石原莞爾を失脚させ日中戦争拡大・日独伊三国同盟を主導、「中国一激論」が挫折し日中講和へ転じたが田中進一らの強硬論を覆せず、対米開戦に反対し東條英機内閣打倒に動くも東京裁判で死刑に処された陸軍統制派のリーダー
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照武藤 章
1892年 〜 1948年
30点※
武藤章の寸評
武藤章の史実
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1892年
熊本県白水村の地主の家に出生、済々黌中学・熊本陸軍地方幼年学校に就学
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1913年
武藤章・田中新一が陸軍士官学校(25期)卒業
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1919年
寺内正毅死去
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
鮎川義介が久原財閥を承継し日産コンツェルンを形成
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1920年
武藤章が陸軍大学校(32期)を優等で卒業
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1921年
宮中某重大事件、山縣有朋の権威失墜
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1921年
加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使がワシントン海軍軍縮条約調印を断行
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1922年
加藤友三郎首相が日本軍のシベリア撤兵を断行
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1923年
関東大震災
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1923年
武藤章がドイツ駐在
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1925年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925年
陸軍の永田鉄山の主導により軍事教練が始まる
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1926年
孫文の死に伴い蒋介石が広東の国民政府を掌握し北伐開始
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
永田鉄山らが陸軍内に「二葉会」を結成
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1927年
鈴木貞一・石原莞爾らが陸軍内に「木曜会」を結成
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1928年
石原莞爾が関東軍作戦参謀に就任
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足、宇垣一成が陸軍大臣就任(阿部信行が一時臨時代理)
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1929年
農産物価格が暴落し農家が大打撃を受ける
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1930年
幣原喜重郎外相と海軍条約派がロンドン海軍軍縮条約調印を断行
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1930年
鳩山一郎・犬養毅ら政友会が統帥権干犯問題を引起し東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(軍拡反米英派)が海軍主流となる
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1930年
参謀本部員(ドイツ班)任官、兵站班長、第4班長を歴任
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1930年
濱口雄幸首相銃撃事件
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足、南次郎:が陸軍大臣就任
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1931年
永田鉄山軍事課長ら「五課長会」が「満蒙問題解決方策の大綱」を決定し関東軍へ「1年間の隠忍自重方針」を通達
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1931年
中村震太郎大尉殺害事件、万宝山事件、陸軍首脳が武力解決を決意
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
朝鮮駐留軍の林銑十郎司令官が独断で越境増援、若槻禮次郞内閣が追認
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1931年
軍事費の急増が始まる
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
石原莞爾ら満州事変首謀者が「満蒙問題解決案」を策定
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1931年
十月事件
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
外相退任の幣原喜重郎が隠退し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」が終焉
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任
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1932年
関東軍が満州全域を制圧
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1932年
第一次上海事変
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1932年
軍拡反米英派(艦隊派)首領の伏見宮博恭王が海軍軍令部長(総長へ改称)就任(~1941)
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1932年
血盟団事件
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1932年
満州国建国
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1932年
国際連盟が満州国にリットン調査団を派遣
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1932年
上海天長節爆弾事件
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足、荒木貞夫が陸相・林銑十郎が教育総監・真崎甚三郎が参謀次長に就任し陸軍三長官を一夕会系が独占
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932年
第一次武装移民団が満州入植し満蒙開拓移民が始まる
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1932年
満州事変後の軍拡で重工業生産が急拡大し景気がV字回復
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
重光葵が外務次官就任
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1933年
永田鉄山・統制派と小畑敏四郎・皇道派の対立が始まる
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1933年
塘沽停戦協定締結
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1933年
武藤章がヨーロッパ出張
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足、林銑十郎が陸軍大臣就任(川島義之に途中交代)
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1934年
統制派が『陸軍パンフレット』刊行
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1935年
天皇機関説問題、国体明徴運動
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1935年
武藤章が陸軍省軍務局軍事課高級課員に栄進
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1935年
