間頼廉を降伏させ11年に及んだ石山合戦を征し信長包囲網を完全破壊、顕如は石山本願寺を明け渡して(直後に焼亡)紀伊鷺森別院(鷺森本願寺)に退去し頼廉は各地の一向一揆を説諭し反乱を収拾、90年続いた加賀一向一揆も解体され加賀・能登を制圧した柴田勝家軍団は加賀尾山城(金沢)に佐久間玄蕃盛政・能登七尾城に前田利家を配して防御を固め上杉景勝領の越中に侵出
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1580年
甲越同盟成立で上杉と北条の抗争が再燃、再び東上野が争地になると武田勝頼旗下の真田昌幸が北条領を侵食し拠点の沼田城を攻撃、城主藤田信吉の要請で北条氏直・氏邦が来援し長篠合戦の雪辱に燃える勝頼も大軍を繰出すが氏直は小田原へ退去、戦線膠着のなか真田昌幸は離間工作で藤田信吉の投降を誘い沼田城を奪取、昌幸は旧領主沼田景義を謀殺して禍根を断ち、城代に据えた同族の海野幸光・輝幸父子も無実の罪で誅殺、なりふり構わず沼田の領国化を進める
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1580年
織田信長の躁鬱が激化、無断外出した女中数名を斬り殺し、最古参の佐久間信盛・林秀貞と安藤守就を過去の罪状をあげつらい突然追放(佐久間信盛は高野山にも受入れを拒否され唯一人落ち延びた奥吉野で餓死)
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1580年
キリシタン大名大村純忠が長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進、領民に改宗を強制し反抗者や仏僧を迫害
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1580年
土佐の長宗我部元親が明智光秀との縁(正室が斎藤利三の異父妹)を通じて織田信長と同盟し三好長治・十河存保・三好康俊ら三好一族を掃討し阿波・讃岐の大部を制圧するが(伊予の河野氏は毛利氏に属して抗戦)、全国制覇に乗り出した信長が土佐以外の放棄を要求すると元親は同盟を解消し反抗の色を立てる
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1580年
織田信長が天下布武に向けた多方面作戦遂行のため家臣を再編成し軍団(方面軍)制を確立~柴田勝家軍団=北越・上杉景勝、明智光秀軍団=近畿平定後遊軍、羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団=中国・毛利輝元、滝川一益軍団=関東・北条氏政、織田信孝・丹羽長秀軍団=四国・長宗我部元親、織田信忠=美濃・尾張・飛騨の抑え、織田信雄=伊勢・伊賀方面の抑え、徳川家康(同盟国)=東海道の抑え
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1581年
[高天神城の戦い]徳川家康の長期攻囲により岡部元信(今川遺臣)が守備する遠江高天神城が陥落、城兵見殺しで面目を失った武田勝頼は北条氏政領の東上野を侵して鬱憤を晴らすが諸豪・領民の動揺は収まらず、人質の織田勝長(信長の五男)を返還し織田信長と講和を図るが悉く拒否され、防御を固めるべく韮崎新府城の造営と軍団再編を始めるが過剰な戦費負担は更なる離心を招く
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1581年
[京都御馬揃え]躁に転じた織田信長が各方面の軍団を京都に召還し大軍事パレードを挙行
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1581年
[新発田重家の乱]御館の乱で上杉景勝に味方した越後蒲原郡新発田城主の新発田重家(加地衆首領)が上田衆優先の論功行賞に不満を抱く反乱分子を糾合し出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)・会津黒川城主蘆名盛隆を後ろ盾に反旗を掲げ新潟城に拠って独立(両者の板挟みとなった安田顕元が自害)、輝宗と連携する柴田勝家の織田信長軍団は西方から上杉領を脅かす(重家は以後7年に渡って抵抗を続けるが豊臣政権を後ろ盾に付けた景勝に滅ぼされる)、揺れる上杉家中で刃傷事件が発生し景勝は横死した直江信綱の未亡人(船)に側近の樋口兼続を娶わせ直江家の家督と越後与板城を継がせる(兼続は超無口な景勝に代わって家政を宰領し上杉家は事実上の二頭体制となる)
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1581年
立花道雪が盟友高橋紹運に頼み込んで長男統虎(立花宗茂)を誾千代の婿養子に貰い受け家督を継がせる、秋月種実との石坂合戦で初陣した14歳の統虎は敵将堀江備前を討取る活躍
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1581年
織田信長が反攻を止めない高野山金剛峰寺を襲い千余人の僧侶を処刑、金剛峰寺と連携して高野大衆一揆で抵抗する紀州根来寺も襲撃
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1581年
[天正伊賀の乱]織田信長の織田信雄・滝川一益・丹羽長秀軍団が伊賀の領国支配に抵抗する地侍・忍者の勢力を殲滅
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1581年
有力者暗殺で伸上り主君浦上宗景から備前を奪い毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保った宇喜多直家が病没(享年53。死因は梅毒で面貌が崩れていたとも、見苦しく家臣らに殉死を望んだとも伝わる)、末期に後を託された羽柴秀吉(豊臣秀吉)は嫡子宇喜多秀家を厚遇し後に五大老に抜擢するが(直家は秀家の生母円融院を秀吉に献上したとも)関ヶ原合戦で西軍についた秀家は改易され子孫は徳川時代を流刑地の八丈島で過ごす
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1581年
[鳥取の渇え殺し]播磨・但馬・備前を完全制圧した織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が山陰毛利領に侵攻、山名豊国を追放して吉川経家(毛利一族)が守る鳥取城を米穀買占めによる兵糧攻めで落とし因幡全域を制圧(秀吉の母の従妹の子加藤清正が初めて戦功を立てる)、決死の覚悟で伯耆国境を守る吉川元春との対決は回避
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1581年
織田信長より正式に能登一国23万石を与えられた前田利家が交通不便な七尾城を廃城し港近くに小丸山城を築城、前田利久は2千石・養嗣子の前田慶次郎利益は5千石で利家に召抱えられる
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1581年
[響野原の戦い]耳川合戦の大勝で肥後国人衆を靡かせた島津義久が大軍を率いて肥後へ侵攻、人吉城主相良義陽は水俣城を包囲され降伏、すぐに阿蘇氏攻伐を命じられた義陽は宇城響野原で親友甲斐宗運と戦い討死(次男頼房が生延びて初代人吉藩主となり幕末まで相良家は存続)
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1582年
キリシタン大名の大村純忠・有馬晴信・大友宗麟が名代として天正少年使節派遣
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1582年
[甲州征伐・天目山の戦い]強敵上杉謙信が急逝し本願寺顕如を降して畿内を平定した織田信長が木曽福島城主木曽義昌(信玄の娘婿)の寝返りを機に武田勝頼討伐を号令、伊奈・飛騨口から織田軍、駿河口から徳川家康軍、関東口から北条氏政軍が甲斐へ殺到すると、伊奈口の武田信廉(信玄の弟)らは潰走し駿河を預かる穴山信君(同娘婿)は家康の案内役を買って出る始末、高遠城主仁科盛信(同五男)・武田信豊(同甥)は奮戦討死したが深志城主馬場昌房らは降伏開城、軍勢が2万余騎から3千に減り孤立した勝頼は韮崎新府城を落ちて郡内(大月)岩殿城へ辿着くが小山田信茂の寝返りで入城を拒まれ寵臣の長坂釣閑・跡部勝資まで逃走、天目山麓で織田勢に迫られた勝頼は嫡子信勝と一族郎党90余人を道連れに自害(享年37)、木曽・穴山(武田宗家を継承するが本能寺事変の渦中に落命)を除く武田一族を誅戮し甲斐・信濃を平定した織田軍は越中・関東へ進み滝川一益軍団は厩橋城・箕輪城を攻略して上野を制圧~北条氏邦へ内通し討伐を免れた真田昌幸は武田残党を吸収して武力を増し次男の真田信繁(真田幸村)を人質に出して信長に帰順・真田家飛領の上野沼田城には滝川儀太夫(前田慶次郎の実父)を置き防御を固める
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1582年
甲州征伐を終えた織田信長が安土城に凱旋、駿河全部を与えられた徳川家康と武田勝頼を裏切って本領安堵された穴山信君が御礼言上のため安土を訪問、信長が明智光秀を接待役に就けて饗応する最中、豊臣秀吉の使者が来着し信長は中国出馬要請を快諾し光秀・細川忠興・池田信輝らに先発を命令、出陣支度のため丹波亀山城へ戻った光秀は愛宕権現に参籠し里村紹巴を招いて連歌興行を開催(愛宕百韻)、光秀が「ときは今あめが下しる五月かな」と発句すると紹巴は「花落つる流れの末を関とめて」と対句
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1582年
[高松城水攻め]織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団(軍師黒田官兵衛)が毛利方清水宗治が守る備中国高松城を水没させ兵糧攻め、吉川元春・小早川隆景の救援軍も手を出せず、秀吉は手柄献上のため信長に出陣を要請するが本能寺の変が勃発
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1582年
[6月2日:本能寺の変]羽柴秀吉(豊臣秀吉)の要請に応じ毛利攻めに向かう織田信長が京都本能寺に滞在すると先発を命じられた明智光秀は丹波亀山城から引返し本能寺を急襲、信長は奮闘の末に自害し(享年49)嫡子織田信忠も二条新御所で自刃、空白の京都・近江を制圧した光秀は近衛前久ら公家と朝廷に献金して征夷大将軍の宣下を受け畿内を固めるべく与力の細川藤孝・忠興や筒井順慶ら諸大名に加勢を求める
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1582年
[6月3日:魚津城の戦い]織田信長の柴田勝家軍団が大軍で越中魚津城を攻囲、越中・信濃・上野の三方面から織田軍が本国越後に迫ったため上杉景勝は開城和睦に応じ救援軍を引くが、柴田勝家・佐々成政が和議を破って城を攻め上杉方の守将13人悉くが自害、本能寺の変勃発で織田軍は撤退するが激怒した上杉軍に足止めされ明智光秀討伐に間に合わず
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1582年
[神君伊賀越え]堺見物中に本能寺の変報を受けた徳川家康は本多忠勝の制止で殉死を思止まり茶屋四郎次郎と服部半蔵正成(伊賀上忍服部家当主)の手引きで供廻34人(酒井忠次・石川数正・井伊直政・榊原康政・大久保忠隣ら重臣は軒並み同行)と共に伊賀越えを果し伊勢白子から海路で三河岡崎城へ生還(道中別れた穴山信君は木津川畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命)、柘植清広(松尾芭蕉は柘植氏と同族の福地氏の末裔)など協力した忍者の多くは徳川家に召抱えられ伊賀同心・甲賀同心として服部半蔵の支配下に置かれる
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1582年
織田信長を討った明智光秀軍が近江に侵攻、安土城を守る蒲生賢秀は殉死を覚悟するが織田将兵が逃亡し断念、嫡子氏郷と共に生駒氏ら信長の妻妾を居城の近江日野城へ護送、その2日後に光秀が安土城を占領するが蒲生父子は光秀に帰順せず、間もなく安土城は焼亡(気が動転した信長の次男信雄による放火説が有力)
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1582年
[中国大返し]本能寺の変の2日後、備中高松陣で長谷川宋仁から織田信長の悲報をを受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、高松城主清水宗治切腹と備中・備後・伯耆割譲の妥協的条件で即時毛利氏と和睦し(因幡・美作は放棄)総員全速力で京畿の明智光秀討伐に向かい200kmを10日で駆け抜ける、間もなく信長討死の事実を知った毛利家では主戦論の吉川元春が追撃を主張するが小早川隆景が制止
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1582年
明智光秀が与力で丹後宮津城主の細川藤孝に出陣を促すが藤孝は剃髪隠居して家督を嫡子細川忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)忠興正室ガラシャ(光秀の娘)を幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ滅亡、藤孝は早速秀吉に帰順し明智についた娘婿の一色義定(丹後北半の領主)を攻め滅ぼし丹後全域の支配を認められる
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1582年
[6月13日:山崎の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍が洛外天王山で明智光秀軍と激突、光秀は近親の細川藤孝・忠興父子(細川忠興の正妻ガラシャは光秀の娘)に加え筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に見放され、織田信孝・丹羽長秀軍を糾合し兵数に勝る羽柴軍が圧勝、明智光秀は逃亡中に伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに遭い落命、近江坂本城も落城し明智氏滅亡
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1582年
[神流川の戦い~天正壬午の乱]織田信長討死で甲州征伐間もない旧武田領に激震、甲斐の守将河尻秀隆が殺害され、上野には同盟を破った北条氏直が侵攻し野戦に敗れた滝川一益が厩橋城・箕輪城を放棄し逃走、越後の上杉景勝も北信濃に侵出し甲斐には徳川家康が押寄せ徳川・北条・上杉の三つ巴戦へ発展するが、新発田重家の乱勃発で上杉は信濃北部4郡で妥協し撤退、甲斐で北条氏直の大軍を破った徳川家康は北条への上野割譲および家康の娘督姫と氏直の婚姻を条件に和睦同盟、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃五ヶ国の太守へ躍進した家康は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対峙し、徳川・北条連合に対抗する上杉景勝は秀吉に誼を通じ直江兼続と石田三成が昵懇の間柄となる~武田残党を糾合して勢力を増した真田昌幸は弟の真田信尹と叔父の矢沢頼綱を派遣して上野沼田城を奪回、上杉・北条・徳川と帰服先を替えて領土保全を図るが、家康からの沼田割譲要求に反発し上杉方へ転じる
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1582年
[6月27日:清洲会議]織田信長遺臣の柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・池田恒興が尾張清洲城に参集、焦点の織田家の家督争いで三男織田信孝を推す勝家を抑え秀吉が幼少の嫡孫三法師(織田秀信)擁立に成功(後見に信孝)、信長直轄領の美濃は信孝・尾張は次男信雄に分与され、仇討の殊勲者秀吉は明智光秀の旧領丹波・山城・河内など28万石、筆頭家老の勝家は秀吉の旧領近江長浜12万石と信長の妹市を妻にもらい、光秀征伐に参加した丹羽・池田・堀秀政と日和見の細川藤孝・筒井順慶にも加増あり
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1582年
織田信孝・丹羽長秀率いる四国征伐軍が和泉岸和田に終結し渡航直前に本能寺の変が勃発、四国征伐軍は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の明智光秀討伐に合流し阿波の三好康長は河内へ撤退、窮地を脱した長宗我部元親は阿波勝瑞城を攻落とし讃岐へ逃れた十河存保(阿波三好氏首領)を追撃して十河城に追詰める
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1582年
紀伊雑賀衆首領の鈴木重秀が反織田の土橋守重を暗殺し反対派を押えるが直後に本能寺の変が勃発、父の鈴木重意・土橋党に主導権を奪われ孤立した重秀は逃亡し羽柴秀吉(豊臣秀吉)に帰順する
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1582年
織田信長の茶頭を務めた千利休が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の茶頭に出仕、二束三文の粗末な茶器を名器に仕立てる錬金術と侘茶接待で秀吉の大名統治に貢献、秀吉は利休を持て囃し「利休道具」に更に箔を付けて諸大名に与える好循環を演出
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1583年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が激しい調略戦、勝家は滝川一益・織田信孝(信長の三男)と結んで秀吉弾劾状を諸大名にばら撒き四国の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を動かして後方撹乱に励むが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に織田信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝
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1583年
[賤ヶ岳の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)が柴田勝家討伐を宣言、近江長浜城等を調略して岐阜城の織田信孝と分断し、弟の羽柴秀長・蒲生氏郷(織田信長の娘婿)に軍勢を預けて滝川一益の守る伊勢にも侵攻、勝家は近江に出陣するが佐久間盛政の軍令違反や前田利家の戦線離脱により大敗(譜代家臣の乏しい秀吉は奮闘した加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元を「賤ヶ岳の七本槍」と喧伝し各々3千石余を与えて部隊長に昇格させる)、秀吉は越前北ノ庄城へ追撃して勝家を討滅し(享年62。織田信長の妹市は夫勝家に殉じるが茶々・初・江の姉妹は助命確保)柴田方諸城を落として加賀・能登まで制圧、織田信孝も自害させて織田家簒奪を完遂(信孝の辞世:昔より主を内海の浦なれば むくいを待てよ羽柴筑前*自害した知多内海は源義朝が家人の長田忠致に騙し討ちにされた土地)~勝家を見限って秀吉に帰順した前田利家は北ノ庄攻めの先鋒を務め(北ノ庄城攻撃の直前に勝家と面会した利家は秀吉と仲が良いのだから必ず降伏するよう諭された、と前田家は伝えるが眉唾である)、能登の安堵に加賀二郡を加増され能登小丸山城から加賀尾山(金沢)城へ本拠を移転
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1583年
毛利輝元・小早川隆景が毛利秀包(元就末子で隆景養子)を人質に差出して羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵される(宇喜多秀家領との境界線の確定は2年後)、秀吉は新たな本拠地として石山本願寺跡地に大坂城の築城を開始・総奉行に黒田官兵衛を任命
