徳川家康の家に祟る妖刀村正
1535年
#徳川家康 の祖父清康と父広忠は共に #村正 で斬殺され長男信康の介錯が又も村正。関ヶ原の際に敵の鎧を貫いた織田長孝の名刀を検分した家康は誤って指を傷付け銘を問えばやはり村正。諸侯は徳川を憚り忌避するも #真田信繁 は敢て妖刀を身に付け大坂陣で家康を追詰めました
1535年
#徳川家康 の祖父清康と父広忠は共に #村正 で斬殺され長男信康の介錯が又も村正。関ヶ原の際に敵の鎧を貫いた織田長孝の名刀を検分した家康は誤って指を傷付け銘を問えばやはり村正。諸侯は徳川を憚り忌避するも #真田信繁 は敢て妖刀を身に付け大坂陣で家康を追詰めました
1543年
#徳川家康 が生まれた #岡崎城 は意外な観光名所。風光明媚な矢作川沿道と濃尾平野を臨む一望千里の夕景が印象的です。城から八町西の八丁村(八帖)は #八丁味噌 の発祥地で最古参のカクキューとまるや味噌が健在。名鉄で足を伸ばせば松並木が見事な御油の宿場町や豊川稲荷も
1570年
鉄砲傭兵集団を率い石山合戦を指揮した #鈴木重秀 は天下布武の時勢を悟り #織田信長 に帰順,根来衆と結び反対派の土橋守重を謀殺するも本能寺の変に遭い逃亡します。信長後継の秀吉に抗った #雑賀衆 は滅ぼされるも重秀は臣従して生残り #雑賀孫一 を称する裔は水戸藩重臣に
1572年
#武田信玄 と今川領分割を約し遠江を制した #徳川家康 は浜松城へ移り大井川で信玄と対峙。1572年上洛軍を興した信玄は二俣城を破り遠州平野を快走,無視された家康は敢て戦を仕掛け三方ヶ原で敗れました #二俣城 は松平信康自刃の地であり生家が近い #本田宗一郎 の伝承館も
1586年
海人族穂積氏の系譜を引く #熊野速玉大社 の禰宜が鈴木氏のルーツで #雑賀孫一 こと #鈴木重秀 はその嫡流。豊穣祭に用いる依代のススキ(稲藁)が語源とも言われます。熊野信仰の流行に伴って紀伊から東海道へ広がり有力武士に少なかったことから改姓を免れ二番目に多い名字に