戦前は政友会幹部として迷走したが、「憲法改正・再軍備・自主外交」を掲げて吉田茂の従米政権を倒し重光葵外相と共に保守合同(55年体制)・日ソ国交回復・国際連合加盟を達成した党人派の親方
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照鳩山 一郎
1883年 〜 1959年
70点※
鳩山一郎の寸評
鳩山一郎の史実
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1883年
弁護士で衆議院議長・東京専門学校校長も務めた鳩山和夫の嫡子鳩山一郎が東京にて出生
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1890年
第一回衆議院総選挙
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1890年
第一回帝国議会開催
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1890年
鳩山和夫(鳩山一郎の父)が東京専門学校(後の早稲田大学)校長就任
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1894年
鳩山和夫(鳩山一郎の父)が衆議院議員に初当選(~1911)
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1896年
鳩山和夫(鳩山一郎の父)が衆議院議長就任
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1898年
鳩山和夫(鳩山一郎の父)が外務次官就任
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1900年
立憲政友会結成
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1902年
鳩山和夫(鳩山一郎の父)が早稲田大学校長就任
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1904年
日露戦争開戦
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
日比谷焼打事件
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1907年
鳩山一郎が東京帝国大学英法科を卒業し父鳩山和夫の弁護士事務所に勤務
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1908年
鳩山和夫(鳩山一郎の父)が政友会に加盟
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1908年
鳩山一郎が玄洋社幹部(のち貴族院議員)寺田栄の長女薫と結婚
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
父鳩山和夫が東京弁護士会会長就任
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1911年
鳩山和夫(鳩山一郎の父)死去
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1912年
鳩山一郎が父鳩山和夫の補欠選挙で東京市会議員に初当選
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足
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1913年
桂太郎の立憲同志会発足
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1913年
国民党から多数が憲政会に奔り、国民党に残った犬養毅が党首となる
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足、犬養毅が入閣要請を拒否
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1914年
原敬が西園寺公望に代わって政友会総裁就任
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1915年
大隈重信内閣が袁世凱政府に「対華21カ条要求」を突きつける
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1915年
鳩山一郎が政友会公認で衆議院議員に初当選(1946年~1952年の公職追放を挟み1959年まで議席を保持)
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1916年
吉野作造が民本主義を提唱~大正デモクラシーの萌芽
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足
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1916年
非政友会政党が合同し憲政会発足・同志会の加藤高明が総裁に就任
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1918年
インフレ進行で小作争議が蔓延し「米騒動」で寺内正毅内閣退陣
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
鮎川義介が久原財閥を承継し日産コンツェルンを形成
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足
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1922年
国民党解党、犬養毅が革新倶楽部を結成
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1923年
石橋正二郎の日本足袋がゴム底「アサヒ地下足袋」を発売し作業現場の定番品となる
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1923年
関東大震災
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足、犬養毅が文相・逓信相就任
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足
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1924年
護憲三派による第二次護憲運動
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足、犬養毅が逓信大臣就任(安達謙藏に途中交代)
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1925年
高橋是清に代わって田中義一が政友会総裁就任
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1925年
普通選挙法制定
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1925年
革新倶楽部が政友会に合流、犬養毅は逓信相辞任のうえ政界引退を表明
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足
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1927年
鳩山一郎が田中義一首相の引きで内閣書記官長任官(~1929)
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1927年
憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が発足
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
田中義一死去、犬養毅が後継の政友会総裁就任
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1929年
農産物価格が暴落し農家が大打撃を受ける
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1930年
金解禁(金本位制復帰)
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1930年
