久坂玄瑞・武市半平太らに担がれ朝廷の「破約攘夷」を牽引した過激公卿、八月十八日政変で「七卿落ち」するが尊攘派志士の大義名分として長州藩の討幕運動を支え明治政府の最高位に栄達
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三条 実美
1837年 〜 1891年
70点※
三条実美と関連人物のエピソード
- 三条実美は、久坂玄瑞・武市半平太らに担がれ朝廷の「破約攘夷」を牽引した過激公卿、八月十八日政変で「七卿落ち」するが尊攘派志士の大義名分として長州藩の討幕運動を支え明治政府の最高位に栄達した。三条実美は、「五摂家」に次ぐ名門「清華家」の当主ながら過激で鳴らし尊攘派志士と結託、幕府のために和宮降嫁を強行した岩倉具視ら「四奸二嬪」を追放し、姉小路公知と共に京都朝廷を長州藩の破約攘夷一色に染めた。攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使となり山内容堂と土佐藩兵を従え江戸幕府に乗込んだ三条実美は、一世一代の晴れ舞台に高揚し、勅使を将軍より上位に置くよう勅使待遇の儀礼改善を幕府に強制した。盟友の姉小路公知は暗殺されたが逆に尊攘派は勢いを増し、長州藩の攘夷決行(下関事件)、攘夷親征計画(大和行幸)と続いたが、徳川慶喜と薩摩藩が過激な攘夷行動を嫌う孝明天皇を抱込み八月十八日政変が勃発、三条実美ら七卿は長州へ亡命し在所の周防三田尻「招賢閣」には真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎らが参集し全国尊攘派の参謀本部の様相を呈した。招賢閣浪士の扇動に乗った来島又兵衛らが池田屋事件に激発し率兵上洛を強行、禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり久坂玄瑞・真木和泉は戦死し木戸孝允は行方不明、徳川慶喜が第一次長州征討を起すと長州藩主毛利敬親は恭順を選んだ。火種である三条実美ら「五卿」は大宰府へ移されたが、高杉晋作・中岡慎太郎が功山寺で挙兵し奇兵隊ら諸隊を引込んで長州藩政を奪回、帰還した木戸孝允が指導者に座り、長州藩は第二次長州征討に大勝利を収め、薩長同盟は王政復古・戊辰戦争へと突進んだ。孝明天皇崩御に伴う大赦で赦免された三条実美は長州藩兵を従え京都に凱旋、「五卿応接掛」中岡慎太郎の仲介で薩摩系の岩倉具視と和解し、長州藩の旗印として岩倉と共に明治政府の最高位に就いた。三条実美は、岩倉使節団派遣に伴い「留守政府」で太政官最高位の太政大臣に就任、大久保利通政府でも地位を維持し薩長の利害調整に努めたが、第一次伊藤博文内閣の発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)で名誉職の内大臣に退き55歳で病没した。
- 岩倉具視は、大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対した。1851年から1994年まで流通した五百円札の肖像画にみるように岩倉具視は公家らしからぬイカツイ容貌で、幼少期は「岩吉」長じて「山賊の親分」などと形容されたが、見た目どおり豪傑肌で胆力があり、洛北岩倉村での蟄居時代には糊口を凌ぐため自宅を賭場として博徒に貸与したといわれる。和宮降嫁の首謀者として久坂玄瑞・武市半平太に打倒され5年間も隠遁したが、希少な硬骨公家を大久保利通は見逃さず、孝明天皇没後に薩摩藩の名代として朝廷に乗込んだ岩倉具視は偽勅批判を恐れず討幕の密勅を強行し、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行採決した。が、他に見るべき業績は無く、岩倉具視は政治理念よりも朝廷の発揚と自身の出世のために動いたようにみえる。少壮期より世襲公卿に反発した岩倉具視は、関白九条尚忠が推す条約勅許に異を唱え同類の軽輩公家を扇動して「八十八卿列参事件」を起したが、安政の大獄で佐幕へ転じ、井伊直弼暗殺に伴い公武合体派が盛返すと意を受けて和宮降嫁を推進したが、尊攘派の猛攻で失脚した。蟄居中に大久保利通と邂逅した岩倉具視は忽ち武力討幕論に迎合し、大政奉還が成ると王政復古の大号令に摂関と朝臣の世襲制排除を盛込み、三条実美と共に太政官の最上位に就き宿願を果した。なお、本心佐幕派の孝明天皇の崩御は討幕への一大転機で毒殺が噂されたが、真先に疑われたのは岩倉具視だった。新政府の重鎮となってからも岩倉具視は大久保利通を支える役割を果し、「岩倉使節団」から戻り明治六年政変が起ると西郷隆盛ら征韓派の追放に加担したが、秩禄処分で士族特権を奪いながら旧公家のみを優遇する政策が士族反乱に油を注ぎ、自由民権運動には決して妥協しなかった。反動勢力の首魁と化した岩倉具視が没すると、伊藤博文は華族令で旧武士層に幅広く爵位を振舞い、太政官制を廃止して内閣制度を発足させた。
- 老中首座堀田正睦らの朝廷工作により最上位の関白九条尚忠は幕府に安政五ヶ国条約の条約勅許を与えるべく動いたが、反九条派の岩倉具視・大原重徳らの扇動により公家88人が御所に押しかけ反対(廷臣八十八卿列参事件)、最終的に病的な外国人嫌いの孝明天皇の意思により条約勅許は見送られた。楽観視していた幕閣にとっては寝耳に水の出来事で堀田正睦は失脚、幕府攻撃の大義名分を得た尊攘派志士は勢い付いた。
- 久坂玄瑞・武市半平太の策動により三条実美・姉小路公知など尊攘派公卿13人が連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子(岩倉の実妹)の6人を朝廷を裏切り幕府のために和宮降嫁を断行した「四奸二嬪」と弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出した。和宮降嫁の発案者は井伊直弼の謀臣長野主膳ともいわれ、安政の大獄で佐幕化した岩倉具視は孝明天皇に「破約攘夷を幕府に迫るための方便」と説き実現に漕ぎ着けた。和宮降嫁の首謀者である岩倉具視は自ら万事を差配し、和宮入輿の道中に随い江戸城に入った。和宮降嫁に反対する尊攘派から「幕府に廃帝の陰謀あり」と吹込まれた孝明天皇は噂の真偽を糺す勅書を授け、岩倉具視は勅使として幕閣を詰問した。老中らは噂を否定したうえ陳謝したが、岩倉具視は将軍徳川家茂直筆の誓書を強要した。が、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派の糾弾は激しく疑心暗鬼となった孝明天皇は岩倉具視に辞官・洛中追放を命じ、岩倉は洛北岩倉村に隠遁した。こののち岩倉具視は、薩摩藩の大久保利通と提携し政局に復帰するが、孝明天皇崩御に伴う大赦まで5年間も公職に就けなかった。生活が逼迫したため自宅を賭場として博徒に貸与したという。
- 長州藩では村田清風の藩政改革以来、保革対立が絶えなかった。「正義派」と称した革新系は、尊皇攘夷から後に討幕派へ発展した流れで、村田清風・周布政之助・木戸孝允が直系であり、藩主の毛利敬親と家老の浦靱負・益田弾正らが支持した。吉田松陰・松下村塾生と長井雅楽は共に正義派に属したが、幕府不要論者で草莽崛起を説く松陰は中央政局で公武合体を進める長井に猛反発しだ。正義派が「俗論党」と憎悪した保守系は、村田清風と政権を争った坪井九右衛門から椋梨藤太へ受継がれた派閥で、大組士など門閥世襲士族の大多数を支持基盤とし、徹底的なお家大事・幕藩体制擁護論を固持した。藩主毛利敬親の尊攘方針のもと最初は正義派が優勢、安政の大獄で俗論党が盛返すが桜田門外事変で正義派が復活し、「航海遠略策」と共に長井雅楽を葬った周布政之助・木戸孝允・久坂玄瑞が藩論を「破約尊攘」へ転換させたが八月十八日政変が起り一夜にして瓦解、池田屋事件で新撰組に吉田稔麿らを殺され激昂した過激尊攘派は坪井九右衛門を血祭りに挙げ京都へ攻込んだが禁門の変で大敗し長州藩は朝敵となった。久坂玄瑞・入江九一は戦死し木戸孝允は行方不明、絶望した周布政之助まで自殺するなか第一次長州征討と馬関戦争が同時に勃発、高杉晋作は井上馨・伊藤博文を従え徹底抗戦を叫んだが長州藩は恭順の道を選び俗論党の天下となった。が、僅か90人を率い功山寺で挙兵した高杉晋作は奇兵隊など諸隊を引込んで長州藩正規軍を打倒(山縣有朋ら奇兵隊幹部は当初日和見)、椋梨藤太を殺して俗論党を殲滅し逃避行から戻った木戸孝允が執政に就任、薩長同盟を締結し、大村益次郎の洋式兵制改革で増強した長州藩軍は第二次長州征討で幕府軍を返討ちにした。死力を尽くして戦った高杉晋作は間もなく病没したが、岩倉具視と提携し朝廷を掌握した薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通が戊辰戦争の火蓋を切り長州藩も出兵して討幕を成遂げた。正義派の吉田松陰と松下村塾四天王(高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一)に長井雅楽・周布政之助、俗論党の坪井九右衛門・椋梨藤太まで悉く非業の死を遂げた壮絶な長州維新であった。
- 長州藩の長井雅楽は「航海遠略策」を著し、孝明天皇・朝廷を最上位に置きつつ実質的には幕府の開国政策を認め、朝幕双方の面子を保ち和解に持込もうという穏当な公武周旋案を唱えた。「現実の問題として、日本は武力的に条約破棄や鎖国は出来ない。開国に徹底することによって国富を増し、武力を強くし、世界に雄飛することを考えるべきである。されば、朝廷は幕府の開国条約を勅許さるべきであり、幕府はまた朝廷にたいして尊崇の実を示すべきである。かくて、公武合体の国論の統一が出来る」・・・長井の雄弁もあって公家、幕閣共に人気を得て長州公武合体派が一時政局をリードすることとなった。後の明治政府は長井案通りに動くのだが、当時の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら尊攘派長州藩士は幕府に主導権を留める行方に猛反対であった。長井雅楽暗殺の企ても起り、木戸孝允は強硬派の高杉晋作に外遊を勧め追払ったといわれる。長井雅楽の方は、天皇の御製も下賜され、江戸に下り老中安藤信正から公武周旋を依頼され、藩主毛利敬親の江戸参勤に際して幕府に公武周旋の建白書を提出した。ところが、坂下門外の変で公武合体を推進していた安藤が失脚すると藩内で尊攘派が優勢となり、航海遠略策は宙に浮いた。1863年、長井は尊攘派に責められ、責任をとって自害した。
