武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落
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上杉 景勝
1556年 〜 1623年
30点※
上杉景勝と関連人物のエピソード
- 直江兼続は、豊臣秀吉に取入って上杉景勝を会津120万石へ押上げるも時勢を見誤って石田三成に肩入れし出羽米沢藩30万石へ転落させた「愛」冑の田舎軍師である。上田長尾政景に仕えた樋口兼豊の長男で、御館の乱を制し上杉謙信の家督を継いだ景勝(政景の嫡子)に出仕、1581年刃傷事件で横死した直江信綱の未亡人を娶って直江家と越後与板城を承継したが、極端な上田衆優遇策が謙信遺臣の離反を招き新発田重家の乱を招来した。翌年織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、柴田勝家に越中魚津城を落とされ信濃・上野からも織田軍団が越後へ迫るが間一髪で本能寺の変が勃発、蘇生した上杉景勝は天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪取し、新発田を攻めるもあわや討死の大敗を喫した(放生橋の戦い)。直江兼続は天下人豊臣秀吉に活路を求め石田三成に接近、蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った新発田重家から新潟城・新潟港と沼垂城を奪還し、1586年景勝共々上洛して秀吉に臣従を誓い越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第の墨付を獲得、翌年重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)景勝は90万石の大封を獲得、兼続は占領統治と経済政策に辣腕を発揮した。1598年徳川家康を警戒する秀吉・三成は力量不足の蒲生秀行を移封し上杉景勝を会津120万石に抜擢、直江兼続は米沢30万石を分与され陪臣ながら大大名に列した。秀吉に続いて前田利家が没すると加藤清正・福島正則ら武断派は憎悪する三成を襲撃、家康の裁定で失脚に追込まれた三成は景勝・兼続と謀議を巡らし、会津へ戻った景勝は家康の上洛命令を拒絶し兼続は「直江状」で挑発した。1600年おそらく筋書き通りに家康は会津征伐を敢行し三成は隙を衝いて挙兵、直江兼続は関ヶ原合戦へ向かう家康の追撃を説くも景勝は「義に非ず」と退け最上義光攻めを決断し、兼続は圧倒的大軍で攻めるも敗退した(慶長出羽合戦)。結果として小早川秀秋の寝返りと毛利輝元の大阪城放棄で西軍は予期せぬ完敗、追撃策を捨てた景勝は米沢藩30万石へ削られるも改易は免れた。
- 直江氏は、越後頸城郡直江庄を所領した土豪で越後与板城主飯沼氏の被官であったが、直江親綱は飯沼頼清を滅ぼした長尾為景に臣従して与板城主となり、嫡子の直江景綱は為景没後の晴景・景虎(上杉謙信)の家督争いで景虎について重臣となり「謙信七手組」に数えられた。景綱娘の船に入嗣した直江信綱(実家は総社長尾家)は、御館の乱で上杉景勝を支持し重用されたが、河田長親の相続争いに巻込まれ春日山城内で毛利秀広に襲われ落命、景勝は遺児(清融)を出家させたうえ腹心の樋口兼続を船に娶わせ直江家を継がせた。樋口氏(中原姓)は為景の三条長尾家と競った上田長尾家の家臣で木曽義仲四天王の一人樋口兼光の子孫を称し、長尾政景が暗殺された後、樋口兼豊は上田衆の一員として後嗣の景勝に随い御館の乱に貢献、直江親綱の娘を娶って三男三女をもうけた。