1584年 #11月8日 蘆名盛隆が男色の縺れで弑殺され遺児亀王丸も夭逝 #伊達御前 の娘婿に新当主を迎える運びとなり甥 #伊達政宗 は弟政道を推すも野心露骨で #佐竹義重 の次男義広に軍配。政宗は北へ転じ大崎氏を攻めるも最上義光に敗れ佐竹,蘆名,相馬連合軍が来襲し挟撃の窮地
11月8日のコラム
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蘆名氏滅亡の元凶 伊達御前~伊達政宗の叔母
1587年
#蘆名氏 滅亡の元凶は蘆名盛興の妻 #伊達御前 妾片平氏の暗殺を謀り子力丸の襲封を阻止,舅盛氏を篭絡して美貌の後夫盛隆(二階堂氏)を擁立し亀王丸を出産。が夫と子に先立たれ娘婿に義広(佐竹氏)を迎えるも家中騒然。片平某が兄大内定綱を誘い御前の甥 #伊達政宗 へ寝返ります
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伊達政宗~挟撃の窮地から一転勇躍
1588年
1588年 #佐竹義重 が蘆名,相馬を誘い大崎合戦に敗れた #伊達政宗 を急襲。が伊達成美,片倉景綱が大内定綱を寝返らせ南国境を死守する間に北の政宗は母義姫に兄 #最上義光 との和睦を纏めさせ窮地脱出。翌年蘆名勢を掃討して南奥羽150万石を掌握し北条と結び佐竹領を狙います
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#陸奥宗光 の家は仙台伊達氏の分流。勘定奉行の父伊達宗広は熊野詣で関連の貸金業で紀州藩財政を建直し国許で尊攘派を率いるも江戸派の水野忠央(長野主膳の盟友)に敗れ家禄没収,流罪。困窮に喘ぐ宗光は14歳で江戸の浪士群に投じ脱藩上洛した父の縁で #坂本龍馬 と邂逅します
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陸奥宗光外相 三国干渉を受入れ遼東半島還付に同意
1895年
#陸奥宗光 外相は日清開戦の主導者ながら1895年 #11月8日 #三国干渉 を受入れ遼東半島還付に同意。曰く[兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するもその終極に至りて失敗を免れない~愛国心は別に悪いものではないが使い方をよく考えないと国家の大計と相反する事もある]