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1583年
狩野派を率いる狩野永徳が豊臣秀吉に寵遇され息つく間もなく大坂城・聚楽第・内裏・八条宮家の障壁画を制作する
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1583年
本願寺顕如が紀伊鷺森別院(鷺森本願寺)から和泉貝塚の末寺(願泉寺)へ移動、羽柴秀吉(豊臣秀吉)・徳川家康から一向宗の加勢を求められるが下間頼廉は武力放棄・局外中立を堅持し純粋な宗教団体としての本願寺の姿勢を打ち出すことで存続を図る
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1584年
徳川家康配下の真田昌幸が信濃に上田城を築き戸石城から本拠を移転、北条氏への引渡要求を拒絶する上野沼田城には矢沢頼綱を送って籠城の構えをとり、実力行使に出た北条氏邦の軍勢を巧みな防戦により撃退
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1584年
[沖田畷の戦い]蒲池鎮漣一族皆殺しや無慈悲な人質殺害など龍造寺隆信の過酷な国人統治に離反が相次ぐなか、肥前島原城主有馬晴信(妹が龍造寺政家の正室)が島津義久に人質を差出して服属、島津との決戦を決意した隆信は2万5千(諸説あり)を率いて北から島原へ侵攻、肥後平定の途上で大友宗麟と対峙する島津義久は大軍を送れず弟の島津家久に兵3千(諸説あり)を託して先発隊を派遣、八代から島原へ渡り有馬勢を併せた家久は圧倒的劣勢ながら敵軍殲滅の策を講じ湿地帯の沖田畷に誘い込んで鉄砲隊で急襲、大混乱に陥った龍造寺軍は撫で斬りにされ龍造寺隆信以下成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直ら重臣の悉くが討取られる歴史的大惨敗、肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前の遺領を奪った島津義久は九州統一を果たすべく大友宗麟討伐へ転戦(隆信の嫡子龍造寺政家は島津義久に降伏し九州征伐を終えた豊臣秀吉から肥前佐賀城32万石を安堵されるが、沖田畷合戦を辛くも生延びた鍋島直茂が凡庸な政家に代わって家政を握り関ヶ原合戦では西軍に加担するも巧みな善後策でお咎め無し、龍造寺信周・長信(隆信の弟)を懐柔して政家と一子高房を滅ぼし佐賀藩簒奪を完遂する)
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1584年
[小牧・長久手の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)に宣戦した織田信雄に徳川家康が加担、旧柴田勝家方の長宗我部元親(四国)・雑賀衆(紀州)・佐々成政(越中)及び北条氏政(関東)とも連携し秀吉包囲網を形成、寡勢の徳川軍が池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し強さを示すが、秀吉に調略された信雄が無断で単独講和、名目を失った家康も次男秀康(羽柴→結城)を秀吉の養子に差し出し停戦~蒲生氏郷は常に先陣駈ける奮闘で木造具正ら信雄方伊勢国人を掃討し、秀吉の小牧退却戦の殿軍も果たす
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1584年
長久手の戦いで徳川家康に池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅された羽柴秀吉(豊臣秀吉)が兵2万を率いて反撃に出るが手勢5百で駆けつけた本多忠勝の妨害で攻めあぐね家康の小牧山城帰還で撤退、停戦後秀吉は忠勝の豪胆な武者ぶりを激賞
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1584年
明智光秀を裏切り大和郡山城18万石を保った筒井順慶が病死し養嗣子の筒井定次が家督相続、翌年羽柴(豊臣)秀長の大和入封により伊賀上野へ移封される(定次は関ヶ原の戦いで東軍に属すが突如改易され筒井氏は滅亡する)
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1584年
[沼尻の合戦]上野を制した北条氏を牽制するため常陸の佐竹義重・宇都宮国綱ら北関東勢が下野に攻入り北条方の小泉城・小山城を攻撃するが逆に長沼城を奪われ敗退、北条氏の個別撃破作戦に苦しむ義重は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に帰服して再三援軍を要請
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1584年
徳川家康と同盟した長宗我部元親が羽柴秀吉(豊臣秀吉)が讃岐へ送った仙石秀久・小西行長を撃退し十河存保(阿波三好氏首領)の籠る十河城・虎丸城を攻落として讃岐を制圧、伊予へ転戦した元親は毛利軍を追払い湯築城主河野通直・宇和島黒瀬城主西園寺公広を降伏させ土佐・阿波・讃岐・伊予の四国統一を達成
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1584年
立花道雪・高橋紹運が大友領の筑後奪回戦に出陣、兵1千で立花山城の守備を託された立花宗茂は兵8千で攻め寄せた秋月種実を火計・夜襲・同士討ちの計略で撃退、立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回
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1584年
織田信長の娘婿で豊臣秀吉に臣従して伊勢攻略や小牧・長久手の戦いで武功を挙げた蒲生氏郷が近江日野6万石から伊勢松ヶ崎(松ヶ島城)12万石へ加転封、氏郷は四五百の森を松阪へ改名して築城し日野から近江商人を招致して大商業都市を建設
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1584年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師黒田官兵衛が播磨国宍粟郡篠の丸城5万石の大名となるが、天下人となった秀吉に次第に遠ざけられて参謀長的立場を失い豊臣政権の主導権は石田三成ら秀吉の子飼い部将へ移る
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1584年
上山城主上山満兼・小国城主細川直元・庄内領主大宝寺義氏を謀略で各個討滅した山形城主最上義光が総仕上げ、羽州探題を僭称する白鳥長久を山形城に誘込んで自ら斬殺し谷地城を奪取、強豪延沢満延の嫡子光昌に娘を嫁がせて寝返りを誘い「最上八楯」を切崩すと寒河江城主寒河江高基・東根城主東根頼景を攻め滅ぼし「最上八楯」の盟主天童頼澄を天童城から追放して出羽最上郡平定を達成
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1585年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が藤原氏五摂家筆頭の近衛前久の猶子となり関白に就任、微賤の出で譜代家臣の無い秀吉は弟の羽柴秀長を大和郡山城100万石(筒井定次は伊賀へ転封)に封じ加藤清正・福島正則・石田三成・小西行長ら子飼い武将に官位・官職を与え加増して大名格に引上げる
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1585年
[紀州征伐]織田家を掌握し徳川家康と停戦した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が天下統一戦を開始、自ら10万を率い小牧・長久手合戦で徳川に加勢した雑賀衆(太田城)・根来衆(根来寺)を攻め滅ぼし和泉・紀伊を平定、逸早く秀吉に帰順し小牧・長久手合戦で鉄砲頭を務めた鈴木重秀は父の鈴木重意を説いて降伏を促し子の鈴木孫一郎を秀吉の人質に出して忠誠を示すが秀吉は後顧の憂いを絶つべく藤堂高虎に命じて重意を謀殺、ここに紀伊の鉄砲傭兵集団は滅亡し僅かに鈴木重朝(重秀の後継者)らが体制秩序で命脈を保つ
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1585年
[四国攻め]紀州征伐に並行して羽柴秀吉(豊臣秀吉)が総大将羽柴秀長・軍監黒田官兵衛・三好秀次・宇喜多秀家・小早川隆景の総勢10万余を派兵し阿波・讃岐・伊予の三方から四国へ侵攻、長宗我部元親は阿波白地城に籠って抵抗するが圧倒的大軍の前に為す術なく土佐一国の安堵を条件に降伏、秀吉は没収領の伊予を小早川隆景・讃岐を仙石秀久と十河存保・阿波を蜂須賀家政に与える
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1585年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命により毛利輝元・小早川隆景から所領と来島村上水軍を取戻した来島通総が四国伊予攻めに従軍し旧主河野氏の討滅に働いて伊予風早郡1万4千石の大名に栄達(のち通総は朝鮮役で戦死、後嗣の来島長親は関ヶ原の戦いで西軍に属すが福島正則の取成しで赦され豊後森藩1万4千石を立藩)、秀吉に反抗し従軍命令に背いた村上武吉(能島村上水軍)は小早川に攻められて根拠地の能島を奪われ備後竹原へ移される(後嗣の村上元吉・景親は毛利家に仕え子孫は長州藩船手組組頭として存続)
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1585年
[第一次上田合戦]羽柴秀吉(豊臣秀吉)への対抗上北条氏との同盟強化を望む徳川家康が上野沼田領の引渡しを拒絶する真田昌幸を攻撃、昌幸は一度寝返った上杉景勝に次男の真田信繁(真田幸村)を人質に送って援軍を乞い、信濃上田城に来襲した徳川軍を奇計で壊滅させ沼田城を襲った北条氏邦も撃退するが、再び上杉を見限って天下人秀吉に鞍替え(4年後に真田信繁は越後を脱出し岳父大谷吉継を通じて人質として秀吉に近侍する)、武田信玄の庶子海野竜宝を担ぎ出して徳川領を侵食するも秀吉の仲裁で家康と和睦し嫡子真田信之の妻に本多忠勝の娘小松姫(家康養女)を迎える
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1585年
[富山の役]賤ヶ岳の戦い不参加で本領安堵された越中の佐々成政(柴田勝家与力)が小牧・長久手の戦いに呼応し前田利家の加賀へ攻め込むが撃退され(末森城の後巻)羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康の和睦停戦により孤立、成政は厳冬の「さらさら越え」で浜松へ赴き家康に再挙を促すが断られ越中を秀吉・利家に攻囲され降伏、秀吉は成政の越中領を没収するが(新川一郡のみ安堵)命は助けて御伽衆に採用、旧佐々領を与えられた前田利家は加賀・能登に越中を併せ三国の太守となる
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1585年
[阿蘇合戦]島津義弘の軍勢が阿蘇惟光を打破り肥後平定を達成、九州統一を目論む島津義久は大友宗麟への攻勢を強め豊後・筑前へ殺到
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1585年
島津氏と反大友勢力の猛攻に晒された立花道雪が立花宗茂・高橋紹運・朽網鑑康を率いて必死の防戦、豊後へ長駆して大友宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家(宗麟の次男)の援軍が戦線離脱するなか道雪・紹運は高良山に布陣して3倍の敵軍を撃退、島津軍を押し返す勢いを示すが柳川城攻撃中に高良山陣中で無念の病死(享年73。「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言したが養嗣子の宗茂は敵中に残し置くのを儚み遺骸を伴って立花城へ帰還)、大黒柱を喪った大友氏は完全に死に体となり島津方への寝返りが相次ぐ
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1585年
徳川家康重臣の石川数正が羽柴秀吉(豊臣秀吉)方に電撃移籍、徳川家は旧武田軍に倣って軍法を刷新し本城を駿府城に移転
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1585年
[惣無事令(九州)]島津氏に圧迫され滅亡目前の大友宗麟の陳情を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が九州諸大名に私戦禁止を発令、島津氏は無視して領土拡張戦争を継続
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1585年
[人取橋の戦い]佐竹義重・蘆名氏に属する小浜城主大内定綱が伊達政宗の家督相続に伴い帰順するが出羽米沢城視察を終えると再び反逆、政宗は小手森城・小浜城を攻落とし定綱を匿った二本松城主畠山義継を降伏させるが御礼言上のため小浜宮森陣を訪れた義継は輝宗を拉致して逃走、鷹狩りから馳せ戻り阿武隈川東岸で追いついた政宗は晴宗諸共義継を銃殺し二本松城を攻囲するが常陸の佐竹義重率いる南奥羽連合軍3万が来襲(伊達氏縁戚の蘆名亀王丸・岩城常隆・石川昭光も加盟)、鬼庭左月斎が身代りとなって政宗は窮地を脱し足並み乱れた連合軍は追撃の好機を放棄、南奥羽の主導権は佐竹に奪われるが政宗は翌年二本松城を攻略し伊達成実を城将に据えて反撃の機を窺う
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1585年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城下町活性化のために顕如を大坂に呼び戻し天満本願寺を創建
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1585年
柳生石舟斎宗厳の父柳生家厳が死去
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1585年
大和郡山城100万石に入封した羽柴(豊臣)秀長が太閤検地を実施、柳生の庄を治める柳生宗厳は隠田摘発により全所領(2千石ほど)を没収され石舟斎(浮かばぬ船)と号す(柳生を去り京都で近衛前久に寄食したとも)、子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求めて出奔し宗厳は資質の優れた利厳(厳勝の次男)を手元に留め新陰流を授ける
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1586年
関白羽柴秀吉(豊臣秀吉)が年頭の参内で正親町天皇に「黄金の茶室」を披露、茶頭千利休は秀吉の成金趣味に眉をひそめつつ妙喜庵待庵に代表される草庵風茶室(下地窓・連子窓や躙口をあけた二畳の茶室)を完成させ楽茶碗や竹の花入・茶柄杓・茶杓などの道具に工夫を凝らし侘茶の境地を開く
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1586年
石田三成・直江兼続の策動により越後の上杉景勝が上洛し養子義真を人質に出して羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従、越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められた景勝は新発田重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、1589年信濃川中島四郡(武田勝頼遺領)と出羽庄内三郡(最上義光から奪回)の支配が確定し合計90万石の太守となる
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1586年
[岩屋城の戦い]島津義久が派した5万の大軍が筑前・筑後に侵攻、秋月種実・龍造寺政家・原田隆種・城井鎮房ら国人衆は挙って島津氏へ靡き総勢10万余で風前の灯火の大友方三城を猛攻、岩屋城の高橋紹運は徹底抗戦の末に城兵763人全員が玉砕して果て、宝満山城の高橋統増(紹運の次男。後の立花直次)は降伏開城して島津氏の捕虜となるが、立花山城の立花宗茂(紹運長男で道雪養嗣子)は詐降の計で油断を誘い大友宗麟の豊後攻めに転じた島津軍を追撃して数百を討取り、奇襲で原田・秋月の軍勢を痛撃、星野鎮胤・鎮元兄弟の高鳥居城を皆殺しにして攻取り岩屋城・宝満山城を奪回、九州征伐後宗茂は秀吉から「忠義・剛勇鎮西一」と激賞され直臣大名として筑後柳川城13万2千石を与えられる
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1586年
天下統一を急ぐ羽柴秀吉(豊臣秀吉)がライバル徳川家康との宥和路線に切替え、秀吉の妹あさひ(朝日姫)の輿入れに続いて母なか(大政所)を人質に差し出された家康は臥薪嘗胆で臣従、秀吉は早速九州征伐に乗り出し、豊臣政権運営では家康牽制のため旧知の前田利家を対抗馬に擁立
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1586年
[戸次川の戦い]肥後から島津義弘・日向から島津家久の軍勢4万が豊後大友領に殺到、大友宗麟の哀訴に応じた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は長宗我部元親率いる先発隊2万を派遣、戸次川を挟んで家久軍1万3千と対峙するが功を焦った軍監仙石秀久が無謀な冬季渡川を敢行し島津の「釣り野伏せ」戦法に嵌って副将の十河存保と長宗我部信親までが戦死する惨敗(溺愛する嫡子信親を喪った元親は悲嘆のあまり人が替わったような暴君となり長宗我部氏は破滅へ向かう。一方、味方を見捨てて一目散に領国讃岐へ逃げ帰った秀久は所領没収のうえ高野山へ追放されるが、小田原征伐の「仙石原合戦」で奮戦し信濃小諸5万石の大名に返り咲く)、家久は府内城を落として(城主大友義統は敵前逃亡)宗麟の臼杵城を包囲、島津義久は筑前立花城・岩屋城・宝満城で抗戦を続ける立花宗茂を残し九州制覇を達成
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1586年
羽柴秀吉が関白位を養子(甥)の羽柴秀次に譲り太政大臣に就任、朝廷から豊臣姓を賜り以後豊臣秀吉を名乗る
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1586年
豊臣秀吉からの出陣要請を固辞してきた吉川元春が小早川隆景・黒田官兵衛の説得に応じ病を押して九州征伐に参陣するが豊前小倉城で陣没(享年57)、半年後に嫡子吉川元長も日向都於郡の陣中で病没(次弟の広家が家督相続)
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1586年
備前岡山城主宇喜多秀家(直家の嫡子)が前田利家の娘で豊臣秀吉の養女豪姫を妻に迎え豊臣一門衆に列す
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1587年
会津黒川城主蘆名亀王丸が夭逝、蘆名家中は養子の人選を巡り伊達政道(政宗の弟)と白河義広(白河義親の養子に入っていた佐竹義重の次男)を推す両派が対立するが金上盛備の佐竹派が勝利し義広が蘆名盛隆の養女に入婿して家督を承継、佐竹氏は広大な蘆名領を不戦で併呑
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1587年