長男の樋口改め直江兼続は、超無口な景勝に代わって上杉家を宰領し、天神山城主小国重頼の内紛に乗じて次弟の実頼を小国家の家督に据え(大国へ改姓)、実家の樋口家は三弟の秀兼に継がせ、妹を上杉重臣の須田満胤・色部光長・篠井泰信に嫁がせた。兼続は34歳まで男児に恵まれず本庄繁長の三男長房を養子に迎えたが翌年船が景明を出産、長房を離縁し本庄家へ戻した。直江兼続は、石田三成・豊臣秀吉に接近し陪臣ながら出羽米沢30万石の大名へ出世したが、三成に加担して関ヶ原の戦端を開き上杉家は会津120万石から米沢藩30万石に押込められた。辛くも改易を免れたものの戦々恐々の兼続は徳川幕府への接近を図り、徳川家康の腹心本多正信の次男政重を娘於松の婿養子に迎え景明を廃して嗣子とし、於松が病没すると弟大国実頼の娘阿虎を養女にして政重の継室に据えるが(猛反対の実頼は兼続の使臣を斬殺し高野山へ遁走)政重は金満の加賀前田家に3万石で引抜かれ、嫡子に戻した直江景明は膳所藩主戸田氏鉄の娘を妻に迎えるも嗣子無く早世、兼続の死をもって直江宗家は断絶した。秀兼が継いだ樋口家と、実頼の死後一時断絶した大国家も秀兼の子光頼が再興を許され、米沢藩士として幕末まで存続した。
- 長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
- 上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。
- 武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
- 武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。
- 「武田二十四将」は今なお有名だ。山本勘助は、諸国巡礼の末に52歳で武田信玄に仕官し足軽大将に抜擢された。容貌醜悪で片足が不自由だが、諸国情勢や兵法・築城術に通じ、信玄に恨みを含む諏訪御料人の側室採用、北信濃攻略などに大功があったが、第4次川中島の戦いで上杉謙信に啄木鳥戦法を見破られ戦死した。江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡勘兵衛の『甲陽軍鑑』で一躍有名軍師となったが、その雛形は勘助の子が作ったもので、実際は軽格と見る向きが強い。ただ、二十四将中で門外漢は山本勘助のみであり、浪々の身から破格の昇進を遂げた事実は動かない。同じ謀略系では真田幸隆がいる。信玄に属して合戦で奪われた所領を回復、戸石城攻略で大功を挙げ、巧みなゲリラ戦術は子の真田昌幸・孫の真田信繁(真田幸村)へ受継がれた。猛者揃いの武田軍でも「武田四天王」馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景は別格だが、最強は山県昌景だろう。140センチ足らずの小兵で口蓋裂の醜貌ながら、常に先陣を疾駆し「赤備え」と恐れられた。「赤備え」の元祖は昌景の兄飯富虎昌、信虎追放劇に加担した宿老だが、武田義信の傅役故に謀反疑惑に連座し処刑された。長篠の戦いで山県昌景が戦死した後、「赤備え」は井伊直政と真田幸村が踏襲した。高坂昌信も強いが、少年期は信玄の寵童であったという。板垣信方は、信虎追放以来の腹心で、享楽に耽る武田信玄を諌め、北信濃方面軍司令官の大役を担ったが、上田原の戦いで緒戦の勝利に油断し前線で首実験中に村上義清に襲撃され落命した。長篠の戦い後、武田勝頼の求心力は衰え、最期は譜代重臣にも見捨てられた。小山田信茂は、信玄の従弟で家中屈指の大族だったが、織田信長の甲州征伐で逃亡する武田勝頼の保護を拒み滅亡に追いやった。戦後信長に降伏するが、余りの不忠を咎められ処刑。穴山信君は、武田一族の名門だが、従兄弟の勝頼と対立し長篠の戦いで戦線離脱、甲州征伐では織田方に内通し本領安堵のうえ武田宗家を継承した。が、徳川家康と堺見物中に本能寺の変が勃発、木津川河畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命した。
