山本五十六の奮闘~海軍国防政策委員会と真珠湾攻撃
1940年
#山本五十六 は南部仏印進駐を図る #石川信吾 の馘首を迫るも逆に #及川古志郎 海相は #海軍国防政策委員会 を認める始末。乾坤一擲 #真珠湾攻撃 の策を練りつつ最後の抵抗を試みるも翌年 #第二回御前会議 で開戦決意。が艦隊決戦思想の軍令部を抑え航空主兵の持論は貫きます
1940年
#山本五十六 は南部仏印進駐を図る #石川信吾 の馘首を迫るも逆に #及川古志郎 海相は #海軍国防政策委員会 を認める始末。乾坤一擲 #真珠湾攻撃 の策を練りつつ最後の抵抗を試みるも翌年 #第二回御前会議 で開戦決意。が艦隊決戦思想の軍令部を抑え航空主兵の持論は貫きます
予期せぬ石油禁輸に慌てた #近衛文麿 内閣は仏印進駐を引込めるも開戦を決意した米は支満全面撤退を強要。1941年 #9月6日 #第二回御前会議 で10月上旬に交渉期間を限る開戦決意が為され窮した近衛は政権を放棄 #木戸幸一 内府は意外にも主戦派の #東條英機 を後継に担ぎます
第二回御前会議に先立つ統帥部諮問で「南方方面を3月で片付ける」と宣う #杉山元 参謀総長に対し天皇は「満州事変は1月で片付くと言ったではないか」と不信表明。が海軍の #永野修身 が「手術には非常な危険があるが助かる望みがないでもない」と妙な助け舟を出し有耶無耶に
1945年
1945年 #9月6日 #降伏後における米国の初期対日方針 「日本は米国に従属する」基本方針のもと政治の非軍事化,戦犯処分,民主化,工業分野の徹底破壊が決定されます。英語堪能な外交官が被支配政府を担いますが非従順な #重光葵 #芦田均 等は退けられY項パージで #吉田茂 一色に
1946年
東條逮捕で #戦犯狩り が始まると国中が動揺に包まれ阿諛追従が横行。図に乗る #GHQ は「米をよく理解し進んで対日政策に従っていこうという熱意ある人」以外排除すると公言しG2直属の #吉田茂 が政府人選,戦犯指定 #公職追放 に躍動,独断の #Y項パージ で反対派を抹消します