[九州征伐・根白坂の戦い]徳川家康を服属させた豊臣秀吉が島津征伐を号令、豊臣秀長(秀吉の弟)率いる毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家・黒田官兵衛らの10万余が豊後へ侵攻すると北部九州の諸豪は悉く帰順、劣勢の島津義弘・家久は豊後府内城を放棄して日向へ撤退し、秀吉の本体10万余が手薄な肥後へ入り隈本・宇土を攻略、日向高城で本国危うしの報を得た島津義久・義弘は打って出て秀長の攻囲軍に決戦を挑むが衆寡敵せず大敗、薩摩内城に戻った義久は義弘らの徹底抗戦論を抑え剃髪入道のうえ降伏謝罪、秀吉は義久に薩摩一国・義弘に新恩として大隅一国など島津本領をほぼ安堵し豊臣姓を与えた義弘が17代島津宗家当主を承継(義弘は太閤検地を通じて石田三成と親密になる)、渦中に家久が日向佐土原城で急病死~黒田官兵衛・石田三成の両参謀が博多の町割りをはじめとする戦後復興任務を遂行
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1587年
肥後人吉城主相良頼房が島津氏を見限り豊臣秀吉に帰順して本領安堵(投降に働いた執政の深水長智は秀吉の信任を得て豊臣直臣にスカウトされるが固辞)、薩摩大口城敗戦の罪で致仕された丸目蔵人長恵は17年ぶりに帰参を赦され兵法指南役(117石)に就任し長恵のタイ捨流は相良家のみならず東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及(上泉信綱の新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる)
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1587年
北部九州の島津方で唯一豊臣秀吉への帰順を拒む秋月種実が筑前秋月城に籠城、支城の豊前岩石城の抑えに配された蒲生氏郷は決死の嘆願で秀吉から攻城を許可され前田利長(利家嫡子)・羽柴秀勝(信長実子で秀吉養子)・石川数正(秀吉が引き抜いた元徳川家康家臣)の加勢を得て攻略に成功
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1587年
豊臣秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟が島津義久の降伏直前に豊後津久見で陣没(享年58。戸次川の戦いで敵前逃亡の醜態を晒しながらも家督を継いだ嫡子大友義統は、朝鮮役碧蹄館の戦いで再び敵前逃亡し激怒した秀吉に改易され九州一の名門大友氏は滅亡、関ヶ原の戦いで西軍総大将毛利輝元の援助を得て九州で大友再興軍を起すが黒田官兵衛に一蹴される)
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1587年
[バテレン追放令]大村純忠がイエズス会に長崎港を寄進した事実に驚愕し、宣教師ガスパール・コエリョがスペイン艦隊の武威を笠に傲慢な態度を示したことに立腹した豊臣秀吉が宣教師追放を発令(この時点では実利優先で南蛮貿易は容認され布教活動も事実上黙認)
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1587年
九州征伐後の領土再編で黒田官兵衛が播磨篠の丸城5万石から豊前6郡12万石に増転封され中津城の築城を開始(12万石は功績に比して過小であり嫡子黒田長政と幕僚は政敵石田三成への憎悪を募らせる)、小早川隆景は筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石に封じられて毛利家から独立した大大名の扱いとなる
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1587年
[北野大茶会]九州征伐から京都に凱旋した豊臣秀吉が庶民自由参加の大茶会を開催・黄金の茶室も披露
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1587年
豊臣秀吉が京都に政庁兼邸宅の聚楽第を建設(作事奉行は石田三成、演出は茶頭の千利休、障壁画は狩野派の狩野永徳が担当)、後陽成天皇の行幸を迎え諸大名列席の祝賀式では秀吉に懇願された徳川家康が臣下の礼をとり権威付けに協力
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1587年
[惣無事令(関東・奥羽)]西日本を九州まで平定した豊臣秀吉が関東・奥羽諸大名に私戦禁止を発令、伊達政宗は無視して領土拡張戦争を継続
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1587年
[肥後国人一揆]小牧・長久手の戦いで改易された佐々成政が九州征伐の武功で肥後一国の太守に返り咲くが、豊臣秀吉の指示に反して検地を断行し反発する国人が一斉蜂起、成政は筑後柳川城主立花宗茂の援軍を得てようやく鎮圧するも切腹に処され、秀吉は肥後54万石のうち北半分(熊本城25万石)を加藤清正・南半分(宇土城24万石万石)を小西行長に与える
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1587年
黒田官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙を衝いて領国の豊前で野中鎮兼ら国人衆が蜂起し、伊予への転封を拒否し3万石を改易された城井鎮房が呼応し旧居城井谷城を占拠、強圧に出た留守役の黒田長政は失敗するが、帰還した官兵衛が兵站を断つ持久戦に切替え無事鎮圧、鎮房を謀殺して反抗勢力を一掃し支配を固める
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1588年
[刀狩令・海賊停止令]豊臣秀吉政権による領民統治政策、来島通総(来島村上水軍)は進んで秀吉に帰服し伊予風早郡1万4千石の陸大名へ転身を遂げたが、独立保持に固執し抵抗を続けた村上武吉の能島村上水軍は解体され(武吉は備後竹原から筑前へ移され小早川隆景の庇護下で余生を繋ぐ)政権秩序への加入を拒んだ配下の海賊衆は芸予諸島の隅へ逃れ蔑視の対象とされる(第二次大戦前後に姿を消した船上生活者「家船」のルーツとも)
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1588年
豊臣秀吉が前将軍足利義昭を京都に招聘し義昭は正式に将軍職辞任を表明、秀吉は足利義昭を筆頭に織田信雄・織田信包・織田長益・細川昭元(晴元嫡子)・六角義賢・山名豊国・斯波義銀・赤松則房ら錚々たる没落大名を800人も召抱え名門の血流を保存すると共に御伽衆として文芸サロンを形成
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1588年
[大崎合戦・郡山合戦]伊達政宗が北隣する大崎義隆家中の内紛に介入して浜田景隆・留守政景・泉田重光らを派兵するが出羽の最上義光が来援し惨敗(隙を衝いた上杉景勝が最上領庄内を奪取)、機に乗じた常陸の佐竹義重は南方から伊達領へ攻入り蘆名義広(義重の次男)・相馬義胤が苗代田城を落とすが二本松城主伊達成実・大森城主片倉景綱・宮森城主白石宗実の堅守と小浜城主大内定綱の寝返りで佐竹勢が敗北、政宗は母義姫(最上義光の妹)を使って大崎・最上と和睦し南へ転じて三春城に入り田村宗顕(正室愛姫の従弟)を当主に据え田村領の確保に成功、人取橋の戦いから3年間に及ぶ連敗を脱した政宗は躍進への契機を掴む
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1589年
[寺内成敗]聚楽第落書犯の逃走を幇助し斯波義銀ら政治犯を匿ったとして豊臣秀吉(執行役は石田三成)が天満本願寺寺内町を徹底捜索、顕如は譴責処分で留まるが孫の願得寺顕悟および町人63名が処刑され本願寺町奉行に任じられた下間頼廉が事態を収拾
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1589年
黒田官兵衛が家督を嫡子長政に譲り隠居(秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞いた官兵衛が粛清を予見して即時引退を決意したという)、官兵衛は軍師留任を命じられて畿内に留まり豊前中津の領地経営は長政に託される
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1589年
[摺上原の戦い]出羽米沢城主伊達政宗が兵2万を率いて蘆名義広(佐竹義重の次男)襲封で揺れる蘆名領へ侵攻し猪苗代盛国の寝返りを誘って猪苗代城を占拠、近郊の摺上原で決戦を挑むと反佐竹派の富田氏実の戦線離脱で蘆名勢は瓦解し5千余の戦死者を出す惨敗、義広は佐竹領へ奔り戦国大名蘆名氏は滅亡、蘆名領を併呑し会津黒川城に入った政宗は結城義親・石川昭光・岩城常隆ら佐竹方諸豪を降伏させ反抗した叔母阿南の方の二階堂氏を滅ぼして会津四郡・仙道七郡を平定し北方の大崎・葛西氏も掌握、南奥羽を征し150万石の太守となった政宗は父祖譲りの巧みな外交を展開し豊臣秀吉・豊臣秀次・前田利家・浅野長政・徳川家康らの機嫌を取結びつつ秀吉の惣無事令を無視して周辺所豪族を片端から攻め潰し北条氏政にも通じて佐竹義重挟撃に策動、一方の佐竹義重は伊達・北条からの南北挟撃の危機に晒され豊臣秀吉に助けを求める(嫡子佐竹義宣に家督を譲るが実権は保持)
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1589年
豊臣秀吉の側室茶々(浅井長政・市の長女)が嫡子鶴松を出産、茶々は褒美に山城淀城を与えられ「淀殿(淀の方)」と称される
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1589年
[太閤検地]豊臣秀吉政権が全国各地の検地を開始(石田三成が主導)
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1589年
[名胡桃城事件]北条氏直の上洛を促す豊臣秀吉が懸案の沼田問題を裁定し真田昌幸に上杉への引渡しを命じるが、昌幸の懇願を容れて利根川西域と名胡桃城を真田に残したことが禍根となり、北条家臣の沼田城代猪俣邦憲が真田家臣の名胡桃城代鈴木重則を騙して城を奪取、鈴木は自害し昌幸は秀吉に強訴、激怒した秀吉は北条の言逃れを許さず小田原征伐を号令
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1590年
肥前佐賀城主の龍造寺政家(隆信の嫡子)が豊臣秀吉の命令で家督を嫡子高房に譲り隠居、隆信没後龍造寺の実権を握る鍋島直茂は秀吉から施政権のお墨付きを与えられる
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1590年
豊臣秀吉に弁明使を送りつつ図太くも北条氏政と連携し佐竹義重を攻め続けた伊達政宗が小田原落城を目前に投降を決意、兄の最上義光に通じ政宗毒殺を企てたとして母義姫を放逐し火種の弟伊達政道を暗殺して反抗の芽を摘み(政宗の狂言説が濃厚)主戦派の伊達成美に留守を託して越後・信濃・甲斐経由で小田原へ参陣、禿髪に白麻の陣羽織の異装・千利休を招いての茶の稽古で演出好みの秀吉の感心を引き誼を通じる徳川家康・前田利家・浅野長政らの取成しで助命されるが会津黒川城150万石から本領の出羽米沢城72万石に減転封
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1590年
[小田原征伐・天下統一]後北条氏家臣猪俣邦憲による真田昌幸領侵犯・惣無事令違反を名分に豊臣秀吉が20万の大軍を率いて侵攻、支城を落とし小田原城を重包囲(大谷吉継・長束正家と共に忍城・館林城攻略を命じられ初めて実戦を指揮した石田三成は「猿真似」で水攻めを試みるが大失敗)、徳川家康(氏直は娘婿)が早期降伏を促すが断念、北条氏政・氏直父子は3ヶ月の「小田原評定」の末に結局降伏し後北条氏滅亡し(最後の説得役は軍師黒田官兵衛)秀吉は天下統一を達成~戦後仕置で秀吉は強敵家康から駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国150万石を召上げ武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総の6カ国と下野・常陸の一部250万石へ移封、家康は黙って従い江戸城を本拠とし大規模都市開発に着手
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1590年
上野から侵攻した上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの北陸軍が大道寺政繁の松井田城など支城を次々と攻略(石田三成が指揮した忍城攻略のみ失敗)、悲願の沼田領奪回を果した真田昌幸は次男真田信繁(真田幸村)と共に豊臣秀吉への忠勤に励み徳川家康牽制の一翼を担うが、嫡子の真田信之は本多忠勝の娘婿で徳川家康に臣従
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1590年
[宇都宮仕置・奥州仕置]豊臣秀吉が大軍を率いて会津まで進み北関東・東北諸大名の領土再編を断行、佐竹義重(常陸太田城54万石)・最上義光(出羽山形城24万石)・南部信直(陸奥九戸城10万石)・相馬義胤(陸奥小高城4万8千石)・秋田実季(出羽秋田5万2千石)・小野寺義道(出羽横手4万7千石)・戸沢盛安(出羽角館4万4千石)・津軽為信(出羽津軽3万石)らは本領安堵、遅参した伊達政宗は本領72万石のみ安堵され本拠の会津も没収されて150万石から大減封(会津黒川城から米沢城へ移動)、反抗した葛西晴信・大崎義隆他は改易、没収領は蒲生氏郷に会津など42万石(伊勢松阪12万石から増転封、氏郷は黒川を若松に改名し増改築した鶴ヶ城へ転居、翌年再加増されて92万石)、木村吉清・清久父子に葛西・大崎領30万石(知行5千石から破格の出世)を付与、奥羽司令官任官且つ飛躍的増封ながら天下への夢絶たれ嘆く蒲生氏郷と領地奪回を企む伊達政宗の暗闘が勃発、仕置後の統治政策は検地奉行の石田三成が主導
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1590年
[葛西大崎一揆]奥州仕置軍の退去後間もなく旧大崎・葛西領で検地に反抗する百姓一揆が蜂起、葛西大崎遺臣団が参戦主導し伊達政宗が財貨を与えて扇動したため内戦に発展、俄か大名の木村吉清・清久父子と急拵えの家臣団は成す術なく佐沼城に閉塞、会津若松城から救援に出た蒲生氏郷は政宗の露骨な妨害に苦しみつつも一揆勢を破って木村父子を救出し二本松城へ生還、氏郷の告訴で政宗の策謀が露見するが明攻めを急ぐ豊臣秀吉は徳川家康・前田利家らの取成しもあって出羽米沢城72万石から陸奥玉造郡岩出山城58万石(仙台北郊)への減転封で政宗を赦免(政宗は金箔張りの磔柱を先頭に立てて上洛し演出好きの秀吉を和らげる)、命拾いした政宗は京都から戻ると忽ち自作自演の一揆を平定
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1590年
関八州250万石へ移封された徳川家康が家臣団の領地を再編、「徳川四天王」の井伊直政(家康の養女婿)は上野箕輪城12万石(高崎城へ移動)・本多忠勝は上総大多喜城10万石・榊原康政は上野館林城10万石・酒井家次(忠次の嫡子)は下総臼井3万7千石(忠次が不満を訴えると家康は「お前も子が可愛いか」と信康事件の報復を仄めかす)、大久保忠世は相模小田原城4万5千石・嫡子の大久保忠隣は武蔵羽生2万石、後に台頭する本多正信は相模玉縄1万石に封じられ大名に列す
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1590年
祖父の狩野元信が興した職業画家集団「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手 狩野永徳が東福寺法堂の天井画を制作中に過労死(享年47)、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨する
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1590年
徳川家康家臣の服部半蔵正成が遠江に知行8千石を与えられ正式に伊賀・甲賀衆の支配役に任じられる
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1590年
前田利家の家臣で中条流当主の富田重政(景政の婿養子で実父は山崎景隆)が佐々成政を撃退した「末森城の後巻」での一番槍・小田原征伐の武蔵八王子城攻めの武功により大名並みの1万3千石を与えられ「名人越後」と称される(武将としての知行だが1万石以上を得た兵法家は後の柳生宗矩のみ、ただし後嗣重康の没後に富田家と中条流=富田流は衰退する)
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1590年
不行跡を改めない前田慶次郎利益が主君で義叔父の前田利家と衝突し出奔(改心を装って利家を茶の湯に招き水風呂に叩き込んでそのまま逃走したという伝説あり)、京都で気儘な浪人生活を送り「穀蔵院飄戸斎(ひょっとさい)」なるふざけた名乗りで里村紹巴・九条稙通・古田織部・細川藤孝ら一流文化人と交流(豊臣秀吉の諸大名饗応に紛れ込んだ慶次郎が「猿真似の猿舞」で秀吉をおちょくったという伝説あり)
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1591年
豊臣秀吉の弟で名参謀の豊臣秀長が死去(謀殺説あり)、甥で婿養子の豊臣秀保が後を継ぎ重臣藤堂高虎が盛り立てるが4年後に秀保が後嗣無く急逝し秀長の大和豊臣家は断絶する
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1591年
豊臣秀吉の突然の命令により「利休道具」の錬金術と侘茶接待で大名統治に貢献した茶頭千利休が切腹(享年70)、千家は閉門となり茶頭は高弟の古田織部に引継がれるが蒲生氏郷・細川忠興ら「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しで赦免され、孫の千宗旦の子が武者小路千家・表千家・裏千家を興し「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて今日まで繁栄を続ける
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1591年
[九戸政実の乱・奥州再仕置]北奥羽南部家で家督争いから一族の九戸政実が反乱挙兵、奥州仕置に反発する土豪一揆が呼応したが、京都から馳せ戻った蒲生氏郷が豊臣秀次・徳川家康の加勢を得て忽ち討平、秀吉は大崎・葛西一揆の戦後処理を兼ねて奥州大名再編を実施し氏郷は会津若松城42万石に7郡加増で92万石、木村吉清・清久父子は所領没収(氏郷の客将となる)、伊達政宗は出羽米沢城72万石から陸奥玉造郡岩出山城58万石(仙台北郊)への減転封、氏郷と政宗は秀吉の命を受けた前田利家の仲裁で一応和解
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1591年
豊臣秀吉が明侵攻(唐入り)を宣言し前線拠点の肥前に名護屋城を築城、明の属国李氏朝鮮には道案内を要請するが双方に義理のある対馬領主宗義智のごまかしで交渉がこじれ激怒した秀吉は朝鮮征伐を断行
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1591年
豊臣秀吉が姉日秀の子豊臣秀次に関白位を譲り太閤(前関白)となる
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1591年
豊臣秀吉から寺内成敗の罪を赦された顕如が本願寺教団を再興、大阪天満から京都堀川六条の現在地に本願寺を移築(西本願寺)
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1592年
[文禄の役・朝鮮出兵開始]豊臣秀吉が明の属国李氏朝鮮に宣戦し当時世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍を派遣(総大将は豊臣一門扱いの宇喜多秀家、総奉行石田三成、軍監黒田官兵衛・浅野長政、一番隊小西行長、二番隊加藤清正、三番隊黒田長政、四番隊島津義弘、五番隊福島正則、六番隊小早川隆景、七番隊毛利輝元ほか2隊と加藤嘉明・藤堂高虎・九鬼嘉隆・脇坂安治ら水軍隊の大編成で総勢15万余)、日本軍は戦わずに逃走する宣祖王・朝鮮軍を追って首都漢城を落とし平壌まで制圧し、加藤清正隊は更に宣祖王を追って朝鮮北辺に達し満州国境で臨海君・順和君の二王子を捕縛、水軍勢は釜山浦の戦いで李舜臣の朝鮮水軍を撃破するが、端から和平を望み秀吉をも欺く石田三成・小西行長・宗義智らと命令遵守の加藤清正・福島正則・黒田長政らの対立が深まる