- 佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
- 伊達政宗は、会津蘆名氏を滅ぼして南奥羽150万石を領し佐竹義重・上杉景勝を脅かした「独眼流」、豊臣秀吉・徳川家康の隙を窺い減封されるも外交と演出で仙台藩62万石・伊予宇和島藩10万石を保ち野望を秘めて慶長遣欧使節を派した天下御免の横着者である。出羽米沢城に拠り南奥羽11郡余に君臨した奥州探題伊達輝宗の嫡子で、疱瘡で右目を失い生母義姫に嫌われたが1584年18歳で家督を承継、翌年叛臣大内定綱を匿い輝宗を拉致した畠山義継を父諸共に銃殺し、佐竹義重率いる南奥羽連合軍の来援をかわして二本松城を奪取した(人取橋の戦い)。会津黒川城主蘆名亀王丸が夭逝すると弟政道の入嗣を企てるが佐竹義重に敗北(次男佐竹義広が蘆名氏を相続)、1588年大崎氏の内紛に軍事介入するも最上義光に敗れ(大崎合戦)佐竹・蘆名・相馬に攻め込まれたが伊達成実・片倉景綱の堅守と大内定綱の寝返りで撃退に成功(郡山合戦)、翌年蘆名義広を滅ぼして黒川城に入り佐竹方諸豪を掃討して会津四郡・仙道七郡を平定し北の大崎・葛西氏も掌握した(摺上原の戦い)。伊達政宗は、父祖譲りの外交術で豊臣秀吉・前田利家・浅野長政・徳川家康らに取入りつつ、惣無事令を無視して近隣諸豪を倒し北条氏政と同盟して佐竹挟撃を狙ったが、小田原落城を目前に秀吉に投降を決意、盛毒嫌疑で義姫(最上義光の妹)を放逐し弟政道を暗殺して禍根を断ち主戦派の伊達成美に留守を託して小田原へ参陣、禿髪に白麻の陣羽織の異装で秀吉を和らげ家康・利家らの取成しで助命されるも本領の出羽米沢城72万石に戻された。会津若松城に入封した蒲生氏郷を追出すべく葛西大崎一揆を扇動するが金箔の磔柱の演出で助命され岩出山城58万石へ減転封、関白秀次への接近が裏目に出て隠居・伊予転封を命じられるも家康に救われ、秀吉が没すると家康の六男忠輝に娘を縁付け、関ヶ原の戦いに乗じて上杉景勝を攻めるも家康の叱責で渋々矛を収め仙台藩62万石が確定した。家康・秀忠・家光への忠勤に励みながら慶長遣欧使節を派して幕府転覆を窺い、大坂陣では味方討ちを疑われながら庶長子伊達秀宗の伊予宇和島藩10万石の立藩を認められ和霊騒動を凌いで領土を保った。
- 最上義光は、伊達氏から独立し謀略を駆使して出羽国人を切従え、関ヶ原の戦いで上杉景勝を撃退し山形藩57万石に躍進した羽州探題の名門大名、愚孫最上義俊が家臣団の総スカンを喰い改易に処された(最上騒動)。羽州探題最上氏は国人割拠で衰退し最上義定は陸奥守護伊達稙宗に臣従、養嗣子の最上義守は天文の乱に乗じて自立を図り将軍足利義輝を後ろ盾に勢力拡大を図るが寒河江兼広に敗れ挫折、長男義光の廃嫡を企て一旦隠居に追込まれるも同族の有力国人衆「最上八楯」及び娘婿の伊達輝宗に担がれ義光討伐軍を挙兵、1574年四面楚歌の義光は必死の防戦で和睦に漕ぎ着け伊達氏からの完全独立を果した(天正最上の乱)。