卑怯者の汚名に塗れた荒木村重の命日
1586年
#荒木村重 は勇み足で #織田信長 に謀反し有岡城に籠るも頼みの毛利軍は来ず中川清秀,高山右近の寝返りで単身逃亡。一族郎党36人に女房衆122人,高野山僧数百人が虐殺され卑怯者の汚名に塗れました #千利休 の下で復権を図るも秀吉に嫌われ道糞と自嘲しつつ1586年 #6月20日 没
1586年
#荒木村重 は勇み足で #織田信長 に謀反し有岡城に籠るも頼みの毛利軍は来ず中川清秀,高山右近の寝返りで単身逃亡。一族郎党36人に女房衆122人,高野山僧数百人が虐殺され卑怯者の汚名に塗れました #千利休 の下で復権を図るも秀吉に嫌われ道糞と自嘲しつつ1586年 #6月20日 没
1863年
#永倉新八 は芹沢鴨と同門で試衛館派を浪士組へ誘った経緯があり池田屋では肺病発作の #沖田総司 を尻目に大活躍,主君面する #近藤勇 に反発し斎藤一,原田左之助,島田魁を誘って松平容保に直訴しました。が維新後は #新撰組 顕彰に尽力し近藤刑死の地に #隊士殉難の碑 を建立
1869年
1869年 #6月20日 弁天台場の乱戦で #土方歳三 戦死,降伏を望む味方に撃たれたとも #近藤勇 は投降し #新撰組 は壊滅 #徳川慶喜 を筆頭に世襲貴族が醜態を晒すなか土方や伊庭八郎の殉死で幕府は救われました。主将 #榎本武揚 は敵将黒田清隆に仕え一幕吏から大臣子爵へ大出世
1877年
#新撰組 で #沖田総司 #永倉新八 に次ぐ腕前と称された #斎藤一 は庄内へ転戦する #土方歳三 と決別し会津藩に残留,斗南移封まで #松平容保 に随いその仲人で重臣の娘と結婚。容保赦免に伴い東京へ移って警察官となり西南戦争に従軍,会津人と共に抜刀隊で恨みを晴らしました
1915年
#新撰組 剣豪は老いて尚強し #斎藤一 は東京高等師範で撃剣を教え引退後に竹刀で空缶を貫く凄技を披露 #永倉新八 は56歳にして日清戦争の抜刀隊に志願し(高齢で不採用)孫と訪れた映画館で絡んできたヤクザ数人を無言の気合で圧倒「あんなのは屁みたいなものだ」と嘯きました