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1592年
[梅北一揆]朝鮮出兵に向かう島津軍で梅北国兼が反逆し肥後佐敷城を占拠するが忽ち鎮圧されて国兼は討死、島津義弘は豊臣秀吉から「日本一の遅陣」と咎められ、豊臣秀吉は監察使細川藤孝を薩摩に派遣し島津義久は加担嫌疑の島津歳久を誅殺(藤孝は大隅に3千石の加増を受ける)、家臣が一揆に加わった罪で阿蘇惟光も斬刑に処され阿蘇氏は滅亡
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1592年
織田信長を最も苦しめた本願寺顕如が死去(享年50)、嫡子教如が本願寺法主を継承するが武闘派のため豊臣秀吉に廃され穏健派の三男准如が法主に就任(西本願寺)、本願寺町奉行の下間頼廉は異議を唱え秀吉の勘気を蒙るが准如に忠誠を誓い赦免される(西本願寺刑部卿家)
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1593年
軍監として朝鮮出兵に従った黒田官兵衛と浅野長政が石田三成・小西行長との確執により無断帰国、官兵衛は三成の讒言で豊臣秀吉の勘気を蒙るが剃髪入道して赦免される(如水と号す)
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1593年
[碧蹄館の戦い]李如松率いる明の大軍(10万とも30万とも)が日本軍を急襲、休戦講和と偽られ攻め込まれた小西行長隊は平壌を放棄して漢城へ撤退し、後詰の大友義統隊は敵前逃亡(宗麟の嫡子。秀吉の逆鱗に触れて改易され戦国大名大友氏は滅亡、後に名門を惜しむ徳川家康が嫡子義乗を召抱え高家旗本として家名存続)、総大将の宇喜多秀家と石田三成・増田長盛・大谷吉継らの幕僚は漢城籠城を主張するが小早川隆景の反対で軍議は野戦に決定、先鋒を託された立花宗茂は兵3千弱を率いて漢城北方20キロ碧蹄館の隘路で決死の迎撃に打って出て2千余人を討取る快勝、毛利・宇喜多の本隊が押返されるなか立花勢の突撃と背後に回った小早川勢の奇襲により明軍を壊走させるが、漢城の食料貯蔵庫を焼かれた日本軍は明と講和し釜山まで撤退、秀吉には面従腹背で講和を進める三成・行長ら文治派と勇敢に戦ったのに讒言で貶められた加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派の対立が深刻化
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1593年
豊臣秀吉の側室淀殿が嫡子拾丸を出産(豊臣秀頼)、淀殿は乳母の大蔵卿局・子の大野治長を重用して豊臣家の奥向きを掌握しつつ加藤清正(秀吉の又従兄弟)・福島正則(同従弟)・黒田長政(官兵衛の嫡子)ら北政所ライン(武断派)と敵対する石田三成(文治派)に接近し政治への介入姿勢を強める
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1593年
[小金ヶ原の決闘]伊東一刀斎景久に命じられた小野善鬼と神子上典膳が流儀相伝を賭け真剣勝負し勝った典膳が一刀流を相伝(唯授一人)、徳川家康に招聘された一刀斎は忽然と消息を絶ち代わりに推挙した典膳が200石で召抱えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任(典膳は小野忠明へ改名)、武芸一筋の忠明は将軍秀忠に嫌われるが一刀流は幕末まで柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇る(明治維新後の剣道主査会の5人のうち2人は北辰一刀流・1人は小野派一刀流の系統、小野派と中西派を継いだと称する山岡鉄舟は一刀正伝無刀流を興す)
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1594年
豊臣秀吉が男児の無い毛利輝元の養嗣子に羽柴秀俊(小早川秀秋。秀吉正室北政所の甥)を押付けるが小早川隆景は甥の毛利秀元への家督相続を主張して峻拒し代わりに小早川家の養嗣子に秀秋を迎え入れる、能島村上水軍の村上武吉・元吉父子は小早川家を辞して毛利輝元へ転籍(次男の村上景親は隆景死去まで小早川家に残留)
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1594年
兵法大名の徳川家康が浪人中の柳生石舟斎宗厳を洛北鷹ヶ峯の居宅に招き試技、67歳の宗厳は素手で家康の木剣をもぎとって「無刀取り」の奥義を披露し(師の上泉伊勢守信綱から与えられた公案)感服した家康は宗厳の代わりに随行していた末子の柳生宗矩を200石で召抱える、宗矩は関ヶ原合戦後に旧領柳生の庄2千石を回復し将軍徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万石を立藩(江戸柳生)、宗厳嫡孫の柳生利厳も尾張徳川家の兵法指南役となり(尾張柳生)、柳生新陰流は将軍家お家流として隆盛を極める)
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1595年
豊臣秀吉が「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しにより誅殺した千利休の遺族を赦免、家督を継いだ嫡子千道安は豊前小倉城主細川忠興に茶頭として招かれるが間もなく後嗣無く病没、利休娘婿の千少庵が後を継ぎ嫡子千宗旦の三児が「三千家」(武者小路千家・表千家・裏千家)を興す
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1595年
織田信長の娘婿で豊臣秀吉から奥州支配を託された蒲生氏郷が肥前名護屋で陣没(享年40。辞世:限りあれば 吹かねど花は 散るものを こころ短き 春の山風)、嫡子蒲生秀行は遺領収公の危機を逃れて会津92万石を相続するが、力量不足で徳川家康の抑え役は務まらず重臣の争い(蒲生騒動)を理由に宇都宮18万石へ減転封、会津には120万石で上杉景勝が入る(徳川家康の娘振姫を妻に迎えた秀行は関ヶ原合戦後に会津60万石に返り咲くが、後継の次男忠知の代で蒲生氏は無嗣断絶となる)
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1595年
豊臣秀保(秀長の甥で婿養子)が後嗣無く急逝し大和豊臣家は断絶(謀殺説あり)、重臣の藤堂高虎は高野山で出家する素振を見せるが直ちに説諭に応じて豊臣秀吉に仕え一気に5万石を加増されて伊予板島(宇和島)7万石に封じられる
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1595年
[秀次事件]豊臣秀吉が嫡子秀頼の後顧の憂いを絶つため(淀殿・石田三成が策動)甥の関白豊臣秀次を自害させ眷属悉くを三条河原で処刑、毛利輝元・浅野長政・伊達政宗・藤堂高虎・細川忠興・山内一豊ら秀次に近い諸大名にも追及が及び秀吉人気が急落する代わりに救済に奔走した徳川家康の株が上昇、武断派から首謀者と信じられた石田三成は近江佐和山19万4千石に加転封、秀次旧領の処分で秀吉は近江7万石を代官地として三成に、尾張清須城21万石を福島正則に、筑前・筑後30万7千石を小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)に与える
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1595年
豊臣秀吉が秀次事件の混乱終息を図り宿敵徳川家康を掣肘するため「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して合議制を制定、五大老には家康を取囲む形で与党の前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(間もなく家督を養嗣子秀秋に譲って筑前名島城に隠居し2年後に死去、大老職は上杉景勝が継承)を配し五奉行には子飼いの浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以を据える
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1595年
肥後人吉城主相良頼房が760余人を率い加藤清正の二番隊に属して朝鮮役に出征するが国許で犬童氏と深水氏の抗争が起り湯前城で蜂起した深水一族の竹下監物が切腹に処され頼房の命で帰国した犬童頼安・頼兄が竹下・深水一党73名を誅殺、深水頼蔵は加藤領へ逃れ清正を通じて豊臣秀吉に惣無事令違反を訴えるが清正と対立する石田三成が犬童を庇いお咎め無し、むしろ頼房は蔚山城合戦の武功により秀吉から感状を与えられる
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1596年
[慶長の役・朝鮮出兵再開]日明双方に敵方降伏と偽った石田三成・小西行長の腹芸が明使沈惟敬の謁見で露呈し激怒した豊臣秀吉は再出兵を決定、総大将小早川秀秋率いる日本軍は計画どおり全羅道・忠清道を制圧し朝鮮南部を恒久領土化するため城郭群建築を開始するが、行長は敵に日本軍の兵糧不足を告げ「清野の計」(民を山に逃込ませ糧食の徴発を妨げる策)を教える売国行為も辞さず、三成は秀吉に讒言して講和を妨げる加藤清正ら武断派の排除を図る
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1596年
[蔚山城の戦い]築城中の朝鮮南岸蔚山城を明軍が襲撃、守将加藤清正は兵糧難の籠城戦に耐え毛利秀元・黒田長政・立花宗茂らの援軍到着により明軍を撃退し朝鮮南部を確保~軍監黒田官兵衛は自ら采配して長政の後詰を果し合戦後は石田三成派軍目付の讒言覚悟で戦線縮小を図る
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1596年
播磨を訪れた新当流の有馬喜兵衛が立合い相手を求める高札を掲げると13歳の宮本武蔵が応戦、武蔵は正蓮院住職に連れられ謝罪に赴くが居丈高な態度に激昂し喜兵衛を持上げて叩き付け棒で撲殺、白眼視された武蔵は平福村を去って流浪し已む無く兵法者の道を踏出す
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1597年
[サン=フェリペ号事件・26聖人殉教]遭難したスペイン商船が土佐に漂着、豊臣秀吉政権は宣教師同乗を理由に積荷を没収、キリシタン大名による領民迫害やポルトガル商人による日本人奴隷売買が目に余る状況のなか船員が無敵艦隊による日本征服をちらつかせたため再び禁教令を公布、抵抗した京都のキリシタン26人(スペイン等外国人宣教師6人と日本人20人)を捕えキリシタンの多い長崎に送り処刑
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1597年
元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て安芸・備後・周防・長門・石見・出雲に120万石を保ち自身も筑前・筑後37万石と五大老職に封じられた小早川隆景が死去(享年65。親友の黒田官兵衛は「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆く)、「器量の無い毛利輝元は天下の軍事に関わらず領国を堅守すべし、違えれば所領を失い身も危うくするだろう」との遺言が3年後の関ヶ原の戦いで的中、輝元は石田三成の甘言に釣られ西軍総大将に担がれるも南宮山の毛利軍は参戦せず小早川秀秋(隆景養嗣子)の寝返りで徳川家康に勝利を献上、恐怖した輝元は不戦のまま大阪城を明渡す醜態を晒し防長二州36万石に押込められる
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1597年
恩人の織田信長に反逆して自滅し晩年は豊臣秀吉に養われた室町幕府最後の将軍足利義昭が大坂で死去(享年61)、足利将軍家は断絶したが秀吉の取成しで古河公方・小弓公方の末孫足利国朝が下野喜連川に3500石を与えられ徳川家康に厚遇されて幕末まで喜連川藩として存続する
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1597年
朝鮮水軍を撃破した藤堂高虎が大洲城1万石の加増を受け(合計8万石)本拠板島城の大規模改築を行い宇和島城へ改称、朝鮮役の論功行賞を巡り豊臣家臣団が武断派(加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら)と文治派(石田三成・小西行長・大谷吉継・宇喜多秀家ら)に割れるなか高虎は逸早く徳川家康に帰服し武断派懐柔に貢献する
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1598年
豊臣秀吉が蔚山城合戦の失策を理由に小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)を筑前・筑後30万7千石から越前北ノ庄15万石へ減転封、筑前・筑後は太閤蔵入地とし代官の石田三成が管理、秀吉没後すぐに秀秋は徳川家康の計らいで旧領を取り戻すが遺恨は関ヶ原寝返りの原因となる
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1598年
[蒲生騒動]蒲生氏郷没後の会津藩で蒲生郷安と蒲生郷可・郷成らの内部抗争が発生、徳川家康への警戒を強める豊臣秀吉・石田三成は力量不足の蒲生秀行を宇都宮18万石へ移封し(会津92万石から減転封)上杉景勝を120万石で会津藩主・奥州司令官に起用(越後春日山90万石から増転封。出羽庄内は留め置かれたため上杉領は最上義光領により分断される)、三成と昵懇な直江兼続は秀吉の命により120万石のうち出羽米沢30万石を分与される
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1598年
[醍醐の花見]豊臣秀吉が再建した醍醐寺の庭園に700本の桜を植樹し身内で花見を楽しむ
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1598年
豊臣秀吉が五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)に嗣子豊臣秀頼の後見を念押しして死去(享年62、豊国大明神の神号で豊国神社に祀られる)、五大老・五奉行が朝鮮出兵中止を決定し撤兵開始、加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派の報復を恐れる石田三成は秀吉の喪秘をだしに家康・利家に取入ろうとするが術策が露見して逆効果・五奉行筆頭の浅野長政にも嫌われる
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1598年
丹後宮津城主の細川藤孝・忠興父子が豊臣家を見限り徳川家康に帰服
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1598年
[泗川の戦い・日本軍圧勝のまま朝鮮出兵終結]豊臣秀吉没後直ちに日本軍が撤収を開始、明軍は蔚山・泗川・順天の三路から追撃に出るが、島津義弘が7千の手勢で10万余の敵軍を壊滅させるなど各方面で日本軍が完勝、水軍戦でも敵将李舜臣らを敗死させ殿軍島津義弘まで無事帰国
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1599年
豊臣秀吉の遺言により前田利家が大坂城に入り豊臣秀頼を擁して徳川家康を掣肘するが、家康は堂々と秀吉の遺命を破り無断で伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則・加藤清正と婚姻を結び勢力扶植のため島津義弘・堀尾吉晴・細川忠興らへの知行加増を強行、前田利家ら四大老と五奉行をはじめ諸将が家康を糾弾し石田三成の策動(家康襲撃計画も)で一触即発の事態となるが、対決は時期尚早とみた家康の妥協により和解が成立、加藤清正・福島正則ら武断派に憎悪され利家ら味方にも不人気で追詰められた三成は上杉景勝・直江兼続と局面打開の密謀を凝らす
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1599年
朝鮮役蔚山城合戦の失策を豊臣秀吉に咎められ越前北ノ庄15万石に減転封された小早川秀秋が徳川家康の計らいにより筑前名島30万7千石へ復帰
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1599年
加賀・越中・能登の太守で豊臣秀吉が徳川家康の対抗馬に立てた前田利家が死去(享年62)、翌日加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の7将が石田三成の大坂屋敷を襲撃、三成は佐竹義宣・上杉景勝・宇喜多秀家の助力で大坂から脱出し伏見城の家康に泣きついて難を逃れるが五奉行辞任・佐和山城退去の救済条件を呑まされ、三成失脚で家康が一層専横を強める結果となる
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1599年
徳川家康に臣従した丹後宮津城主細川藤孝・忠興が豊後杵築6万石を加増される(合計18万石)
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1599年
[加賀征伐(未遂)]徳川家康が本多正信の献策により前田利長(利家の嫡子)征伐を画策、利長は細川藤孝・宇喜多秀家を通じて豊臣秀頼に救援を求めるが断られ抵抗を断念・生母の芳春院(まつ)を江戸へ人質に送り養嗣子の前田利常と珠姫(徳川秀忠の娘)の縁談を受入れる、家康の信任を得た正信は天下簒奪に謀略を凝らす
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1599年
[宇喜多騒動]宇喜多家執政長船綱直の死(毒殺説が濃厚)を機に戸川達安・岡利勝ら重臣が宇喜多秀家に反逆し大坂屋敷を占拠、秀家は逆臣討伐を宣するも宇喜多詮家(直家の甥)が戸川らに加担し一触即発の展開、徳川家康の裁定で首謀者の他家預けで決着し内乱は回避されるが主要な一門・重臣を失った宇喜多家は家勢を削がれる(家康に仕えた詮家改め坂崎直盛は関ヶ原・大阪陣の戦功で石見津和野藩4万3千石の大名に出世するが、豊臣家滅亡後の千姫強奪事件で切腹し家は滅亡)
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1600年
蘭船リーフデ号が豊後佐志生に漂着、乗組員のヤン・ヨーステン(八重洲の由来)とウィリアム・アダムス(三浦按針)を徳川家康が家臣にする
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1600年
井伊直政の策動により黒田長政が蜂須賀小六の娘糸姫を離縁して徳川家康の養女栄姫(実父は信濃高遠城主保科正直)と結婚・旗幟を鮮明にした長政は小早川秀秋ら豊臣恩顧大名や吉川広家ら毛利家重臣を東軍へ勧誘、直政は京極高次(淀殿の妹初の婿)・加藤貞泰・稲葉貞通(一鉄の嫡子)・関一政・相良頼房ら豊臣賜姓大名の調略も成功させる
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1600年
[会津征伐]石田三成と直江兼続の密謀により会津120万石の上杉景勝が徳川家康の上洛命令を拒否し兼続は「直江状」で家康を挑発、家康は三成を誘うため敢えて計略に嵌り豊臣秀頼の命を得て諸将を従え上杉征伐に乗出す
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1600年
石田三成が毛利輝元を総大将に担ぎ徳川家康征伐を宣言、在京阪の諸大名の妻子を人質とするが細川忠興の正室ガラシャの自害などで撤回、伏見城の守将鳥居元忠を血祭りにあげ(島津義弘は伏見城に馳せ参じるが警戒する元忠に拒否され已む無く西軍に加盟、小早川秀秋の長兄木下勝俊は元忠を見捨てて敵前逃亡)、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り(毛利勢は毛利秀元・吉川広家・小早川秀秋・安国寺恵瓊が率いて出陣)三成率いる西軍主力は東軍迎撃の拠点美濃大垣城に入り織田秀信(信長の嫡孫三法師)の岐阜城を調略
