長野業正~武田信玄の侵攻を阻んだ名将
1561年
#武田信玄 は信越国境川中島で対峙する #上杉謙信 の後方撹乱を策し西上野を攻めるも #長野業正 に阻まれ[業正一人いる限り上野は攻取れぬ]と断念。が業正没するや速攻で箕輪城を攻落し柱石を喪った上杉勢は瓦解。謙信は関東回復を諦めて北陸へ転じ越中で織田軍と対峙します
1561年
#武田信玄 は信越国境川中島で対峙する #上杉謙信 の後方撹乱を策し西上野を攻めるも #長野業正 に阻まれ[業正一人いる限り上野は攻取れぬ]と断念。が業正没するや速攻で箕輪城を攻落し柱石を喪った上杉勢は瓦解。謙信は関東回復を諦めて北陸へ転じ越中で織田軍と対峙します
1561年
#長野氏 は伊勢物語 #在原業平 の後裔。戦国に至って #長野業正 が婚姻政策で勢を張り剣聖 #上泉信綱 も従え西上野の領袖に台頭。主家山内上杉氏を継いだ #上杉謙信 に従い北条,武田の猛攻を凌ぐも業正の死で決壊。庶子伝蔵が #井伊直政 に仕え幕末の #長野主膳 へ繋がるとも
1575年
将兵の帰属すら無視し独断即決で陣割と用兵を行った #上杉謙信 に対し #武田信玄 は組織作りの名人で甲州兵は上方兵の十人分と恐れられました。武田軍最強の #山県昌景 は長篠戦に散るも遺臣を受継いだ #井伊直政 と信玄直系を自負する #真田幸村 が赤備えを継ぎ大坂陣で激突
高須藩は3万石の小藩ながら #高須四兄弟 は幕末史に揃踏み。本家の尾張藩を継いだ #松平慶勝 は征長総督に任じるも #西郷隆盛 の宥和論を容れ薩長連合のお膳立て #松平容保 は会津藩 #松平定敬 は桑名藩を継ぎ京都で #徳川慶喜 の一会桑政権を支えるも戊辰戦争で薩長の標的に
1869年
1869年 #12月15日 桑名藩士 #森常吉 没。大坂城から消えた藩主 #松平定敬 を追って江戸へ下り #彰義隊 に加わるも惨敗。福島で定敬と再会して共に蝦夷地へ渡り #土方歳三 に次ぐ #新選組 頭取改役を拝命 #榎本武揚 に従い投降するも桑名藩へ引渡され主の罪を被り自裁しました