足軽身分の #伊藤博文 は16歳で来原良蔵の下僕となりその紹介で松下村塾に入門,来原の義兄 #木戸孝允 の雇人として江戸へ随行します。長井雅楽暗殺を志願して #久坂玄瑞 #高杉晋作 に認められ英公使館焼討に参加,更に塙次郎暗殺で名を売り #吉田松陰 埋葬で長州志士の一翼に
6月18日のコラム
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「奇兵隊開闢総督」高杉晋作
1867年
小倉城陥落を見届けた #高杉晋作 は27歳で永眠,遺言に従って #奇兵隊 本拠に近い清水山に埋葬され墓碑に「奇兵隊開闢総督」の刻印。愛人うのは梅処尼となり #山縣有朋 より贈られた無鄰菴で生涯菩提を弔いました。後に山縣は造園マニアと化し京都別邸に #無鄰菴 と命名(現存)
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高杉晋作が眠る下関清水山「東行庵」
1884年
明治17年 #高杉晋作 が眠る下関清水山に #東行庵 が建ち伊藤,山縣,井上の長州元老を筆頭に貴顕が集い壮大な慰霊会を開催。「動けば雷電のごとく,発すれば風雨のごとし。衆目駭然としてあえて正視するものなし。これわが東行高杉君にあらずや」の碑文は #伊藤博文 の揮毫です
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幕府軍首脳の身で薩長に与した #勝海舟 ですが維新後は一転先祖返り。徳川の世を賛美する一方で持論の日支鮮連携に反し日清戦争を進める #伊藤博文 内閣を新聞で猛口撃 #陸奥宗光 外相を「昔俺の所に居た」と小僧扱いし伊藤以下の政府首脳を「先輩の尻馬乗り」と公言しました
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元老伊藤博文 吉田松陰や高杉晋作を語らず
1909年
#大久保利通 の遺志を継ぎ日本の礎を築いた #伊藤博文 ですが「いつまでも家来扱いする」 #木戸孝允 を敬遠し立身の恩人 #吉田松陰 #高杉晋作 を敢えて語らず。高杉が長州回天に決起し伊藤も従った長府功山寺には「一将功なりて万骨枯る」と刻む萬骨塔が異様な景観で佇みます