- 薩摩藩の島津久光が勅使大原重徳を奉じて江戸へ入った直後、対抗心を燃やす長州藩は中津川で重臣会議を開き周布政之助・木戸孝允(謀主は久坂玄瑞)のリードで長井雅楽の航海遠略策を放棄し破約攘夷(幕府非難)の線で公武周旋する方針を決定した。幕府主導の公武合体運動から明確な朝主幕従へ、「開国して攘夷」から「攘夷して開国」への大転換であった。久坂玄瑞らは、朝廷に工作して将軍上洛と攘夷決行を迫る勅旨を獲得し、世子毛利定広を奉じて江戸へ下り幕府を督責した。久坂玄瑞の盟友である武市半平太も土佐藩兵を率いて随行した。長井は帰国を命じられた。周布政之助・木戸孝允・久坂玄瑞らは、直ちに朝廷に工作して将軍上洛と攘夷決行を迫る勅旨を獲得し、世子毛利定広を奉じて江戸へ下り幕府を督責した。久坂の盟友である武市半平太も土佐藩兵を率いて随行した。
- 薩摩藩の島津久光が掲げる「雄藩連合・公武合体」から久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らが推進する「破約攘夷」へ傾いた朝廷は長州系尊攘派志士に担がれた三条実美・姉小路公知の独壇場となり、三条と姉小路は若輩ながら幕府への攘夷督促の使者にも選ばれた。共に小柄だが三条は色白・姉小路は色黒で、公家仲間では「白豆・黒豆」と渾名された。姉小路公知は帰宅の途次に京都御所朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ落命、容疑者の薩摩藩士田中新兵衛が尋問中に自殺したため迷宮入りしたが、長州系志士は勢いを増し薩摩藩は京都御所乾御門の警備任務を解かれ、続く八月十八日政変で薩摩藩が徳川慶喜・会津藩へ加担する一因となった。三条実美は、禁門の変の渦中に6人の公家同志と共に長州へ落延び(七卿落ち)長州征討では危うい状況となったが、維新後に勇躍凱旋し形式上だが薩摩藩系の岩倉具視と共に明治政府の最上位官に就任、死後は御所東辺の梨木神社に祀られ神様となった。
- 久坂玄瑞は、吉田松蔭の妹文を娶った松下村塾の筆頭門人で「草莽崛起」を受継ぎ「破約攘夷」で中央政局をリードしたが八月十八日政変で突如瓦解し禁門で戦死、長州藩は朝敵にされ窮地に陥った。久坂玄瑞は、長州藩医の三男坊で幼少から英才を謳われ、熊本の宮部鼎蔵の勧めで吉田松陰に会い過激な攘夷論を披瀝したが空理空論と論破され学門に降り、1つ年長の高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と称された。吉田松陰の名代として江戸・京都へ出た久坂玄瑞は、梅田雲浜・梁川星厳の導きで中央政界へ乗出し、安政の大獄が起り吉田松陰は江戸で刑死したが、大老井伊直弼が斃れると先輩の木戸孝允・土佐藩の武市半平太と共に活発な尊攘運動を展開、和宮降嫁を幕府の謀略と糾弾して岩倉具視を退隠させ、長井雅楽の「航海遠略策」を幕主朝従と排撃し薩摩藩の島津久光に対抗して長州藩論を「破約攘夷」へ転換、長州藩世子毛利定広と勅旨を奉じて幕府に攘夷を迫り、圧力に屈した徳川家茂は将軍として230年ぶりに上洛し朝廷に5月10日の攘夷決行を約束した。草莽崛起(全国志士の決起)を目指す久坂玄瑞は、長州藩の外国船砲撃で天下に攘夷決行の実を示し(下関事件)「光明寺党」を率いて奮戦するも米仏軍艦に惨敗、京都へ戻り討幕含みの攘夷親征計画(大和行幸)を策動するが八月十八日政変で一夜にして瓦解した。朝敵とされた長州藩では藩主の上洛釈明・出兵論が沸き起り、木戸孝允・高杉晋作・周布政之助は自重論を唱えたが、久坂玄瑞は来島又兵衛・真木和泉らと強硬論を唱え参預会議瓦解を機に即時出兵を断行、池田屋事件で激発した長州藩は京都御所を攻めたが西郷隆盛率いる薩摩軍の参戦で大敗し首謀者の久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉は戦死した。続く第一次長州征討・四国連合艦隊との馬関戦争で長州藩は存亡の危機に陥り久坂玄瑞の野望は費えたが、久坂の「草莽崛起」を批判し続けた高杉晋作が奇兵隊・諸隊を率いて政権を奪回し薩長同盟して討幕を実現した。明治維新後、西郷隆盛は木戸孝允に「お国の久坂先生が今も生きておられたら、お互いに参議だなどといって威張ってはおられませんな」と語ったという。
- 木戸孝允(桂小五郎)は、吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没した。先を見通す識見に優れ、久坂玄瑞と「破約攘夷」運動を主導したが池田屋事件・禁門の変を間一髪で生延び、明治政府ではリベラルな政策を牽引した。木戸孝允は、長州藩医の和田家に生れ中級藩士桂家に入嗣、藩校明倫館で俊秀を謳われ兵学教授の吉田松陰に兄事した。幼少から剣術に打込み、19歳で江戸四大道場の練兵館に入門すると翌年には免許皆伝、塾頭・師範代を任され剣名を馳せたが、ペリー来航で国事に目覚め江川坦庵や中島三郎助から海外知識を習得した。長州藩に出仕した木戸孝允は、大村益次郎を招聘して洋式軍制改革を推進し、久坂玄瑞と共に「航海遠略策」の長井雅楽を斃して藩論を「破約攘夷」へ転換し外国船砲撃(下関事件)や攘夷親征計画(大和行幸)を主導したが八月十八日政変で一夜にして瓦解、周布政之助・高杉晋作と共に出兵論を抑えたが池田屋事件で決壊し禁門の変が勃発、久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。開戦直前に失踪した木戸孝允は、変装して京都を脱出し但馬出石に潜伏、第一次長州征討・馬関戦争で長州藩が窮地に陥っても動かず、高杉晋作が藩政を奪回すると指導者に迎えられ、薩長同盟を結び討幕へ突進んだ。明治政府の首班に就いた木戸孝允は、「五箇条の御誓文」で民主主義を宣言し、版籍奉還・廃藩置県を断行、四民平等・学制制定で国民皆学の平等社会を実現し、奇兵隊など長州諸隊の反乱を断固鎮圧した。岩倉使節団から戻った木戸孝允は、教育・政体優先の立場から征韓論に反対し憲法制定へ動いたが、大久保利通と対立し台湾出兵に抗い下野、立憲を条件に参与に復帰すると立憲政体の詔書を発布し地方官会議を開いたが大久保の内務省に無効化され、病状が悪化した木戸は秩禄処分を機に大久保政府を去った。木戸孝允の予見通り特権を奪われた不平士族の反乱が続発し、西南戦争が起ると自ら鎮撫使を希望したが「西郷、もういい加減にせんか」の言葉を残し病没した。
- 高杉晋作は、吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄である。維新直前に早世し他藩や朝廷との交流に批判的だったことから知名度は「維新の三傑」に及ばないが、高杉晋作なくして長州藩の復活は無く、薩長同盟の形で討幕が実現することも無かった。高杉晋作は、松下村塾の師匠である吉田松蔭や尊攘派同志の枠から離れて独創的な「防長割拠論」を唱え、討幕戦に備えて洋式軍備の導入に取組み、日本初の近代的民兵組織である奇兵隊などの諸隊を創設した。同志が公武周旋や過激な攘夷論に浮かれるなか、一人冷静に現実を見据えていた。「松下村塾の双璧」と並び称された久坂玄瑞は、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」に則り諸国の志士と提携して京都政局で破約攘夷運動を主導、孤立した高杉晋作は自暴自棄となったが、禁門の変で久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。続く四国連合艦隊の襲来で窮地に陥った長州藩は高杉晋作を呼戻し、高杉は有利な条件で講和交渉を纏め、兵員不足を補うため庶民から徴兵して奇兵隊を創設、第一次長州征討が起ると伊藤博文・井上馨と共に徹底抗戦を叫んだが長州藩は幕府に恭順した。絶望した周布政之助は自決し俗論党(佐幕派)政権は正義派を弾圧し井上馨は瀕死の重傷、高杉晋作は筑前へ逃れたが、すぐに長府へ舞戻り奇兵隊などの諸隊に決起を呼掛け、応じたのは伊藤博文・前原一誠の手勢と中岡慎太郎ら遊撃隊(浪士隊)の90名のみだったが功山寺挙兵を断行した。三田尻で藩の軍艦3隻を奪い東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固めると、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が呼応し大田・絵堂の戦いで長州藩正規軍を撃破した。高杉晋作は、奪回した政権を木戸孝允に譲渡し、逡巡する木戸の背中を押して薩長同盟を締結、第二次長州征討が起ると自ら最前線に乗込み大島口奇襲で緒戦を制し老中小笠原長行が守る小倉城を攻落して勝利を決定付けた。が、肺結核で動けなくなり「おもしろき ことをなき世を おもしろく」の辞世を遺し27歳で死去した。
- 周布政之助は、村田清風から受継いだ正義派の首領として俗論党や長井雅楽と戦い木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松蔭門下生を支援した長州藩執政、禁門の変の暴発を抑えられず絶望し自殺した。周布氏は毛利家譜代の名門益田氏の庶流で、禁門の変で引責切腹した家老の益田弾正は本家筋である。中級藩士の家督を継いだ周布政之助は、藩政改革を成功させた村田清風を尊敬し政治少年を集めて「嚶鳴社」を結党、14歳で出仕すると村田の腹心となり藩校明倫館の拡充などで長州藩主毛利敬親の信任を得て19歳にして政務役に大抜擢されたが、村田の死を機に椋梨藤太ら俗論党との政争が激化した。尊皇攘夷論者の周布政之助は、ペリー来航に際して武備主戦論を建言して採用され、蟄居中の吉田松陰を庇護し門人に便宜を図った。安政の大獄で暫し逼塞したが、大老井伊直弼の暗殺で尊攘派が台頭、長州藩は長井雅楽の「航海遠略策」で公武合体運動に乗出したが、主導権奪回を図る周布政之助は木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞と連携して藩論を「破約攘夷」へ転換し長井を切腹に追込んだ。門閥重臣ながら過激行動を辞さない周布政之助は久坂らにとって得難い後ろ盾であった。久坂玄瑞に引きずられた周布政之助は、外国船砲撃による攘夷決行(下関事件)、高杉晋作による奇兵隊創設と大村益次郎の洋式兵制改革、攘夷親征計画(大和行幸)へと長州藩を導いたが八月十八日政変が起り一夜にして瓦解した。「無実」を晴らすべく長州藩では世子毛利定広の上洛を決定し出兵論が沸騰、周布政之助は、藩首脳で唯一人反対を貫き木戸孝允・高杉晋作と共に鎮撫に奔走したが池田屋事件で決壊、周布が逼塞に処された翌日来島又兵衛率いる遊撃軍が周防三田尻から先発した。禁門の変に敗れた長州藩は朝敵とされ徳川慶喜が第一次長州征討を発動、便乗した四国連合艦隊が馬関海峡に来襲し(馬関戦争)風前の灯となった長州藩は三家老・四参謀の死刑と五卿の追放を呑んで降伏恭順、出兵に反対した周布政之助は無罪ながら心折れて自決した。が、間もなく高杉晋作が功山寺で挙兵し奇兵隊など諸隊を率いて正規軍を撃破し椋梨藤太ら俗論党を一掃して藩政を奪回した。