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1600年
[小山評定]石田三成挙兵の報を受けた徳川家康が上総小山陣の評定で西軍打倒を宣言、黒田長政の根回しにより福島正則をはじめ豊臣恩顧大名が挙って賛同(加藤清正は熊本に在国。山内一豊は真先に掛川城提供を申し出ただけの功で関ヶ原合戦後に土佐20万石へ3倍加増)、会津征伐軍はそのまま東軍となり上杉・佐竹の抑えに宇都宮城に結城秀康の軍勢を残して大阪城の豊臣秀頼救出へ転進、岐阜城落城の報を受けた家康は江戸城を出陣し3万3千を率いて東海道を・秀忠率いる3万8千は中山道をとって前線拠点の名古屋城へ進軍、会津の直江兼続は追撃を説くが上杉景勝の拒絶で家康打倒の好機を逃し兵3万を率いて北の最上義光を攻める
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1600年
[第二次上田合戦]会津征伐途上の天明宿(佐野)で石田三成の書状を受取った真田昌幸が甲斐・信濃二国進呈の餌に釣られて次男真田信繁(幸村、大谷吉継の娘婿)と共に西軍に加盟、兵2千5百で信濃上田城に籠城し徳川秀忠軍3万8千を足止めして関ヶ原合戦に遅参させる大功を挙げるが西軍大敗で目論みは瓦解(功に逸る秀忠は榊原康政・本多正信の諫止を聞かず大事の前の小事に固執、激怒・失望した家康は秀忠の廃嫡を考える)、東軍に属した嫡子真田信之(妻は本多忠勝の娘で家康養女の小松姫。昌幸領に3万石を加増され上田藩9万5千石を得る)の必死の嘆願で昌幸・信繁は辛くも助命され高野山へ追放される
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1600年
[関ヶ原の戦い]石田三成の西軍が美濃大垣城から野戦に誘い出され関ヶ原で徳川家康率いる東軍を迎撃、西軍は兵数と布陣で有利な状況ながら吉川広家に抑えられた毛利勢の不戦と小早川秀秋の寝返りで大敗、大谷吉継(享年42)は戦死、石田三成(41)・小西行長(同43)・安国寺恵瓊(同62)は京都六条河原にて斬首、西軍主力の宇喜多秀家は改易のうえ八丈島に流罪、西軍総大将毛利輝元は偽りの領国安堵に釣られ鉄壁の大阪城を明け渡すが120万石から防長36万石へ大減封、上杉景勝は陸奥会津120万石から出羽米沢30万石へ減転封、佐竹義宣は常陸54万石から出羽久保田20万石へ減転封、島津義弘は家康の平定優先政策により辛くも免責、逆に最大加増者は毛利・小早川調略を担った黒田長政で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ加転封、漁夫の利で天下獲りを狙った黒田官兵衛は封土恩賞を辞退し筑前で悠々自適に余生を送る
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1600年
井伊直政と娘婿の松平忠吉(家康の四男)が先鋒の福島正則を出抜き関ヶ原の戦いが開戦すると直政・黒田長政に篭絡された小早川秀秋・吉川広家の寝返りで東軍が完勝、直政は「島津の退き口」で負った鉄砲傷を悪化させながら戦後処理に奔走・周章狼狽する毛利輝元を本領安堵の偽約で大阪城から追出し、長宗我部盛親の改易処理と山内一豊の土佐入封支援、島津義弘との和平交渉、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子の助命工作を主導、更に徳川家康の世子問題で娘婿の忠吉を後援する
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1600年
越前北ノ庄15万石への減転封で石田三成を憎み筑前名島30万7千石への復帰で徳川家康に感謝する小早川秀秋(豊臣秀吉の正室高台院の甥で小早川隆景の養嗣子)が黒田長政を通じて東軍へ内応、関ヶ原南西の松尾山に陣取り戦闘を傍観するが家康の威嚇射撃で腰を上げ大谷吉継の陣を横撃(先鋒の松野重元は不義に怒って戦線離脱)、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の寝返りを誘発して大谷隊を撃滅し吉継は秀秋に「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害、南宮山の毛利勢は吉川広家の寝返りで参戦せず、家康は本隊投入で総攻撃を掛け宇喜多秀家・石田三成を破り西軍は潰走、小早川秀秋は宇喜多旧領の備前岡山藩55万石に栄転するが祟りに怯えて発狂・寝返りを主導した重臣の稲葉正成(妻の春日局が徳川家光の乳母となり譜代大名稲葉家と堀田家の祖となる)・平岡頼勝は出奔し諫言した杉原重政を誅殺
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1600年
関ヶ原合戦で西軍最大兵力を率いて石田三成・大谷吉継と共に奮戦した宇喜多秀家が小早川秀秋と刺違えようとするが明石全登(後に大坂陣で戦没)に制止され已む無く逃走、伊吹山中で落ち武者狩りに情をかけられ変装して海路西向し薩摩藩主島津義弘に匿われる、秀家の備前岡山城57万4千石は改易され秀秋が入封
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1600年
[島津の退き口]西軍に属しつつも関ヶ原合戦を傍観した島津義弘が手勢(300人とも1500人とも)を率いて敵陣中央への強行突破を敢行、福島正則・小早川秀秋の陣を抜いて徳川家康の本陣前で転進すると追撃に出た井伊直政・本多忠勝・松平忠吉を「捨て奸」戦法で撃退(直政は鉄砲弾を受けて落馬し2年後に死去)、80名に減じながらも戦線を離脱した義弘一行は大和三輪山平等寺でほとぼりを冷まし難波津から海路薩摩へ帰還西軍に属して近江大津城を落とし守将に就いていた立花宗茂が撤退、大阪城に入って総大将の毛利輝元と増田長盛らに籠城抗戦を説くが容れられず憤慨して筑後柳川へ帰還(薩摩へ戻る島津義弘と同船)、武備恭順策を採った島津義久・義弘は和平工作に励む一方で軍備増強を図り徳川家の明貿易船2隻を撃沈、内乱終息を優先する徳川家康は「西軍参陣は義弘の私闘」と断じて島津氏はお咎めなし、島津忠恒(義弘の次男)が薩摩藩56万石の初代藩主に就任
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1600年
西軍に属して近江大津城を落とし守将に就いていた立花宗茂が撤退、大阪城に入って総大将の毛利輝元と増田長盛らに籠城抗戦を説くが容れられず憤慨して筑後柳川へ帰還(薩摩へ戻る島津義弘の船団と豊後まで同航)、逸早く投降し徳川家康から立花征伐を命じられた鍋島直茂軍を撃退するも黒田官兵衛・加藤清正の大軍が来襲し君臣全員の助命を条件に降伏、宗茂は清正から肥後玉名郡高瀬に住居を与えられ1万石を支給される(誾千代一派も肥後に引取られたが同郡腹赤村に別居)
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1600年
小早川秀秋(隆景の養嗣子)が突如西軍に襲い掛かり吉川広家(元春の後嗣)が毛利秀元(輝元の養子)の参戦を遮ったため西軍は関ヶ原合戦で完敗、西軍総大将の毛利輝元は豊臣秀頼を擁し鉄壁の大阪城に陣取りながら周章狼狽し立花宗茂や毛利秀元の主戦論を退けて降伏開城、広家は開戦前に黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており大阪城開城に際しても念押しの書状を受領したが反故にされ徳川家康は毛利家の取潰しと広家への周防・長門付与を通告するが最終的に輝元嫡子の毛利秀就に防長36万石の領有を承認(輝元は隠居するが実権は保持)、功労者の広家には岩国城3万石を立てさせるが毛利家では幕末まで支藩扱いされず、小早川秀秋は筑前名島30万7千石から宇喜多秀家旧領の岡山藩55万石へ増転封されるが祟りに怯え2年後に発狂死し無嗣改易
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1600年
関ヶ原の戦いで石田三成に加担しながら豊臣秀頼の出陣や墨付きなどは許さず傍観の態を装った淀殿が感謝をもって徳川家康を大阪城へ迎え入れるが豊臣家は蔵入地を没収され大坂城65万石の一大名に没落、太閤秀吉の遺命にしがみつく淀殿は秀頼の上洛・臣従要求を「そんなことをするなら秀頼を殺して自害する」と感情的に拒絶し破滅へと突き進む
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1600年
井伊直政に内応しつつ美濃大垣城に詰めた相良頼房・犬童頼安が秋月種長・高橋元種兄弟と共に東軍へ寝返り守将の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直・木村由信らを謀殺、相良は肥後人吉藩2万石・秋月は高鍋藩3万石・高橋は日向延岡藩5万石を安堵される(相良藩・秋月藩は幕末まで存続)
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1600年
関ヶ原合戦の漁夫の利を狙う黒田官兵衛が豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、毛利輝元が派遣した大友義統(朝鮮出兵の敵前逃亡で改易された宗麟嫡子)の軍勢を別府石垣原の戦いで破り、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川家康の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け天下争覇の夢破れる
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1600年
[慶長出羽合戦]会津征伐軍の上方転戦により最前線で孤立した最上義光領に上杉景勝・小野寺義道が侵攻、直江兼続率いる圧倒的軍勢を相手に江口光清の畑谷城は玉砕陥落するが長谷堂城の志村光安と鮭延秀綱・上山城の里見民部・湯沢城の楯岡満茂らは猛攻を凌ぎ、東軍勝利の報を得た伊達政宗・南部利直の助勢を得て上杉軍を撃退、義光は兜に被弾しつつも先頭切って上杉軍を追撃し十五里ヶ原の戦いで上杉に奪われた庄内を奪還(兼続は前田慶次郎らの奮闘で鮮やか撤退戦を演じ家康・義光からも賞賛される)、義光は徳川家康から孤軍奮闘の功を賞され出羽山形城主24万石に庄内等を併せ57万石へ大加増、義光は山形城・城下町の整備と商業奨励、酒田港へ通じる街道・水運の整備、治水工事と開墾等の産業振興に尽力
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1600年
前田慶次郎利益(前田利家の義甥)が上杉景勝に1千石で出仕し(三本の大根を持参し「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛みば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と述べたという伝説あり)慶長出羽合戦・長谷堂城の戦いで武功を立てる(慶次郎は図々しくも「だいぶへんもの(大武辺者)」の旗指物で出陣し反発した上杉家臣を「大分変者」と煙に巻くが合戦では単騎最上勢に乗入れを睨み帰したという伝説あり)、慶次郎は陸奥会津120万石から出羽米沢藩30万石へ大減封された上杉景勝に従って米沢藩士となり郊外の堂森(慶次清水)に隠棲し古典研究や和歌・連歌に遊ぶ自適の余生を送る
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1600年
伊達政宗が徳川家康から得た「百万石のお墨付」を既成事実化するため西軍諸大名を攻撃、直江兼続率いる上杉軍が最上義光領へ侵攻すると援軍を送って刈田郡湯原城を攻略し北方の南部利直領内で一揆を扇動、上杉軍が撤退すると自ら出陣し南進するが本庄繁長の福島城を落とせず家康の叱責により渋々矛を収め撤収、戦後若干の加増を受けて62万石の封地が確定し岩出山城南方13里の千代に新本拠の造営を開始(仙台へ改名)
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1600年
東軍に属して九州で戦い宿敵小西行長の宇土城・八代城を攻落とした加藤清正(肥後熊本城25万石)が小西領を併せて肥後一国54万石に加増され熊本城の大改築に着工(6年後に完成し隈本から熊本へ改名)、朝鮮式築城術に範を取ったよじ登れない「はねだし」の石垣が注目され築城名人と賞される(明治維新後の西南戦争で鎮台の置かれた熊本城は西郷隆盛軍の猛攻に遭うが崩されず)
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1600年
豊臣恩顧大名のなかで真先に徳川家康に帰服して武断派大名の懐柔に奔走し関ヶ原合戦では脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保らの寝返工作を担った伊予宇和島城主の藤堂高虎が伊予今治12万石を加増され(合計20万石)外様ながら譜代大名格の厚遇を受ける、高虎は4年後に今治城を築き居城を移転
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1601年
上杉景勝・直江兼続が上洛して徳川家康に陳謝し改易は免れるも陸奥会津120万石から出羽米沢藩30万石(置賜・信夫・伊達3郡)へ減転封、「不識庵」上杉謙信以来の格調を保つため家臣団圧縮を控えた米沢藩の財政は逼迫し兼続は治水・開墾・殖産興業に注力(日本屈指の貧乏藩と揶揄され続けるが名君上杉鷹山の藩政改革で汚名返上)
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1601年
徳川家康が全国規模の幕藩体制を見据え譜代大名の領地を再編、関ヶ原で戦功を挙げた井伊直政(家康の娘婿)は上野高崎城12万石から近江佐和山城18万石(のち彦根城へ移動)・本多忠勝は上総大多喜10万石から伊勢桑名10万石(次男の本多忠朝が大多喜5万石を承継)へ移封、関ヶ原遅参の徳川秀忠隊に属した榊原康政は上野館林城10万石・本多正信は相模玉縄1万石に据置き、秀忠側近の大久保忠隣は上野高崎13万石を固辞し相模小田原6万5千石に留任
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1601年
大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生宗矩(宗厳の末子)が旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任、同役の小野忠明(小野派一刀流)は当時最強の剣豪ながら無骨で強弱に固執する余り秀忠に嫌われ退けられる
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1601年
[天下二分の誓約](年次不祥)上泉伊勢守信綱の門下筆頭を自負する丸目蔵人長恵(肥後相良藩士)が新陰流正嫡を称し将軍家兵法指南役に就いた柳生宗矩(宗厳の末子)に張合い決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と謝辞し徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い鉄砲で射殺したとも伝えられる)、長恵は娘婿の八左衛門にタイ捨流と家督を譲って隠居し球磨郡切原野(錦町)で開墾に勤しむ
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1601年
関ヶ原合戦で毛利輝元家臣の村上元吉・景親(武吉の子)が毛利水軍を率いて蜂須賀家政の阿波猪山城を攻落とし加藤嘉明の伊予松前城を攻めるが佃十成の夜襲で元吉が落命し(三津浜夜襲)景親は細川忠興や池田輝政の招聘を断って毛利家に残留するが長州藩船手組組頭の微役で生涯を終える(元吉・景親の能島村上氏は因島村上氏と共に同職を世襲)、西軍に属した来島長親(来島通総の嫡子)は伊予風早郡1万4千石を没収されるが福島正則の取成しで赦され山間の豊後森藩1万4千石を与えられ大名に復帰(来島村上水軍は解体されるが子孫は久留島へ改姓し幕末まで森藩を保つ)
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1602年
徳川家康に属しガラシャ夫人を殺されつつも関ヶ原合戦で奮闘した細川忠興が丹後宮津12万石から豊前中津33万9千石へ加転封され(豊後杵築6万石と併せ39万9千石)黒田官兵衛が築いた中津城から新築の小倉城へ藩庁を移動、忠興は家康に忠誠を示すため嫡子忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため勘当・廃嫡、父の細川藤孝は京都吉田の隠居所で悠悠自適の文芸生活に入る
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1602年
西軍加盟を疑われ釈明に奔走する佐竹義宣が大阪城で豊臣秀頼と伏見城で徳川家康に謁見するが常陸水戸54万石から出羽秋田20万石への国替え命令、仕置に反抗し水戸城奪還を企てた車斯忠を処刑し秋田土崎湊城へ入った義宣は角館城・横手城・大館城を整備し(3年後に本城を新築の久保田城へ移動)渋江政光・梅津政景ら能吏を登用して開墾を推進(義宣は浪人あがりの渋江の家老就任に反抗した川井忠遠ら旧臣を誅殺)
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1602年
武田遺臣の精鋭と「赤備え」を継いで武功を重ね武田の精鋭と「赤備え」を率いた「徳川四天王」の出世頭にして家康の外交を担い関ヶ原の戦いで寝返り工作を決めた井伊直政が「島津の退き口」で受けた鉄砲傷が元で死去(享年41)、近江佐和山藩18万石を継いだ次男井伊直孝は将軍徳川秀忠・家光の信任を得て大政参与に補され譜代筆頭彦根藩30万石(35万石格)を確立
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1602年
豊臣家の強大な財力削減を目論む徳川家康の勧めに乗せられた淀殿・豊臣秀頼が秀吉の追善供養のため畿内の寺社修築に散財、再建途中の方広寺大仏・大仏殿が失火により焼失
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1602年
立花宗茂が共回り19人を従えて肥後を出奔(小野和泉以下の家臣は肥後に留まり加藤清正の家臣となる。間もなく別居の妻誾千代は病没)、乞食・虚無僧や人夫働きで家臣に養われつつも加賀藩主前田利長(利家後嗣)からの10万石での招聘を「腰抜けの分際で生意気申すな」と撥ね付けたが、京都から江戸高田宝祥寺へ移動すると尺八吹きで托鉢をしていた十時摂津が狼藉者3人を斬捨てた事件が将軍徳川家忠の耳に届き1604年5千石の相伴衆に取立てられ、2年後に奥州棚倉藩1万石で大名に復活し大坂陣で活躍、1620年10万9千石で筑後柳川藩主に返咲く(宗茂に従って武功を挙げた実弟の立花直次は筑後三池藩1万石を立藩)
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1602年
徳川家康が本多正信(かつて三河一向一揆を主導し徳川家を出奔)の献策により一向一揆の復活を阻むべく京都烏丸六条に顕如の嫡子教如を法主とする東本願寺を創建、三弟准如を擁する京都堀川六条の西本願寺との間に現在まで続く泥仕合が始まる(下間頼廉の刑部卿家は西本願寺に仕えるが孫の下間頼良は東本願寺支持に廻る)
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1602年
関ヶ原合戦の寝返りで備前岡山藩55万石に栄転するも祟りに怯えて発狂し家臣団に見放された小早川秀秋が突然死(享年21)、毛利元就の三男隆景が興し五大老の格式を誇った小早川家は徳川政権初の無嗣改易となり関白豊臣秀次・秀勝・秀保兄弟(秀吉の姉日秀の子)に続く秀秋(高台院の甥)の滅亡で豊臣一門大名は宗家秀頼を除いて消滅(高台院の実家木下家と養家浅野家は大名として存続、秀秋を見限り出奔した稲葉正成は前妻の春日局が徳川家光の乳母となり実子の堀田正盛と共に譜代大名に引き立てられる)、岡山藩には姫路藩主池田輝政(徳川家康の娘婿)の次男忠継が28万石で入封
