武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落
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上杉 景勝
1556年 〜 1623年
30点※
家系・子孫
- 長尾氏は、坂東八平氏の一流を称する鎌倉時代以来の古豪で、関東管領山内上杉氏に属して繁栄し、上野・武蔵守護代の長尾景仲は主家を宰領したが子の長尾景春が反乱を起し没落した。越後守護代の長尾氏は三条・上田・古志の三家に別れ、扇谷上杉朝良を降し長享の乱を制した三条長尾能景が越後の実権を掌握したが、越中般若野の戦いで一向一揆に討たれた。嫡子の長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討って越後を牛耳り、傀儡守護の上杉定実に妹を嫁がせ、高梨政盛の娘を娶って四児をもうけた。後を継いだ嫡子の長尾晴景は弱腰を侮られ守護上杉定実を担ぐ国人衆が蜂起、弟の景康・景房が反乱の渦中に落命した。側室(青岩院)腹の末弟長尾景虎(上杉謙信)は、13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破し、家臣・国人衆に推されて兄晴景から家督を奪い、上田長尾政景と揚北衆を降して(後に謀殺)越後平定を果し、北条氏康に追われた上杉憲政から関東管領・山内上杉氏の名跡を継いだ。毘沙門天と飯縄権現を崇拝した上杉謙信は生涯女犯戒を貫いて子を生さず(童貞説あり)後継を定めず急逝、4人の養子のうち上杉景虎(北条氏康の実子)と上杉景勝(謙信の姉仙桃院と長尾政景の子)の壮絶な家督争いが起り(御館の乱)、武田勝頼に臣従し妹菊姫(信玄の娘)を妻に迎えた景勝が勝利したが最強上杉軍は弱体化した。上杉景勝は、謙信遺臣(三条長尾系)を排斥し直江兼続ら上田衆を極端に優遇したため新発田重家の乱を招来、織田信長の猛攻に晒され封前の灯火となったが本能寺の変に救われ、養子の義真を人質に出して豊臣秀吉に臣従し会津120万石・五大老に栄進したが、石田三成と通謀した直江兼続が関ヶ原合戦の戦端を開き(会津征伐)、改易は免れるも出羽米沢藩30万石に大減封された。景勝没後は一子上杉定勝が米沢藩を継いだが、その一子上杉綱勝に後嗣が無く上杉氏は断絶、吉良上野介義央(忠臣蔵の敵役)の幼児綱憲を末期養子に迎え家を保った。15万石に減封された米沢藩は日本屈指の貧乏藩と揶揄されたが名君上杉鷹山の藩政改革で汚名を返上した。
上杉景勝と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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