山縣有朋の子分となり内務官僚・司法大臣として忠勤に励んだ後、楔として貴族院に送込まれ親山縣・反政党の牙城を築いた出世人
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清浦 奎吾
1850年 〜 1942年
30点※
清浦奎吾の寸評
清浦奎吾の史実
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1850年
肥後鹿本郡来民村の明照寺住職大久保了思の五男清浦奎吾が出生、後に清浦家を継ぐ
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1865年
清浦奎吾が豊後日田に出て広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入門
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1873年
清浦奎吾が埼玉県令の野村盛秀を頼って上京し埼玉県14等出仕
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1873年
明治六年政変
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1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
清浦奎吾の交遊録
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山縣有朋
主人
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桂太郎
山縣ファミリー
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寺内正毅
山縣ファミリー
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田中義一
山縣ファミリー
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伊藤博文
主人の政敵
清浦奎吾と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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年
基礎点 30点
清浦奎吾は非長州閥・非軍人ゆえに山縣有朋に重宝され、司法官僚・大臣として陸軍長州閥の法整備を担い、貴族院に送込まれ親山縣・反政党の牙城を築いた。山縣有朋の死後も貴族院に君臨した清浦奎吾は念願の首相に就いたが、時代錯誤の「超然主義内閣」は護憲三派による第二次護憲運動によって僅か5ヶ月で打倒された。ただ、キングメーカーの西園寺公望元老は、選挙管理内閣として中継ぎ役を果たせば十分との考えであり、清浦奎吾に多くを望んではいなかった。退陣後の清浦奎吾は重臣会議に列し92歳まで長寿を保ったが、「第23代内閣総理大臣」の肩書きと山縣有朋の子分として果した役割以外に特段の業績も出世の理由も無い。