中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した日本画壇の巨星
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照雪舟
1420年 〜 1506年
80点※
雪舟の寸評
雪舟の史実
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1420年
備中赤浜の武家小田氏に生れ幼少期に総社井尻野の臨済宗寺院宝福寺に入門、絵に熱中し禅修行に身が入らない雪舟(拙宗等揚)は柱に縛り付けられるが足先を使い零した涙で実物と見紛う鼠を描き禅師を感嘆させる
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1423年
足利義持が隠居し嫡子の足利義量が5代室町将軍就任
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1425年
将軍足利義量死去、将軍空位のまま前将軍足利義持が幕府を掌握
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1428年
近江坂本・大津の馬借から起った徳政強訴が畿内一帯に波及し初の農民一揆発生(正長の土一揆)
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1428年
前将軍足利義持死去、義持の弟4人から籤引きで選ばれた天台座主義円が還俗して足利義教として6代室町将軍就任、将軍位を狙う鎌倉公方足利持氏が反抗
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1430年
このころ雪舟(拙宗等揚)が臨済宗本山の京都相国寺に移り春林周藤から禅を学びつつ画僧として著名な天章周文から水墨画を学び『山水図』を制作
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1435年
将軍足利義教が反抗する延暦寺を武力制圧、24人の門徒が抗議の焼身自殺
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1436年
足利義満の寵愛により時宗念仏踊り・猿楽から幽玄能を創始した『風姿花伝』の著者世阿弥(観世氏の家祖観阿弥の子)が佐渡流刑に処される
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1438年
[永享の乱]鎌倉公方足利持氏と対立した山内上杉憲実が関東管領を辞任し領国上野国に退去、持氏は征討軍を送るが、将軍足利義教が持氏追討軍を派遣、扇谷上杉持朝も山内上杉支持で参戦し、足利持氏・義久父子と稲村公方足利満貞を自害させ鎌倉公方は一旦滅亡
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1439年
上杉憲実が足利学校を復興
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1440年
[結城合戦]結城氏朝・持朝父子が前鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸を担いで挙兵するが山内・扇谷両上杉氏・幕府軍に鎮圧され滅亡、論功行賞で扇谷上杉持朝は相模守護を叙任
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1441年
[嘉吉の乱]将軍足利義教が赤松義雅の所領を没収し男色相手の赤松貞村に下賜、怒った赤松満祐・教康父子が将軍足利義教を饗応に招請し殺害、幕府討伐軍により赤松一族滅亡
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1442年
前将軍足利義教の嫡子足利義勝が7代室町将軍就任
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1446年
大内教弘の嫡子に大内政弘が出生
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1449年
足利義勝死去に伴い同母弟の足利義政が8代室町将軍就任
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1449年
越後・信濃守護上杉房定が足利持氏の末子成氏を担いで鎌倉公方再興、山内上杉憲忠が関東管領に就任し扇谷上杉持朝(持氏殺害の首謀者)は嫡子顕房に家督を譲って和解の意を示すが両上杉氏と足利氏の緊張関係は続く
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1450年
山内上杉家家宰の長尾景仲と扇谷上杉家家宰の太田資清(道灌の父)が関東公方府を襲撃、足利成氏は一時江ノ島に非難
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1452年
細川勝元が幕府管領に就任
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1454年
[享徳の乱]関東公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺(家宰長尾景仲は憲忠の弟房顕を関東管領に擁立)、山内・扇谷上杉氏は反撃に出るが武蔵分倍河原で大敗し扇谷上杉顕房も戦死(遺児政真を祖父持朝と家宰の太田資清・道灌父子が後見)、勢い付く成氏は下総古河へ出征するが、将軍足利義政の成氏追討の号令に応じた駿河守護今川範忠が鎌倉を制圧、成氏は鎌倉に戻れず古河に留まり(古河公方)、諸豪は利根川を堺に両陣営に別れ30年に及ぶ関東大乱に発展
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1454年
京都相国寺で臨済禅と水墨画を修めた雪舟(拙宗等揚から名乗りを改める)が守護大名大内教弘の招きで周防山口に移住し雲谷庵で創作活動に専心