林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長が満州出張し関東軍を抑制、「梅津・何応欽協定」成立
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1935年
陸軍統制派の首領永田鉄山が殺害される(相沢事件)
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1935年
石原莞爾が参謀本部作戦課長就任、陸軍中央の指導的地位に就く
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1935年
皇統派が敵視する東條英機が満州の関東憲兵隊司令官に追払われる
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1936年
二・二六事件、参謀本部作戦課長の石原莞爾が戒厳司令部参謀を兼務し反乱将校の断罪と皇統派の粛清を主導
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速、寺内寿一が陸軍大臣就任
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1936年
軍部大臣現役武官制が復活
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1936年
「満州開拓移民推進計画」決定
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1936年
武藤章が関東軍第2課長任官
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1936年
日本の呼称を「大日本帝国」に統一
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1936年
日独防共協定調印
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1936年
広田弘毅内閣が「北守南進政策」を決定
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
東條英機が関東軍参謀長に栄転し陸軍主導による満州国支配を確立
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1937年
武藤章が参謀本部作戦課長就任
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1937年
田中新一が陸軍省軍務局軍事課長就任
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場、杉山元が陸相就任(板垣征四郎に途中交代)
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1937年
東條英機参謀長・辻政信参謀の関東軍が暴走しソ満国境で武力衝突事件が発生
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
日中戦争不拡大を説く石原莞爾が失脚し華北分離を主張する武藤章・田中新一ら統制派が陸軍中央を掌握
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1837年
関東軍参謀長の東條英機が察哈爾派遣兵団を率いて出陣し独断で日中戦争の戦線を拡大
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1937年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937年
石原莞爾の停戦案を近衛文麿首相と陸軍統制派が拒否
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1937年
統制派に敗れた石原莞爾が関東軍参謀副長に左遷され関東軍参謀長の東條英機と衝突し罷免される
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1937年
第二次国共合作成立
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1937年
鮎川義介が石原莞爾ら陸軍の要請に応じ満州重工業開発株式会社を設立し日産の重工業部門を満州へ移転
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1937年
大本営設置
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1937年
武藤章が中支那方面軍参謀副長就任
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1937年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1938年
日本軍が武漢三鎮を占領するが蒋介石の国民政府は重慶へ退避
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
杉山元に代わり日中戦争不拡大派(石原莞爾系)の板垣征四郎が陸相就任
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1938年
統制派の東條英機が陸軍次官就任
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1938年
武藤章が北支那方面軍参謀副長就任
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1938年
東條英機陸軍次官と多田駿参謀次長が喧嘩両成敗で更迭、東條英機は新設の陸軍航空総監に転出
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足、板垣征四郎が陸軍大臣就任
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1939年
ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の提案を受ける
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1939年
ノモンハン事件勃発
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足、畑俊六が陸軍大臣就任
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1939年
武藤章が陸軍省軍務局長兼調査部長就任
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足、畑俊六が陸軍大臣就任
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1940年
日本が汪兆銘を擁立して南京に中華民国政府を樹立
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1940年
日本軍による重慶爆撃
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1940年
イタリアが英仏に宣戦布告
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1940年
ナチス・ドイツ軍がパリを占領しフランス降伏
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)
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1940年
アメリカが対日屑鉄輸出を全面禁止、ABCD包囲網による経済封鎖が本格化
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1940年
「バトル・オブ・ブリテン」でイギリスがナチス・ドイツの本土上陸作戦を阻止
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
陸軍統制派で最強硬の田中新一が参謀本部第1部長に就任、対米妥協論の武藤章軍務局長と対立
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任
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1940年
海軍の出師準備発令
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1940年
最後の元老西園寺公望死去
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1940年
岡敬純・石川信吾ら対米強硬派が海軍を完全掌握し海軍国防政策委員会を設置
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1941年
東條英機陸相が石原莞爾を予備役に追込む
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1941年
松岡洋右外相がスターリンを訪問し電撃的に日ソ中立条約調印
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1941年
野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉が松岡洋右外相の妨害により停止
