加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸内閣の外相として対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を展開するが満州事変で失脚、戦後首相に担がれるとGHQ命令を粛々実行し「押付け憲法」を受諾したエリート外交官
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照幣原 喜重郎
1872年 〜 1951年
60点※
幣原喜重郎の寸評
幣原喜重郎の史実
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1872年
大阪府門真一番村の豪農幣原新治郎の次男に幣原喜重郎が出生
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1885年
岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に東京六義園にて死去(享年51)、弟の岩崎弥之助が三菱を承継
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1885年
西郷従道農商務卿の和解勧告により共同運輸会社が郵便汽船三菱会社を併合し、日本郵船会社発足
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1886年
岩崎弥之助が三菱社設立
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1893年
三菱社が三菱合資会社に改組、岩崎弥之助が岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲
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1893年
岩崎弥太郎の功により嫡子の岩崎久弥が男爵を受爵、三菱2代目の岩崎弥之助も別に男爵家を樹立
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1894年
不平等条約改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
幣原喜重郎が帝国大学法科大学(東大法学部)を卒業(生涯の盟友濱口雄幸と同級生)
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1895年
幣原喜重郎が外交官試験に合格し朝鮮仁川領事館・釜山領事等勤務
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1895年
朝鮮で親ロシア政権誕生、閔妃殺害事件
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1896年
露清密約、ロシアが清から東清鉄道敷設権を獲得
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1896年
岩崎弥之助が第4代日銀総裁就任
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1900年
北清事変
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1900年
立憲政友会結成
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1900年
第四次伊藤博文内閣(政友会)発足、加藤高明が外相就任
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、曾禰荒助蔵相の臨時兼任を経て小村寿太郎が外務大臣就任
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1901年
北京議定書調印
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
幣原喜重郎が岩崎弥太郎の妾腹の末娘雅子と結婚
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1904年
日露戦争開戦
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1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣する
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1904年
井上馨の依頼を受け高橋是清が日露戦費調達のため渡欧米
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1904年
第一次日韓協約締結
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1904年
三菱が伊東巳代治から東京日日新聞(毎日新聞)を買収、加藤高明が社長に就く
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1905年
第二次日英同盟協約締結
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
幣原喜重郎が釜山領事で日露戦争終戦を迎え外務省勤務・駐米大使館参事官・駐オランダ公使を歴任
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1905年
桂太郎政府がアメリカと桂・タフト協定
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1905年
日比谷焼打事件
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足、加藤高明が外務大臣就任(林薫と途中交代)
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1906年
第二次日韓協約締結、韓国に統監府設置
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1906年
南満州に関東都督府設置
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1906年
対米関係悪化で行き詰まった加藤高明に代わって林薫が外相就任
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1907年
韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結
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1907年
第一次日露協約締結
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1908年
岩崎弥之助死去
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、寺内正毅陸相の臨時兼任を経て小村寿太郎が外相就任
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1908年
加藤高明が桂太郎に鞍替えし駐英大使に就任(~1913)
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1908年
東洋拓殖会社設立
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1909年
アメリカが満鉄の中立化を提唱
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1911年
不平等条約改正で完全平等達成(関税自主権の完全回復)
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足、内田康哉が外務大臣就任
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、桂太郎が外相兼任(加藤高明と途中交代)
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1913年
加藤高明が駐英大使から外相へ転任
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1913年
桂太郎の立憲同志会発足、加藤高明が加盟
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足、牧野伸顕が外務大臣就任
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1913年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足、加藤高明が外務大臣就任(石井菊次郎と途中交代)
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信内閣が袁世凱政府に「対華21カ条要求」を突きつける
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1915年
大浦兼武の選挙汚職事件により与党同志会の加藤高明外相・若槻禮次郞蔵相・大浦兼武内相が辞任
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1915年
石井菊次郎外相のもと幣原喜重郎が外務次官就任
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足
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1916年
非政友会政党が合同し憲政会発足・同志会の加藤高明が総裁に就任
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1917年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1917年
石井・ランシング協定
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1918年
シベリア出兵
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