- 大村益次郎(村田蔵六)は、木戸孝允の招聘で長州藩に出仕し適塾仕込みの洋式兵学と武器輸入で近代的軍隊を創建、浜田城制圧や上野彰義隊との戦争を指揮し維新後は徴兵制・近代的国軍建設を進めたが暴漢に襲われ横死した「日本陸軍の創始者」である。周防の村医の嫡子に生れた大村益次郎は、防府の梅田幽斎(シーボルトの弟子)に師事し豊後日田の咸宜園にも遊学、22歳で大坂の適塾に入門し長崎遊学を経て塾頭に就いたが、父の懇請で帰郷し村医を開業した。が、2年後のペリー来航で蘭学者の需要が急増し、無愛想の治療下手で評判の悪い大村益次郎は早々に医業を畳み宇和島藩に仕官、砲台建設や洋式軍艦製造を差配し、藩主伊達宗城に従い江戸へ出ると麹町に蘭学塾「鳩居堂」を開講、幕府に招聘され蕃書調所を経て最高学府の講武所教授に栄達した。一流洋式兵学者の名声を博した大村益次郎は、長州藩に軍制改革を託され藩政に参画(政務座役)、藩校明倫館や私塾「普門塾」で兵卒を熱血指導し「火吹き達磨」と渾名された。尊攘運動に関与せず俗論党からも重宝された大村益次郎は、禁門の変後も重職に留まり、高杉晋作が藩政を奪回すると但馬出石から木戸孝允を呼戻して指導者に迎え、正規軍と奇兵隊など諸隊を統合再編して軍事教練を施しミニエー銃・ゲベール銃を大量購入して長州藩軍を洋式軍隊へ変貌させた。第二次長州征討では山陰方面軍を指揮、新式兵器と巧みな用兵で浜田城を攻落し「その才知、鬼の如し」と評された。薩摩藩嫌いの大村益次郎は戊辰戦争出兵に反対し左遷されたが、すぐに上京を命じられ諸藩献上の御親兵を訓練し伏見に兵学寮を開設、江戸の治安回復を託されると兵員不足を危惧する薩摩藩士を一喝し西郷隆盛を説伏せて武力討伐を断行し上野彰義隊を殲滅した。大村益次郎は、明確なプランのもと近代的国軍建設に邁進、持論の徴兵制は兵制論争で退けられたが、軍政のトップ(兵部大輔)に就いて京都河東操練所・兵学寮の開設や軍事工場建設を進めたが兇漢に襲われ横死、「西国(薩摩)から敵が来るから四斤砲をたくさんこしらえろ」との遺言は8年後の西南戦争で的中した。靖国神社境内には今も大村益次郎の銅像が聳える。
- 毛利敬親は、改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」である。いつも「そうせい」と家臣に丸投げした毛利敬親の政治能力を疑う向きもあるが、激変する対幕関係と藩内闘争のなか持論の尊攘方針を堅持し重要事項は自ら決断、有能な家臣を登用し細事を任せ切った。18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、「俗論党」に配慮しつつ「正義派」の村田清風を後押しし藩政改革・財政再建に成功し長州藩は「雄藩」となった。21歳の毛利敬親は10歳の吉田松陰の御前講義に感服し弟子の礼をとったといい、脱藩事件で家名断絶に処された松蔭に10年間の諸国遊学を許し、ペリー来航後先鋭化する攘夷論に耳を傾け、密航を企てた松蔭が幕府に捕まり萩の野山獄へ投獄されると病気保養の名目で出獄させ「松下村塾」を黙認、遊学奨励や軍制改革などの諸献策を採用し、門人の木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作らを取立て中央政界へ送り出した。松下村塾は公認され尊攘派の拠点となったが、安政の大獄に激昂した吉田松陰は急速に過激化し老中間部詮勝の襲撃を公然と画策、毛利敬親は上書を許しガス抜きを図ったが、松蔭が門弟17人と血盟を結び周布政之助ら尊攘派要人に協力を要請するに及び、周布が求める松蔭の再投獄を認めざるを得なかった。毛利敬親は冷却期間のつもりだったと思われるが、別件で幕府に召喚された吉田松陰は間部襲撃計画を自白してしまい斬首に処された。が、井伊直弼が暗殺され尊攘派が盛返すと、毛利敬親は松陰の遺志を継ぐ久坂玄瑞・木戸孝允の「破約攘夷」へ藩論を切替え決然と幕府(薩摩藩の島津久光が主導する公武合体運動)に挑戦、禁門の変・第一次長州征討・四国連合艦隊の来襲(馬関戦争)と凶変が続き滅亡寸前に追詰められた長州藩は幕府への恭順を余儀無くされたが、高杉晋作が武力クーデターを成功させると毛利敬親は政権交代を容認し薩長同盟して討幕へ邁進、明治維新後は木戸の要請に応じ真先に版籍奉還を是認した。「わしはいつ将軍になるのか」と木戸に尋ねたという話は創作だろう。
- 武市半平太の土佐藩と久坂玄瑞・木戸孝允の長州藩が連携して朝廷に工作し攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使を得て江戸の幕府へ派遣した。正使三条実美・副使姉小路公知を奉じ、土佐藩主山内豊範が警護役として兵数百人を率いて江戸に入り、幕府に破約攘夷の早期実行と京都警護の御親兵提供を迫った。破約攘夷は誤魔化したが幕閣は丁重に対応し、、御親兵提供については実施を約束した。これを受けて京都守護職に任じられた会津藩主松平容保が藩兵と新撰組を擁して京都に駐留し志士狩りを断行、尊攘派は自ら宿敵を呼込む最も皮肉な結果となった。
- 武市半平太(瑞山)は、剣術道場主から久坂玄瑞に啓発され「土佐勤皇党」を結成、吉田東洋暗殺で藩政を握り長州藩と連携して「破約攘夷」運動を牽引したが下克上を嫌う山内容堂に誅殺され土佐藩は中央政局から脱落した。文武両道の達人で謹厳実直、大柄で威厳も備えた武市半平太は、吉田松陰と西郷隆盛を兼ねたような絶対的存在だったが、「挙藩勤皇」に固執し大業を成す前に不肖の主君に殺された。白札格郷士の武市半平太は剣術家を志し21歳で高知城下の麻田直養に入門、皆伝を授かって剣術道場を開業し、江戸遊学を許され「江戸四大道場」の士学館に入門するとすぐに皆伝を授かり塾頭に任じられた。高知の武市道場は100人を超える門人で賑わい中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕も名を連ねた。武市半平太は、30歳過ぎまで勤王家の田舎道場主に過ぎなかったが、桜田門外の変で尊攘運動が沸立つと藩庁に願出て江戸へ出向し薩長の志士と交流、長州藩の久坂玄瑞に感化された。土佐へ戻った武市半平太は、門人を母体に「土佐勤皇党」を結成し、薩長土三藩主上洛の盟を果たすべく「破約攘夷」への藩論転換に奔走したが、執政の吉田東洋は「下級藩士や浪人共の騒動」と相手にせず、連絡係の坂本龍馬がもたらす久坂情報に焦った武市は吉田暗殺を決行した。吉田の専断を憎む重臣連を抱込み軽格ながら藩政を握った武市半平太は、晴れて京都政界へ乗出し久坂玄瑞の長州藩に合流、和宮降嫁を弾劾して岩倉具視を隠遁させ、将軍上洛と攘夷決行を促す勅旨を得て長州藩世子毛利定広の江戸下向に随い、岡田以蔵や田中新兵衛を操って天誅騒動を巻起し、攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を得て土佐藩主山内豊範の江戸下向を差配し、将軍徳川家茂の初上洛を実現させ攘夷決行の約束をとった。が、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の山内容堂は、郷士の台頭を嫌悪し土佐勤皇党の粛清を断行、佐幕派追放を図った平井収二郎・間崎哲馬を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し武市半平太を投獄、禁門の変で長州藩の尊攘運動が瓦解すると武市に「不敬罪」を着せ切腹させた。
- 土佐山内氏は、秀郷流藤原氏を称し、備後山内氏の分家山内宗俊の五男俊家を家祖とする。戦国時代、山内盛豊は、尾張守護代の岩倉織田家の家老で黒田城主であったが、格下の清洲織田家から出た織田信長に侵攻され主家と共に滅ぼされた。領地を追われ流浪した三男の山内一豊は、織田信長に出仕し、豊臣秀吉の子飼に連なり遠州掛川6万石に累進、妻(見性院)の内助の功の方が有名なくらい武勲は乏しいが、小山評定で福島正則の次に東軍参加を表明し掛川城の明渡しを申出たことで運が開け関が原合戦後に土佐20余万石へ大増封された(幕末には24万2千石)。江戸時代に入り相当経過しても山内一豊の大出世は他藩士から不審・嫉妬視され、あるとき諸藩士の会合でからかわれた土佐藩士が「拙者らもそれは不審に思っていますが、大方くれた人が阿呆であったのでござろう」と返し相手を黙らせたという。次代は下って幕末、13代藩主山内豊熈、その弟で14代藩主を継いだ山内豊惇が相次いで急死し、豊惇弟の山内豊範が僅か3歳であったため22歳の山内容堂(豊信)が末期養子となり15代藩主となった。容堂の父山内豊著は、12代藩主山内豊資の弟で山内南家を興したが、知行は1500石と藩主一門にしては小身だった。山内容堂は公家の三条実万(実実の父)の養女を娶ったが嗣子を生さず、安政の大獄で山内豊範が隠退させられると山内豊範が16代藩主を承継した。明治維新後、山内豊範は侯爵に叙され、山内分家から子爵2家・男爵2家を輩出した。なお、山内家は清華家(摂関を占めた五摂家に次ぐ上級公家で左大臣まで出せた)の三条家と重縁の間柄であり、山内豊資の妹は三条実万の正室、山内容堂の正室は実万の養女、容堂の妹は実万長子の三条公睦(実美の兄)の正室であった。武市半平太・後藤象二郎らによる土佐藩の朝廷工作は概ね三条家を通じて行われ、長州藩の久坂玄瑞・木戸孝允に担がれた三条実美は禁門事変で長州へ逃亡したが(七卿落ち)明治維新で返咲き新政府の最上位に就いた。
- 三条実美と共に長州藩・土佐藩の破約攘夷運動を支えた姉小路公知が京都御所朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ落命した。暗殺犯は未だに不明だが、薩摩藩の「人斬り」田中新兵衛が取調べを受ける前に自決したことから、長州尊攘派に対抗して公武合体運動の巻返しを図る薩摩藩の犯行とみなされ、逆に憤激した尊攘派の勢いが高まった。
- 幕府が朝廷に攘夷決行を約束した1863年5月10日、久坂玄瑞が木戸孝允・高杉晋作の自重論を抑え長州藩は攘夷決行を断行、馬関海峡を封鎖し米仏蘭商船に無警告で砲撃を加えたが、米仏軍艦の艦砲射撃により猛烈な報復を受け長州藩の海軍と砲台は壊滅的打撃を蒙った。が、外国船退去後も長州藩は抵抗を続け、有利な条件で講和交渉を纏めた高杉晋作が兵員不足を補うため庶民から徴兵して奇兵隊など諸隊を創設し、下関の砲台を修復し対岸小倉藩領の一部を占拠して新たな砲台を築き馬関海峡封鎖を続行、翌年第一次長州征討に乗じた四国連合艦隊が来襲し馬関戦争が起った。一連の下関事件では、久坂玄瑞が大和行幸に参加すべく赤根武人・滝弥太郎・山縣有朋・河上弥市・入江九一・吉田稔麿ら松下村塾系志士を糾合し結成した光明寺党が獅子奮迅の活躍をみせた。