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1941年
独ソ戦開戦
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1941年
第三次近衛文麿内閣(公家)発足、松岡洋右外相を放逐、東條英機は陸相留任
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1941年
関東軍特種演習~対ソ連開戦に備えた関東軍増強
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1941年
南部仏領インドシナ進駐開始
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1941年
アメリカが対日石油輸出全面禁止
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1941年
御前会議で「帝国国策遂行要領」を定め対米開戦決意
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1941年
東條英機内閣(陸軍)発足、東條首相が陸相兼務
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1941年
アメリカの最後通牒(ハル・ノート)で日米交渉が決裂し御前会議で対米開戦決定
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1941年
ナチス・ドイツ軍がモスクワ攻略に失敗し後退が始まる
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1941年
日本海軍の真珠湾攻撃・陸軍のマレー侵攻で太平洋戦争勃発
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1941年
米軍が航空機の大増産を開始
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1942年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1942年
日本軍がインドネシア全域を占領し石油供給源を獲得(シーレーン断絶で宝の持ち腐れとなる)
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1942年
東條英機首相が武藤章軍務局長を近衛師団長に左遷しフィリピン方面軍に送る
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1942年
米軍が日本本土爆撃を試行
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1942年
ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
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1942年
鮎川義介が満州重工業開発総裁を辞任し日産コンツェルンは満州から全面撤退
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1942年
東條英機首相が田中新一参謀本部第1部長をビルマ方面軍に左遷
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1943年
スターリングラード攻防戦でソ連軍がドイツ軍を撃退
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1943年
日本軍がソロモン沖海戦で敗北しガダルカナル島撤退
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1943年
東條英機内閣が明治神宮外苑で出陣学徒壮行会を挙行
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1943年
山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜死
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1943年
スマトラ島駐在の武藤章の近衛師団が近衛第2師団へ改編される
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1943年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1943年
東條英機首相・重光葵外相が東京で大東亜会議を開催
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1943年
米英中が「カイロ宣言」発表
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1944年
東條英機の意を受けた牟田口廉也が無用無謀のインパール作戦を強行
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1944年
連合軍がノルマンディー上陸
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1944年
マリアナ沖海戦敗北・サイパン島陥落で日本の敗戦が決定的となる
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1944年
伏見宮博恭王の示唆により軍令部で特攻作戦の計画が具体化
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1944年
小磯國昭内閣(陸軍)発足、杉山元が陸軍大臣就任
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1944年
小磯國昭内閣が徴兵年齢を拡大し「根こそぎ動員」
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1944年
武藤章が山下奉文司令官の第14方面軍(フィリピン)参謀長に就任
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1944年
レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅し南方補給路が断絶(伏見宮博恭王元帥の示唆で「特攻作戦」始動)
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1945年
米英ソがヤルタ会談(ソ連の対日参戦を秘密合意)
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1945年
陸海軍統帥部が「本土決戦完遂基本要綱」を決定
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1945年
東京大空襲はじめ米軍の空爆で全国主要都市が焼け野原と化す
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1945年
硫黄島陥落で日本軍は本土制空権も完全喪失
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1945年
沖縄戦が始まる
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1945年
ソ連が日ソ中立条約廃棄を通告
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1945年
鈴木貫太郎内閣(海軍)発足、阿南惟幾が陸軍大臣就任
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1945年
ドイツが連合国に降伏
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1945年
鈴木貫太郎政府がソ連を仲介とする日米和解工作に動く
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1945年
連合国がポツダム宣言発表
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1945年
トルーマン米大統領が広島に原子爆弾投下
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1945年
ソ連が日ソ中立条約を破り満州・樺太・朝鮮へ侵攻
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1945年
トルーマン米大統領が長崎に原子爆弾投下
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1945年
日本がポツダム宣言に基づく降伏を通告
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1945年
玉音放送
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1945年
マッカーサー連合軍最高司令官が着任し連合軍進駐開始
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1945年