幣原喜重郎が駐米大使就任
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1919年
朝鮮で三・一独立運動が起る
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1921年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1921年
加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使がワシントン海軍軍縮条約調印を断行
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1922年
山縣有朋死去
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足
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1922年
加藤友三郎首相が日本軍のシベリア撤兵を断行
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1922年
ソビエト社会主義共和国連邦樹立、スターリンが最高指導者となる
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1923年
関東大震災
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足
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1924年
護憲三派による第二次護憲運動
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足、幣原喜重郎(加藤とは岩崎弥太郎の相婿)が外相就任
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1925年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925年
治安維持法制定
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1925年
陸軍の永田鉄山の主導により軍事教練が始まる
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1925年
高橋是清に代わって田中義一が政友会総裁就任
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1925年
普通選挙法制定
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1926年
加藤高明が首相在任中に死去(享年66)、与党憲政会を継いだ若槻禮次郞が加藤内閣を受継ぐ
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1926年
幣原喜重郎が貴族院議員となる(~1947)
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足、幣原喜重郎が外相就任
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1926年
孫文の死に伴い蒋介石が広東の国民政府を掌握し北伐開始
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1926年
幣原喜重郎外相が英米からの中国派兵要請を拒否
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
片岡直温蔵相の失言により金融恐慌が発生
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1927年
蒋介石軍が南京の日英領事館襲撃(南京事件)、対中国不干渉方針の幣原喜重郎外相が「軟弱外交」の批判を浴びる
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1927年
蒋介石が南京国民政府を樹立、第一次国共合作崩壊
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足
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1927年
憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が発足
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1927年
高橋是清蔵相が金融恐慌を沈静化、高橋は蔵相を依願退職
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1928年
吉田茂が岳父の牧野伸顕のツテで田中義一首相に対中強硬論(大陸派)を直訴し外務次官就任
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1928年
石原莞爾が関東軍作戦参謀に就任
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足、幣原喜重郎が外相就任
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1929年
農産物価格が暴落し農家が大打撃を受ける
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1930年
金解禁(金本位制復帰)
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1930年
幣原喜重郎外相と海軍条約派がロンドン海軍軍縮条約調印を断行
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1930年
鳩山一郎・犬養毅ら政友会が統帥権干犯問題を引起し東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(軍拡反米英派)が海軍主流となる
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1930年
濱口雄幸首相銃撃事件
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1931年
幣原喜重郎外相が116日間首相代理を務める
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1931年
濱口雄幸に代わって若槻禮次郞が民政党総裁就任
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足、幣原喜重郎が外相就任
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1931年
永田鉄山軍事課長ら「五課長会」が「満蒙問題解決方策の大綱」を決定し関東軍へ「1年間の隠忍自重方針」を通達
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1931年
濱口雄幸死去
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1931年
中村震太郎大尉殺害事件、万宝山事件、陸軍首脳が武力解決を決意
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
朝鮮駐留軍の林銑十郎司令官が独断で越境増援、若槻禮次郞内閣が追認
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1931年
軍事費の急増が始まる
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
石原莞爾ら満州事変首謀者が「満蒙問題解決案」を策定
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1931年
十月事件、若槻禮次郞首相・幣原喜重郎外相らがテロの標的となる
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
外相退任の幣原喜重郎が隠退し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」が終焉
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任
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1932年
関東軍が満州全域を制圧
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1932年
第一次上海事変
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1932年
軍拡反米英派(艦隊派)首領の伏見宮博恭王が海軍軍令部長(総長へ改称)就任(~1941)
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1932年
血盟団事件
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1932年
満州国建国
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1932年
国際連盟が満州国にリットン調査団を派遣
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1932年
上海天長節爆弾事件、重光葵公使が右脚切断の重傷を負いながら上海事変停戦協定に調印
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
重光葵が外務次官就任
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
若槻禮次郞に代わって町田忠治が民政党総裁就任
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1936年
二・二六事件
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場