- 長州藩が馬関戦争で西洋列強に惨敗した後、藩主毛利敬親より馬関の防御を一任された高杉晋作は窮余の策として庶民から兵員を募って奇兵隊を創設、洋式軍備で武装させた。下関事件で孤軍奮闘した久坂玄瑞率いる光明寺党から赤根武人・滝弥太郎・山縣有朋・河上弥市・入江九一・吉田稔麿ら多数の幹部が加わった。奇兵隊の創設後、農民・町人・漁師・猟師・神官・力士・僧侶など武士以外の様々な身分からなる義勇兵部隊が数多く結成され同年末には早くも総員750人を突破、奇兵隊を含め諸隊または遊撃隊と総称した。高杉晋作は奇兵隊を大組士(正規藩兵)の下に置くつもりであったが、諸隊は戦意旺盛なうえに大村益次郎の洋式軍備導入で強化され実戦で正規藩兵を圧倒、次第に独立の勢いを示し高杉のクーデターを援けることとなる。高杉晋作は奇兵隊創設者であることを生涯の誇りとし、自分の墓碑銘を「奇兵隊開闢総督」とするよう依頼した。
- 木戸孝允・久坂玄瑞・真木和泉・平野国臣・吉村寅太郎ら長州藩系尊攘派志士が三条実美ら公卿を動かし攘夷親征計画(大和行幸)を画策した。孝明天皇を大和へ移し諸藩に綸旨を下して勤皇の義軍を召集する企てで、東征して幕府を討つ密謀も含んでいた。先発隊として吉村寅太郎らが挙兵するが殲滅され(大和天誅組の変)、過激な攘夷運動を嫌う孝明天皇の決断による八月十八日の政変で大和行幸計画は頓挫、巻返しを図る平野国臣らの挙兵も失敗した(生野の変)。
- 徳川慶喜・会津藩主松平容保に薩摩藩が加担し、孝明天皇の支持を得て、得意の絶頂で大和行幸を画策した長州藩と尊攘派公家を武力クーデターにより京都から追放した(八月十八日の政変)。薩摩・会津藩兵が御所を囲むかなかで朝議が行われ、大和行幸の中止、長州藩主毛利敬親・定広父子と尊攘派公家の処罰等を決議した。堺町御門警備の任を解かれた長州藩士千余人は京都から追出され失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公卿7人を伴い長州へ下った(七卿落ち)。長州藩の久坂玄瑞・木戸孝允と土佐藩の武市半平太が主導した「破約攘夷」「草莽崛起」運動は、病的な外国人嫌いながら過激な攘夷運動を嫌う孝明天皇の叡慮と徳川慶喜・松平容保と薩摩藩の共同謀議により一夜にして瓦解し、勤皇藩を自認し朝廷の権威回復を志した長州藩は皮肉にも天皇に掣肘された。
- 徳川慶喜は、大老井伊直弼に14代将軍就任を阻まれたが島津久光の文久の改革で幕政を掌握、長州征討を強行するもまさかの完敗で薩摩藩は薩長同盟へ鞍替え、大政奉還で体制温存を図り辞官納地を拒否しながら土壇場で恭順へ転じた最後の将軍である。股肱の臣である松平容保・定敬兄弟と新撰組、小栗忠順ら抗戦派幕臣をあっさり見捨て、宗家・慶喜家・水戸家の徳川3家が最高位の公爵に叙され慶喜は徳川将軍中最高齢の77歳まで生延びた。水戸藩主徳川斉昭の七男で御三卿一橋家に入嗣した徳川慶喜は、一橋派の将軍候補に担がれたが安政の大獄で挫折した。が、薩摩藩の島津久光は、率兵江戸へ乗込み徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込み、八月十八日政変で「破約攘夷」の長州藩を締出し「参預会議」で公武合体を実現した。が、禁門の変で自信を深めた徳川慶喜が専横を強め参預会議は挫折、禁裏御守衛総督に就いて半独立の気勢を示し、松平容保・定敬を京都守護職・所司代に任じて京都を制圧(一会桑政権)、武力補強のため水戸天狗党を呼び寄せたが幕府が強硬策に出ると自ら追討軍に加わり捨て殺しにした。幕威発揚を期す徳川慶喜は長州征討を断行、長州藩は恭順し征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めたが、高杉晋作が長州藩政を奪回し再び幕府に挑戦した。徳川慶喜は直ちに長州再征を号令したが、薩摩藩の妨害で足止めされ薩長同盟が成立、6万の大軍ながら軍備に劣る幕府軍は高杉晋作・大村益次郎の洋式軍隊に完敗し大阪城の将軍徳川家茂も急死、小倉城陥落で慶喜は「長州大討入り」を撤回した。小栗忠順の日仏同盟構想(売国的条件による借款と軍事支援)に力を得た将軍徳川慶喜は、参預会議で長州藩赦免を拒否し薩摩藩は討幕を決意、「徳川家を盟主とする大名共和制」を期待し大政奉還するも辞官納地を強要された。大阪城の徳川慶喜は無視し諸外国に徳川政権継続を宣言したが、鳥羽伏見の敗報に接すると軍艦で江戸へ逃げ戻り上野寛永寺に謹慎、主戦派を追放し恭順派の勝海舟に全権を委ねた。徳川宗家を継いだ徳川家達は駿府70万石から公爵に叙され、徳川慶喜も公爵・貴族院議員に栄達した。
- 尊攘派浪士団が天誅組の変の復讐と称し但馬生野で挙兵、生野代官所を降伏させるが主将に担いだ沢宣嘉(長州に落ちた七卿の一人)が軍用金を盗んで逃亡し、諸藩兵に攻められあっけなく鎮圧された。首謀者の河上弥市(高杉晋作の親友で奇兵隊2代総管)は戦死し、豊岡藩兵に捕らえられた平野国臣は京都六角獄舎に繋がれ禁門の変の渦中に殺害された。肉落ちて骨枯れ髪も髭も真白で幽鬼の様となった平野国臣は、牢格子の外から槍で突き殺されたといい、平野は自ら格子に近寄り胸を開き二槍で絶命したという。辞世は「見よや人あらしの庭のもみぢ葉はいづれ一葉も散らずやはある」。なお、久坂は、藩命により七卿のもとへ行き平野の扇動に乗らないよう注意を促したが、沢宣嘉だけは聞きいれず平野と共に脱走した。
- 久坂玄瑞・木戸孝允と提携し長州藩の「破約攘夷」運動を朝廷で支えた三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公卿7人は、八月十八日政変で長州藩へ亡命し周防三田尻に留め置かれた(七卿落ち)。錦小路頼徳は翌年病没し、澤宣嘉は生野の変を起すも軍資金を盗んで敵前逃亡した。七卿のもとへは京都を追われた尊攘派浪士が参集、長州藩から宿舎「招賢閣」を提供された浪士群は、六時起床で皇居を礼拝し夕食まで文武講習という規則正しい生活を送りつつ活発に同志を招致し志士活動を展開、招賢閣は全国尊攘派の参謀本部の様相を呈した。招賢閣では真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎・土方久元らが「会議員」を構成して指揮を執り、長州藩士の前原一誠と佐々木男也が世話掛を務めた。長州藩は招賢閣浪士を中核に脱藩浪士の混成部隊「忠勇隊」を創設し諸隊に組込んだ。忠勇隊は、禁門の変を扇動した首領の真木和泉が戦死し、後継の長谷川鉄之助(越後浪士)が脱退したため真木外記(和泉の弟)と中岡慎太郎が総督となったが、第一次長州征討の渦中に分解した。さて八月十八日政変が起ると、中岡慎太郎は、強硬に出兵上洛を主張し忠勇隊の有志を率いて来島又兵衛の「遊撃隊」に合流、禁門の変で戦闘に加わるも危うく難を逃れ、長州藩が幕府に恭順すると諸隊と共に五卿が移された下関長府の功山寺に参集、中岡率いる遊撃隊(浪士隊)60人は高杉晋作の功山寺挙兵の中核部隊となり(他に従ったのは伊藤博文の力士隊30人のみ)長州維新の立役者となった。中岡慎太郎は、薩摩系土佐浪士の坂本龍馬と連携して薩長同盟に奔走し、遅れて中央政局に乗出した土佐藩に招聘され板垣退助と西郷隆盛の「薩土密約」を斡旋、京都白川の土佐藩邸に浪士75人を集め陸援隊を結成し討幕戦に備えた。長州系の中岡慎太郎は土佐藩の後藤象二郎・坂本龍馬が主導した大政奉還に反対し討幕の刃を砥いだが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に非業の死を遂げた。その後、山内容堂と後藤象二郎は幕府擁護に固執したが、中岡慎太郎を慕う板垣退助が独断で戊辰戦争に参戦、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 久留米水天宮の神職から京都へ出た真木和泉は、尊攘派浪士の首魁にして幕末一のトラブルメーカーであった。有馬新七ら薩摩藩過激派と提携した真木和泉は寺田屋騒動に遭遇し一党28人と共に薩摩藩士に逮捕され、久留米藩へ引渡された。久留米藩では真木らの処遇を巡って対立が起り、佐幕派が優勢となって全員の死罪が決定されたが、同志の久坂玄瑞は学習院御用掛の立場を活かし朝廷から助命を促す勅諚を得て久留米藩主有馬頼成に働きかけ、無罪放免を勝取った。真木和泉らは、堂々と久留米藩を立去って京都へ戻り長州藩に属して大和行幸を共謀、八月十八日政変が起り七卿に随従して長州へ逃れると最も過激な出兵論者となり『出師三策』を諸卿に献策し尊攘派長州藩士を扇動した。真木和泉の京都制圧計画は希望的観測に基づく無謀な作戦であったが、来島又兵衛らが感化され、池田屋事件が起ると遂に長州藩は激発した。木戸孝允と周布政之助は出兵論だけでなく世子上洛にも猛反対し、高杉晋作は世子が上洛して大義名分を明らかにすることは士気の高揚に繋がると考え最初は賛成したが、無謀な出兵論が過熱するに従い世子上洛も否定へ転じた。一方、吉田松陰譲りの「草莽崛起論」を唱えて真木和泉ら他国志士を巻込み八月十八日政変まで京都政局をリードした久坂玄瑞は、率兵上洛して君側の奸を追払えば朝議を回復できるものと信じ終始賛成の立場を貫いた。
- 中岡慎太郎は、武市半平太の「土佐勤皇党」から長州藩尊攘派に合流し浪士群を率いて高杉晋作の功山寺挙兵や薩長同盟に大活躍、薩土密約と陸援隊で武力討幕に備えたが戊辰戦争直前に暗殺された幕末浪士随一の殊勲者である。遺志を継いだ板垣退助が独断参戦して薩土密約を果し土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。中岡慎太郎は、北川郷の大庄屋の嫡子ながら17歳で武市半平太の尊攘運動に身を投じ、長州藩の久坂玄瑞と共に「破約攘夷」を牽引する武市が山内容堂・豊範の江戸下向を実現させると、発奮した中岡は「五十人組」を率いて江戸へ突出、長州藩士との出会いを果し帰路は久坂に随行したが、間もなく八月十八日政変が起り破約攘夷運動は瓦解した。土佐へ戻った中岡慎太郎は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂を見限り脱藩、三条実美ら七卿の在す周防三田尻へ参じて真木和泉の「招賢閣」浪士に身を投じ、上洛出兵を扇動し来島又兵衛の遊撃隊に従い奮闘したが長州藩は大敗し真木・久坂らが戦死した(禁門の変)。中岡慎太郎は、京都に潜伏し高杉晋作から受継いだ島津久光襲撃の機を窺うも果たせず三田尻へ帰還、征長軍全権の西郷隆盛と協力し大宰府への「五卿遷座」を遂行した。そして高杉晋作の功山寺決起、応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであったが、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦し長州藩軍を撃破、高杉は政権奪回を果し木戸孝允が執政に座った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となり、中岡慎太郎は京都・鹿児島を奔走し西郷隆盛に木戸孝允との下関会談を了承させるも急遽取止め、中岡は坂本龍馬と共に憤慨する長州藩士を宥め再び上京して西郷を口説き、高杉晋作・井上馨が渋る木戸を上京させ薩長同盟が実現した。長州藩が四境戦争に勝利すると、慌てた土佐藩は中岡慎太郎と坂本龍馬を懐柔、後藤象二郎は坂本が勧めた大政奉還建白で面目を施した。武力討幕を志す中岡慎太郎は、西郷隆盛と板垣退助の薩土密約を斡旋し京都土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を発足させたが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に斬殺された。