幣原喜重郎外相と海軍条約派がロンドン海軍軍縮条約調印を断行
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1930年
鳩山一郎・犬養毅ら政友会が統帥権干犯問題を引起し東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(軍拡反米英派)が海軍主流となる
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1930年
濱口雄幸首相銃撃事件
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足
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1931年
石橋正二郎が久留米市にブリッヂストンタイヤ株式会社(現ブリヂストン)設立
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1931年
濱口雄幸死去
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
十月事件
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
外相退任の幣原喜重郎が隠退し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」が終焉
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、鳩山一郎が文相就任、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任
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1931年
犬養毅内閣が金輸出再禁止を実施
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1932年
衆議院総選挙で与党政友会が圧勝、犬養毅内閣が高い支持率を得る
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1932年
関東軍が満州全域を制圧
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1932年
第一次上海事変
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1932年
軍拡反米英派(艦隊派)首領の伏見宮博恭王が海軍軍令部長(総長へ改称)就任(~1941)
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1932年
血盟団事件
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1932年
満州国建国
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1932年
国際連盟が満州国にリットン調査団を派遣
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1932年
上海天長節爆弾事件
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉、犬養毅に代わって鈴木喜三郎(鳩山一郎の義兄)が政友会総裁就任
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足、鳩山一郎が文相留任、岡田啓介が海軍大臣就任(大角岑生と途中交代)
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932年
第一次武装移民団が満州入植し満蒙開拓移民が始まる
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1932年
満州事変後の軍拡で重工業生産が急拡大し景気がV字回復
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1933年
滝川事件、鳩山一郎文相が滝川幸辰京都帝国大学法学部教授の罷免を要求
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
永田鉄山・統制派と小畑敏四郎・皇道派の対立が始まる
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1933年
塘沽停戦協定締結
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
帝人事件、汚職嫌疑の鳩山一郎が文相を引責辞任
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1935年
陸軍統制派の首領永田鉄山が殺害される(相沢事件)
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1936年
政友会総裁の鈴木喜三郎が衆議院選挙で落選、義弟鳩山一郎の宮中工作で貴族院議員に勅撰され顰蹙を買う
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1936年
二・二六事件
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速
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1936年
日独防共協定調印
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1936年
広田弘毅内閣が「北守南進政策」を決定
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
政友会が集団指導体制となり鳩山一郎が総裁代行委員就任
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
日中戦争不拡大を説く石原莞爾が失脚し華北分離を主張する武藤章・田中新一ら統制派が陸軍中央を掌握
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1937年
石原莞爾の停戦案を近衛文麿首相と陸軍統制派が拒否
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1937年
第二次国共合作成立
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足
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1939年
ノモンハン事件勃発
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1939年
武藤章が陸軍省軍務局長兼調査部長就任
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
陸軍統制派で最強硬の田中新一が参謀本部第1部長に就任、対米妥協論の武藤章軍務局長と対立
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任、全政党が消滅
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1940年
最後の元老西園寺公望死去
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1941年
松岡洋右外相がスターリンを訪問し電撃的に日ソ中立条約調印
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1941年
野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉が松岡洋右外相の妨害により停止
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1941年
独ソ戦開戦
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1941年
第三次近衛文麿内閣(公家)発足、松岡洋右外相を放逐
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1941年
関東軍特種演習~対ソ連開戦に備えた関東軍増強
