昭和天皇の誤算~皇室の血脈と近衛文麿
1937年
#昭和天皇 最大の不幸は #近衛文麿 か。不比等以来の皇后独占を経て皇室の血はほぼ藤原に染まり五摂家筆頭の近衛は謂わば血族集団=本家の当主,御前を憚らず脚を組んだと伝わります。初めは中国問題,次は日独同盟の切所で天皇は近衛に大権を預け気が付けば開戦不可避の窮状に
1937年
#昭和天皇 最大の不幸は #近衛文麿 か。不比等以来の皇后独占を経て皇室の血はほぼ藤原に染まり五摂家筆頭の近衛は謂わば血族集団=本家の当主,御前を憚らず脚を組んだと伝わります。初めは中国問題,次は日独同盟の切所で天皇は近衛に大権を預け気が付けば開戦不可避の窮状に
1940年
1940年 #9月27日 #近衛文麿 内閣が使命に掲げた #日独伊三国同盟 締結を果し同時に #仏印進駐 始動。欧州戦争の隙に亜植民地を獲る戦略には一理あり現に第一次大戦で成功しましたが英米可分の楽観論と #松岡洋右 の独圧勝=大英帝国崩壊予想は瞬時に崩れ最悪の単独対米開戦へ
#日独伊三国同盟 閣議決定直後の海軍首脳会議 #山本五十六 連合艦隊長官は最後の抵抗を試みるも及川海相はテロへの恐怖と予算の誘惑に屈し #伏見宮博恭王 元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり,皮肉にも独軍がバトル・オブ・ブリテンに敗れた当日の事でした
1940年
#米内光政 内閣は陸相拒否で潰されるも二二六再来を恐れる海軍は遣返さず #近衛文麿 内閣成立で亡国の日独同盟が確定的に(米内は海相を拒否すれば皆殺されていたと弁明)。国家総動員で結束した陸大閥と異なり海軍は総力戦への認識が乏しく一撃講和を信じ対米開戦へ突進みます
1945年
1945年 #9月27日 #マッカーサー が #昭和天皇 を大使公邸に呼付け初会談,主要紙に写真を掲げ主権者交代を喧伝します。が阿諛追従に奔る要人連と異なり「全責任を負う」との意外な発言 #ポツダム宣言 受諾条件など御構い無しの元帥も泥中の蓮に感動し国体護持の意を固めたとか