- 近藤勇・土方歳三の新撰組が京都池田屋に参集する尊攘派志士を襲撃した(池田屋事件)。死亡7人(吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助)・負傷4人(望月亀弥太は当日自決)・召捕り23人の受難者を出した尊攘派は壊滅的打撃を蒙り、憤激した長州過激派が暴発し禁門の変を起した。木戸孝允は池田屋へ出向いたが事件発生時にたまたま中座しており間一髪で難を逃れた。捕縛者は京都六角獄舎に繋がれたが、禁門の変の渦中に大半が幕吏に殺害された(生野の変で投獄された平野国臣も巻添えとなる)。続く禁門の変でも武威を示した新撰組は、朝廷・幕府・会津藩から感状を賜り合計で200両余りの賞金を与えられた。近藤勇・土方歳三は賞金を元手に隊士募集を行い組織を拡大、伊東甲子太郎一派も合流し新撰組は200人を超す大所帯となった。
- 八月十八日政変の巻返しを期す長州藩が池田屋事件を受け激発、藩主毛利敬親の冤罪雪辱と京都守護職松平容保らの排除を名目に京都へ攻込み、徳川慶喜(禁裏御守衛総督)の指揮のもと京都御所を守る会津・桑名藩兵と市街戦に及んだ(禁門の変または蛤御門の変)。西郷隆盛率いる薩摩藩兵が慶喜方で参戦し敗北した長州藩は久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉・平野国臣ら尊攘派中核メンバーを喪い(木戸孝允は逃亡失踪)朝敵に堕した長州系人士は京都から一掃され中央政局は徳川慶喜・会津藩・桑名藩の天下となった(一会桑政権)。この挙兵に際し木戸孝允・高杉晋作・周布政之助らは慎重論をとなえたが、真木和泉ら過激派浪士の扇動に乗った来島又兵衛・久坂玄瑞らの主戦論を抑えられなかった。戦闘は一日で終了したが、京都市外は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ3万戸の家屋や社寺が消亡した。この事件による長州人の薩摩・会津に対する怨念は深く(薩奸会賊)維新後も尾を引いた。
- 馬関海峡の封鎖を実力で排除し攘夷に固執する長州を目覚めさせるべく、英仏蘭米四カ国の軍艦17隻が下関を攻撃、猛烈な艦砲射撃と陸兵2千人を投入して下関と彦島の砲台を破壊し占拠した。伊藤博文と井上馨は留学中のイギリスで四国連合艦隊による下関攻撃が近いことを知り開戦を止めるべく急ぎ帰国したが頑迷な過激攘夷派に阻まれた。かくして長州藩は馬関戦争に完敗し、亡命事件を起して謹慎中だった高杉晋作を急遽召還して講和交渉の全権に任じた(蘭学者の大村益次郎とイギリス帰りの伊藤博文が高杉を補佐)。連合国代表のキューバ提督は、下関海峡の自由通航と日用品購入を認めること、今後一切砲台を築かないこと、および賠償金300万ドルを要求した。交渉の争点は長州藩年収の十数倍にもなる賠償金の支払いであったが、高杉晋作は強硬な姿勢で臨み、外国船打払いは幕府の命令で行ったものであるとして戦争の責任を幕府に押付け、認めさせた。通訳として交渉に参加した伊藤博文は、この他に彦島の割譲を求められたが、高杉晋作が頑としてはねつけ、危うく難を免れたと述懐している。この後、幕府は、長州藩が勝手に諸外国に下関開港を認めることを恐れ、賠償金の支払いに応じた。
- 幕府軍艦奉行の勝海舟から「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と長州宥和を促された薩摩藩(征長軍大参謀)の西郷隆盛は、征長総督徳川慶勝に武力衝突を回避する穏当策を提言、慶勝は西郷を征長軍全権に任じ長州藩との折衝を委ねた。西郷隆盛は、岩国藩主吉川監物を通じて禁門の変で上京した国司信濃・益田弾正・福原越後の三家老切腹、四参謀斬首、三条実美ら五卿の追放を降伏条件として提示、長州藩主父子が謝罪文書を提出し恭順したため開戦は回避された(第一次長州征討)。これに対し、奇兵隊などの諸隊には不満を抱く者が多く、高杉晋作は即時挙兵を主張したが、俗論党に懐柔された奇兵隊総督赤根武人をはじめ諸隊の長官は応じなかった。徳川慶喜政権の後ろ盾であった薩摩藩は長州征討を機に幕府批判へ転じ薩長同盟・討幕へ突進んだが、西郷隆盛を長州宥和へ転換させた勝海舟の役割は非常に大きかった。西郷隆盛は大久保利通への書簡で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と評している。勝海舟は幕臣でありながら雄藩諸侯や尊攘派志士と広く交流、西郷隆盛が神と仰いだ島津斉彬とも懇意であり、開国の利と幕藩体制変革の必要性を説いて反幕府陣営に大きな影響を与えた。幕府首脳で軍艦奉行も務めた勝海舟の言葉は非常に重く、討幕を奨励するような言説は志士たちを大いに勇気づけたに違いない。この3年後に薩摩藩が戊辰戦争を引起すと、勝海舟は徳川慶喜を説いて絶対恭順を決意させ、幕府代表として西郷隆盛に会い江戸城無血開城を成遂げた。
- 高杉晋作・伊藤博文・井上馨ら正義派諸士は、誠意恭順を尽くして交渉にあたりつつも幕府征長軍が防長に攻込んできた場合は断固迎撃すべしとする武備恭順を主張したが、無条件降伏・武装解除も辞さないとする俗論党が優勢となり藩政から正義派を締出した。周布政之助は自決、高杉晋作は捕縛を間一髪で免れて脱走し筑前へ亡命、井上馨は俗論党士に闇討ちされて瀕死の重症を負うが九死に一生を得て蘇生した。伊藤博文は、不敵にも力士隊を山口から下関に連れ帰りたいと藩庁に願い出て許され、奇兵隊などの諸隊と共に長府の功山寺に入った。尊攘運動と距離を置いた大村益次郎は藩庁の重職に留まった。
- 幕府に恭順した長州藩が呑まされた講和条件の一つに、三条実美ら五卿を他藩へ移すという「五卿遷座」があった。長州藩正義派の反対で難航したが、中岡慎太郎は西郷隆盛ら薩摩藩士の協力を得て五卿を大宰府へ移すことで両者を納得させ実行に移した。
- 奇兵隊などの諸隊は、長州藩庁による解散を免れるため、三条実美ら五卿を擁して長府に転陣し藩庁と交渉を続けた。奇兵隊総管赤根武人は俗論党に懐柔されて藩庁の政務座役に兼任され、山縣有朋や福田侠平らの幹部連中も赤根に引きずられて「正俗調和」の慎重論へ傾いた。高杉晋作は必死の説得を試みたが諸隊長の反応は鈍く、決起に応じたのは河瀬真孝・中岡慎太郎ら遊撃隊士(浪士軍)と伊藤博文・前原一誠らごく少数で、諸隊750人のうち従う兵力は遊撃隊60人と力士隊30人ばかりであった。しかし高杉晋作は、長府功山寺に在する五卿に「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と宣言し颯爽と兵を挙げ、三田尻で藩の軍艦3隻を奪い、東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固め、遂に長州藩正規軍を破り長州回天を成功させた。伊藤博文は後に高杉晋作の墓所がある下関郊外清水山の「東行碑文」に「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。衆目駭然としてあえて正視するものなし。これわが東行高杉君にあらずや。」と揮毫したが、功山寺の情景を眼前に現す名文である。功山寺には、三条実美ら七卿の御在所が現在も保存されており、境内には馬上挙兵に乗出す高杉晋作を映した見事な一鞭回天像があるが、傍らに「一将功成って万骨枯る」の碑が立つ。力士隊を率い決死の行軍に参じた伊藤博文は大功労者だが、肝心要の功山寺挙兵で日和見しながら位人臣を極め椿山荘やら無鄰菴やらを築いた山縣有朋への面当てのようでもある。実際、山縣の汚点となったに違いなく、伊藤の生存中はこれを憚り軍事に徹して政治に距離を置いたとされる。なお赤根武人は、高杉の反乱軍が優勢になると上方へ逃亡、幕府に捕縛されて走狗となり、第二次長州征討で大目付永井尚志の随員として長州入りし不戦を説いたが全く相手にされず、逆に捕らえられ1866年に山口で処刑された。
- 長州藩庁は反乱軍鎮圧のため正規藩兵の選鋒隊を差し向けた。高杉晋作の反乱が鎮圧されれば諸隊の解散も確実な情勢となり、奇兵隊の山縣有朋ら諸隊長はようやく重い腰を上げ高杉の檄文に応えた。諸隊は恭順を偽って絵堂の政府軍を不意撃ちで破り、慎重過ぎる山縣有朋の指揮で戦線は膠着したが、高杉晋作率いる遊撃隊が下関から合流し根拠地の赤村を急襲すると政府軍は総崩れとなった。高杉晋作は萩まで攻込む腹であったが、またも山縣有朋が慎重論を唱え已む無く休戦協定を結んだ。高杉晋作は藩庁から椋梨藤太ら俗論党幹部を一掃し正義派が政権を奪回した。長州維新の大立者である高杉晋作は、「艱難は共にできるが富貴は共にできない」と言って藩政に参加せず、禁門の変後に失踪中の木戸孝允を呼戻し指導者に据えた。高杉晋作は、念願の西欧視察を実行に移すべく藩庁の許可を得て1千両をもらい伊藤博文を伴い長崎へ赴いたが、グラバーから第二次長州征討が近いと聞き急ぎ長州へ戻った。なお、高杉晋作が藩庁から分捕った1千両は行方知れずとなり、高杉らが丸山遊廓で蕩尽したとも、別の藩費留学生の渡航費用に充てたともいわれる。
- 久坂玄瑞・来島又兵衛・真木和泉らの出兵論に反対し禁門の変の直前に姿を晦ました木戸孝允は、二条大橋の乞食小屋に隠れて幕吏の捜索をかわし、京都を脱出して但馬出石に潜伏し荒物屋主人や寺男に姿を変えつつ形勢を観望した。体を張って木戸を世話した愛人の幾松(京都三本木の芸妓)は、木戸の脱出後同志に保護され馬関へ移された。長州藩の実権を奪回した高杉晋作・大村益次郎は、幾松を使者に送って木戸を呼戻し、藩庁の実質的な指導者に迎えた(政治堂用掛兼国政方用談役心得)。高杉は「艱難は共にできるが富貴は共にできない」と藩政参加を断り功山寺義挙を共にした伊藤博文を伴い西欧視察を志した。明治維新後、木戸孝允は幾松を正妻に迎え、幾松改め木戸松子は木戸が亡くなると剃髪して翠香院と称し京都木屋町に住んで亡夫の菩提を弔う余生を送った。