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1941年
南部仏領インドシナ進駐開始
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1941年
アメリカが対日石油輸出全面禁止
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1941年
御前会議で「帝国国策遂行要領」を定め対米開戦決意
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1941年
東條英機内閣(陸軍)発足
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1941年
アメリカの最後通牒(ハル・ノート)で日米交渉が決裂し御前会議で対米開戦決定
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1941年
日本海軍の真珠湾攻撃・陸軍のマレー侵攻で太平洋戦争勃発
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1942年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1942年
日本軍がインドネシア全域を占領し石油供給源を獲得(シーレーン断絶で宝の持ち腐れとなる)
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1942年
鳩山一郎が翼賛選挙に非推薦・無所属で当選
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1942年
ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
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1942年
鳩山一郎の嫡子鳩山威一郎がブリヂストン創業者石橋正二郎の長女安子と結婚
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1943年
日本軍がソロモン沖海戦で敗北しガダルカナル島撤退
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1943年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1943年
米英中が「カイロ宣言」発表
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1943年
鳩山一郎が東條英機内閣を批判し軽井沢へ隠遁
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1944年
マリアナ沖海戦敗北・サイパン島陥落で日本の敗戦が決定的となる
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1944年
小磯國昭内閣(陸軍)発足、重光葵が外相就任
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1944年
レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅し南方補給路が断絶(伏見宮博恭王元帥の示唆で「特攻作戦」始動)
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1945年
米英ソがヤルタ会談(ソ連の対日参戦を秘密合意)
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1945年
東京大空襲はじめ米軍の空爆で全国主要都市が焼け野原と化す
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1945年
硫黄島陥落で日本軍は本土制空権も完全喪失
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1945年
沖縄戦が始まる
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1945年
ソ連が日ソ中立条約廃棄を通告
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1945年
吉田茂が近衛上奏文事件で憲兵隊に2ヶ月間拘置され反軍部の「勲章」獲得
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1945年
鈴木貫太郎内閣(海軍)発足、東郷茂徳が外相就任
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1945年
ハリー・S・トルーマン(共和党)が米大統領就任(~1953)
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1945年
ドイツが連合国に降伏
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1945年
鈴木貫太郎政府がソ連を仲介とする日米和解工作に動く
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1945年
連合国がポツダム宣言発表
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1945年
トルーマンが広島に原子爆弾投下
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1945年
ソ連が日ソ中立条約を破り満州・樺太・朝鮮へ侵攻
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1945年
トルーマンが長崎に原子爆弾投下
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1945年
日本がポツダム宣言に基づく降伏を通告
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1945年
玉音放送
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1945年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足、重光葵が外相就任(吉田茂に途中交代)
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1945年
東久邇宮稔彦王首相の「一億総懺悔」発言で敗戦原因究明がうやむやとなる
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1945年
マッカーサー連合軍最高司令官が着任し連合軍進駐開始
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1945年
日本代表の重光葵外相が降伏文書に調印し第二次世界大戦終結、ソ連は満州侵略を止めず北朝鮮まで制圧
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1945年
GHQが陸海軍解体指令
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1945年
GHQが言論統制を発動し民間検閲支隊による徹底的な検閲を開始
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1945年
GHQが東條英機を逮捕し戦犯狩り始動
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1945年
GHQが自主路線の重光葵外相を更迭し超従米路線の吉田茂に外相交代
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1945年
米国務省が「降伏後における米国の初期対日方針」決定
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1945年
昭和天皇・マッカーサー会談(以後11回)
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1945年
連合軍総司令部(GHQ)による間接統治開始(~1952)
