剣聖 塚原卜伝の命日
1571年
1571年 #3月6日 #塚原卜伝 没。鹿島神官に伝わる東国七流,神道流の大成者で合戦37仕合19で212人を斃したと伝わる剣豪 #上泉信綱 にも技を伝えました。将軍足利義澄に仕え遺児義晴を守って奮闘するも挽回成らず。致仕後に義輝将軍が襲われ卜伝直伝 #一つの太刀 を振るい壮絶死
1571年
1571年 #3月6日 #塚原卜伝 没。鹿島神官に伝わる東国七流,神道流の大成者で合戦37仕合19で212人を斃したと伝わる剣豪 #上泉信綱 にも技を伝えました。将軍足利義澄に仕え遺児義晴を守って奮闘するも挽回成らず。致仕後に義輝将軍が襲われ卜伝直伝 #一つの太刀 を振るい壮絶死
1833年
1833年 #3月6日 #島津重豪 没。豪奢で鳴らした将軍家斉が羨む程の浪費家で歳入の四十倍の借金を抱えるも #調所広郷 #島津斉彬 のお陰で維新の先覚者に。[薩摩の風俗野蛮を矯正する]と城下に相撲,芝居,遊女屋を開く一方で自ら蘭語を学び藩校造士館,医学館,天文館を興しました
1833年
#島津重豪 は引締めに出た嫡子斉宣を廃し孫の #島津斉興 を藩主に据えるも三都商人の融資停止で万事休す。あるとき金二分ほど入用で江戸の七屋敷を探させるも金はなく「おれの貧乏もこれほどまでになったか」と嘆息。軽格の #調所広郷 を汚れ役に就け借金踏倒しを強行します
1849年
#調所広郷 は家禄十石の臨時雇いから #島津重豪 に抜擢されて尻拭いを果し斉興政権の中枢を担うも密貿易事件で非業の死。遺族は #島津斉彬 派に全てを奪われ一家離散しますが三男広丈は苦境を乗越え志士活動に奔走、北海道開拓使でキャリアを積み高知,鳥取県知事を経て男爵に
645年
今も日本に君臨する #藤原氏 の祖 #中臣鎌足 は実は出自不詳で=百済王子豊璋とする関裕二の奇説も有。神祇伯中臣氏は関東発祥ともいわれ中臣を称した鎌足の裔は常陸鹿島神宮を祖神と見做し奈良へ勧請し #春日大社 建立 #塚原卜伝 の生家卜部氏などは本物の中臣系と思われます