- 第二次長州征討を前に長州藩が生残る道は薩長同盟しかなかったが、政府首脳の木戸孝允は禁門の変の恨み「薩賊会奸」に感情を捕われ西郷隆盛が下関会談を反故にし面子を潰された一件を言い募り上洛を逡巡した。現実的な高杉晋作は「薩摩の芋が何を」と言いつつも藩論を薩長和解に纏め、長州藩主毛利敬親に受けの良い井上馨の奔走で藩命を取付け、高杉を代役に立てようとする木戸に対し「木戸さん1人が殺されても長州藩は問題ない」と突撥ね背中を押した。会津藩兵・新撰組が厳重に警護する京都に潜入した木戸孝允は、京都の小松帯刀邸で西郷隆盛・小松帯刀と会談し軍事同盟たる薩長同盟を締結した(攻守同盟だが第二次長州征討について薩摩藩は表面上中立を保ち後方支援に留める)。土佐浪士の坂本龍馬は薩摩方・中岡慎太郎は長州方として両藩の斡旋に奔走、薩長同盟の場に同席した坂本は木戸の要請で約定書に裏書した。浪人で薩摩方の坂本に担保力は無く、非命に散った武市半平太や吉村寅太郎に報いるためか、土佐藩の参加を含んだものと考えられる。実際この直後に土佐藩は、中岡慎太郎の斡旋で板垣退助・谷干城が薩土密約を、坂本龍馬の仲介で後藤象二郎が薩土同盟を結んでいる。薩土同盟は大政奉還と共に無視されたが、板垣退助は独断で戊辰戦争に賛成し薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の末座に滑り込んだ。中岡慎太郎は三条実美ら五卿の世話を焼くため大宰府に行っており会盟の場面に立会えなかったが、同志の福岡藩士早川勇曰く・・・「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというても過言でないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州藩の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおり、ことに遊撃隊に身をおいてその苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国にかえった後に長州に来た人であるから、どれだけの功労があったか知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」。
- 徳川慶喜の策動により第二次長州征討が勃発し幕府軍は芸州口・石州口・大島口・小倉口から山口へ進軍したが(四境戦争)、山陽道を守る高杉晋作の軍艦奇襲により大島口から撃退され、山陰道では大村益次郎が浜田城を攻落し石州口を封鎖した。小倉口が決戦場となったが、作戦上の意見対立から熊本藩兵が戦線離脱し、大阪城に陣取る将軍徳川家茂の急死を知った小倉藩主・老中の小笠原長行は本営を抜け出し長崎へ逃走、孤立した小倉藩兵は自ら城に火を放ち小倉城は落城、長州藩の勝利が決定的となった。家茂から徳川家の家督を継いだ徳川慶喜は、自身の長州大討入りを宣言したが小倉城陥落を知り断念した。徳川慶喜から講和交渉を一任された勝海舟は、安芸厳島へ赴き長州藩代表の井上馨・広沢真臣と会談し止戦協定を結んだが、徳川慶喜は二面外交の策を弄し朝廷に工作して征長停止の停戦の勅命を得たうえ小栗忠順が推進するフランスとの同盟(売国的条件による借款と軍事支援)に飛付いた。決死の覚悟で敵地に乗込んだ勝海舟は激怒し辞職願いを叩き付けて江戸へ帰った。翌年長州藩は小倉藩とも講和し完勝で四境戦争を終結、武力政権たる徳川幕府の権威は地に落ちたが、面従腹背の徳川慶喜はフランスを頼りに巻返しを図った。戦勝の立役者である高杉晋作は、病身に鞭打ち最前線で戦闘指揮にあたったが肺結核の病状が悪化、小倉城陥落を見届けると遂に動けなくなり、井上馨や伊藤博文に「ここまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」の言葉を遺し27歳の若さで病没した。山縣有朋は結核の感染を恐れ見舞いを避けたという。
- 第二次長州征討の最中に大阪城に陣取る将軍徳川家茂が急逝、徳川慶喜は喪を秘して戦争を継続し自ら出馬すべく「長州大討入り」を勇ましく宣言し、孝明天皇に頼み岩清水八幡宮への戦勝祈願までやらせた。が、小倉城陥落の敗報を聞くとあっさり進発を撤回し薩長に近い勝海舟に講和交渉を命令、直後に孝明天皇が崩御した。孝明天皇は、病的な外国人嫌いだが長州藩の過激な尊攘運動を嫌い徳川慶喜に好意的で禁門の変や長州征討を支持し続けた。徳川慶喜は大きな後ろ盾を喪い、14歳で即位した明治天皇は後に岩倉具視ら薩長派公卿の傀儡となる。さて、嗣子の無い将軍徳川家茂は、江戸を発つとき万一のときには田安亀之助(徳川家達)を跡継ぎにと言い残したが、老中の板倉勝静や小笠原長行は3歳の将軍では難局に対処できないとして徳川慶喜に将軍就任を要請した。徳川慶喜は「将軍継嗣問題のとき野心を疑われて不愉快な思いをした。いま将軍職を引受ければ、その悪評を裏付けることになろう」などと逡巡、このため先ず徳川宗家のみを相続し4ヶ月の間をおいて孝明天皇の説得により将軍就任という体裁をとった。徳川慶喜の説得にあたった松平春嶽は「ねじあげの酒飲み」(口ではもう飲みたくないといいながら、杯を勧めないと機嫌が悪くなり、結局はまた飲む)と評している。徳川慶喜は将軍就任に際し側近に王政復古を匂わせる発言をし諌められたともいわれる。
- 朝廷は京都に近い兵庫の開港を拒絶し続けたが、徳川慶喜は異人嫌いの孝明天皇の死に乗じ公卿を説得して勅許を獲得、安政五カ国条約の障害を片付けた幕府は諸外国に面目を施し参預会議は将軍慶喜の独壇場となった。が、皮肉にも幕権回復を警戒する薩長首脳に討幕を決意させる結果を招いた。長州藩の木戸孝允は「家康の再来を見るがごとし。軍制も改革され幕府は衰運再び勃興する勢いにある」と慨嘆し、薩摩藩の島津久光は公武合体を完全に放棄し西郷隆盛・大久保利通の討幕方針を承認した。
- 松平春嶽・島津久光・山内容堂・伊達宗城(四候)と将軍徳川慶喜が二条城で参会したが、長州赦免先決を主張する四候と兵庫開港先決を主張する慶喜が対立し、結局慶喜が押切る形で長州赦免問題が曖昧なまま会議は終結した。山内容堂は真先に見切りをつけて早々に帰国の途につき、島津久光は大久保利通・西郷隆盛・小松帯刀に討幕方針への転換を了承し鹿児島へ退去、西郷らは岩倉具視を抱込んで朝廷を掌握し武力討幕へ邁進した。中岡慎太郎の盟友である小笠原唯八は山内容堂に随い土佐へ戻ったが、江戸で形勢を観望していた板垣退助が入れ替わるように上京し同志に加わった。
- 大酒呑みの山内容堂は「鯨海酔候」と自称し豪傑を気取ったが、アルコール中毒症が疑われ重度の歯槽膿漏も患っていた。そのためか、根気と集中力を欠き、体調不良を理由に重要な会議にも欠席しがちで、気に入らないと物事を投出す場面が多々あった。四候会議の根回しで高知を訪れた西郷隆盛は、山内容堂から上洛の承諾を得るも「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」を懸念し、シラフの容堂が「此度は東山の土となるつもりぞ」と決意表明したことを福岡孝悌から聞いてから高知を去り伊達宗城を説くため宇和島へ向かった。大恩ある徳川家の運命を決した小御所会議(最初の三職会議)は山内容堂の一世一代の見せ場であったが、「鯨海酔候」はこの日も泥酔状態で遅参したうえ大声で喚き散らす醜態を演じ「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し権威を恣にしようとしている」との失言(事実だが)を岩倉具視に叱責され沈黙、松平春嶽も徳川慶喜の出席要請を断念した。山内容堂は徳川慶喜が目論む「徳川宗家を中心とする列候会議」(徳川家を盟主とする大名共和制)を代弁したが無視され、西郷隆盛の「ただ、ひと匕首あるのみ」(慶喜1人を殺せば片付く簡単なことだ)という気迫が議場を制し、後藤象二郎は大久保利通に丸め込まれ、薩摩藩の思惑通り徳川慶喜の辞官納地が決議された。最初の難関を突破した西郷隆盛と大久保利通は武力討幕へ邁進、幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し「朝敵」徳川慶喜を討つ大義名分を獲得した。
- 徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
- 大政奉還を受けた京都朝廷は、徳川慶喜と佐幕派諸侯が不穏な動きをみせるなか、「王政復古の大号令」を公布し幕府の廃絶・摂関の廃止・三職の設置による新政府の樹立を宣言した。下級公家出身の岩倉具視は、朝廷から摂関家をはじめとする世襲制を排除し名実共に朝廷を牛耳る布石を打った。
- 中岡慎太郎は、坂本龍馬と共に、和宮降嫁で尊攘派志士から嫌われて逼塞していた岩倉具視の政局復帰を後押しした。旧知の三条実美を口説いて岩倉と提携させたほか、西郷隆盛や木戸孝允ら薩長の中心人物との周旋にも尽力した。岩倉具視は中岡慎太郎を信頼し陸援隊が討幕の尖兵として活躍することを大いに期待していた。中岡は死の間際、同志の香川敬三に「岩倉卿に、王政復古のことはひとえに卿の御力にたよっていると伝言をたのむ」と述べ、中岡の訃報を聞いた岩倉は「自分は片腕をもがれた」と号泣したといい、大久保利通に「この恨み必ず報ぜざるべからず」と書き送り武力討幕の決意を固めた。
- 大政奉還の直後、京都近江屋で会食中の坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われ、頭蓋を斬られた坂本はほぼ即死、中岡は後頭部の傷が悪化し3日後に死去した。「坂本龍馬暗殺の謎」は面白おかしく語られ、フリーメーソン(イギリス)の謀略説や、薩長が遣わした中岡が坂本を斬ったという珍説まである(長州系の中岡は強硬な討幕論者で、土佐藩の大政奉還を差配した坂本は徳川家擁護に動いていた)。が、元新撰組の大石鍬次郎および元見廻組の今井信郎(函館戦争で投降)・渡辺篤の供述により、佐々木唯三郎ら見廻組7人の犯行であることが明らかになった。見廻組は新撰組と同じく京都守護職松平容保(会津藩主)の指揮下で京都の治安維持にあたった警察組織である。新撰組の実態は過激浪士の傭兵集団だが、歴とした幕臣からなる見廻組は統率のとれた幕府機構であり、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺も上層部の命令によるものと考えられ、命令者は松平容保とも京都所司代松平定敬(容保の実弟で伊勢桑名藩主)ともいわれる。会桑両藩と松平容保・定敬兄弟は、藩兵と新撰組・見廻組を駆使して京都に厳戒体制を敷き池田屋事件などで尊攘派志士を多数殺害したことから目の敵にされ、後戻りできない立場故に最強硬な佐幕派であった。ここで将軍徳川慶喜が大政奉還を遵守し薩長に取込まれると会桑両藩は完全に宙に浮いてしまうが、大政奉還を差配した坂本龍馬は幕臣の永井尚志を通じて幕府に現実的妥協案を呑ませる根回しに動いており会桑両藩にとっては危険人物となっていた。雄藩の後ろ盾がなく身辺警護も脆弱な坂本が真先に狙われ、中岡慎太郎は巻添えを喰ったと考えられる。暗殺事件後、激昂する海援隊・陸援隊に対し土佐藩は復讐禁止令を敷いたが、陸奥宗光ら16人は「いろは丸事件」を恨む紀州藩士三浦休太郎を首謀者と断じ、明る正月一日に油小路花屋町天満屋の酒宴の場を襲撃した。斎藤一ら護衛の新撰組隊士数名が居たため接戦となり、陸奥一派は中井庄五郎を殺され三浦は討ち漏らしたが数名を殺害し逃走、官軍の天下で陸奥宗光らにお咎めは無かった。
