重光葵~幣原喜重郎失脚で孤立無援に
1931年
[過大な人口を抱え成長を続ける日本は中国と提携する他ない]と説く #重光葵 は対中不干渉の #幣原喜重郎 に属し外交官試験主席ながら傍流の中国勤務を志願。が #松岡洋右 白鳥敏夫,大島浩ら強硬派に加え #広田弘毅 #吉田茂 ら大陸派も武力行使容認に回り幣原失脚で孤立無援に
1931年
[過大な人口を抱え成長を続ける日本は中国と提携する他ない]と説く #重光葵 は対中不干渉の #幣原喜重郎 に属し外交官試験主席ながら傍流の中国勤務を志願。が #松岡洋右 白鳥敏夫,大島浩ら強硬派に加え #広田弘毅 #吉田茂 ら大陸派も武力行使容認に回り幣原失脚で孤立無援に
1945年
戦前の外交官は1期十名程の超エリートで大富豪と縁組し優雅に暮らすのが通例 #加藤高明 #幣原喜重郎 は岩崎弥太郎の #吉田茂 は牧野伸顕の娘婿です。方や #広田弘毅 は三菱令嬢との縁談を断り官僚の娘を貰った #重光葵 は奥湯河原の小別荘(現重光葵記念館)が唯一の贅沢でした
1945年
#柳条湖事件 が起ると若槻内閣は[不拡大方針]を翻して関東軍の専行を追認し特別予算までつけて歩み寄るも #満州事変 を止められず, 内閣と幣原外交は費え #幣原喜重郎 外相は隠退します。が第二次大戦中に独の苦戦を警告し早期講和を提唱,戦後GHQ #吉田茂 に担がれ首相の座へ
1957年
1957年 #1月26日 #重光葵 永眠 #大東亜共栄圏 日中提携,欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書調印。戦後はGHQの不条理に抗い #東京裁判 で禁固7年。が講和恩赦で蘇り鳩山一郎内閣で外相復帰,自主外交を掲げ #日ソ国交回復 #国連加盟 を果すも改憲独立まで寿命が保たず
1957年
天才的相場術で国粋大衆党の原資を稼ぎ戦闘機を添えて盾津飛行場を寄付した #笹川良一 は #田中角栄 の汚職転落を予見し相手にせず。方や[真に男が男として惚れきれるのが #重光葵 の真骨頂…腕も度胸も兼備わったこんな人にこそ救国の大業を託すべきではあるまいか]と大絶賛