織田信長配下の松永久秀謀反、大和信貴山城を攻囲され茶道具『平蜘蛛』と共に自爆死
1577年
天才の裏返しか、織田信長は躁鬱のうえに猜疑心が強く、当時常識外の悪逆非道を行って魔王と恐れられ、最後は家臣の裏切りで殺された。幼少期から変わり者だったようで、乳母の乳首を噛み切ったとか女装趣味伝説まであり、長じるとドラマでお馴染みの異装で奇行を繰返し、傅役平手政秀の諌死にも改めず、うつけの他に「たわけ(戯け)」と陰口されたのは実妹の市を犯したためとする説もある。とはいえ家督を継いで10余年尾張平定までは辛抱強く家臣の人心掌握に努め、弟の信行に与して叛逆した柴田勝家・林秀貞らを赦し、岳父斎藤道三が義龍に攻められた際には律儀に救援に駆けつけた。再度謀反を企てた信行を殺し、尾張織田家を滅ぼしたことは戦国の世の習い、身分低く有能な者には夢のような名君であった。ところが、浅井長政離反で猜疑心が鎌首をもたげ、討取った長政の頭蓋骨に金箔を施して御肴に供した。最も織田信長の評価を落とした比叡山焼き討ちや一向一揆の殺戮は、宗教を笠に着て武力抵抗を続けた門徒側の自業自得なのだが、迷信が根強い当時においては神をも恐れぬ所業であった。室町幕府滅亡も、大恩を忘れて信長打倒の謀略に励んだ足利義昭の自業自得だが、大義名分や権威主義を重視する世論は主君追放の大逆と見做した。武田信玄急死という桶狭間合戦以来の大幸運で信長包囲網の窮地を脱した織田信長は、自らを神格視するほどに増長し、平気で講和の約束を破り家臣に無理難題を押付ける暴君となった。徳川家康の正室築山殿の武田家への内通が露見すると無実の嫡子徳川信康まで自害させ、丹波攻略では城主助命の約を違えて人質の明智光秀叔母を捨て殺しにし、最古参の佐久間信盛・林秀貞らを大昔の罪状を突きつけて突然追放、信長の留守中に物見遊山に出掛けた女中数名を斬り殺したかと思えば、突然各地の軍団を京都に呼び上機嫌で大軍事パレードを挙行するなど、手に負えない有様となった。松永久秀と荒木村重の相次いぐ謀反は抑えたが、家臣達のストレスは頂点に達していただろう、無防備で京都本能寺に入ったところを突如明智光秀に襲われ落命した。