- 明治政府は王政復古に功労のあった公家・大名・士族に対して家禄の他に賞与として賞典禄を下賜した。支給期間によって永世禄・終身禄および年限禄の3種に分類される。最高は公家の三条実美・岩倉具視の5千石、士族では西郷隆盛の2千石が最高で、大久保利通・木戸孝允・広沢真臣1800石、大村益次郎1500石、後藤象二郎・板垣退助1000石、由利公正800石、黒田清隆700石、山田顕義・山縣有朋・前原一誠600石、寺島秋介450石、福岡孝悌・辻将曹400石、桂太郎250石、江藤新平・島義勇・土方久元100石と続いた。決めたのは大久保利通と木戸孝允だが、薩摩藩士の数が少な過ぎ、長州藩士では高杉晋作と共に長州維新を成遂げた井上馨や伊藤博文の名がないのに大した功の無い広沢・前原・寺島・桂が選ばれている。後世からみても不自然極まる論功行賞であり、伊藤はこの件で「いつまでも家人扱いする」木戸孝允に失望し大久保利通へ鞍替えした。
- 長州藩の木戸孝允は、戊辰戦争の最中に早くも郡県制による中央集権制化を構想し三条実美・岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出、このときは時期尚早として見送られたが、戊辰戦争の帰趨が定まり世が落着くと長州藩主毛利敬親に率先して版籍奉還するよう建言し承諾を得た。1869年、木戸孝允は薩摩藩の大久保利通・土佐藩の後藤象二郎と連携し薩長土肥の4藩主連署で朝廷に上表を提出させ、全藩主が追随して領地(版図)と領民(戸籍)を天皇へ返還した(版籍奉還)。この時点では旧藩主がそのまま知藩事に任じられ実質的変動はなかったが、1871年木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛は薩長土三藩の兵を徴し御親兵を創設、幕府を倒した朝廷の権威と直轄軍の武力を背景に、藩を廃止して中央集権化し地方統治を中央管下の府県に一元化する廃藩置県を断行した。版籍奉還で知藩事へ横滑りした旧藩主は領国支配権を召上げられ原則東京在住を義務付けられたが、十分な身分と収入を補償され、表立った反対運動は起らなかった(薩摩藩の島津久光のみは鹿児島に引篭り生涯反抗姿勢を続けた)。「維新の三傑」の連携プレイで最初にして最大の難関をクリアした明治政府は、殖産興業と徴兵制導入で富国強兵に邁進、財政を圧迫する士族特権を秩禄処分で剥奪し、1877年西南戦争で西郷隆盛を斃し不平士族反乱を根絶、維新から僅か10年で近代的中央主権国家の礎を築いた。
- 岩倉使節団は、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成され、欧米諸国、アジア植民地を歴訪した。使節派遣の狙いは不平等条約改正にあったが時期尚早であることが分かり、その下交渉と親交・視察が目的となった。正使は岩倉具視で副使は木戸孝允と大久保利通、伊藤博文らが補佐した。随行員は福地源一郎・田中光顕・山田顕義・佐々木高行・村田新八・新島襄・吉井友実、留学生は中江兆民・團琢磨・牧野伸顕・津田梅子・山川捨松・平田東助・大鳥圭介など。岩倉・大久保不在の留守政府は太政大臣三条実美と参議の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・大木喬任らに託された。
- 日本との国交を拒絶する李氏朝鮮に修好条約締結を迫るため西郷隆盛は自身の派遣を閣議決定したが(征韓論)、遣欧使節より帰国した岩倉具視・木戸孝允・大久保利通と大隈重信・大木喬任らの内治優先論に覆され西郷派遣は無期限延期となり、これを不服とする西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎ら参議と征韓論に同調する軍人・官僚600余名が大挙辞職し下野する大事件に発展した(明治六年政変)。征韓論の背景には廃藩置県で失業した50万人に及ぶ士族の雇用問題があった。政変後、革新の木戸孝允と保守の岩倉具視が相克し岩倉寄りの大久保利通が木戸を宥めつつ独裁的指導力を発揮する構図となった(大久保政府)。木戸孝允は、西郷・大久保を巻込んで廃藩置県を成遂げると「廃藩置県を断行して四民平等をなした以上は、教育を進めて人文を開き、もって立憲国にしなければならない」と憲法制定を政治目標に定め、学制と国民皆学の充実を図り、言論出版を奨励し、軍事においては大村益次郎のフランス流市民兵構想を後援した(大村は暗殺され山縣有朋らが「天皇の軍隊」に仕立てる)。木戸孝允の基本理念は大久保利通の殖産興業・富国強兵に通じるものであったが、乏しい政府財政と人的資源を巡って優先順位や進め方で両者は対立、粘り強い戦略家の大久保が長州の伊藤博文・井上馨や肥前の大隈重信を自陣へ引込んで勝利し木戸孝允はヘソを曲げて放り出した(土佐の板垣退助や後藤象二郎は征韓論に与し下野)。木戸孝允と大久保利通の関係について、徳富蘇峰は「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる。要するに一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」と語り、松平春嶽は薩摩藩への恨み節もあろうが「木戸は至って懇意なり。練熟家にして、威望といい、徳望といい、勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、衆人の異論なからしむるは、大久保といえども及びがたし。木戸の功は、大久保の如く顕然せざれど、かえって、大久保に超過する功多し。いわゆる天下の棟梁というべし」と評した。
- 大久保利通は、強靭な意志力でシナリオを描き粘り強くキーマンを動かして明治維新を成遂げた「維新の三傑」、声望は西郷隆盛に及ばないが功績と手腕は最高である。鹿児島城下の加治屋町で3歳年長の西郷隆盛と共に育ち尊攘派グループ「精忠組」を結成、デビューは島津斉彬の懐刀として活躍した西郷に遅れたが斉彬没後は主役となった。斉彬の突然死に西郷ら同志が希望を失うなか、大久保利通は、次代を担う島津久光に目を付け趣味の囲碁を自らも習得して接近を図り、島津斉興の死で久光が実権を握ると側近に抜擢され、自ら推挙した門閥閣僚の小松帯刀と共に薩摩藩を尊攘藩に改造した。大久保利通は、我が強く統制好きな久光の下で苦労しながら公武合体運動を推進め、突出脱藩を主張する有馬新七ら精忠組急進派を命懸けの説得で抑えて挙藩一致体制を堅持、久光を説伏せて西郷隆盛の赦免を勝取り薩摩藩同志の抑え役兼他藩への周旋役に据えた。島津久光は文久のクーデターで幕府政治を改革し参預会議により宿願の公武合体を成就したが、八月十八日政変・禁門の変で長州藩を追放した徳川慶喜は専横を強め、尊攘派に恨まれた久光は憤慨して政局を放棄、藩政を託された大久保利通と西郷隆盛は長州征討に固執する幕府を見限り薩長同盟を結んで討幕路線へ転換、岩倉具視と連携して朝廷を確保し一気に王政復古、戊辰戦争、明治政府樹立を達成した。新政府での大久保利通は、ラジカルな木戸孝允と士族に同情する西郷隆盛の意見調整に腐心しつつ、欧米視察を通じて殖産興業・富国強兵の必要性を確信、明治六年政変で岩倉と共謀して西郷の征韓論を覆し反抗勢力を一掃して初代内務卿兼参議に就き独裁政権を樹立した(大久保政府)。ドライな大久保利通は、台湾出兵で薩摩士族のガス抜きを図りつつも秩禄処分を断行、全ての特権を奪われた不平士族の反乱が相次いだが断固たる姿勢で各個撃破し西南戦争で西郷と薩摩志士を処断、史上空前の内乱の渦中で不敵にも第一回内国勧業博覧会を開催したが、翌年不平士族に襲撃され落命した(紀尾井坂の変)。大久保利通の内治優先・殖産興業路線は弟子の伊藤博文と大隈重信へ引継がれた。
- 大久保利通は、大蔵省と工部省から殖産興業部門を分離し、司法省から警保寮(警察)も巻き取って、絶大な権限を有する内務省を設置、自ら初代内務卿となり辣腕を振るった。西郷隆盛ら征韓派が一掃され木戸孝允も病気で働けない状況のなか大久保は独裁体制を確立、参議の伊藤博文と大隈重信が側近として大久保を支えた。大久保政府の主眼は内地優先論に基づく殖産興業にあり、鉄道網の整備を進め、官営模範工場や農事試験場を設立して軽工業や農業の近代化を推進した。また岩崎弥太郎の三菱を手厚く保護し、国内海運業の育成と外国勢力の排除に努めた。外交面では、征韓論を抑えたものの、薩摩藩の不平士族のガス抜きのため台湾出兵を断行し、大久保自ら清国に乗込んで有利な講和条約をまとめた。征韓論争に敗れ帰郷した要人を核に各地で不平士族が蜂起し佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き日本史上最悪の内戦となった西南戦争が勃発したが、大久保は怯まず断固たる姿勢で対応し新造の鎮台兵を動員して速やかに各個鎮圧し国内の治安を回復した。大久保利通は最も現実的な政治家だが、明確な長期ビジョンと意志を持っていた。大久保は「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り発展を待つ時期だ。」と語り、岩倉具視への手紙には「国家創業の折には、難事は常に起るものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」と記した。福地源一郎は大久保に「北洋の氷塊」の渾名を奉り「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」と評している。
