7月22日のコラム

  • 加藤清正 名古屋城大天守の天下普請を拝命

    1610年

    1610年7月22日 築城名人 #加藤清正 が #名古屋城 大天守の天下普請を拝命,派手に金を使い幕府の警戒回避に腐心。朝鮮出兵で主力を担い関ヶ原渦中 #黒田官兵衛 に天下争覇の野心を起させた猛将の哀れな姿,憎き小西行長の所領を併せ肥後54万石の太守に収まるも没後21年で改易に

  • 富山魚津町の主婦がデモを起し全国規模の米騒動へ発展

    1918年

    第一次大戦の特需は日本を債権国へ押上げ産業資本を潤すも輸出過多で物価が2.3倍に騰貴。地租率固定の富農と反対に庶民は困窮し1918年 #7月22日 富山魚津町の主婦がデモを起し全国規模の #米騒動 へ発展,軍隊を出動した #寺内正毅 内閣が倒され #原敬 の政党内閣が発足します

  • 寺内正毅内閣~シベリア出兵と米騒動

    1918年

    インフレと民権弾圧に憤る大衆は #寺内正毅 の顔貌と非立憲を掛けビリケン内閣と揶揄 #山縣有朋 の傀儡首相はシベリア出兵と米騒動の失政に終始し退陣翌年急逝。功山寺の #高杉晋作 像に似た寺内元帥馬上像が三宅坂に聳えるも轟々たる非難が起り警視庁が厳戒態勢を敷く事態に

  • 第二次近衛内閣発足~亡国へ一直線

    1940年

    日独同盟に抗う米内光政の内閣が陸相拒否で倒され1940年 #7月22日 #第二次近衛内閣 発足。「英米本位の平和主義を排す」は肯けるも希望的な思込みで米軍介入の致命的リスクに目を瞑り日独同盟に奔ったのが破滅の因。今の日本で言えば中朝以前に米軍の背信リスクが致命的です

  • 亡国宰相 近衛文麿の本質

    1940年

    反英米,アジア蔑視,国家社会主義の #近衛文麿 ですが本質は迎合的粗忽者で確たる政見は見当らず。「国民政府を対手とせず」と打上げるも日中戦争泥沼化に慌てて撤回を図り英米に抗い日独同盟に奔るも米の硬化で協調へ転じ松岡外相を更迭,最後はGHQに阿り憲法改定を申出ました