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1603年
[徳川幕府発足]徳川家康が征夷大将軍就任、新築した二条城に入る
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1603年
豊臣家との宥和を図る徳川家康が後嗣秀忠の娘千姫(7歳)を豊臣秀頼(10歳)に入輿させるが、淀殿は妹の刑部卿局(千姫の乳母)を側近に加え現実を直視せず感情的な抵抗を続ける(秀頼と千姫の子への政権禅譲を期待したとも考えられる)
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1603年
徳川幕府の圧力に屈した薩摩藩主島津忠恒(実権は父義弘が保持)が元備前岡山城主宇喜多秀家を引渡す、秀家は加賀藩主前田利長(前妻豪姫の兄)の懇願で助命され駿河久能山に3年幽閉されたあと八丈島へ流罪、秀家は三児と共に前田利長・利常および花房正成(宇喜多騒動で出奔し前田家に仕官)の援助を得て50年も生延び流人のまま最後の関ヶ原武将として83歳で死去、子の秀高・秀継の子孫が八丈島に根付き宇喜多直家・秀家の血脈を伝える
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1603年
小早川秀秋に仕えた柳生宗章(宗厳の四男)が主家改易に伴い出奔、伯耆米子藩の執政家老横田村詮に招かれ客将となるが権勢を妬む藩主中村一忠が村詮を誅殺、宗章は横田一族に加勢し藩兵18名を斬るが力尽きて壮絶死を遂げる
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1603年
柳生利厳(宗厳の長子厳勝の次男)が肥後熊本藩主の加藤清正に仕官するが間もなく同僚を斬殺し逐電、大和柳生の庄に帰省した際に柳生石舟斎宗厳より新陰流の印可を授かる
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1604年
豊臣秀吉を天下人に押上げ関ヶ原合戦で天下争覇に夢を馳せた黒田官兵衛が筑前で死去(享年59)、最期にキリシタン信仰を明示し後継の黒田長政に宣教師厚遇を遺言
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1604年
(詳細不詳)剣術で立身を期す宮本武蔵が上洛し吉岡道場(鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流の一流)を挑発、洛北蓮台野で当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)に勝利し挑み来た弟の吉岡伝三郎を斬殺、吉岡一門100余名が5歳の吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を担ぎ報復に出るが武蔵は又七郎を殺し包囲を破って遁走(生き残った清十郎は道場を畳み家業の染物屋に専念したとも)、武蔵は剣豪を求めて諸国を巡歴し手段を選ばない流儀で勝利を重ね江戸に滞在したのち上方へ戻る(神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試す。奈良興福寺の宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの仕合は史実に無い。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否したいう)
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1605年
徳川家康が徳川秀忠を2代将軍に擁立し徳川氏による世襲将軍制(政権を豊臣家に返上しないこと)を明示、秀忠側近の大久保忠隣(武功派)と家康側近で結城秀康を推した本多正信・正純父子(吏僚派)の対立が顕在化する(亡き井伊直政は娘婿の松平忠吉を推薦)
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1605年
服部半蔵正就(正成の嫡子)が組下の伊賀同心200人を家臣の如く酷使したため総反発に遭って支配役を解任され首謀者に報復を図るも別人斬殺で改易される(正就は大坂陣で戦死し、4代目服部半蔵を襲名した弟の正重は舅の「大久保長安事件」に連座し改易されるが桑名藩主松平定綱(正就の義兄弟)に拾われ家老職と2千石を世襲し、正就嫡子の服部正辰も3千石で桑名藩に拾われ家は幕末まで存続する)
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1606年
大和柳生の庄2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を承継し、隠田発覚で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」開祖の柳生石舟斎宗厳が死去(享年79)
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1607年
徳川家康が駿府城に移るが幕府の実権は留保し(大御所政治)大御所側近の本多正信・正純父子(吏僚派)と将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣・長安および正信を憎む本多忠勝ら(武功派)の対立が先鋭化、正信は秀忠付の年寄(老中)として幕閣を監督し権勢を握り更に武功派の恨みを買う
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1607年
戦争捕虜の回収を目的に朝鮮通信使が来航、以後徳川将軍の代替わりや世継ぎの誕生の都度祝賀使節が派遣される
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1607年
鍋島直茂の主家簒奪に憤る龍造寺高房(隆信の嫡孫)が江戸桜田藩邸で妻(の養女)を刺殺して自殺未遂を起し佐賀に戻って自殺決行、僅か1ヵ月後に父の政家も死去し龍造寺嫡流は断絶(隆信弟の信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受け存続)、後顧の憂いを断ち肥前佐賀藩32万石を完全掌握した直茂は嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据える
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1608年
徳川家康が側近の本多正純を下野小山藩3万3千石の大名に登用(老中首座の父本多正信は加増を固辞し死ぬまで相模玉縄1万石に留まる)
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1609年
[琉球征伐]謝恩使派遣を拒否した琉球王朝の討伐を徳川幕府が承認、島津忠恒が80隻・3千人の軍勢を派遣すると首里城の尚寧王はほぼ戦わずに降伏、忠恒に伴われた尚寧王は駿府城で徳川家康・江戸城で秀忠に謁見し「琉球は古来島津氏の附庸国である」ことと琉球国王の代替り毎に謝恩使・徳川将軍の代替り毎に慶賀使を派遣する旨を誓約、奄美群島の直轄領編入と琉球支配(尚王朝による間接統治)・貿易管轄権を獲得した薩摩藩は実高90万石(表高77万石)へ躍進し幕末雄藩への礎を築く
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1610年
戦国屈指の文化人大名で足利義昭・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康と主を替え肥後熊本藩54万石の開祖となった細川藤孝が隠居地の京都屋敷にて死去(享年77)
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1610年
武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将の本多忠勝が死去(享年63)、伊勢桑名藩10万石を継いだ嫡子の本多忠政は嫡子忠刻が千姫(徳川秀忠の娘)を娶り逆玉の輿で播磨姫路藩15万石へ栄転、上総大多喜藩5万石の次男本多忠朝の系統とあわせ忠勝の子孫から6大名家を輩出したが零細化し幕末には本家の三河岡崎藩5万石と播磨山崎藩1万石のみ存続
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1610年
富田勢源(中条流)仕込みの長大剣「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に剣名を馳せた佐々木小次郎が30余年続けた廻国修行を打切り豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招聘に応じて小倉城下に「巌流」兵法道場を開設、老いて名の高い小次郎は宮本武蔵に目を付けられ安穏な余生を妨げられる
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1611年
加藤清正・福島正則・浅野幸長らが淀殿を説き伏せ豊臣秀頼が京都二条城に伺候し徳川家康と会見、清正は万一に備え家臣5百人を洛中・伏見に潜伏させ自らは懐中に短刀を忍ばせて秀頼を護衛
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1611年
徳川家康を苦しめた西軍の敗将真田昌幸が次男の真田信繁(真田幸村)に打倒徳川の秘計を残し幽閉地の高野山九度山村にて死去(享年65)
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1611年
豊臣秀吉の母の従妹の子で石田三成憎しで徳川家康に与し肥後熊本藩54万石の太守となるも豊臣家滅亡を招いた加藤清正が失意のうちに死去(享年49)、後嗣加藤忠広は老中土井利勝に改易され加藤家は断絶するが熊本の「清正公」人気は今日でも藩主細川氏を凌ぐとなるも豊臣家滅亡を招いた加藤清正が失意のうちに死去(享年49)、後嗣加藤忠広は老中土井利勝に改易され加藤家は断絶するが熊本の「清正公」人気は今日でも藩主細川氏を凌ぐ
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1611年
アユタヤ王朝のエーカートッサロット王が長子のスタット親王を処刑したのち死去しシーサオワパークが即位するが間もなくクーデターが起り弑殺犯のソンタム(エーカートッサロットの子)が24代国王に就任、ソンタムが敵国ビルマも雇うポルトガル人傭兵団から津田又左右衛門が率いる日本人傭兵団(600人とも)に切替えると関ヶ原・大坂浪人・キリシタンや貿易商人がアユタヤに蝟集し日本人町は隆盛(最盛期に1500人とも)、中継貿易で財を成し日本人町・傭兵団の頭領に納まった山田長政は内乱や外征で武勲を重ねソンタムの信任を得てルアンの官位を授かる
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1612年
徳川幕府直轄領にキリスト教禁止令、キリシタンでないことを仏教寺院に証明させる寺請制度を創設(宗門人別帳に発展)
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1612年
徳川幕府が寺院諸法度による仏教教団の保護・統制政策を開始
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1612年
[岡本大八事件]本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信にお家最高を持ちかけ賄賂を詐取した罪で火あぶり刑(有馬も死罪)、将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣・長安(武功派)が大御所徳川家康側近の本多正信・正純父子(吏僚派)に巻返しを図る
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1612年
[巖流島の決闘]豊前小倉藩の剣術師範で西国一円に剣名を馳せる佐々木小次郎(富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれた中条流随一の強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始)に宮本武蔵が挑戦し藩主細川忠興の許可を得て小倉沖舟島(巖流島)で対決、武蔵は二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(享年は60歳前か。手段を選ばぬ武蔵は約を違えて弟子を同行し倒した小次郎を共に打殺したとも)、巌流と佐々木小次郎の盛名は忽ち消えうせ(1776年に武蔵の伝記物語『二天記』が世に出て復活)後に細川家の後釜には武蔵が座る
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1612年
「巖流島の決闘」で佐々木小次郎を斃し13歳から29歳まで60余の真剣勝負に全勝を収めた宮本武蔵が血闘に終止符を打ち円明流の普及と仕官探しに専念し水野勝成(忠勝の嫡子)ら徳川譜代大名に接近を図る
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1613年
[大久保長安事件]将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣(武功派)の腹心で徳川家の金銀山経営を統括した大久保長安(金春流猿楽師の下層民の出自で武田信玄に仕え徳川家に移籍)が死去、大御所家康側近の本多正信・正純(武功派)は膨大な遺産を不正蓄財と断罪し長安の一族郎党を処刑
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1613年
[慶長遣欧使節]仙台藩主伊達政宗が徳川幕府の許可を得てガレオン船を建造し正使ルイス・ソテロ-副使支倉常長を通商交渉のためスペインへ派遣(キリスト教禁止へ傾く徳川幕府への軍事介入を要請したとも)、一行180人はメキシコ経由で日本人初の太平洋・大西洋横断を果しソテロ・常長はマドリードでスペイン国王フェリペ3世・ローマで教皇パウルス5世に謁見、1620年に帰藩した常長は棄教を受入れ2年後に病没し密入国したソテロは長崎大村にて火刑に処される(使節が長期滞在したセビリア近辺コリア・デル・リオには現在支倉常長像が建てられ従者の子孫を称するJapon・Xapon姓の住民が数百人存在する)
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1613年
敵対する盗賊鳶沢甚内(後北条の遺臣)の密告により徳川幕府が向崎甚内(武田信玄の寵臣高坂昌信の子孫とも)を捕殺、瘧(マラリア)のために捕縛されたことから浅草甚内神社は瘧治癒で崇敬され、鳶沢甚内は目明し兼古着商支配役を世襲し住地富沢町の名の由来となる
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1614年
大御所家康側近の本多正信・正純父子(吏僚派)が大久保長安事件と豊臣秀頼への内通を口実に将軍秀忠側近の大久保忠隣(武功派の総帥)を改易に追込む
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1614年
方広寺鐘銘事件の罠に嵌った大阪城の淀殿・豊臣秀頼が徳川幕府に宣戦、大野治長(淀殿の乳母の子というだけで家老に出世した凡将)の招聘を受けた真田信繁(幸村)が参陣を受諾(条件は50万石とも)、真田を恐れる徳川家康は上田藩主真田信之(信繁の兄)・大和五条領主松倉重政を送り勧誘するが信繁は拒否し手勢130人と高野山九度山村を脱出し大阪城入城、長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登と共に浪人軍「五人衆」に迎えられ兵5千を託されるが、治長らに兄への通謀を疑われ信義を明かすため大阪城の弱点南方に孤立無援の「真田丸」を構築、信繁は「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、時間を稼く間に秀頼自ら出陣して豊臣恩顧大名の離反を誘うべし(だが貫禄不足の幸村が説いても誰も従うまい)」という父真田昌幸の秘計を開陳、又兵衛ら老練者は賛同するも治長らに退けられ已む無く籠城策に従い真田丸に籠る
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1614年
[大坂冬の陣]徳川家康が20万の大軍を率いて豊臣秀頼の大阪城を攻撃、孤立無援の真田丸に兵5千で籠る真田信繁(真田幸村)は前田利常・松平忠直・井伊直孝・伊達政宗・藤堂高虎・松倉重政の寄せ手を奇計を以て散々に痛撃し、信濃一国を条件に投降を勧める家康の誘いを拒絶、後藤又兵衛らの浪人軍10万も奮戦して鉄壁の大阪城を守り抜くが、戦知らずの豊臣家家老大野治長(淀殿の乳母の子)の差配で勝機を逸し、徳川方の大砲が本丸に着弾し侍女8名の圧死に怯えた淀殿が不利な講和を強行、真田丸は真先に破壊され欺かれて内堀まで埋められた大阪城は裸城となる
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1615年
井伊直政没後の家督争いを徳川幕府が裁定し次男井伊直孝に近江彦根藩15万石を継がせ病弱(素行不良)の長男井伊直勝には上野安中藩3万石の分知で決着、直孝は将軍秀忠から3代将軍家光の大政参与(後の大老職)に任じられ家光政権を支えて35万石に加増され譜代筆頭の家格を固める
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1615年
[大坂夏の陣・元和偃武]淀殿・豊臣秀頼が大阪城からの浪人退去か移封かの講和条件を断固拒絶すると、徳川家康は15万余の大軍を率いて大阪城を再攻、裸城の大坂方は打って出るほかなく早々に後藤又兵衛・木村重成が戦死、真田信繁(真田幸村)は伊達政宗の騎馬鉄砲隊を撃破して(道明寺の戦い)茶臼山に陣取り敵の背後を衝く起死回生の陽動作戦を講じるが淀殿が秀頼の出馬を拒絶し挫折、信繁は愛槍「十文字槍」を振って突撃し松平忠直の越前勢1万5千を切崩し本陣に迫るが力尽き討死(享年49)(天王寺口の戦い、家康は二度も自害を覚悟したという)、長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登(生存説あり)も討たれて大阪城は落城し淀殿は助命嘆願虚しく秀頼と共に城中で自害(享年46)(戦犯の大野治長も自刃、真田幸昌は父信繁の命令で大阪城へ戻り秀頼の自害を見届けた後に傍らで切腹)、豊臣家を滅ぼした家康は秀吉=豊国大明神の神号も剥奪し徳川の一人勝ちで戦国時代は終結
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1615年
大坂陣で将軍徳川秀忠に近侍した(馬廻り)柳生宗矩が秀忠を襲った木村重成の死兵7人を見事な所作で各々一刀で斬捨てる(宗矩が人を斬った唯一の記録)
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1615年
大坂陣の先鋒大将水野勝成と対立した仙台藩主伊達政宗が味方討ちの嫌疑をかけられるがお咎め無し、武功により庶長子伊達秀宗に伊予宇和島藩10万石の立藩が許される(仙台藩は次男伊達忠宗が相続)
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1615年
[佐野道可事件]毛利輝元が従兄弟の佐野道可こと内藤元盛を密かに大阪城へ送込み豊臣秀頼を支援した事実が露見、輝元は直ちに元盛を自害させ子孫を盛立てるとの約束を破り口封じのため子の内藤元珍と粟屋元豊を自害させる
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1615年
徳川幕府が武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定
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1615年