- 台風で遭難した琉球藩御用船が台湾に漂着、乗員54名が先住民により惨殺された。明治政府は清政府に事件の賠償などを求めたが清政府は台湾は「化外の民」としてこれを拒絶、日本で台湾征討の機運が高まった。この事件を知った清アモイ駐在のアメリカ総領事チャールズ・ルジャンドルは「野蛮人を懲罰するべきだ」と明治政府を煽った。大久保利通は、佐賀の乱勃発で政治問題化した不平士族のガス抜きに丁度良いと考え台湾出兵を決断、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命して軍事行動の準備に入った。こうした薩摩系の動きに対し、長州系は征韓論を廃しておきながら台湾出兵を行うのは矛盾するとして反対し木戸孝允が参議を辞任し下野した。慌てた大久保政府は中止を決定したが、西郷従道が旧薩摩藩士を中核とする征討軍3千名を組織し台湾出兵を強行、大久保は已む無しの態で追認を与え、征討軍は瞬く間に台湾を制圧した。清はイギリス駐日行使パークスを抱込んで抗議したが、大久保が自ら北京に乗込み交渉した結果、清は台湾出兵を「保民の義挙」と認め遭難民への見舞金10万両(テール)及び戦費賠償金40万両の計50万両を日本側に支払うこと、これと引換えに日本は征討軍を撤退させることに合意した。政権運営に長州閥首領を欠かせない大久保利通は、伊藤博文・井上馨を遣わして木戸孝允を慰撫し立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立の条件を呑んで参議に復帰させた。
- 木戸孝允は、西郷隆盛の征韓論を廃しながら台湾出兵を強行した大久保利通に反発し参議を辞任し下野したが、政権運営に長州閥首領を欠かせない大久保は伊藤博文・井上馨を遣わして慰撫、憲法制定を志す木戸は立憲政体樹立・三権分立・二院制議会の確立を条件に参議に復帰し、直ちに三条実美・板垣退助と連名で奏上し大久保政府に「立憲政体の詔書」を発布させた。岩倉具視は辞任を仄めかし立憲に断固反対する姿勢を示したが、大久保利通が宥めた。木戸孝允は、二院制議会の実現に向け地方官会議を挙行したが大久保利通の内務省に抑えられ機能せず終わり、不平士族を逆撫でする性急な秩禄処分に異を唱えるが退けられ、病状悪化のため再び参議を辞任し西南戦争の渦中に西郷隆盛を案じながら病没した。
- 財政支出の約30%を占める士族への家禄支給額は明治政府の大きな負担であり、また徴兵令で民兵軍が創設されると軍役の対価という家禄の意義も失われた。そこで大久保利通政府は、士族に家禄の5~14年分にあたる金禄公債証書を与え代わりに家禄と賞典禄の支給を停止した。士族は毎年5~10%の利子を受取り元金は段階的に償却される約定であったが、受給者の大半を占める下級士族の利子所得は家計費の3割に満たず多くは金禄公債を売却し没落した。四民平等、徴兵令、廃刀令に続く秩禄処分により下級士族は全ての特権を剥奪され、こののち頻発する不平士族反乱の決定的要因となった。
- 西南戦争は、西郷隆盛を盟主に担ぐ旧薩摩藩士が起した不平士族反乱で日本史上最大の内乱事件である。徴兵令、廃刀令、秩禄処分と続いた士族の特権剥奪政策に対する不満は全国に蔓延し、佐賀の乱を皮切りに既に各地で不平士族反乱が起っていたが、薩摩藩は維新の功労があるだけに不満は大きく、さらに他藩より武家率が数倍も高く武士の絶対数が多かったことも災いし(全国士族の1割とも)、空前の大規模反乱に発展した。征韓論争に敗れて鹿児島に退いた西郷隆盛は、暴発を抑えるため私学校を作って統制に努めたが、逆に求心力となって続々と不平士族が参集、鹿児島は中央政府から独立した「私学校王国」の様相を呈した。そして遂に暴発事件が起ると、西郷は、篠原国幹・村田新八・桐野利秋・辺見十郎太ら私学校党幹部に身を委ね、「陳情」を名分に中央への進軍を開始した。大久保利通率いる明治政府は、即座に断固鎮圧の断を下し、鹿児島県逆徒征討総督の有栖川宮熾仁親王以下、実質的な指揮官(参軍)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命、徴兵制で発足したばかりの鎮台兵を大挙派兵し、また旧士族を急募して編成した警察兵も続々と投入した。戦域は鹿児島県から熊本県、宮崎県、大分県にまで拡大、戦死者は官軍6,403人・西郷軍6,765人に及び、激戦の末に西郷隆盛はじめ反乱軍の幹部は悉くが戦死、反乱は鎮圧された。このとき戦った官軍には、司令官の大山巌中将・谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐のほか、児玉源太郎少佐・川上操六少佐・奥保鞏少佐・乃木希典少佐など後の大物軍人が数多く従軍した。西南戦争で政府が費やした戦費は4156万円の巨額に及び深刻な財政難に陥って富国強兵政策の重大な足枷となった。さらに、西南戦争の最中に木戸孝允は「西郷、いいかげんにせんか」の言葉を残して病没、その西郷隆盛も間もなく戦死、残った大久保利通も翌年不平士族の凶刃に斃れた。柱石たる「維新の三傑」を一気に喪った悪影響は計り知れず、明治日本にとって最も不幸な大災難であった。ただ、岩崎弥太郎の三菱・大倉喜八郎・三井など政商たちに戦時特需をもたらし飛躍の契機を与えたことは、せめてもの救いであった。
- 太政大臣・公爵と位人臣を極めた三条実美は、京都御所東の三条邸跡地に父の三条実万を祀る梨木神社を建立、自身も没後に合祀された。境内に湧く「染井の水」は京都三名水の一つとして現在も市民に親しまれている。
- 開拓使官有物払下げ事件で自由民権運動が沸騰し薩長閥が国会開設の詔を発布した翌年、民権派との融和を期す伊藤博文は数人の随員を従え自らドイツ・オーストラリアを歴訪、ウィーン大学のシュタイン教授、グナイスト、モッセらの法学者からドイツ(プロイセン)流の憲法理論や政治制度を学んだ。なお伊藤博文は、岩倉具視よりフランス流自由主義にかぶれた西園寺公望の懐柔を依頼され随員に加えた。反動勢力を率いた岩倉具視が没し、帰国した伊藤博文は、華族令を定めて貴族院の土台を作り、民権派との妥協を嫌う山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らを説伏せ、来るべき国会開設に対し強力な行政府を備えるべく内閣制度を発足させた。権力の所在が曖昧で意思決定に難のある太政官制を廃し、各省庁の長が国務大臣として内閣を構成し国務大臣を束ねる内閣総理大臣を政府の最高責任者とする近代的な行政府制度が現出した。伊藤博文が自ら初代内閣総理大臣に就き、国務大臣は薩長のバランスに配慮して長州閥4人(伊藤博文・井上馨、山縣有朋・山田顕義)に対し薩摩閥5人(松方正義・大山巌・西郷従道・森有礼・榎本武揚は旧幕臣だが黒田清隆の配下)および土佐1人(谷干城)とし、太政官の最高位(太政大臣)にあった三条実美には名誉職の内大臣をあてがった。戊辰戦争以来薩長に伍して来幅を利かせてきた公家層を政治の実質から締出した意義も大きかった。伊藤博文は3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り、憲法問題に専念するため枢密院を設立し初代議長に就任した。
- 西園寺公望を養育した乳母の相模は、当主修行という妙な理由で7・8歳のころから酒やタバコを嗜ませる早熟教育を施した。奔放に育った西園寺公望は、乗馬や剣術の修行にも励み柔弱な公卿社会から異端視されたが、逆に岩倉具視に豪胆を見込まれ出世コースに乗った。岩倉具視は世襲制への反発から過激公卿となり、岩倉村逼塞期には自宅を博徒に貸し賭場を開帳したほどの異端児であった。王政復古後の三職設置に際し岩倉具視は維新運動に何も実績が無い弱冠19歳の西園寺公望を参与に大抜擢、鳥羽伏見戦に恐れ戦く公卿連中が辻将曹(広島藩)の「薩長と幕府の私闘論(公家は関与せず)」に傾くなか西園寺は一喝して薩長支持を主張、岩倉具視は遥かに出自の高い西園寺を「小僧、よう言うた」と褒めた。戊辰戦争が起ると西園寺公望は岩倉具視の引きで官軍の飾雛に据えられた。山陰道鎮撫総督として山陰地方を無血平定した後、北陸方面軍の総督格に補され越後長岡へ転戦、山陰出征時は公卿の略装だったが北陸へは大原重徳ら攘夷派の制止を振切って洋式軍服で出陣した。河井継之助の長岡藩は洋式軍備を備えて強力であり、官軍は参謀の山縣有朋と黒田清隆の対立もあり大苦戦、不意討を喰って本営まで攻込まれ飾雛の西園寺公望も陣羽織を裏返しに着て危うく死地を脱する際どい体験をした。戊辰戦争が収束すると西園寺公望は新潟府知事に補されたがフランス留学を思い立ち辞任、開成所や長崎で気ままに仏語を勉強していたが1870年突然フランス留学を命じられ慌しく出立した。長州・土佐と親密な西園寺公望を薩摩系の岩倉具視が追払ったといわれる。渡仏した西園寺公望は共和制支持者のエミール・アコラスの私塾からソルボンヌ大学に進んでフランス流自由主義に染まり中江兆民(日本社会主義の祖)らと交流、潤沢な外遊費でパリジェンヌと豪遊し子を産ませたとの風評もたった。
- 10年間のフランス留学で自由主義に染まった西園寺公望は、親分の岩倉具視に遠ざけられ、放蕩生活を送りつつ自由党機関紙『東洋自由新聞』の社長に就任、岩倉の妨害ですぐに辞任したが、板垣退助歓迎パーティに出席するなど自由党土佐派との交流は続いた。死を目前に後継者不在の岩倉具視は西園寺公望の懐柔策に転じ伊藤博文に政界復帰工作を懇請、伊藤は立憲制視察の外遊に西園寺を加え、民権派から体制派へ転向した西園寺は岩倉の後継資格を獲得、伊藤の腹心となり政友会総裁を継いで首相に上り詰めた。伊藤博文暗殺で山縣有朋・陸軍長州閥の権勢が高まり影響力を失った西園寺公望は政友会総裁を原敬に譲り政界を退いたが、山縣有朋・松方正義が没すると唯一存命の元老西園寺の存在感は高まり、牧野伸顕・木戸幸一(内相)・鈴木貫太郎(侍従長)ら天皇側近の重臣グループを束ね広田弘毅内閣まで10余年も首相指名の重責を担った。伊藤博文の国際協調・平和主義を継ぐ西園寺公望は軍部の抑止に努めたが、初暴走の張作霖爆殺事件から躓いた。昭和天皇の意を受けた西園寺公望は田中義一首相に事件究明を迫り辞任要求を突きつけるも突如撤回、犯罪の追認行為は一夕会幕僚や青年将校の増長を促し満州事変、五・一五事件、二・二六事件、盧溝橋事件と続く軍部暴走の着火点となった。茫然自失の牧野伸顕内相に「自分は臆病なり」と語ったことから陸軍の脅迫に屈したことが窺える。重臣グループが「君側の奸」と標的にされた五・一五事件の後、怯えた西園寺公望元老は静岡興津の「坐漁荘」に籠るも隠然たる影響力を保持し、内閣交代の度に新聞記者は「興津詣で」を繰返した。西園寺公望の興津院政を支えた住友財閥は貴族院議員原田熊雄を坐漁荘に派遣し近衛文麿・木戸幸一らとの連絡係を務めさせた。原田熊雄の『西園寺公と政局-原田熊雄日記』は昭和史の第一級資料である。西園寺公望は、二・二六事件後の首相指名を近衛文麿に断られ政界引退、第二次近衛内閣の日独伊三国同盟締結を座視し直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。
三条実美と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照