足元を固めた最上義光は鮮やかな個別撃破戦術を展開、里見民部の寝返りを誘って上山城主上山満兼を討たせ、馬揃え参陣を拒否した小国城主細川直元を包囲殲滅、東禅寺義長を寝返らせて大宝寺義氏を討ち庄内を平定、羽州探題を僭称する白鳥長久を山形城に誘込んで自ら斬殺し谷地城を奪取、強豪延沢満延に娘を縁付けて自陣に引込み最上八楯を切崩すと寒河江城主寒河江高基・東根城主東根頼景を攻め滅ぼし盟主天童頼澄を天童城から追放して1584年出羽最上郡平定を達成、横手城主小野寺義道の南進を撃退し、大宝寺義興を滅ぼして庄内支配を固めた。1588年大崎合戦で伊達政宗を撃退するが隙を衝いた上杉景勝が本庄繁長・大宝寺義勝(繁長の実子)を派して庄内を奪還(十五里ヶ原の戦い)、豊臣秀吉に帰順し羽州探題に補された最上義光は景勝の惣無事令違反を訴えるが黙殺され奥州仕置で出羽山形城24万石が確定、石田三成と昵懇の景勝・直江兼続に対抗するため徳川家康に接近し、秀次事件で愛娘駒姫が殺されると完全な家康党となった。1600年会津征伐軍が上方へ転戦し最前線で孤立した最上領に直江兼続率いる上杉軍・小野寺軍が殺到、最上諸将は寡兵で猛攻を凌ぎ東軍勝利の報を得た最上義光は兜に被弾しながら上杉軍を追撃し庄内を奪還、関ヶ原合戦後に領有を認められ出羽山形藩57万石を立藩した。義光の死から3年後に後嗣最上家親が急逝し、1622年最上騒動が起り最上家は自滅した。
- 石田三成は、豊臣秀吉の下で兵站・太閤検地・土木事業を担い、上杉・佐竹・島津・津軽等を圧伏して文治派筆頭官僚に躍進するが、朝鮮出兵と秀次事件で武断派に憎悪され秀吉没後すぐに失脚、己の復権のため関ヶ原合戦を起すが徳川家康の罠に嵌って惨敗した「才あって智ない」豊臣家崩壊の元凶である。近江の土豪の次男に生れ、織田信長の畿内侵攻で長浜城に入った豊臣秀吉に出仕、文吏的才幹と適度な剛直さを買われ弱冠18歳で奏者(取次役の秘書官)に抜擢され、本能寺事変後に秀吉が織田家を簒奪すると、軍師黒田官兵衛や千利休を遠ざけて政権運営の中核へ台頭、天下統一戦の兵站から太閤検地等の統治政策、堺・博多の商業都市管理、聚楽第・方広寺等の土木事業、本願寺の寺内成敗と西本願寺建設とフル回転し、外交面でも直江兼続と連携して上杉景勝を帰順へ導き、九州征伐では島津義弘を懐柔、小田原征伐後の宇都宮仕置・奥州仕置でも辣腕を振るい、諸大名に畏怖されて絶頂期を謳歌した。1592年全国統一成った豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始(文禄の役)、総奉行に任じられ出征した石田三成は小西行長と共に面従腹背で講和を図り(文治派)、目障りな軍監の黒田官兵衛・浅野長政を追払い、秀吉の命令を墨守し勇敢に戦った加藤清正・福島正則・黒田長政らと対立(武断派)、指揮が乱れ兵站の利を失った日本軍は釜山撤退を余儀なくされた。その直後に豊臣秀頼が誕生し、秀吉が甥の関白秀次を一族諸共惨殺する事件が発生、秀次の遺領配分で、武断派が首謀者と信じた石田三成は近江佐和山19万4千石に代官地7万石を獲得し、三成の讒言で謹慎に処された加藤清正らの憎悪に油を注いだ。三成・行長は耄碌した秀吉を誤魔化して講和を図るが術策破れて再出兵(慶長の役)、後方支援を担う三成は秀吉が総大将小早川秀秋から取上げた筑前・筑後30万7千石を代官地に加えたが、1598年大阪城で豊臣秀吉が死去、五大老・五奉行の合議で朝鮮出兵は即時打切られ、虎の威を喪った三成は一転窮地に陥った。