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1937年
岸信介が満州国産業部次長に就任し(のち総務省次長)「産業開発五ヵ年計画」で統制経済を推進
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任
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1940年
最後の元老西園寺公望死去
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1941年
松岡洋右外相がスターリンを訪問し電撃的に日ソ中立条約調印
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1941年
独ソ戦開戦
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1941年
第三次近衛文麿内閣(公家)発足、松岡洋右外相を放逐
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1941年
南部仏領インドシナ進駐開始
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1941年
アメリカが対日石油輸出全面禁止
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1941年
御前会議で「帝国国策遂行要領」を定め対米開戦決意
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1941年
東條英機内閣(陸軍)発足
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1941年
アメリカの最後通牒(ハル・ノート)で日米交渉が決裂し御前会議で対米開戦決定
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1941年
日本海軍の真珠湾攻撃・陸軍のマレー侵攻で太平洋戦争勃発
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1944年
小磯國昭内閣(陸軍)発足
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1945年
鈴木貫太郎内閣(海軍)発足
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1945年
ハリー・S・トルーマン(共和党)が米大統領就任(~1953)
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1945年
ドイツが連合国に降伏
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1945年
吉田茂が近衛上奏文事件で憲兵隊に2ヶ月間拘置され反軍部の「勲章」獲得
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1945年
鈴木貫太郎政府がソ連を仲介とする日米和解工作に動く
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1945年
連合国がポツダム宣言発表
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1945年
トルーマンが広島に原子爆弾投下
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1945年
スターリンがソ連軍に対日参戦発令、原子爆弾開発を厳命
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1945年
ソ連が日ソ中立条約を破り満州・樺太・朝鮮へ侵攻
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1945年
トルーマンが長崎に原子爆弾投下
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1945年
日本がポツダム宣言に基づく降伏を通告
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1945年
玉音放送
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1945年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足、重光葵が外相就任(吉田茂に途中交代)
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1945年
東久邇宮稔彦王首相の「一億総懺悔」発言で敗戦原因究明がうやむやとなる
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1945年
マッカーサー連合軍最高司令官が着任し連合軍進駐開始
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1945年
日本代表の重光葵外相が降伏文書に調印し第二次世界大戦終結、ソ連は満州侵略を止めず北朝鮮まで制圧
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1945年
GHQが自主路線の重光葵外相を更迭し超従米路線の吉田茂に外相交代
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1945年
米国務省が「降伏後における米国の初期対日方針」決定
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1945年
昭和天皇・マッカーサー会談(以後11回)
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1945年
連合軍総司令部(GHQ)による間接統治開始(~1952)
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1945年
近衛文麿国務相がマッカーサーと会談、生存を賭けて憲法改定起草に乗出す
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1945年
幣原喜重郎内閣(外務官僚・従米路線)発足、吉田茂が外相就任
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1945年
GHQが五大改革指令
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1945年
マッカーサーが日本軍の武装解体完了を宣言
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1945年
国際連合発足
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1945年
GHQが財閥解体指令
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1945年
日本社会党(片山哲書記長)・日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)の結党が相次ぐ
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1945年
陸軍省・海軍省が復員省に改組され700万人以上の復員軍人を処理
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1945年
松本蒸治国務相(松本委員会)が憲法改正四原則を発表
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1945年
衆議院議員選挙法改定(婦人参政権容認)、「GHQ解散」
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1946年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
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1946年
GHQが公職追放を発動し軍関係者を中心に約21万人が遭難(1951年解除)
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1946年
GHQが日本政府から沖縄施政権を剥奪
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1946年
GHQが幣原喜重郎内閣の第一次農地改革法案を拒否し徹底的改革を命令
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1946年
GHQが松本委員会の憲法草案を拒否し「押付け憲法」を幣原喜重郎内閣が受諾
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1946年
インフレ抑制のため預金封鎖・新円切替を断行
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1946年
GHQ指令に基づき労働組合法公布
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1946年
新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)
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1946年
GHQが持株会社整理委員会を設置し財閥解体を本格化
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1946年
幣原喜重郎首相が日本進歩党総裁就任(~1947)
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1946年
極東国際軍事裁判(東京裁判)開始(~1948)、幣原喜重郎も参考人として出廷
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1946年
GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任
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1946年
第一次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相兼任
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1946年
幣原喜重郎が復員庁総裁就任(~1947)
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1946年
吉田茂内閣がGHQ指令に従い破壊的改革を強いる第二次農地改革法を制定
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1946年
吉田茂首相がGHQ作成「押付け憲法」を押通し日本国憲法公布
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1946年
吉田茂内閣で「戦後処理費(米軍駐留経費)」が膨張し一般歳出の32%を占める
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1947年
トルーマン米大統領が「トルーマン・ドクトリン」発表(ギリシア・トルコへの支援表明により共産主義勢力と戦う決意を示唆)
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1947年
総選挙、片山哲の社会党が第一党に躍進
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1947年
幣原喜重郎が衆議院議員となる(~1951)
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1947年
GHQ作成日本国憲法施行
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1947年
GHQ・吉田茂首相が米軍駐留経費増額に反抗する石橋湛山蔵相を公職追放
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1947年
片山哲内閣(社会党・キリスト教徒)発足、芦田均が外相兼副総理就任
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1947年
マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン」発表(西欧諸国への復興援助表明により東西対立が先鋭化、ソ連はコメコン設立で対抗)
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1947年
毛沢東の共産党軍が大反攻を開始し蒋介石の国民政府軍を圧倒、アメリカは防共のためアジア戦略変更を迫られる
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1947年
芦田均外相がアメリカ政府に米軍の「有事駐留」を提案し怒りを買う
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1947年
昭和天皇がGHQに「沖縄の恒久的軍事占領が望ましい」と伝達
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1947年
過度経済力集中排除法(財閥解体の施行細則)施行
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1947年
民法改正(夫婦平等・戸主権や長子相続権の廃止・自由結婚など)
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1948年
ロイヤル米陸軍長官演説(占領経費削減と「反共の防波堤」構築のため、日本経済の破壊から自給自足促進への戦略転換を提言)
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1948年
李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻
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1948年
ジョージ・ケナンが来日し米国政府の日本解体緩和方針をマッカーサーに伝達
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1948年
民主党を離脱した幣原喜重郎グループ(田中角栄も)が自由党に合流し民主自由党成立(吉田茂総裁)
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1948年
日独占領政策を担うドレイパー米陸軍次官が日本視察し経済破壊政策の緩和を米政府に勧告(ジョンストン=ドレイパー報告)
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1948年
芦田均内閣(民主党・外務官僚・自主路線)発足、芦田均が外相兼任
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1948年
ソ連が「ベルリン封鎖」を強行し冷戦緊迫化
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1948年
GHQ参謀第2部=東京地検特捜部が民政局打倒のため昭和電工疑獄を創出し芦田均内閣が総辞職
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1948年
GHQ参謀第2部が民政局を打倒し第二次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相兼任
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1948年
米政府が「国家安全保障会議文書」において日本経済の破壊から復興への180度戦略転換を確定
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1948年
GHQが日本解体方針を緩和し「経済安定九原則」発表
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1948年
東條英機(享年63)らA級戦犯7名の死刑執行、他の戦犯容疑者は釈放
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1948年
内閣不信任案が可決され吉田茂首相は衆議院解散で対抗
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1949年
衆議院総選挙、吉田茂の与党民主自由党が単独過半数獲得
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1949年
幣原喜重郎が衆議院議長就任(~1951)
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1949年
第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)
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1949年
米軍が日本の再軍備方針を決定
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1949年
ドッジ・ライン(GHQによる超緊縮財政政策)が深刻な反動デフレを引起し日本産業界は壊滅に瀕す
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1949年
北大西洋条約機構(NATO)発足
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1949年
ソ連の核実験成功で東西冷戦が本格化
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1949年
毛沢東の共産党が国共内戦を制し北京で中華人民共和国樹立を宣言、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1949年
若槻禮次郞死去
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1950年
民主自由党が自由党に改称
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1950年
中ソ友好同盟相互援助条約成立、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950年
吉田茂首相が池田勇人蔵相・宮澤喜一秘書官を派米し米軍駐留継続と単独講和を申入れ
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1950年
トルーマン米大統領がダレス米講和特使を派日(1951年までに4回来日)
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1950年
朝鮮戦争勃発、米軍の特需で日本経済は蘇生しアメリカは破壊から復興へ対日政策を転換
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1950年
GHQと反共の吉田茂首相がレッド・パージを開始し約1万2千人を公職追放(逆コース)
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1950年
GHQ指令を受け吉田茂政府が国家警察予備隊(自衛隊)創設
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1951年
幣原喜重郎が死去(享年78)
幣原喜重郎の交遊録
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岩崎雅子
妻にして出世の糸口
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岩崎弥太郎
岳父
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岩崎弥之助