徳川幕府が貿易都市堺を直轄地とし堺奉行を設置
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1615年
徳川将軍家をライバル視する尾張藩主徳川義直が柳生利厳(宗厳の長子厳勝の次男)を兵法指南役に採用、柳生新陰流正統を自認する利厳は柳生宗矩の江戸柳生と張合い尾張柳生を立てる(剣技では長く宗厳の薫陶を受けた利厳が宗矩に優ったとも)
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1616年
戦国の最終勝利者徳川家康が駿府城にて大往生(享年75)、東照大権現を推す南光坊天海が明神を推す金地院崇伝との神号争いに勝利、亡骸は久能山に葬られ(久能山東照宮)1年後に日光東照宮に改葬
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1616年
信濃川中島・越後高田藩主で徳川家康六男の松平忠輝が行状不良により将軍徳川秀忠に改易処分、高田藩には上野高崎藩5万石の酒井家次が10万石で移封(酒井家は最終的に出羽庄内藩17万石へ累進し庶家が3藩を立てる)
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1616年
徳川家康の側近で老中首座として初期幕政を握りながら加増を固辞した本多正信が相模玉縄1万石のまま死去(享年79)、家督と幕政を引継いだ嫡子の本多正純は「3万石以上の加増自重」の遺命を破り下野小山藩3万3千石から5万3千石への加増を受ける(正純は更に自ら運動して下野宇都宮藩15万5千石への大幅加転封を受けるが将軍徳川秀忠と大久保忠隣一派・土井利勝ら秀忠側近の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易となる)
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1616年
徳川幕府が中国船以外の船の入港を長崎・平戸に限定し南蛮貿易を独占
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1616年
[千姫事件]石見津和野藩3万石の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)が大坂陣で千姫(徳川秀忠の娘)を救出し4万3千石に加増されるが徳川家康が「救出者に千姫を与える」との言葉を違え本多忠刻(本多忠勝の嫡孫)との縁談を決めたことから千姫強奪を画策、懇意の柳生宗矩は直盛を諭して切腹させるが(坂崎家臣に暗殺させたとも)家康は相続を赦さず坂崎家は断絶、慙愧の宗矩は直盛の嫡子平四郎らを召抱え副紋に坂崎家の二蓋笠を採用
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1616年
遠江久野藩1万6千石の松下重綱(豊臣秀吉の引立てで大名に出世した松下之綱の後嗣で柳生十兵衞の伯父)が大坂陣の功で2万800石へ加増される
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1619年
将軍徳川秀忠が広島城の無断改築を口実に福島正則を改易、子の福島正利を召抱え大身の旗本として福島家を存続させる
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1619年
九州制覇目前に野望を絶たれ西軍に与しながらも本領を保った西国最強武将島津義弘が死去(享年85)
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1619年
徳川将軍家の血のスペアとして尾張(家康九男徳川義直)・紀州(家康十男徳川頼宣)・水戸(家康十一男徳川頼房)の御三家体制が確立、大久保忠隣を失脚させ幕政を握った本多正純が下野小山藩5万3千石から下野宇都宮藩15万5千石へ大幅加転封
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1619年
柳生宗矩が嫡子の柳生十兵衞三厳を徳川家光の小姓に入れる
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1620年
朝幕融和のため将軍徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇の中宮に輿入れ(東福門院)、伊勢津藩主藤堂高虎は露払い役を買って出て徳川氏への忠節をアピール
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1620年
田中忠政の無嗣絶家に伴い立花宗茂が10万9千石で筑後柳川藩主に復帰、翌年立花直次(宗茂の実弟)が筑後三池藩1万石を立藩
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1621年
アユタヤ王朝のソンタム王が徳川幕府に修好使節を派遣、日本人町・傭兵団頭領の山田長政は部下を同行させ老中土井利勝へ親書を送るなど斡旋の労をとり以後も幕閣に贈物や書状を送り両国の修好に努める
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1621年
狩野探幽(永徳の孫)が徳川幕府の御用絵師に採用され狩野派は京都から江戸へ本拠を移転(永徳養子の狩野山楽は京都に留まり「京加納」を立てる)、泰平時代に合う淡麗瀟洒な画風で江戸城・大坂城・名古屋城・二条城の障壁画を次々手掛けた狩野派は磐石の地位を築き探幽子孫の「奥絵師」4家を頂点に幕末まで日本画壇を支配するが大量均質生産のため技量の習得に重きが置かれ次第に芸術的創造性を失う
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1621年
柳生宗矩が徳川家光の兵法指南役に任じられ柳生新陰流を教授、嫡子で家光の小姓を勤める14歳の柳生十兵衞三厳は稽古に相伴
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1622年
[最上騒動]出羽山形藩57万石を承継した最上義俊(義光の嫡孫)の暴政に反発する楯岡光直(同弟)・鮭延秀綱ら家臣団が山野辺義忠(同四男)擁立を画策、孤立した義俊は佞臣松根光広(同甥)を通じて幕府に泣付くも6万石への減封を言渡され、家臣団が頑なに義俊更迭を主張したため佐竹家は取潰し、上野山義直(同五男)・大山光隆(同六男)は配流先で切腹したが張本人の最上義俊は近江大森1万石を供され子孫は5千石の交代寄合として存続、山野辺・楯岡・松根は10余年後に赦免され水戸藩・熊本藩・宇和島藩の重臣となり子孫は家老職を世襲、鮭延は赦免後に家臣を伴い流転し「乞食大名」と称されたが最期に土井利勝の招聘に応じ5千石で仕官
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1622年
[宇都宮城釣天井事件]幕閣を牛耳る下野宇都宮藩主本多正純が宇都宮城で将軍徳川秀忠暗殺を企てた嫌疑を掛けられ改易・出羽久保田藩主佐竹義宣にお預けとなる
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1623年
徳川秀忠の嫡子徳川家光が三代将軍就任
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1623年
遠江久野藩2万800石の松下重綱(柳生十兵衞の伯父)が下野烏山藩2万800石へ移封される
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1624年
イギリスの日本撤退に続き、キリスト教を先鋒に植民地化を推進するイスパニア(スペイン)と断交
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1624年
徳川幕府がスペイン人の来航禁止、慶長遣欧使節正使を終えて密入国したルイス・ソテロとキリスト教宣教師4名を長崎大村にて火刑
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1624年
豊臣秀吉の正室ねね(北政所・高台院)死去、実家の木下家は足守・日出の両藩主として、養家の浅野家は広島藩主として幕末まで存続
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1625年
天海が上野寛永寺を創建
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1625年
将軍徳川秀忠の側近として宇都宮城釣天井事件で本多正純を倒し幕政を握った土井利勝が下総佐倉藩6万2千石から14万2千石へ加増される(のちに下総古河藩16万石)
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1626年
本願寺顕如に軍権を託され11年に及ぶ石山合戦を凌ぎ切り散々に織田信長を苦しめたが降伏後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った下間頼廉が死去(享年89)、子孫の刑部卿家は西本願寺坊官を世襲し繁栄
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1626年
柳生十兵衞三厳(宗矩の嫡子)が将軍徳川家光の勘気を蒙り蟄居を命じられ(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、隠密任務の隠蔽とも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が小姓出仕、大和柳生に戻った十兵衞は上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿って新陰流研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成(柳生利厳に倣い武者修行に出て山賊退治や剣豪との仕合に励んだともいうが真偽不明)
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1627年
伊予松山藩20万石の加藤嘉明が会津藩40万石へ栄進し、娘婿で下野烏山藩2万800石の松下重綱(柳生十兵衞の伯父)は加藤家与力として陸奥二本松藩5万石へ増転封となるが間もなく病没、後嗣の松下長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移される
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1628年
ソンタム王がアユタヤ王朝の軍事を担う日本人町・傭兵団頭領の山田長政に王女を入輿させオークヤー(人臣最高の三位)の官位を授与したあと病没、長政はソンタムの遺言に従い日本人傭兵800人とシャム軍2万を率いて王宮を護り遺児のチェーターティラート・次いでアーティッタヤウォンを即位させるが政敵のプラーサートトーン(ソンタムの従兄弟)が幼君を殺害・廃位し王位を簒奪、貿易を牛耳る日本人に対抗する華僑勢力の圧力も受けて長政はアユタヤから追出され南方マラッカの防衛拠点リゴール(ナコーンシータマラート)の王(知事とも)に左遷される
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1629年
勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した丸目蔵人長恵が死去(享年89)
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1629年
柳生宗矩が但馬守に任官
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1629年
[紫衣事件]徳川幕府の朝廷統制に憤る後水尾天皇が幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用を勅許、幕府は禁中並公家諸法度違反を理由に勅許無効を宣し沢庵宗彭(大徳寺154世住持)ら反抗者を流罪、不満の後水尾は幕府に無断で明正天皇に譲位
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1630年
アユタヤ王朝を簒奪したプラーサートトーン王との政争に敗れ南方のリゴール(ナコーンシータマラート王国)王に左遷された山田長政が日本人傭兵団を率い反乱を起したパタニ王国ラジャ・ウング女王を攻撃するがプラーサートトーンの刺客により負傷した足に毒を塗られ死亡、後を継いだ子のクン・セーナーピムックは日本人傭兵に暗殺されアユタヤ日本人町は焼打ちにより壊滅(2年後に日本人町は復興するが徳川幕府の鎖国政策で流入が激減し自然消滅する)
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1630年
浅井長政の足軽から豊秀秀長に仕えて大名となり真先に徳川家康へ鞍替えして譜代大名格・伊勢津藩32万3千石の太守に出世した藤堂高虎が死去(享年75)、嫡子藤堂高次から幕末まで藤堂藩は存続するが藤堂高猷は鳥羽・伏見の戦いで真先に官軍へ寝返り「さすがは藩祖高虎の薫陶」と嘲笑を浴びる
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1631年
徳川幕府が貿易統制のため奉書船以外の渡航を禁止・徳川家康発行の朱印状の回収が困難なため老中連署による奉書を義務付け
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1631年
本多忠純(正信の三男)が家臣に殺害され養嗣子の本多政遂(正信次男政重の子)が下野榎本藩2万8千石を相続、政遂と嫡子犬千代が相次いで死去し本多氏は無嗣断絶で改易・榎本藩も廃藩となる
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1632年
前将軍徳川秀忠が死去
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1632年
3代将軍徳川家光が徳川秀忠の死に伴う大赦令を出し沢庵宗彭(大徳寺154世住持)ら紫衣事件受刑者を赦免、親友の柳生但馬守宗矩に推挙された沢庵は家光に近侍
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1632年
肥後熊本藩54万石の加藤忠広(清正の後嗣。将軍徳川秀忠の養女婿)が嫡子光正の家臣相手の謀反遊戯(謀書偽造の一件。老中土井利勝の謀略とされる)を徳川幕府に付込まれ改易され忠広は庄内・光正は飛騨高山へ配流処分、代わって細川忠利(忠興の後嗣)が豊前小倉藩39万9千石から加転封となるが熊本では「清正公(せいしょこ)」の神格化が進み今日でも加藤清正人気は藩主細川氏を凌ぐ
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1632年
柳生但馬守宗矩(将軍徳川家光の兵法指南役)が3千石加増され(合計6千石)初代の幕府惣目付(大目付)に任じられ老中・諸大名の監察にあたる
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1634年
将軍徳川家光が寵臣柳生友矩(宗矩の次男。男色相手か)に山城相楽郡2千石を与える
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1635年
徳川幕府が日本人の海外渡航を禁止
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1635年
徳川幕府が参勤交代制を導入
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1636年
徳川秀忠の隠し子保科正之を兄の将軍徳川家光が認知し寵遇、信濃高遠藩3万石から出羽山形藩20万石、最終的に陸奥会津藩23万石へ加転封し松平姓を認可、保科正之は優秀な将軍参謀として徳川幕府の屋台骨を築く
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1636年
会津蘆名氏を滅ぼして南奥羽150万石を征し豊臣秀吉・徳川家康に楯突き減封されるも仙台藩62万石を保った「独眼流」伊達政宗が死去(享年70)、次男伊達秀宗が家督を相続(庶長子の伊達秀宗は伊予宇和島藩10万石で独立)
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1636年
徳川幕府が肥前長崎に出島を構築し市中に居住していたポルトガル人を押込める
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1636年
柳生但馬守宗矩(将軍徳川家光の兵法指南役)が4千石加増され大和柳生藩1万石を立藩(のち次男柳生友矩の遺領分を加増され1万2500石)、柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立(江戸柳生)
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1637年
[島原の乱]島原藩主松松倉重政・勝家の苛政とキリシタン弾圧により天草四郎率いる農民一揆が勃発、ローマ教皇・ポルトガルの援軍を期待して島原原城に籠城し力攻めした幕府軍を破り統率者板倉重昌を戦死させるが、老中松平信綱(知恵伊豆)率いる12万余の増援軍による兵糧攻めで落城し一揆勢全滅(生存者1名)、松倉勝家は切腹でなく斬首(江戸時代の大名では唯一)
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1638年
柳生十兵衞三厳(宗矩の嫡子)が将軍徳川家光から12年続いた勘気を解かれ書院番に補される
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1639年
[鎖国]徳川幕府がポルトガル船の日本来航および日本人の外国往来を禁止、オランダの平戸商館と清の博多商館を長崎出島へ移し幕末まで外国貿易を独占
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1639年
将軍徳川家光の寵臣柳生友矩(宗矩の次男。男色相手か)が27歳で病没、柳生但馬守宗矩は遺領分2千石および5百石を加増され大和柳生藩は1万2500石となる
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1640年
徳川幕府がキリシタン廃絶のため宗門改役を設置、諸藩にも宗門改制度導入を命令(宗門人別帳に発展)
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1641年
徳川幕府が平戸のオランダ商館を長崎出島に移す
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1641年
男色専門だった将軍徳川家光が女性に目覚め側室お楽の方が世子を出産(徳川家綱)
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1643年
徳川幕府が農民の没落を防ぎ年貢を確保するため田畑永代売買禁令を発令
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1643年
[会津騒動]会津藩40万石の加藤明成(嘉明の後嗣)の暴政に怒った筆頭家老の堀主水が一族郎党を伴い関所を押し破って脱出、高野山から紀州藩へ逃れた堀は徳川幕府の命で引戻され処刑されるが会津藩も改易処分(徳川秀忠の隠し子保科正之が23万石で出羽山形藩から移封)、幕府は明成の嫡子加藤明友に石見吉永藩1万石を与え家名存続を許す(のち近江水口藩2万石へ移され大名加藤家は幕末まで存続)、翌年陸奥三春藩3万石の松下長綱(嘉明の外孫)が乱心し改易に処される
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1645年