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1457年
太田資清・道灌父子が武蔵国に防衛拠点を構築、資清は扇谷上杉持朝を守護して河越城に居城し道灌は江戸城を守る
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1457年
蝦夷地南部でコシャマインの乱勃発、花沢館主蠣崎季繁の食客で若狭武田氏を詐称する武田信広(松前氏の家祖)が鎮圧
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1457年
関東管領山内上杉房顕の要請により将軍足利義政が弟政知(天龍寺清久)を還俗させて関東に派遣、同時に関東諸豪に古河公方足利成氏討伐を号令するが足並み揃わず扇谷上杉持朝も離反、鎌倉入りを阻まれ孤立した政知は堀越公方と称される
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1457年
[長禄の変]赤松氏遺臣らが奥吉野襲撃・自天王と忠義王を殺害して後南朝を滅ぼし神璽を奪回、赤松政則は管領細川勝元から赤松家再興を許され加賀守護に就任
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1459年
室町幕府が諸関を廃し京七口に関所を設ける
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1462年
寛正の大飢饉により京畿に土一揆が広がる
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1463年
狩野派初代の狩野正信が室町幕府御用絵師として活躍
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1464年
男児のない将軍足利義政が弟の浄土寺義尋を還俗させて足利義視とし養嗣子に擁立、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が近侍となる
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1465年
将軍足利義政と正室日野富子の間に足利義尚が出生、足利義視派との継嗣争いが発生
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1465年
大内教弘が死去し嫡子の大内政弘が家督相続
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1466年
[太田庄の戦い]上杉氏が武蔵五十子に築城し(五十子陣)古河公方足利成氏と対峙、将軍足利義政の号令虚しく成氏討伐軍は来援せず、関東管領山内上杉房顕が陣没、男児が無かったため上杉房定の実子顕定が養嗣子に入り後継
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1467年
[応仁の乱]将軍家と斯波・畠山両管領家の家督争いから京都で戦争が勃発、全国諸大名が細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)に分れ11年に及ぶ全国規模の内乱に発展
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1468年
雪舟が本場中国で水墨画を学ぶため大内政弘・室町将軍足利義政・管領細川勝元が明へ派遣した勘合貿易船(正使は天與清啓)に同乗を許され渡海、夏珪・李唐など宋・元代の水墨画に感化されて模写に励み揚子江流域など中国各地で風景を写生し「風景こそ最大の師」の境地に到達、天童山景徳禅寺で「四明天童山第一座」の尊称を贈られ首都北京でも画名を博し2年弱の滞在を終えて帰国し周防山口を拠点に豊後や石見へも足を伸ばす
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1470年
[京極騒乱]応仁の乱の渦中に京極家当主持清が死去、嫡孫の童子丸が後を継ぐが翌年夭逝、政経と高清の間で30年に及ぶ熾烈な家督争いが勃発(京極政経は出雲へ隠遁、勝利した京極高清・六角高頼による南北近江分割統治で決着)
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1471年
本願寺蓮如が興福寺経覚・本覚寺蓮光の援助のもと越前北潟湖畔吉崎山の頂に吉崎御坊を建立(付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる)、庶民に分り易い『御文』や「南無阿弥陀仏」の六字名号下付で教線を伸ばし北陸から奥羽の門徒が参集し繁華な寺内町を形成(4年後に蓮如が去り1506年九頭竜川の戦いで越前一向一揆が朝倉宗滴に敗れ破却される)
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1473年
山名宗全・細川勝元が相次いで死去、足利義政は隠居して小河新邸に移り足利義尚が9代室町将軍就任、義尚の生母日野富子が幕府実権を掌握
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1473年
[五十子の戦い]古河公方足利成氏が長躯遠征して相模の堀越公方足利政知を襲撃、太田道灌率いる上杉軍は撃退し武蔵五十子陣まで押し返すが、扇谷上杉政真が戦死し(後継は叔父定正)山内上杉家家宰長尾景信も陣没(山内上杉は景信の弟忠景を後継としたため嫡子景春の謀反を招く)
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1474年
西軍大将の山名政豊(宗全の後嗣)が細川政元の東軍に投降、西軍の畠山義就・大内政弘らが継戦
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1474年
