豊臣秀吉子飼武将の末路~脇坂安治の龍野藩僅5万石
1583年
土民上りで譜代の臣が無い #豊臣秀吉 は子飼武将を七本槍などと持上げ恩顧大名を急造するも競わせ過ぎが仇となり #石田三成 を巡り豊臣家は自壊。三成憎しで徳川についた加藤清正,福島正則は家を保てず加藤嘉明も次代で没落,結局脇坂安治の龍野藩僅か5万石が秀吉子飼で最大に
1583年
土民上りで譜代の臣が無い #豊臣秀吉 は子飼武将を七本槍などと持上げ恩顧大名を急造するも競わせ過ぎが仇となり #石田三成 を巡り豊臣家は自壊。三成憎しで徳川についた加藤清正,福島正則は家を保てず加藤嘉明も次代で没落,結局脇坂安治の龍野藩僅か5万石が秀吉子飼で最大に
1598年
1598年 #4月5日 #松下之綱 没。少年期の #豊臣秀吉 を庇護したお陰で大名に列し子が二本松藩5万石を興すも孫が会津騒動に連座し改易。松下を含め加藤,福島,小早川を筆頭に秀吉縁故はほぼ費えるも家康に取入った妻寧の実家木下は足守藩と日出藩を貰い養家浅野は広島藩42万石に
1600年
木曽義仲を討った三浦党の一員が近江坂田郡に土着したのが石田家の興り。小土豪の石田正継は長浜城主となった豊臣秀吉に仕官し次男 #石田三成 が側近筆頭に。三成は関ヶ原に敗れ佐和山城の一族は自害するも津軽氏に匿われた娘辰姫が3代藩主信義を産み大名家に血を残しました
#石田三成 は義将とされますが豊臣一門の加藤清正,福島正則,小早川秀秋まで徳川家康に奔らせたのは不徳の極みで己の復権のために関ヶ原を起した節も。とはいえ #豊臣秀頼 さえ立てば家康の出番は無く淀殿が普通なら或は秀吉が #黒田官兵衛 を遠ざけなければ歴史は変わった筈
1643年
#加藤嘉明 は関ヶ原に乗じ伊予へ来襲した毛利水軍を破り会津43万石へ栄転するも嫡子明成は一分銀マニアの凡将で家老堀主水が出奔し #会津騒動 出来。[40万石に替えても堀を討つ]と宣し幕府の裁定で悲願を果すも将軍家光の皮肉を真に受け会津藩返上,水口藩2万石に自沈しました