三菱二代目
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岩崎久弥
三菱三代目
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岩崎小弥太
三菱四代目
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加藤高明
三菱の相婿にして政治活動のボス
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濱口雄幸
東大同窓にして生涯の盟友
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若槻禮次郞
民政党の後継者
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大隈重信
加藤のボス
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桂太郎
加藤のボス
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小村寿太郎
加藤のライバル
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河野広中
政党仲間
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大浦兼武
政党仲間
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尾崎行雄
政党仲間
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床次竹二郎
政党仲間
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片岡直温
不肖の政党仲間
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田中義一
宿敵
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後藤新平
長州系外政家
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松岡洋右
宿敵
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広田弘毅
愚か者
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大島浩
愚か者
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白鳥敏夫
愚か者
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石井菊次郎
仲人も頼んだ先輩外交官
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林薫
外交仲間
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内田康哉
外交仲間
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有田八郎
外交仲間
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重光葵
外交仲間
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東郷茂徳
外交仲間
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吉田茂
復活の恩人
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芦田均
民主党仲間
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牧野伸顕
協調外交仲間
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西園寺公望
反加藤のキングメーカー
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近衛文麿
暴走貴族
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尾崎行雄
政敵
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犬養毅
政敵
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原敬
政敵
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高橋是清
政敵
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鳩山一郎
政敵
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清浦奎吾
攻撃目標
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財部彪
条約仲間
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東郷平八郎
困った爺さん
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伏見宮博恭王
暴走貴族
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加藤寛治
愚か者
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末次信正
愚か者
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石原莞爾
困り者
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板垣征四郎
困り者
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林銑十郎
困り者
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南次郎
困り者
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宇垣一成
困り者
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金谷範三
困り者
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米内光政
組閣仲間
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小林一三
組閣仲間
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岸信介
満州経済の指導者
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田中角栄
自派の若手
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キャッスル
戦前の駐日大使
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マッカーサー
新王
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ウィロビー
副将軍
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ケーディス
憲法作者
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ホイットニー
ケーディスのボス
幣原喜重郎と同じ時代の人物
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 60点
幣原喜重郎は、満州事変まで「協調外交」を主導し戦後首相となった外務省本流の中心人物、岩崎弥太郎の娘婿で加藤高明・岩崎久弥の義弟である。東大法学部を出て外交官となった幣原喜重郎は、駐米大使としてワシントン海軍軍縮条約をリードし、加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸の内閣で外相を務めワシントン体制維持と対英米協調・経済的利益重視と対中国不干渉を旨とする「幣原外交」を展開した。蒋介石の北伐に際し幣原喜重郎外相は英米の派兵要請を拒否し、国民政府軍が日英領事館を襲撃した「南京事件」でも制裁反対を貫いたが、在華権益や居留民保護の具体策に欠ける「霞ヶ関正統派外交」は「軟弱外交」と批判された。金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れ、田中義一内閣は山東出兵など「強硬外交」へ転じたが張作霖爆殺事件で退陣、濱口雄幸内閣が発足し幣原喜重郎は外相に返咲いた。1930年のロンドン海軍軍縮条約で幣原外交は絶頂を迎えたが、海軍軍拡派と政友会が統帥権干犯問題を引起し、濱口雄幸首相銃撃事件が発生した。幣原喜重郎は116日間も首相代理を務め第二次若槻内閣で外相を続投したが1931年柳条湖事件が発生、若槻内閣は「不拡大方針」を宣しつつ関東軍・朝鮮軍の独断専行を追認し特別予算までつけて歩み寄ったが、満州事変と軍拡の勢いを止められなかった。外相退任に伴い隠退した幣原喜重郎は、第二次大戦が起ると「欧州戦争の前途」を著してドイツの苦戦を警告し、日本が参戦すると早期講和を唱えたが、末期には何故か「和平工作などは一切無駄であり、有害である」と徹底抗戦へ転じた。終戦後、GHQと吉田茂は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に担出し、幣原内閣は僅か半年の間に日本軍解体・五大改革・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQの命令を粛々実行へ移した。更に憲法改定を迫られた幣原喜重郎首相は、近衛文麿の独走を退け「松本委員会」を発足させたが、抜本的改革案を出せないうちに民政局(GS)次長ケーディスに取って代られ、天皇の訴追免除と引換えに「押付け憲法」を受諾した。