10月25日のコラム

  • 石田三成の家系~木曽義仲を討取った三浦党の末裔

    1574年

    木曽義仲を討取った三浦党の勇士で相模石田郷を領した石田為久の裔が近江坂田郷へ流れ京極家末端の小土豪に。織田の畿内侵攻に伴い石田正継は長浜城主となった #豊臣秀吉 に仕え次男 #石田三成 が秘書官から吏僚派領袖へ躍進 #黒田官兵衛 や千利休を退け秀吉側近を牛耳ります

  • 石田三成の華麗な業績

    1590年

    [才あって智なし]と言われた #石田三成 ですが実際の業績は抜群。天下統一戦の兵站から堺博多の商都再編,聚楽第や方広寺の建築,寺内成敗,西本願寺創建とフル回転し外交でも直江兼続と結んで上杉景勝を帰順させ九州征伐では島津義弘を懐柔,宇都宮仕置,奥州仕置も差配しました

  • 朝鮮出兵で暗転した石田三成の運命

    1592年

    #豊臣秀吉 の天下を切盛りした #石田三成 の栄華は #朝鮮出兵 で暗転。小西行長と共に面従腹背で講和を策し命令墨守で奮戦する加藤清正,福島正則,黒田長政と対立。更に秀次事件を差配して遺領の佐和山19万石を貰い小早川秀秋の名島30万石をも代官地に加え憎悪に油を注ぎます

  • 石田三成の誤算と挙兵の動機

    1599年

    武断派の報復を恐れる #石田三成 は大坂城の #前田利家 に縋り #徳川家康 をダシに結束を図るも逆に諸将を徳川へ奔らせる皮肉な展開。渦中に利家が没し翌日7将が大坂屋敷を襲撃,三成は家康の懐で一命を拾うも奉行職を外され政治生命喪失。が己の再起を賭け打倒家康に奔ります

  • 武将を厚遇した石田三成~関ヶ原の戦いで面目躍如

    1600年

    己の戦下手を知る #石田三成 は破格の報酬で武将を遇し #島左近 舞兵庫 蒲生頼郷以下の将兵は関ヶ原で報恩の粉骨砕身,大将首に群がる細川,黒田,加藤らを蹴散らして面目を施し再起を望む三成を落します。が佐和山城は落され石田一族自刃,三成は木之本で捕まり六条河原の刑場へ