護憲三派による第二次護憲運動
1924年
三浦梧楼の斡旋で加藤高明(憲政会)・高橋是清(政友会)・犬養毅(革新倶楽部)が三浦邸に会し「護憲三派」が大同団結して清浦奎吾の「超然主義内閣」を打倒し政党内閣復活を期すことを盟約、第15回衆議院総選挙の護憲三派圧勝で清浦内閣は総辞職に追込まれ、第一党憲政会の加藤高明に組閣の大命が下された。政友会と並ぶ二大政党に発展した憲政会の加藤高明は桂太郎から同志会を継いで以来首相指名を待ち侘びたが、キングメーカーの西園寺公望に敬遠され、漸く巡って来た高橋是清内閣退陣後のチャンスも政友会に潰されており(加藤友三郎内閣が発足)、「苦節十年」宿敵政友会と結んでまでの悲願達成であった。が、政権目当ての寄集めに過ぎない護憲三派体制は間もなく内部崩壊し憲政会の単独内閣となって不安定化した。組閣2年後、加藤高明首相は帝国議会の壇上で答弁中に倒れ、外相の幣原喜重郎(岩崎弥太郎の相婿)に抱えられ議場から退出、僅か一週間後に病没した。「憲政の常道」に従い与党憲政会を継いだ若槻禮次郞が組閣、以後も政友会との泥仕合は続き田中義一・濱口雄幸・第二次若槻・犬養毅と政権交代を繰返したが五・一五事件で政党内閣は終焉を迎えた。