11月21日のコラム

  • 長州藩の内部抗争~村田清風から高杉晋作へ

    1838年

    #村田清風 の改革で長州藩は蘇生するも坪井,椋梨と続く門閥守旧派(俗論党)の抵抗は根強く尊攘(正義)派内でも #吉田松陰 #長井雅楽 が対立。村田直系の #周布政之助 が #久坂玄瑞 に与し長井を斃すも禁門の変で自滅し俗論党の巻返しを #高杉晋作 が武力で潰し漸く挙藩勤皇へ

  • 吉田松陰の軌跡~江戸遊学、東北旅行、脱藩罪

    1851年

    20歳で江戸遊学へ出た #吉田松陰 は安積艮斎,山鹿素水,佐久間象山に師事し猛勉強に励むも江幡五郎の仇討(法螺)話に激発し無断突出,助太刀の機を待つ間に青森まで踏破します。脱藩罪で長州召還,家名断絶に遭うも藩主 #毛利敬親 の温情ですぐに再遊学を許されペリー来航に遭遇

  • 吉田松陰の軌跡~ペリー来航と密航未遂事件

    1854年

    浦賀で黒船に驚愕した #吉田松陰 は直に洋式兵学の #佐久間象山 に入門し藩主 #毛利敬親 に国防論を献じつつ密航を企て長崎へ。が露船の出港に間に合わずペリー再来航を知って下田に急行し小舟で漕着けるも乗艦拒否。が志に感じたペリーは幕府に寛典を求め自藩幽閉の軽処分に

  • 吉田松陰~藩主毛利敬親と松下村塾

    1857年

    #吉田松陰 が国禁を犯しても #毛利敬親 の敬愛は変らず野山獄から逃した上 #松下村塾 を黙認。更に藩主直々の上書採用に登庁を望む若者が引寄せられ #周布政之助 #木戸孝允 ら正義派を糾合し大勢力を形成 #久坂玄瑞 #高杉晋作 を双璧に門人が続々遊学に出され藩政へ進みます

  • 吉田松陰の命日~身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置かまし大和魂

    1859年

    1859年 #11月21日 #吉田松陰 刑死 #安政の大獄 =戊午の密勅には無関係ながら #二十一回猛士 は老中襲撃計画を問わず語りし自滅。狂を受継ぐ #松下村塾 生が討幕に奔ります。[身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂]の #留魂録 は同囚の褌に秘匿され今 #松蔭神社 に