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1945年
近衛文麿国務相がマッカーサーと会談、生存を賭けて憲法改定起草に乗出す
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1945年
幣原喜重郎内閣(外務官僚・従米路線)発足、吉田茂が外相就任
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1945年
GHQが五大改革指令
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1945年
マッカーサーが日本軍の武装解体完了を宣言
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1945年
国際連合発足
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1945年
GHQが財閥解体指令
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1945年
日本社会党(片山哲書記長)・日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)の結党が相次ぐ
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1945年
陸軍省・海軍省が復員省に改組され700万人以上の復員軍人を処理
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1945年
松本蒸治国務相(松本委員会)が憲法改正四原則を発表
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1945年
衆議院議員選挙法改定(婦人参政権容認)、「GHQ解散」
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1946年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
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1946年
GHQが公職追放を発動し軍関係者を中心に約21万人が遭難(1951年解除)
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1946年
GHQが日本政府から沖縄施政権を剥奪
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1946年
GHQが幣原喜重郎内閣の第一次農地改革法案を拒否し徹底的改革を命令
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1946年
GHQが松本委員会の憲法草案を拒否し「押付け憲法」を幣原喜重郎内閣が受諾
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1946年
インフレ抑制のため預金封鎖・新円切替を断行
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1946年
GHQ指令に基づき労働組合法公布
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1946年
新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)
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1946年
重光葵が巣鴨拘置所に投獄されA級戦犯容疑で起訴される
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1946年
GHQが持株会社整理委員会を設置し財閥解体を本格化
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1946年
極東国際軍事裁判(東京裁判)開始(~1948)
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1946年
GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任
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1946年
第一次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相兼任
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1946年
吉田茂内閣がGHQ指令に従い破壊的改革を強いる第二次農地改革法を制定
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1946年
吉田茂首相がGHQ作成「押付け憲法」を押通し日本国憲法公布
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1946年
吉田茂内閣で「戦後処理費(米軍駐留経費)」が膨張し一般歳出の32%を占める
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1947年
マッカーサー元帥の「2・1ゼネスト」中止声明で労働組合運動が沈静化
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1947年
トルーマン米大統領が「トルーマン・ドクトリン」発表(ギリシア・トルコへの支援表明により共産主義勢力と戦う決意を示唆)
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1947年
総選挙、片山哲の社会党が第一党に躍進
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1947年
吉田茂が旧高知全県区から出馬し衆議院議員初当選(~1963)
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1947年
GHQ作成日本国憲法施行
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1947年
GHQ・吉田茂首相が米軍駐留経費増額に反抗する石橋湛山蔵相を公職追放
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1947年
片山哲内閣(社会党・キリスト教徒)発足、芦田均が外相兼副総理就任
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1947年
マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン」発表(西欧諸国への復興援助表明により東西対立が先鋭化、ソ連はコメコン設立で対抗)
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1947年
毛沢東の共産党軍が大反攻を開始し蒋介石の国民政府軍を圧倒、アメリカは防共のためアジア戦略変更を迫られる
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1947年
芦田均外相がアメリカ政府に米軍の「有事駐留」を提案し怒りを買う
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1947年
昭和天皇がGHQに「沖縄の恒久的軍事占領が望ましい」と伝達
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1947年
石橋正二郎の日本タイヤ・石橋徳次郎の日本ゴムが株式交換で資本および経営を峻別し財閥解体を免れる
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1947年
過度経済力集中排除法(財閥解体の施行細則)施行
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1947年
民法改正(夫婦平等・戸主権や長子相続権の廃止・自由結婚など)
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1947年
GHQが匿退蔵物資事件捜査部(東京地検特捜部)を設置