- 朝鮮出兵から帰国した武断派諸将の報復を恐れる石田三成は、大阪城に入った前田利家を頼り、太閤遺命に背いた徳川家康を糾弾して豊臣家の再結束を図るが、三成憎しの豊臣恩顧大名が挙って家康へ奔るという極めて皮肉な結果を招いた。間もなく前田利家が死去すると、その翌日に加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の7将が石田三成の大坂屋敷を襲撃、三成は伏見城の家康のもとへ逃れて窮地を凌ぐが五奉行辞任・佐和山城退去を呑まされた。そして1600年、己の復権を目論む石田三成は、盟友上杉景勝・直江兼続の会津挙兵を皮切りに打倒家康を宣言、大阪城の豊臣秀頼を確保して毛利輝元を西軍総大将に迎え、鳥居元忠の守る伏見城を血祭りにあげ、美濃大垣城に拠って会津征伐から戻る東軍を待構えたが、野戦上手の家康にまんまと関ヶ原へ誘い出され、有利な兵数と布陣ながら本気で戦ったのは三成自身と盟友の大谷吉継・小西行長に外様の宇喜多秀家のみで、吉川広家に抑えられた毛利勢の不戦と小早川秀秋の寝返りで西軍は壊滅、捕えられた石田三成は小西行長・安国寺恵瓊と共に京都六条河原で斬刑に処された。関ヶ原合戦後、偽りの領国安堵に釣られた毛利輝元が大阪城を明渡して勝負あり、一気に豊臣から徳川への政権交代が成り、宇喜多秀家の改易、毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣の大減封など国土の3分の1もの大名再編が平穏裏に実施され、豊臣秀頼・淀殿は難攻不落の大阪城に西軍浪人を掻き集めて抵抗するも大名で味方する者は無く1615年大坂陣で滅ぼされた。創業者の耄碌とお家騒動、不徳の後継者と仲間割れ、世間知らずの後家さんと無能な取巻きがもたらした自滅劇であった。
- 淀殿(浅井茶々)は、浅井長政・市(織田信長の妹)の長女で母と義父柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉の側室となり嫡子秀頼を出産、太閤の遺命を振りかざして徳川家康に楯突き豊臣家を破滅へ導いた戦国時代の幕引き役、妹の初は京極高次の正室、江は徳川秀忠の正室で家光の生母である。浅井長政は信長に滅ぼされたが市と浅井三姉妹は秀吉に近江小谷城から救出され、本能寺事変後の清洲会議で勝家は市を妻にもらい母子は越前北の庄城へ移されたが翌年賤ヶ岳の戦いで勝家が滅亡、市は夫に殉じたが三姉妹は安土城・聚楽第で養われた。19歳の茶々は色魔秀吉の側室にされ、翌年嫡子鶴松を産んで山城淀城主となり(淀殿)北政所や松の丸殿(従姉)との女戦に勝利、鶴松は夭逝したが2年後に拾丸を出産した(豊臣秀頼)。不自然な懐妊で秀吉が別人の胤を植えた可能性が高いが、淀殿は乳母の大蔵卿局とその子大野治長を重用して家政を握り北政所派(武断派)と敵対する石田三成(文治派)に接近、関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保も相次ぐ不審死、養子の秀秋は小早川隆景の養子に出された。1598年秀吉が死去、徳川家康は武断派など豊臣恩顧大名を取込んで天下獲りに乗出し、1600年失脚した三成は毛利輝元を総大将に担いで家康に宣戦、秀頼が立てば勝機はあったが淀殿は傍観の態を装い統率を欠いた西軍は関ヶ原で完敗し豊臣家は65万石の一大名に没落した。秀吉の追善供養という家康の甘言に釣られた淀殿は寺社修築で財力を削がれ、秀頼の正室に秀忠の娘千姫を迎え二条城会見には応じたが現実を直視せず感情的に臣従を拒んだ。1614年方広寺鐘銘事件の罠に落ちた淀殿は関ヶ原浪人を掻集めて家康に宣戦、愚将大野治長が真田信繁(幸村)ら五人衆の献策を退けて籠城を選択し、砲撃に怯えた淀殿は余力十分ながら不利な講和を強行、大阪城は内堀まで埋められ裸城となった(大坂冬の陣)。翌年浪人退去か移封かを迫られた淀殿が断固拒絶し大坂夏の陣が勃発、大坂方は不利な野戦を強いられたが淀殿は秀頼の出馬を拒絶し幸村の起死回生策も瓦解、大阪城は落城し淀殿の助命嘆願も虚しく秀頼と共に自害に追込まれた。