日本代表の重光葵外相が降伏文書に調印し第二次世界大戦終結、ソ連は満州侵略を止めず北朝鮮まで制圧
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1945年
GHQが東條英機を逮捕し戦犯狩り始動
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1945年
連合軍総司令部(GHQ)による間接統治開始(~1952)
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1946年
極東国際軍事裁判(東京裁判)開始(~1948)
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1946年
武藤章が巣鴨プリズンに投獄される(予備役編入)
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1948年
武藤章が巣鴨プリズンにて絞首刑に処される(享年56)
武藤章の交遊録
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永田鉄山
偉大なリーダー
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小畑敏四郎
一夕会仲間
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岡村寧次
一夕会仲間
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石原莞爾
宿敵
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板垣征四郎
石原派
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河辺虎四郎
石原派
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多田駿
石原派
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東條英機
盟友転じて決裂
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田中新一
同期のライバル
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鈴木貞一
東條派
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木村兵太郎
東條派
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佐藤賢了
東條派
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甘粕正彦
東條派
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土肥原賢二
一夕会仲間
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上原勇作
反長州閥のドン
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真崎甚三郎
皇道派の重鎮
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荒木貞夫
皇道派の重鎮
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林銑十郎
ロボット
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河本大作
一夕会仲間
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牟田口廉也
一夕会仲間
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山下奉文
一夕会仲間
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辻政信
石原の信奉者
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服部卓四郎
石原の信奉者
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南次郎
陸軍仲間
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金谷範三
陸軍仲間
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建川美次
陸軍仲間
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梅津美治郎
陸軍仲間
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杉山元
陸軍仲間
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阿南惟幾
陸軍仲間
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相沢三郎
暗殺者
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田中隆吉
呪ってやる
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山縣有朋
長州軍閥のドン
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宇垣一成
長州系の重鎮
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白川義則
長州系の重鎮
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田中義一
長州系の重鎮
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寺内正毅
長州系の重鎮
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寺内寿一
長州閥のぼっちゃん
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阿部信行
長州系転じて東條の子分
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小磯國昭
陸軍仲間
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畑俊六
陸軍仲間
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鮎川義介
満州仲間
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近衛文麿
暴走同志
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広田弘毅
暴走同志
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米内光政
暴走同志
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松岡洋右
言いなり外相
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幣原喜重郎
軟弱外交
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重光葵
軟弱外交
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星野直樹
東條派文官
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岡田啓介
反東條の同志
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マッカーサー
恐ろしや
武藤章と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 30点
武藤章は、陸軍「統制派」永田鉄山の後継者にして「華北分離工作」の起草者である。盧溝橋事件が起ると蒋介石政府を侮る武藤章は「中国一激論」を唱え、田中新一・東條英機ら統制派の勢力を後ろ盾に石原莞爾ら不拡大派を追放、近衛文麿内閣による日中戦争拡大と日独伊三国同盟に主導的役割を果した。思惑が外れ日中戦争が泥沼化に陥ると武藤章は日中講和に努めたが近衛文麿内閣の強硬姿勢を覆せず、陸軍省枢要の軍務局長として対米戦争に反対したが田中新一・東條英機らの強硬論に屈した。開戦後は早期講和を主張し岡田啓介らの東條英機内閣打倒工作に加担したが、東條に探知され前線のフィリピンへ送られ、終戦後の東京裁判で無念の死刑判決を受けた。中国一激論が挫折すると潔く停戦講和へ転じたとはいえ、亡国の元凶である日中戦争泥沼化に果した武藤章の責任は極めて重い。主犯は直ちに軍隊増派を決定し「近衛声明」で墓穴を掘った近衛文麿首相・広田弘毅外相だが、石原莞爾ら不拡大派の一掃は陸軍の自律機能を破壊し、首謀者の武藤章自身が後に孤立化する原因となった。また武藤章は、アメリカには勝ち目が無いと認識しながら日独伊三国同盟を推進したが、米英を正面敵に回す愚行であり見通しが甘すぎた。