[加賀一向一揆]加賀守護富樫成春の後継争いが発生、次男の富樫幸千代が浄土真宗高田派や越前守護代甲斐敏光と結び一旦勝利するも嫡子の富樫政親が本願寺蓮如の力添えで幸千代一派を追放し加賀守護職を奪取、宗徒が暴徒化し一向一揆へ発展すると政親は弾圧に転じ一揆勢は越中瑞泉寺に退避、蓮如は一揆を扇動した下間蓮崇を破門して吉崎御坊から逃れ小浜、丹波、摂津を経て河内出口に寓居する
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1476年
駿河守護今川義忠が遠江の土豪一揆平定戦で落命、扇谷上杉定正の家宰太田道灌が大軍を率いて乗り込み小鹿範満(義忠の従兄弟で母は犬懸上杉政憲氏)の今川家相続を強迫するが、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が室町幕府の権威を背景に調停、当主には龍王丸(今川氏親・義忠と早雲の妹北川殿の子)を立て成人まで範満が後見することで決着
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1476年
[長尾景春の乱]太田道灌・扇谷上杉軍の駿河出張の隙を衝き、叔父長尾忠景に山内上杉家家宰をさらわれた景信の嫡子長尾景春が古河公方足利成氏に寝返り武蔵鉢形城で挙兵、関東管領山内上杉顕定を上野国に敗走させ反上杉勢の蜂起が広がるが、帰還した太田道灌が東奔西走の活躍で豊島氏・千葉氏ら抵抗勢力を討平(弟の太田資忠は房総臼井城攻めで戦死)
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1477年
大内政弘ら西軍諸大名の撤収により応仁の乱終息、足利義視は美濃に退去するが、畠山義就・政長は戦闘を継続
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1477年
周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配する大内政弘の嫡子に大内義興が出生
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1477年
大内政弘ら西軍諸大名の撤収により応仁の乱終息、足利義視は美濃に退去するが、畠山義就・政長は戦闘を継続
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1478年
応仁の乱の活躍で周防・長門・豊前・筑前の守護職を安堵された大内政弘が山口に帰国後間もなく九州へ転戦、反乱挙兵した少弐教頼を攻め殺し豊前・筑前を制圧(後継の少弐政資は大内氏への抵抗を続ける)
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1479年
越前一向一揆発生を嫌い吉崎御坊を退去した本願寺蓮如が京都山科に坊舎を築き居を定める(山科本願寺落成は5年後)
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1481年
越前国守護朝倉孝景が分国法『朝倉孝景条々』を遺し死去、嫡子朝倉氏景が家督相続
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1481年
雪舟が美濃へ創作旅行
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1482年
[大内山口事件]周防・長門・豊前・筑前守護の大内政弘が応仁の乱の留守中に領国で勢力を伸ばした陶弘護を謀殺し家中を掌握(三男の陶興房が家督相続)、実行犯の吉見信頼はその場で内藤弘矩に討たれる
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1483年
[都鄙合体・享徳の乱終息]太田道灌の活躍により古河公方足利成氏・長尾景春が降伏し30年に及んだ関東大乱が終息するが、道灌率いる扇谷上杉氏の権勢が関東管領山内上杉顕定を凌駕し両上杉家の対立抗争が勃発、主君の扇谷上杉定正にも警戒された道灌は『太田道灌状』で「山内家が武蔵・上野両国を支配できるのは、私の功である」と憤慨
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1484年
京極政経が税収を横領した家臣・出雲守護代尼子清定(経久の父)を攻め破り追放、塩冶掃部介を月山冨田城に送り守護代とする
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1485年
細川政元の後援により山城の国人が結束し山城国一揆が勃発、畠山義就・政長の両派を国外に追放
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1486年
扇谷上杉定正が権臣太田道灌を相模糟屋館に招き騙し討ちで殺害(享年55)(北条早雲の謀略説あり)、柱石を失った関東諸豪は再び動揺し山内・扇谷の両陣営に分れ再び争乱に突入(長享の乱)(共倒れの途を辿った両上杉家は道灌末期の「当家滅亡」の叫びどおり60年後に北条氏康に滅ぼされる)
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1487年
今川氏親が成人し正式に駿河守護を承継(家督を争った小鹿範満は暗殺された疑いが濃厚)、叔父の伊勢新九郎長氏(北条早雲)は富士郡下方庄十二郷の所領と伊豆国境の興国寺城を与えられ60歳にして一城の主となる
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1487年
太田道灌暗殺に端を発した長享の乱、将軍足利義尚の命により越前の朝倉宗滴が南近江の六角高頼攻めに参戦、越前守護職奪還を企図する旧主斯波義寛と対立するが、幕府裁定により朝倉氏当主貞景が越前支配を追認される
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1488年
[加賀一向一揆]蓮綱(蓮如の三男)・蓮誓(同四男)・蓮悟(同七男)率いる一向一揆が戦費負担に不満を募らせる国人衆を味方に付け高尾城の加賀守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧(京都山科本願寺の蓮如は一揆を諌めるが収まらず)、これより加賀は本願寺顕如が織田信長に降伏し一揆が解体されるまで90余年に及び「百姓の持ちたる国」となる
