3月4日のコラム

  • 播磨赤松氏から浦上村宗,宇喜多直家へ

    1531年

    赤松氏は長禄の変で復活するも神璽奪回の大功ある浦上氏に頭が上らず赤松義村は浦上村宗に抗い自滅。播磨,備前,美作を制した村宗は細川高国を擁し上洛軍を起すも尼崎大物で三好元長に敗れ討死。子の浦上宗景は尼子経久,三好長慶に圧され寵臣 #宇喜多直家 に乗取られる下克上

  • 黒田官兵衛 嫡子黒田長政を織田の人質に

    1577年

    21歳で姫路城代を継いだ #黒田官兵衛 は寡勢で赤松政秀を撃退して武名を上げ主君 #小寺政職 と別所,浦上を織田に帰順させます。が #宇喜多直家 離反で備前は毛利に靡き毛利水軍来襲,偽装援軍の計で跳返すも動揺は播磨に及び嫡子 #黒田長政 を人質に送って信長に援軍を仰ぎます

  • 豊臣秀吉の毛利征伐

    1577年

    1577年 #織田信長 が毛利征伐発動 #豊臣秀吉 は軍師 #黒田官兵衛 の案内で忽ち上月城を落すも #別所長治 離反で情勢が一変し毛利の大軍が来襲 #宇喜多直家 を寝返らせ決戦を避けるも今度は #荒木村重 謀反。勧降使の官兵衛は戻らず #竹中半兵衛 は重病で秀吉は進退窮まります

  • 宇喜多直家と黒田官兵衛

    1579年

    有力者を悉く謀殺し備前を押えた #宇喜多直家 は備中の三村家親を銃殺し毛利と対峙。織田の援軍を得て浦上宗景に反旗を翻すも姫路城を攻めた相棒の赤松政秀が #黒田官兵衛 に敗れ降参。官兵衛の案内で宗景が織田につくと毛利に乗換え宗景を掃討するも秀吉軍来襲で再び織田へ

  • 守護赤松氏から浦上,小寺を経て宇喜多直家,黒田官兵衛へ

    1600年

    四職の名門で播磨,備前,美作を領する赤松氏は実は天下人の有力候補でしたが浦上,小寺の両宿老に実権を奪われ更に浦上は #宇喜多直家 小寺は #黒田官兵衛 に取って代わられる下克上,宇喜多も次代の秀家で滅亡します。小寺政職は謀殺を図った官兵衛に庇護され子孫は福岡藩士に