久坂玄瑞・武市半平太らに担がれ朝廷の「破約攘夷」を牽引した過激公卿、八月十八日政変で「七卿落ち」するが尊攘派志士の大義名分として長州藩の討幕運動を支え明治政府の最高位に栄達
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三条 実美
1837年 〜 1891年
70点※
家系・子孫
- 三条家は、摂関を出せる五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に次ぐ家格で左大臣まで出せる清華家(久我・三条・西園寺・徳大寺など9家)であり、公家社会では上流階層に属した。三条実万は、武家伝奏として朝廷の対幕府政策の先頭にたち、禁裏の警備力強化のため彦根藩主井伊直弼を京都守護職に招聘するなどの働きがあった。大老井伊直弼とは良好な関係にあった三条実万だが、関白九条尚忠との派閥争いから左大臣近衛忠煕と共に条約勅許反対にまわり将軍継嗣問題でも一橋派に加担、尊攘派公卿と目された三条実万は安政の大獄で内大臣辞任・蟄居に追込まれ間もなく病没した。三条実万の正室は10代土佐藩主山内豊策の娘(山内容堂の伯母)眉寿姫で、次男で嫡子の三条公睦が早世したため三男の三条実美が家督を継いだ(長子は夭逝または庶子)。三条実美は、関白鷹司輔煕の娘治子を正室に迎え、多くの子女を生した。公爵三条家は嫡子の三条公美・実憲の父子へ受継がれたがいずれも早世、実美三男の三条公輝が本家に戻り家督を承継した。三条公輝は飾雛らしく宮中祭祀を司る掌典長や御所歌長を務め第二次大戦直後に没するまで貴族院議員の職にあった。
三条実美と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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