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1489年
将軍足利義尚が六角高頼征伐に乗り込んだ近江で陣没、翌年足利義視の子足利義材(義稙)が10代室町将軍に就任、高頼は赦免され近江守護に復帰するが六角氏と足利幕府の争乱は続く
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1491年
[延徳の乱]将軍足利義材(義稙)が再び南近江の六角高頼討伐を号令し周防山口の大内政弘・義興父子らが参陣、旧主斯波義寛の差配に不服の朝倉宗滴は参軍を拒否するが朝倉氏の武力を恐れる室町幕府は処分に踏み込めず
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1493年
堀越公方足利政知が死去(虐待した嫡子茶々丸に妻子とともに殺害されたとの説あり)、扇谷・山内上杉家の上野合戦で守衛が手薄となった堀越御所を今川家被官北条早雲が急襲し政知の後継者足利茶々丸を追放、善政を敷き伊豆全域を平定(東国戦国時代・下克上の起り)
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1494年
[明応の政変]管領細川政元が足利義材(義稙)を追放し足利義澄を11代室町将軍に擁立、義稙は越前朝倉軍に捕えられ幽閉されるが、脱出して越中に逃れ将軍在任を宣言し上洛軍を挙兵(越中公方)、義稙についた朝倉氏が一向一揆などの反抗勢力を掃討
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1494年
大内義興が弟高弘の当主擁立を企てた嫌疑で内藤弘矩・弘和父子を誅殺するが冤罪が判明、義興は弘矩の娘を正室に迎え弘矩の弟弘春に内藤家を継がせ讒言者の陶武護を誅して末弟の陶興房(晴賢)を家督とする(両権臣の力を削いだ義興の地位は安定、家督相続前の大掃除だった疑いが濃厚)
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1495年
扇谷上杉家の重臣で小田原城主の大森氏頼が死去、北条早雲は後継の大森藤頼に取り入って安心させ、武蔵の合戦で扇谷上杉定正が落馬死した機を衝き、巻き狩りと偽って小田原城を急襲し奪取、扇谷上杉家に取り入って報復を防ぎつつ関東制覇を睨む
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1495年
周防・長門・豊前・筑前の守護で安芸・石見も支配圏に収め日明貿易・朝鮮貿易で巨富を積んだ大内政弘が分国法『大内家壁書』を遺して死去、嫡子大内義興が家督相続
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1496年
大友政親と対立した嫡子義右が急逝(毒殺説が濃厚)、同盟者の妹婿を殺された大内義興は政親討伐を宣言、政親は迎撃のため海路立花山城へ向かうが赤間関に漂着し捕えられて自害、義興は大友親実の擁立を図るが大内派を粛清した大友親治(政親の弟で宗麟の祖父)が大友氏を相続
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1496年
蓮如が摂津大坂に石山御坊を築き転居(後の石山本願寺、顕如退去後の跡地に豊臣秀吉が大阪城を築く)、以後大坂は寺内町として発展
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1497年
周防の大内義興が宿敵少弐政資・高経父子を攻め滅ぼし九州北部は大内氏・大友氏の二強争覇に突入、次男の少弐資元は追手を逃れるが肥前の一勢力に没落
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1497年
関東管領上杉氏と敵対し30年に及ぶ享徳の乱を戦い抜いた古河公方足利成氏が鎌倉に戻れぬまま死去、嫡子足利政氏が2代古河公方を襲名
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1499年
家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた蓮如が死去(享年85)、五男実如が承継した一向教団は孫の顕如の代に摂津・加賀を支配する「戦国大名」へ発展し各地に一向一揆を起して諸大名を苦しめるが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し皇族に準ずる権勢を保持する
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1499年
越前朝倉氏の参軍を得られぬまま足利義材(義稙)が挙兵上洛を強行、比叡山延暦寺・根来寺・高野山金剛峰寺と連携して近江へ進軍するが六角高頼に敗北、逃れた河内で管領細川政元に敗れ大内義興を頼り周防山口へ亡命、政元・将軍足利義澄は綸旨も得て西国28大名に義興討伐を号令し大友親治(宗麟の祖父)・大内高弘(義興の弟で大友氏に亡命中)・少弐資元らの反大内勢力が勢い付くが、義興は大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握して勢力均衡を保つ
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1499年
大友親治と通謀した杉武明が反乱を起すが大内義興が討伐、担がれた大内高弘(義興の弟)は豊後大友氏へ亡命
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1500年
追放された前出雲守護代尼子清定の嫡子尼子経久が山中勝重(鹿介の先祖)・鉢屋(賤視された遊芸民)を従え元旦の千秋万歳と偽り潜入する奇計を用いて月山冨田城を攻略、塩冶掃部介を討取って出雲守護代職を奪還し出雲国を制圧、石見・伯耆・安芸・備後へ侵出し西の大内義興・東の山名氏と対峙
