豊臣秀吉の正室ねね(北政所・高台院)死去、実家の木下家は足守・日出の両藩主として、養家の浅野家は広島藩主として幕末まで存続
1624年
織田信長に仕える前の豊臣秀吉の事跡は不明だが、本人も語れないほど悲惨な少年期であったと考えられ、少なくとも百姓の子に日吉丸の名はありえない。尾張国中村の出自で、当時賤視された焙烙売り一家の出とも、織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門の子ともいうが、木下は妻ねねの実家の姓であり、秀吉は入婿して木下藤吉郎を名乗ったとする方が信憑性が高い。口減らしのために家を出て放浪生活を送り、行商や盗賊働きもしたであろうが、今川家臣の松下之綱に最初の武家奉公をした話は後に家臣に迎え大名にしたことから事実と考えられる。秀吉の弟豊臣秀長は良き副将だっがた惜しくも早世、徳川家康懐柔のため生母なか(大政所)は人質に送り、中年の妹あさひ(朝日姫)は前夫と引離して入輿させた。「糟糠の妻」の代名詞ねね(北政所)は、加藤清正・福島正則・黒田長政らに敬慕されて反淀殿・石田三成陣営の精神的支柱となり、秀吉没後は徳川家康に誼を通じて実兄の木下家定(足守藩及び日出藩)と養家の浅野長政(広島藩)の三大名家を残した。木下家定の五男小早川秀秋は、秀吉の養子から小早川隆景の養嗣子となり、関ヶ原合戦の寝返りで徳川を勝利に導いて宇喜多秀家旧領の備前岡山55万石に加転封されたが、僅か2年後に狂死し無嗣断絶で改易された。女好きの豊臣秀吉は手当たり次第に励むも体質のせいか後嗣に恵まれず、やっと出来た男児2人は夭逝した。が、浅井長政・市(信長の妹)の長女茶々(淀殿)が鶴松を産み、これも夭逝したが続けて秀頼を出産、57歳にして待望の跡取りを授かった(父親別人説が有力だが、厳重警護下の不倫は困難であり、秀吉が仕組んだ可能性が高い)。耄碌した秀吉は、文禄の役で養子の秀勝(徳川秀忠の正室江の前夫)を戦死させ、家督と関白を譲った秀次を眷属諸共無残に殺害(共に姉日秀の子)、愛児秀頼の後見を家臣団に哀願して世を去った。豊臣秀頼は、徳川家康の娘千姫を妻に迎え立派に成人したが、大坂夏の陣で嫡子国松と共に滅ぼされた。助命された娘は縁切り寺で有名な天秀尼となり、ほかに求厭上人が秀頼遺児を自称したが、いずれも仏門で秀吉の血脈は途絶えた。