- 宇喜多秀家は、謀略と暗殺で備前岡山城57万4千石を分捕った宇喜多直家の嫡子で豊臣秀吉の引立てで朝鮮役総大将・五大老に栄進、父に似ぬ義侠心から関ヶ原合戦で最も奮闘するが改易され八丈島へ流罪、流人のまま83歳で没した関ヶ原最後の武将である。1581年梟雄宇喜多直家が死去、後事を哀願された秀吉は義理堅く9歳の宇喜多秀家を盛立て、14歳で元服させると養女(前田利家の実子)豪姫を娶わせて豊臣一門に加え、九州征伐で初陣、文禄の役では弱冠20歳の秀家を総大将に抜擢し、帰国すると五大老に就けた。関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保は不審死、小早川秀秋(ねねの甥)は突如減転封の憂き目をみたが、後継資格の無い秀家は猜疑を免れた。宇喜多秀家は、朝鮮役と秀吉没後の豊臣家分裂抗争を通じて石田三成・大谷吉継・小西行長と親交を深め三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政および黒幕の徳川家康と対立、1599年前田利家の死の翌日武断派七将が三成の大坂屋敷を襲撃すると秀家は佐竹義宣・上杉景勝と共に救助したが家康の裁定で三成は失脚に追込まれた。宇喜多家中では執政長船綱直の死(毒殺説が濃厚)を機に宇喜多詮家(直家の甥。後に坂崎直盛に改名し千姫強奪事件を起す)・戸川達安・岡利勝らが秀家に反逆し大坂屋敷を占拠、又も家康の裁定で首謀者追放で決着したが重臣の大半を失った宇喜多家は衰えた(宇喜多騒動)。1600年復権を期す三成が動くと宇喜多秀家は強硬策を主張、軍勢を率いて鳥居元忠の伏見城を攻落とし、大阪城に陣取る毛利輝元に代わり西軍を率いて美濃大垣城へ出陣、関ヶ原で両軍激突すると福島正則と一進一退の激闘を演じたが小早川秀秋の寝返りで戦局が一変し姉婿吉川広家の妨害で毛利勢は不参戦、秀家は秀秋と刺違えようとするが明石全登(後に大坂陣で戦没)に制止され已む無く逃走、薩摩へ逃れ島津義弘に匿われたが宇喜多家は潰され岡山藩55万石へは秀秋が入封した。徳川幕府へ引渡された宇喜多秀家は、義兄前田利長の嘆願で助命され駿河久能山幽閉を経て三児と共に八丈島へ流罪、前田家の援助で50年も寿命を保ち子孫は八丈島に根付いた。
- 毛利輝元は、石田三成の甘言に釣られ関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれるも家中すら統率できず小早川秀秋・吉川広家の寝返りで徳川家康に勝利を献上、本領安堵の偽約にすがり鉄壁の大阪城を明け渡すが祖父毛利元就が築いた120万石を長州藩36万石に削られ重臣を誅殺して保身を図った戦国一の馬鹿殿である。父の毛利隆元が早世したため元就から家督を継いだが家政は叔父の吉川元春・小早川隆景に委ねられ(毛利両川)、隆景が豊臣秀吉に臣従して大封を保った。毛利輝元は、安芸の吉田郡山城から広島城へ本拠を移し、隆景と共に五大老に任じられ、1597年隆景の死により名実共に当主となった。翌年秀吉が死に前田利家も病没、天下を狙う徳川家康が三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派大名を取込み三成を失脚に追込むと、復権を期す三成は五大老の宇喜多秀家・上杉景勝と西国大名を誘引し、1600年景勝・直江兼続の挑発に乗った家康が会津征伐を挙行すると毛利輝元を総大将に担ぎ挙兵、西軍は伏見城を落として畿内を制圧し東軍迎撃の拠点美濃大垣城へ進軍、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り毛利勢は毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家(元春の後嗣)・小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)・安国寺恵瓊が出陣した。