我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した宮本武蔵が肥後熊本にて死去(享年61)、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保つ
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1646年
将軍徳川家光や柳生但馬守宗矩・十兵衞三厳に慕われ大徳寺派・妙心寺派を再興した沢庵宗彭(大徳寺154世住持)が死去
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1646年
父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖にして『兵法家伝書』で「活人剣」「治国・平天下」を説いた柳生但馬守宗矩が死去(享年75)、嫡子の柳生十兵衞三厳が家督を継ぐが三男柳生宗冬に4千石を分与したため大名の家格を喪失、三厳の死により後を継いだ宗冬が22年後に1万石に達し柳生藩主に復活する
柳生宗矩(但馬守)の交遊録
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柳生家厳
大和柳生の庄領主
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柳生七郎左衛門
家厳弟・兵法者
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柳生石舟斎宗厳
父・家厳嫡子
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柳生十兵衞三厳
天衣無縫の宗矩長子
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柳生友矩
早世した宗矩次男
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柳生宗冬
大名に復帰した宗矩三男
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柳生厳勝
合戦で不具となった宗厳長子
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柳生兵庫守利厳
厳勝次男・尾張徳川家の兵法指南役に採用された尾張柳生の祖
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柳生連也斎厳包
利厳後嗣
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柳生宗章
宗厳四男・伯耆米子藩主中村一忠に仕官するがお家騒動で壮絶死
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筒井順昭
大和を掌握した興福寺衆徒
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筒井順慶
順昭嫡子
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筒井定次
改易された順慶養嗣子
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島左近
柳生利厳舅・筒井家老から石田三成重臣へ
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十市遠忠
大和十市城主
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十市遠長
遠忠後嗣
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箸尾高春
大和国侍
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三好長慶
畿内の覇者
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三好義興
長慶嫡子
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三好義継
長慶養嗣子・久秀の傀儡君主
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三好実休
長慶弟
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安宅冬康
長慶弟
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十河一存
長慶弟
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松永久秀
大和を支配した長慶重臣
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三好長逸
宿敵三好三人衆
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三好政康
宿敵三好三人衆
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岩成友通
宿敵三好三人衆
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千利休
長慶妹婿の侘茶名人
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細川晴元
長慶の主君で宿敵
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細川昭元
晴元嫡子
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細川晴之
六角に担がれ反逆した晴元次男
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足利義輝
塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」を授かった剣豪将軍
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足利義昭
信長が15代室町将軍に担いだ義輝弟
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六角定頼
南近江国主・長慶の政敵
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六角義賢
定頼後嗣
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木沢長政
長慶の仇敵
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遊佐長教
河内守護代・長慶岳父
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畠山稙長
反晴元の河内守護
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畠山政国
木沢の傀儡→兄稙長の後継
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畠山高政
松永派の政国嫡子
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安見宗房
松永派の河内守護代
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本願寺顕如
信長の強敵
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織田信長
主君
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明智光秀
信長弑殺犯
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細川藤孝
塚原卜伝門人の茶人大名
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細川忠興
藤孝嫡子
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北畠具教
塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」を授かった伊勢国司
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荒木村重
信長叛臣
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柴田勝家
織田家重臣
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豊臣秀吉
織田家簒奪者
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豊臣秀長
大和を領有した秀吉弟
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藤堂高虎
秀長重臣から家康へ
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黒田官兵衛
秀吉軍師
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黒田長政
懇意の官兵衛嫡子
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石田三成
西軍首謀者
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徳川家康
神影流・新当流・一刀流を修めた剣豪将軍
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徳川秀忠
小野忠明・柳生宗矩を兵法指南役に任じた2代将軍
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徳川家光
柳生但馬守宗矩を重用した3代将軍
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松平秀康
家康が出生を疑い養子に出した次男
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松平忠直
家臣虐殺の狂人・秀康後嗣
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徳川忠長
叛逆した秀忠次男
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保科正之
幕府の礎を築いた秀忠の隠し子
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松平忠吉
家康四男・井伊直政娘婿
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武田信吉
家康五男・水戸藩25万石で武田家を再興したが早世
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松平忠輝
家康が嫌った六男
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徳川義直
家康九男・尾張徳川家
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徳川頼宣
家康十男・紀州徳川家
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徳川頼房
家康十一男・水戸徳川家
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江
秀忠正室・織田信長姪
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春日局
家光乳母・斎藤利三娘
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本多忠勝
徳川四天王
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井伊直政
徳川四天王
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本多正信
家康謀臣
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本多正純
正信後嗣・改易された吏僚派首領
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岡本大八
正純配下の汚職官僚
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有馬晴信
岡本大八事件で死罪
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大久保忠隣
改易された武功派首領
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大久保長安
忠隣腹心・私腹を肥やした金山奉行
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土井利勝
家光側近
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松平信綱
知恵伊豆
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沢庵宗彭
将軍家蜜に推挙した友人
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服部半蔵正成
忍者
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南光坊天海
明智光秀かも
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金地院崇伝
学僧
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立花宗茂
共に千姫事件を処理
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伊達政宗
徳川幕府のご意見番
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愛洲移香斎久忠
陰流創始者
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上泉伊勢守信綱
移香斎門人で新陰流を興した剣聖・塚原卜伝にも学ぶ
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疋田景兼
上泉伊勢守門人で疋田流の祖
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神後伊豆守宗治
上泉伊勢守門人で神後流の祖
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丸目蔵人長恵
上泉伊勢守門人でタイ捨流の祖
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奥山休賀斎公重
上泉伊勢守門人で神影流(真新陰流)の祖・徳川家康の師
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穴沢浄賢
上泉伊勢守門人で穴沢流の祖
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宝蔵院胤栄
上泉伊勢守門人で宝蔵院流槍術の祖
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中条兵庫頭長秀
中条流創始者
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富田勢源
中条流継承者(富田流)
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富田景政
中条流と富田家を継いだ勢源弟
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富田重政
名人越後・加賀前田利家で1万3千石の知行を得た景政養嗣子
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戸田一刀斎
景政高弟で伊東一刀斎・柳生宗厳の師
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山崎左近将監
富田一族・山崎流開祖
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長谷川宗喜
景政高弟・長谷川開祖
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佐々木小次郎
勢源門人で巌流を興すが宮本武蔵に敗北
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伊東一刀斎景久
中条流から一刀流を創始した天才剣士
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小野忠明(神子上典膳)
徳川秀忠の兵法指南役に採用された一刀流継承者
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小野忠常
(小野派)一刀流を継いだ忠明後嗣
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伊藤忠也
伊藤派一刀流を分派した小野忠明弟
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古藤田俊直
北条氏遺臣・唯心一刀流を興した伊東一刀斎高弟
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飯篠長威斎家直
天真正伝香取神道流・道術兵法の創始者
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塚原卜伝
神道流継承者で新当流創始者
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根岸兎角之助
塚原卜伝高弟(微塵流)
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斎藤伝鬼坊
塚原卜伝高弟(天道流)
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師岡一羽
塚原卜伝高弟
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神取新十郎
塚原卜伝高弟で柳生宗厳の師
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竹中半兵衛
飯篠門人の豊臣秀吉軍師
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真壁氏幹
飯篠・塚原門人の佐竹義重重臣「鬼真壁」
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東郷重位
神道流から薩摩示現流を創始
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宮本武蔵
円明流(二天一流)を興した野獣剣士
柳生宗矩(但馬守)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 80点
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。