7月13日のコラム

  • 真田昌幸~関ヶ原の戦いで両天秤

    1611年

    #真田昌幸 は二股膏薬の天才,嫡子 #真田信之 は本多忠勝,次男 #真田信繁 は大谷吉継の娘と結婚させ結果信之が所領倍増の松代藩13万石に躍進。身も救われて仕送りで安穏な余生を全うし妻子は信之に庇護され御殿暮らしを継続,長女松と小山田茂誠の子孫は次席家老を世襲しました

  • 真田信繁は意外な世渡り上手

    1615年

    #真田信繁 は意外な世渡り上手,如何なる手配りか子女が大坂陣で交戦した #伊達政宗 に救われ梅は片倉重長の妻となり次男守信は仙台真田家の祖に。が梅と共に叔父滝川一積(一益の孫)に匿われ蒲生郷喜に嫁いだアクリは真田の血故に御家騒動を引起し一積改易の悲運に泣きました

  • 夕顔丸船上で坂本龍馬が後藤象二郎に『船中八策』を提案

    1867年

    1867年7月13日京都へ向かう夕顔丸船上で長岡謙吉の文章に #坂本龍馬 が #船中八策 と銘打ち #後藤象二郎 に提案。大本は福井藩の #横井小楠 由利公正で #大政奉還 に加え上下両院=大名の居場所,御親兵=権力基盤,憲法制定,海軍充実,通貨政策にも踏込む壮大な建国プランでした

  • 最後の土佐藩主 山内豊範の命日

    1886年

    1886年 #7月13日 #山内豊範 没 #山内容堂 の傀儡ながら最後の土佐藩主。岩倉織田の家老で黒田城主の山内氏は清洲織田の陪臣 #織田信長 に滅ぼされるも流浪の三男 #山内一豊 が信長に拾われ秀吉の子飼に連なって6万石へ躍進,小山評定で掛川城を差出し土佐20余万石を貰いました

  • バルカン武将 真田昌幸の命日

    1908年

    1611年 #7月13日 配流地の九度山で #真田昌幸 没。武田を滅ぼした織田に従い上杉,北条,徳川と乗換えつつ沼田領を奪回。返還を求め上田に来襲した徳川軍を破って豊臣に乗換え領土欲が小田原征伐を惹起,甲信二国の恩賞で石田に与し上田合戦でMVPとなる筈が関ヶ原敗戦で御破算に