両軍は関ヶ原で激突、真田昌幸が信濃上田城に徳川秀忠隊を釘づけにして東軍兵力を半減させ、布陣有利な西軍は善戦したが、小早川軍が突如西軍に襲い掛かり寝返り続発で西軍は壊滅、吉川広家の妨害で毛利軍は参戦せず、周章狼狽した輝元は立花宗茂や秀元の主戦論を退け鉄壁の大阪城を自ら明渡した。吉川広家は黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており開城に際しても念押ししたが反故にされた。毛利家は防長36万石へ押込められ、広家は岩国藩3万石を立藩、秀秋は筑前名島30万7千石から岡山藩55万石へ増転封されるが2年後に発狂死し無嗣改易となった。毛利輝元は、楯突く熊谷元直・吉見広長を族滅して保身を図り、大阪陣で内藤元盛を密かに大阪城へ送込み秀頼を支援した事実が露見すると元盛と二児を自害させ隠蔽(佐野道可事件)、自身は73歳の長寿を保った。
- 前田慶次郎利益は、前田慶次郎利益は、前田利家の義甥で武勇絶倫の教養人ながら高禄を捨てて出奔し京都で一流文化人と交流、前田家が徳川家康に屈服するなか上杉景勝に従軍し意気地を示した「天下一の傾奇者」である。前田家に留まった一子正虎は嗣子無く没し子孫は断絶した。実は前田慶次郎の武勇伝は乏しく奇行談の多くも伝説だが、新井白石は『藩翰譜』で「世にかくれなき勇士」と評し今日も小説や漫画で大人気である。『戦国風流武士』や『花の慶次』では壮年の快男児だが、実際の前田慶次郎は前田利家より5歳ほど年長で前田家出奔は57歳頃とされる。織田家の被官で尾張荒子城主の前田利久(利家の兄)には男児が無く後妻が産んだ前田慶次郎を後嗣としたが、実父は別人で滝川一益の一族(儀太夫か)とされる。13歳で織田信長に出仕した前田利家は、拾阿弥斬殺事件で3年干されるも桶狭間・森部合戦の武功で帰参を赦され、慶次郎が36歳のとき信長は病弱(武者道御無沙汰)を理由に利久を強制的に隠居させ寵愛する利家に前田家と所領4千石を継がせた。前田慶次郎は養父の利久と共に荒子城を退去し10余年の浪人生活を送ったが、1581年柴田勝家の旗下で能登23万石の大名に出世した前田利家に5千石で召出され(利久には2千石)富山の役(末森城の後巻)や小田原征伐に従軍、利久の死に伴い嫡子の正虎が2千石を相続した。が、奇行を繰返す前田慶次郎は遂に利家と衝突し出奔(改心を装って利家を茶の湯に招き水風呂に叩き込んで逃走したとも)、「穀蔵院飄戸斎(ひょっとさい)」なるふざけた名乗りで里村紹巴・九条稙通・古田織部・細川藤孝らと交流し、諸大名饗応の座で「猿真似の猿舞」を演じ豊臣秀吉をおちょくったという伝説を残した。秀吉・利家が相次いで病死し徳川家康が天下獲りに乗り出すと、前田利長(利家の後嗣)は加賀征伐の脅迫に屈服したが、前田慶次郎は石田三成陣営で家康打倒を図る上杉景勝・直江兼続に1千石で出仕し会津征伐軍が退いた後の最上義光攻め(慶長出羽合戦・長谷堂城の戦い)で「だいぶへんもの(大武辺者)」の旗指物を翻し奮闘、敗戦後は米沢藩に留まり古典研究や和歌・連歌に遊ぶ隠棲生活を過ごした。
上杉景勝と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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