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1948年
ロイヤル米陸軍長官演説(占領経費削減と「反共の防波堤」構築のため、日本経済の破壊から自給自足促進への戦略転換を提言)
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1948年
李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻
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1948年
ジョージ・ケナンが来日し米国政府の日本解体緩和方針をマッカーサーに伝達
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1948年
民主党を離脱した幣原喜重郎グループ(田中角栄も)が自由党に合流し民主自由党成立(吉田茂総裁)
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1948年
日独占領政策を担うドレイパー米陸軍次官が日本視察し経済破壊政策の緩和を米政府に勧告(ジョンストン=ドレイパー報告)
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1948年
芦田均内閣(民主党・外務官僚・自主路線)発足、芦田均が外相兼任
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1948年
ソ連が「ベルリン封鎖」を強行し冷戦緊迫化
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1948年
GHQ参謀第2部=東京地検特捜部が民政局打倒のため昭和電工疑獄を創出し芦田均内閣が総辞職
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1948年
GHQ参謀第2部が民政局を打倒し第二次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相兼任
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1948年
米政府が「国家安全保障会議文書」において日本経済の破壊から復興への180度戦略転換を確定
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1948年
GHQが日本解体方針を緩和し「経済安定九原則」発表
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1948年
東條英機(享年63)らA級戦犯7名の死刑執行、他の戦犯容疑者は釈放
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1948年
内閣不信任案が可決され吉田茂首相は衆議院解散で対抗
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1949年
衆議院総選挙、吉田茂の与党民主自由党が単独過半数獲得
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1949年
第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)
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1949年
米軍が日本の再軍備方針を決定
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1949年
ドッジ・ライン(GHQによる超緊縮財政政策)が深刻な反動デフレを引起し日本産業界は壊滅に瀕す
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1949年
GHQが1ドル=360円の単一為替レートを設定
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1949年
北大西洋条約機構(NATO)発足
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1949年
GHQ民政局次長ケーディスが辞職
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1949年
吉田茂首相が日本独立後も米軍駐留を望む旨を示唆
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1949年
ドッジ・ラインに基づく国鉄人員整理発表、下山事件・三鷹事件・松川事件
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1949年
シャウプ勧告(税制改革指令)
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1949年
ソ連の核実験成功で東西冷戦が本格化
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1949年
毛沢東の共産党が国共内戦を制し北京で中華人民共和国樹立を宣言、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1949年
吉田茂首相が西側陣営との単独講和にも応じる旨を声明
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1950年
ドッジ・ライン恐慌が深刻化、池田勇人蔵相は「中小企業の一部倒産やむなし」と発言
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1950年
民主自由党が自由党に改称
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1950年
中ソ友好同盟相互援助条約成立、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950年
学者グループが「厳正中立・全面講和」声明発表、西側との「単独講和」を進める吉田茂首相は「曲学阿世」発言で対抗
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1950年
吉田茂首相が池田勇人蔵相・宮澤喜一秘書官を派米し米軍駐留継続と単独講和を申入れ
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1950年
トルーマン米大統領がジョン・フォスター・ダレスを極東問題担当国務省顧問に任命
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1950年
トルーマン米大統領がダレス米講和特使を派日(1951年までに4回来日)
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1950年
朝鮮戦争勃発、米軍の特需で日本経済は蘇生しアメリカは破壊から復興へ対日政策を転換
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1950年
GHQと反共の吉田茂首相がレッド・パージを開始し約1万2千人を公職追放(逆コース)
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1950年
GHQ指令を受け吉田茂政府が国家警察予備隊(自衛隊)創設
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1951年
国家警察予備隊(自衛隊)の組織化完了、軍隊批判に対し吉田茂首相が「自衛のための戦力は合憲」と発言
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1951年
トルーマン米大統領が対立するマッカーサー連合軍最高司令官を罷免しリッジウェイ大将に交代(ウィロビー参謀第2部長も退官)
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1951年
自由党に鳩山一郎の派閥が起り吉田茂の主流派と勢力伯仲
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1951年
鳩山一郎が脳出血で倒れ半身不随の後遺症が残る
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1951年
公職追放解除、鳩山一郎が政界復帰
