第二次中曽根康弘内閣(自民党・従米路線)発足
1983年
中曽根康弘は、小派閥の領袖ながら巧みな政界遊泳術で田中派の支持を獲得、「田中曽根康弘内閣」「角影内閣」と揶揄されつつも長期政権を築いた。少壮期から改憲・タカ派で鳴らし、「吉田ドクトリン」を批判して保守本流に対抗したが、一方でキッシンジャーと通じて正力松太郎と共に原発推進政策を牽引、首相に就くと吉田派以上の従米外交を繰広げ、レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係を築くも、プラザ合意やBIS規制など日本経済解体策を唯々諾々と受入れバブル発生と崩壊・「失われた10年」の元凶となった。中曽根康弘は、東大法学部卒業後、内務省から海軍の経理部門に転じ、1947年の総選挙で芦田均の民主党から衆議院議員初当選、河野一郎派に鞍替えし、国権回復論を打って吉田茂陣営に対抗し「青年将校」と称された。選挙戦では、白塗りの自転車に日の丸を立てて運動し耳目を集めた。しかし、一方で米国にも接近し、欧米遊学の機会を与えられてキッシンジャーや正力松太郎の知遇を得、米国の「原子力平和利用」方針に従って原子力基本法成立と原発政策を主導し、1959年に科学技術庁長官(兼原子力委員会委員長)で初入閣を果した。池田勇人内閣での不遇期を経て、河野一郎死去後、佐藤栄作不支持派を糾合して河野派を割り中曽根派を結成した。が、佐藤栄作首相から運輸相ポストを与えられてあっさり転向、「政界の風見鶏」と言われつつも要職を歴任し自派の勢力拡大に励み、改憲・自主防衛論は封印した。「角福戦争」では田中角栄を支持して存在感を高め、続く三木武夫内閣では主流派入りするも「三木おろし」に加担、「四十日抗争」では福田・三木陣営に付くが土壇場で大平正芳支持に回り、田中角栄に認められて1982年遂に首相の座を掴んだ。5年に及ぶ長期政権を終えた後、中曽根派を渡辺美智雄に禅譲し院政を敷くが、求心力低下により派閥を離脱する議員が続出、渡辺は2度の自民党総裁選に敗北し、「中曽根さん、あんたはもう高崎へ帰りなさいよ」などと罵倒された。ロッキード事件、リクルート事件を巧みにすり抜け、「御意見番」として暗躍を続けたが、2003年小泉純一郎に引導を渡され政界を引退した。