石田三成の命日~血は津軽藩主家へ
1600年
1600年 #11月6日 #石田三成 六条河原で斬首。嫡子重家は #徳川家康 に助命され僧形で長寿を全う。大坂城にいた次男重成は #津軽氏 に救出され子孫は弘前藩士杉山氏に。関ヶ原以前に高台院の養女となった辰姫は津軽信枚に嫁いで3代藩主信義を産み三成の血を大名家に残しました
1600年
1600年 #11月6日 #石田三成 六条河原で斬首。嫡子重家は #徳川家康 に助命され僧形で長寿を全う。大坂城にいた次男重成は #津軽氏 に救出され子孫は弘前藩士杉山氏に。関ヶ原以前に高台院の養女となった辰姫は津軽信枚に嫁いで3代藩主信義を産み三成の血を大名家に残しました
1600年
#津軽為信 は主家南部氏から津軽を奪い豊臣政権に先乗りして弘前藩を立てた要領漢,関ヶ原では東軍に与しつつ大坂城の長男信建は西軍に応じる両天秤。が #石田三成 には義理を尽し次男重成を召抱え娘辰姫は後嗣の妻に。更に維新後 #弘前城 開かずの宮で秀吉像が発見されました
1614年 #11月6日 #教如 没。秀吉は寺内成敗で大粛清を掛けつつ本願寺の存続を赦し堀川六条に #西本願寺 創建 #顕如 没後武闘派の長男教如を廃し三男 #准如 に挿替えます。が天下を制した家康は教如を擁し #東本願寺 創建,本多正信の分断工作は当り今なお東西の泥仕合が延々と
1868年
1868年 #11月6日 #会津戦争 終結。全ては #松平容保 の優柔不断が招いた悲劇,露骨な貧乏籤に家臣は猛反対するも[将軍家への忠誠を失えば我が子孫にあらず]の藩祖遺訓に抗えず京都守護職受任。当の #徳川慶喜 #松平春嶽 が退散しても辞職に踏切れず気が付けば一人薩長の標的に
1868年
死闘を演じた会津,庄内,長岡を含め列藩同盟諸藩は全て存続を赦されるも藩主 #林忠崇 自ら脱藩して #伊庭八郎 に合流し東北を転戦した請西藩だけは改易に。林家は一士族に落され困窮するも #西郷隆盛 恩赦に乗じ男爵を獲得,忠崇は92歳の長寿を保ち #最後の大名 と囃されました