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1951年
サンフランシスコ講和条約および日米安保条約調印、衆参両院が批准承認
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1951年
サンフランシスコ講和条約を巡り社会党が左右派に分裂
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1951年
ブリヂストンタイヤが米グッドイヤー社と技術導入契約を締結(1979年解消)
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1952年
吉田茂政権が自由な米軍駐留と治外法権を認める日米行政協定(安保条約の施行細則)調印
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1952年
GHQ指令を受け吉田茂政府が海上警備隊(海上自衛隊)創設
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1952年
サンフランシスコ講和条約・日米安保条約・行政協定が発効、GHQは廃止され日本は独立を達成
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1952年
吉田茂首相腹心の岡崎勝男が隠蔽工作により宮澤喜一の行政協定批判を回避、外相に抜擢される
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1952年
ロバート・D・マーフィー米大使就任(~1953)
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1952年
自由党で吉田茂派と鳩山一郎派の溝が深まり吉田首相は抜打解散で対抗
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1952年
衆議院総選挙、自由党が圧勝し鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占める
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1952年
鳩山一郎への首相禅譲密約により第四次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1952年
池田勇人通産相が「中小企業の倒産・自殺やむなし」の失言で引責辞任
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1953年
ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党)が米大統領就任(~1961)
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1953年
ジョン・フォスター・ダレスが米国務長官就任(~1959)、引き続き対日政策を主導
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1953年
吉田茂首相が衆議院を「バカヤロー解散」、鳩山一郎・広川弘禅が分派し分党派自由党結成
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1953年
ソ連に人類史上最悪の恐怖政治を敷いたスターリンが死去、フルシチョフがベリヤ・マレンコフを粛清し後継体制確立
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1953年
第五次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1953年
ジョン・M・アリソン米大使就任(~1957)
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1953年
朝鮮戦争休戦、反動需要減に日銀の金融引き締めが拍車をかけ長期不況に陥る
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1953年
鳩山一郎が分自党を解消し吉田茂の自由党に復党、三木武吉・河野一郎・石橋湛山らが離脱し日本自由党結成
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1953年
奄美群島が本土復帰
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1954年
日本漁船がビキニ環礁にてアメリカの水爆実験に遭難(第五福竜丸事件)
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1954年
アメリカの意を受けた中曽根康弘らが初の原子力予算案を衆議院に提出
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1954年
アメリカの圧力により吉田茂政府が国家警察予備隊を常設軍隊「自衛隊」へ改組(陸上13万人・海上1万5千人・航空6千人)
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1954年
反抗勢力が日本民主党に合同し(鳩山一郎総裁・重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任決議で吉田茂内閣を打倒
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1954年
第一次鳩山一郎内閣(民主党・党人派・自主路線)発足、重光葵が外相兼副総理就任
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1954年
高度経済成長はじまる(~1973)
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1955年
米CIAに近い正力松太郎の読売新聞が「原子力の平和利用」を喧伝
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1955年
総選挙、鳩山一郎首相の民主党政権は絶対多数を獲得できず憲法改正を断念し対ソ外交に注力
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1955年
第二次鳩山一郎内閣(民主党・党人派・自主路線)発足、重光葵が外相兼副総理就任
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1955年
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催
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1955年
ワルシャワ条約機構(WTO)発足
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1955年
日本の保守合同に対しダレス米国務長官が財政支援を示唆しCIAは岸信介を通じ巨額資金供与
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1955年
重光葵外相・岸信介がワシントンでダレス米国務長官と会談、在日米軍撤退・防衛分担金廃止提案を一蹴される
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1955年
日本がGATT(関税及び貿易に関する一般協定)加盟
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1955年
左右社会党統一(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長、衆院156議席・参院69議席)
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1955年
保守合同で自由民主党(鳩山一郎総裁・岸信介幹事長、衆院299議席・参院69議席)が発足し「55年体制」開始
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1955年
第三次鳩山一郎内閣(自民党・党人派・自主路線)発足、重光葵が外相兼副総理就任
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1955年