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1500年
毛利弘元が嫡子毛利興元に家督を譲り次男毛利元就を伴い多治比猿掛城に隠居
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1501年
雪舟が天橋立へ創作旅行
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1504年
[立河原の戦い・長享の乱終結]関東管領山内上杉顕定が古河公方足利政氏(成氏の嫡子)を味方に付け扇谷上杉朝良(定正の後嗣)を圧迫、今川氏親・北条早雲と同盟した朝良は武蔵立河原(立川)の決戦で圧勝し顕定を北武蔵の鉢形城に追詰めるが、来援した越後守護代長尾能景(為景の父)が椚田城(八王子)・実田城(平塚)を攻落として扇谷上杉領と今川・北条領を遮断し河越城に孤立した朝良を降伏させて18年続いた長享の乱は山内方の勝利で終結、関東公方足利諸家に続いて疲弊した両上杉氏も没落し北条・今川・長尾・長野ら国人勢力に関東争覇の主導権が移る(西上野の領袖長野房兼は戦死するが後継の長野業尚・憲業・業正が台頭)
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1505年
実父の卜部覚賢・養父の塚原安幹から天真正伝香取神道流を学んだ16歳の塚原卜伝(高幹)が常陸から京都へ武者修行に出立、落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立ち合いで名を挙げ11代将軍足利義澄に出仕、義澄の下で大内義興・細川高国、12代将軍足利義晴(義澄の嫡子)の下で細川晴元・三好元長と戦った卜伝は生涯37度の合戦・19度の真剣勝負で無敗を通し大将首12と端武者首16・合計212人の首級を挙げながら一度も刀傷を負わず
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1506年
[九頭竜川の戦い・般若野の戦い]室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、越前では朝倉宗滴が圧倒的寡勢で九頭竜川の決戦に勝利し吉崎御坊を破却(1万対30万とも)、能登守護畠山慶致も防衛に成功すると一向一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた越後の長尾能景が来援するが砺波郡般若野の合戦で神保慶宗の裏切に遭い罠に嵌って討死(越後守護上杉房能は傍観)、長尾勢は越後へ敗走し嫡子長尾為景は復讐を誓う
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1506年
中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した雪舟が石見益田にて死去(享年86。雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)、雪舟は江戸時代に日本画壇を支配した狩野派に崇敬され芸術神となる
雪舟の交遊録
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天章周文
京都相国寺の水墨画師匠
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如拙
水墨画師匠
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春林周藤
京都相国寺の臨済禅の師匠
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龍崗真圭
画壇の大物
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宗湛
幕府御用絵師に任じられた周文弟子
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狩野正信
足利義教に招かれた宗湛後継の室町幕府御用絵師
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狩野元信
狩野派を創始した正信嫡子
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狩野永徳
狩野派を大成した元信孫
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土佐光信
朝廷絵所預の大和絵土佐派創始者・狩野元信舅とも
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李在
明人の水墨画師匠
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長有声
明人の水墨画師匠
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秋月
弟子
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宗淵
弟子
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等春
弟子
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大内教弘
周防大内氏当主
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大内政弘
教弘後嗣
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大内義興
政弘後嗣
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大内高弘
義興が家督を争った弟
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陶弘護
政弘が謀殺した大内権臣