アメリカの意を受けた中曽根康弘主導で「原子力の平和利用」促進のための原子力基本法成立
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1956年
原子力基本法に基づき原子力委員会が発足し正力松太郎が初代委員長就任(委員にノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹ら)
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1956年
フルシチョフの「スターリン批判」演説が西側に伝わり「雪どけ」機運高まる
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1956年
日ソ国交回復を期す鳩山一郎内閣の河野一郎農相・重光葵外相らが相次いでモスクワ訪問
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1956年
日本原子力研究所(茨城県那珂郡東海村)設立
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1956年
スエズ動乱(第二次中東戦争)でイスラエル軍が勝利するが米ソの支持を得たエジプトがスエズ運河を国有化
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1956年
鳩山一郎政府が経済白書に「もはや戦後ではない」と記し戦後復興完了を宣言
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1956年
日本・フィリピン国交回復(賠償金1980億円・借款900億円)
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1956年
自主路線の鳩山一郎内閣が日ソ国交回復を達成
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1956年
シベリア抑留者の最後の引揚船が舞鶴帰港(「岸壁の母」がミリオンセラーに)
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1956年
日ソ国交回復を受け国際連合が日本の加盟を承認、重光葵外相の国連総会演説が賞賛される
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1956年
石橋湛山内閣(自民党・言論人・自主路線)発足、岸信介が外務大臣就任
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1957年
アメリカに抵抗し自主外交を牽引した重光葵が謎の突然死(享年69)
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1957年
自主外交を掲げた石橋湛山首相が謎の発病により首相辞任
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1957年
鳩山一郎が自民党を離党し吉田茂派の佐藤栄作らが自民党復帰
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1957年
ダグラス・マッカーサー2世が米大使就任(~1961)、日本政府をリード
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1957年
第一次岸信介内閣(自民党・経済官僚・自主路線)発足、岸信介が外務大臣兼任(藤山愛一郎と途中交代)
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1957年
岸信介首相が「憲法は自衛のための核兵器保有を禁ずるものではない」と発言、自衛隊の軍備拡張計画(第一次防衛力整備計画)を承認
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1957年
原子力政策推進のため科学技術庁が発足し米CIAに属す正力松太郎が初代長官就任、湯川秀樹が原子力委員会委員辞任で抗議
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1957年
岸信介首相が訪米しアイゼンハワー大統領・ダレス国務長官に自衛隊増強と引換えに日米安保条約改定を打診
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1957年
電力9社と電源開発の出資により日本原子力発電株式会社設立
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1958年
日本・インドネシア国交回復(賠償金803億円・無償供与636億円・借款1440億円)
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1958年
総選挙、岸信介首相の与党自民党は大勝できず憲法改正を断念し安保改定に注力
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1958年
第二次岸信介内閣(自民党・経済官僚・自主路線)発足、藤山愛一郎が外務大臣就任、佐藤栄作が大蔵大臣就任
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1958年
全学連・社会党・総評が岸信介政権を攻撃し「安保闘争」が過熱
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1959年
鳩山一郎が死去(享年76)
鳩山一郎の交遊録
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河野一郎
盟友
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大野伴睦
盟友
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三木武吉
盟友
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重光葵
対ソ強硬派の閣僚
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石橋湛山
後は頼む
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岸信介
後は頼む
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吉田茂
宿命のライバル
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緒方竹虎
保守合同相手
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野村吉三郎
信頼する閣僚
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松本俊一
日ソ交渉全権
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幣原喜重郎
親米派長老
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吉田茂
GHQの代理人
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池田勇人
吉田の愛弟子
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佐藤栄作
吉田学校生
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宮澤喜一
吉田学校生
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田中角栄
幣原派→吉田学校生
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岡崎勝男
重光から吉田に乗り換えた男
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三木武夫
運輸相
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中曽根康弘
河野の弟子だが従米派
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正力松太郎
従米派の原子力男