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陶武護
義興が誅殺した弘護嫡子
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陶興房
弘護三男の家督相続者
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右田弘詮
弘護弟
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吉見信頼
陶弘護暗殺実行犯の大内重臣
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吉見頼興
信頼弟
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内藤弘矩
吉見信頼を討った政弘側近・義興が誅殺するが無実が判明し娘を正室に迎える
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内藤弘春
内藤家を継がせた弘矩弟
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益田兼堯
大内重臣の石見益田領主・陶弘護舅
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益田貞兼
兼堯嫡子
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益田宗兼
貞兼嫡子
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杉武明
義興が誅殺した高弘派重臣
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足利義政
8代将軍
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足利義視
義政弟
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足利義尚
9代将軍
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足利義稙
大内義興が復位させた10代将軍
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足利義澄
大内義興が追放した11代将軍
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山名宗全
大内教弘舅の西軍大将
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細川勝元
東軍大将の管領
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細川政元
大内義興政敵の勝元嫡子
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六角高頼
南近江守護
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朝倉宗滴
越前朝倉氏の領袖
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尼子経久
山陰の風雲児
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毛利元就
中国の覇者
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蓮如
一向宗の祖
雪舟と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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年
基礎点 80点
雪舟は、中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した日本画壇の巨星、江戸時代に狩野派に崇敬され芸術神となった。作品の多くは山水画だが肖像画や花鳥画も描き、雪舟が造園を手掛けたという「雪舟庭」も山口・島根・福岡などに現存する。備中赤浜の武家小田氏に生れ幼少期に総社井尻野の臨済宗寺院宝福寺に入門、絵に熱中する余り禅修行に身が入らない雪舟(拙宗等揚)は柱に縛られるが足先を使い零した涙で実物と見紛う鼠を描き禅師を感嘆させたと伝わる。なお「達磨絵」や「頂相(師の肖像画)」に象徴されるように水墨画は禅宗のなかで発展した宗教芸術であり、屋敷を飾るための彩色画や工芸品の職人芸とは一線を画すものであった。さて雪舟は、10歳のころ京都相国寺に移り春林周藤から禅を学びつつ画僧として著名な天章周文・如拙から水墨画を学び『山水図』の制作を開始、24歳で卒業すると大内教弘の招きで周防山口に移住し「雲谷庵」で創作に専心する生活に入った。応仁の乱勃発の翌年、48歳の雪舟は本場中国で水墨画を学ぶため勘合貿易船に乗込み明へ渡海、夏珪・李唐など宋・元代の水墨画に感化されて模写に励み揚子江流域など中国各地を写生旅行し「風景こそ最大の師」という孤高の境地に到達、天童山景徳禅寺で「四明天童山第一座」の尊称を贈られ首都北京でも画名を博した。2年弱の滞在を終え帰国した雪舟は、周防山口を拠点に豊後や石見へも足を伸ばし美濃や天橋立への創作旅行も敢行、86歳まで長寿を保ち石見益田で病没した(雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)。雪舟様式の特徴は安定感のある構図や力強い筆致に顕著で、大胆で構築的な空間構成,強調された輪郭線と細い線による簡略化された皴法,墨の濃淡を操る妙技は今も国際的に高い評価を得る。安土桃山時代になると武士の派手好みに応じて邦画の主流は岩絵具を用いる彩色画(いわゆる日本画)へ移ったが、江戸時代に画壇を支配した狩野派が雪舟を師と仰ぎ諸大名も追従、「雪舟作」を騙る作品が多く出回ることとなった。