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鳩山威一郎
息子
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鳩山邦夫
孫
-
鳩山由紀夫
孫
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石橋正二郎
威一郎の義父
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石橋安子
威一郎の嫁・鳩山家のゴッドマザー
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トルーマン
宿敵
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マッカーサー
宿敵
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ウィロビー
副将軍
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ケーディス
憲法作者
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ホイットニー
ケーディスのボス
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ドッジ
市場原理主義者
-
ダレス
マッカーサーの政敵
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アリソン
話の分る大使
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フルシチョフ
日ソ国交回復仲間
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ドムニツキー
日ソ国交回復仲間
-
マリク
日ソ国交回復仲間
-
ブルガーニン
日ソ国交回復仲間
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伊藤博文
政友会初代総裁
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西園寺公望
政友会2代目総裁
-
原敬
政友会3代目総裁
-
高橋是清
政友会4代目総裁
-
田中義一
政友会5代目総裁・文相時の首相
-
犬養毅
政友会6代目総裁・統帥権仲間
-
鈴木喜三郎
政友会7代目総裁・義兄
-
久原房之助
政友会のライバル
-
中島知久平
政友会のライバル
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若槻禮次郞
統帥権干犯で指弾
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濱口雄幸
統帥権干犯で指弾
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幣原喜重郎
統帥権干犯で指弾
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町田忠治
民政党最後の総裁
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滝川幸辰
滝川事件の標的
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北一輝
統帥権発案者の右翼
-
森恪
若槻内閣打倒で連携
-
永田鉄山
若槻内閣打倒で共闘
-
今村均
若槻内閣打倒で共闘
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東郷平八郎
統帥権仲間
-
伏見宮博恭王
統帥権仲間
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加藤寛治
統帥権仲間
-
末次信正
統帥権仲間
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斎藤実
文相時の首相
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平沼騏一郎
帝人事件の首謀者
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東條英機
東條内閣批判で隠遁
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児玉誉士夫
民主党結党資金提供者
鳩山一郎と同じ時代の人物
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 80点
第二次大戦後、政友会の幹部だった鳩山一郎は残党を集めて日本自由党を結成した。1946年新選挙法に基づく初の衆議院総選挙で自由党は最多議席を獲得、鳩山一郎総裁の首相就任は確実であったが、GHQの露骨な横槍で公職追放に遭い吉田茂に首相の座を預けた。1951年アメリカの対日戦略転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂と自由党を二分する勢力となったが、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と述べた吉田は政権を離さず鳩山に「首相禅譲密約」までして首相に居座った。吉田茂が密約も反故にすると、1954年鳩山一郎は反吉田勢力を結集して日本民主党を結成し(重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任案を提出、再軍備反対に固執しアメリカの信任も失った吉田は轟々たる非難のなか首相続投を断念した。1955年「憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)」を掲げ発足した鳩山一郎内閣は、「鳩山ブーム」を背景に総選挙を実施するも絶対多数の獲得には至らず、改憲と再軍備は棚上げして外交に専念する方針を採った。鳩山一郎首相は、民主党と自由党の「保守合同」で政権基盤を固め(55年体制)ソ連フルシチョフ政権との交渉に乗出したが、アメリカが日ソ離間のために仕組んだ「北方領土問題」があるうえ、重光葵外相と外務省は反ソ反共、保守合同で取込んだ外交従米の吉田茂派も対ソ強硬論を主張し与党内の意見調整も難航した。ダレス米国務長官は「日本が千島列島に対するソ連の主権を承認した場合は、アメリカは沖縄に対する完全な主権を行使する」と恫喝したが、1956年鳩山一郎首相は病躯を押してモスクワに乗込み「日ソ共同宣言」を達成(日ソ戦争終結)、帰国の翌日「日ソ国交回復lを花道に勇退を表明した。政治的妥協の結果北方領土問題は先送りされたが、鳩山一郎首相は日本人抑留者(シベリア抑留)の釈放・帰国を引出し、ソ連の拒否権を封じたことで国際連合加盟も果した。鳩山一郎首相・重光葵外相はソ連以外の外交問題にも意欲的に取組み、アジア・アフリカ会議に参加し、中国政府との貿易協定を前進させ、東欧諸国との関係正常化も果している。
減点 -10点
戦前の鳩山一郎は政党政治家の例に漏れず愚かな政権争いに明け暮れた。父の鳩山和夫は、イェール大学で法学博士号を取得し弁護士を開業したが、衆議院議員へ転じて議長まで務め、外務次官・東大教授・早稲田大学校長・東京弁護士会会長もこなした多芸多才の人であった。東大法学部を卒業した鳩山一郎は、父の死に伴い地盤と政友会公認を引継いで1915年衆議院議員に初当選、戦後5年間の公職追放を挟み1959年の逝去まで議席を保持した。鳩山一郎は、陸軍からの持参金で政友会を承継し首相となった田中義一に気に入られ内閣書記官長となり、与党政友会の幹部として犬養毅および斎藤実内閣で文部大臣を務めた。が、鳩山一郎の個人的事跡といえば、犬養毅と共に「統帥権干犯問題」をあげつらい若槻禮次郞・濱口雄幸の民政党内閣を攻撃したこと、文相として滝川幸辰京大教授の罷免を要求したこと(滝川事件)、平沼騏一郎が仕掛けた帝人事件疑獄で文相辞任に追込まれたことくらいで、若槻内閣打倒のためには永田鉄山・東條英機ら陸軍統制派とも手を組んだ。鳩山一郎が持出した「統帥権」は「軍部大臣現役武官制」とともに軍部専横の強力な武器となり、満州事変に始まる軍部暴走の呼び水となった。1936年政友会総裁の鈴木喜三郎が衆議院選挙に落選する失態を演じ、義弟の鳩山一郎は宮中工作により鈴木の貴族院議員勅撰を獲得し政友会総裁に居座らせたが党内で顰蹙を買った。政友会は醜い内部抗争に明け暮れ1940年大政翼賛会の発足により消滅、反軍部へ傾いた鳩山一郎は「翼賛選挙」の推薦を得られなかったが何とか議席を保持し、東條英機内閣を批判するも倒閣を断念し軽井沢に隠遁した。