武市半平太の「土佐勤皇党」から長州藩尊攘派に合流し浪士群を率いて高杉晋作の功山寺挙兵や薩長同盟に大活躍、薩土密約と陸援隊で武力討幕に備えたが戊辰戦争直前に暗殺された幕末浪士随一の殊勲者
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中岡 慎太郎
1838年 〜 1867年
90点※
中岡慎太郎と関連人物のエピソード
- 中岡慎太郎は、武市半平太の「土佐勤皇党」から長州藩尊攘派に合流し浪士群を率いて高杉晋作の功山寺挙兵や薩長同盟に大活躍、薩土密約と陸援隊で武力討幕に備えたが戊辰戦争直前に暗殺された幕末浪士随一の殊勲者である。遺志を継いだ板垣退助が独断参戦して薩土密約を果し土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。中岡慎太郎は、北川郷の大庄屋の嫡子ながら17歳で武市半平太の尊攘運動に身を投じ、長州藩の久坂玄瑞と共に「破約攘夷」を牽引する武市が山内容堂・豊範の江戸下向を実現させると、発奮した中岡は「五十人組」を率いて江戸へ突出、長州藩士との出会いを果し帰路は久坂に随行したが、間もなく八月十八日政変が起り破約攘夷運動は瓦解した。土佐へ戻った中岡慎太郎は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂を見限り脱藩、三条実美ら七卿の在す周防三田尻へ参じて真木和泉の「招賢閣」浪士に身を投じ、上洛出兵を扇動し来島又兵衛の遊撃隊に従い奮闘したが長州藩は大敗し真木・久坂らが戦死した(禁門の変)。中岡慎太郎は、京都に潜伏し高杉晋作から受継いだ島津久光襲撃の機を窺うも果たせず三田尻へ帰還、征長軍全権の西郷隆盛と協力し大宰府への「五卿遷座」を遂行した。そして高杉晋作の功山寺決起、応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであったが、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦し長州藩軍を撃破、高杉は政権奪回を果し木戸孝允が執政に座った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となり、中岡慎太郎は京都・鹿児島を奔走し西郷隆盛に木戸孝允との下関会談を了承させるも急遽取止め、中岡は坂本龍馬と共に憤慨する長州藩士を宥め再び上京して西郷を口説き、高杉晋作・井上馨が渋る木戸を上京させ薩長同盟が実現した。長州藩が四境戦争に勝利すると、慌てた土佐藩は中岡慎太郎と坂本龍馬を懐柔、後藤象二郎は坂本が勧めた大政奉還建白で面目を施した。武力討幕を志す中岡慎太郎は、西郷隆盛と板垣退助の薩土密約を斡旋し京都土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を発足させたが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に斬殺された。
- 中岡慎太郎は、幼少期から勉強熱心で、村の青末寺住職や漢方医の島村岱作の寺子屋に学び、田野の郡校にも通った。島村塾では14歳にして代講を任されたという。中岡慎太郎は土佐北川郷の大庄屋の嫡子であり、在村時は見習として吏務にあたった。郷中で飢饉が発生したとき、中岡は四方に奔走して薩摩芋五百貫を調達し難民に配布したうえ、高知へ赴き国老桐間蔵人の役宅を訪問、着いたのが夕刻だったため取次役から翌日出直すよう諭されたが一刻を争うからと門前に端座して一夜を明かした。翌朝、必死の陳情に胸を打たれた桐間は官倉の備蓄米の供出を許可したという。北川郷民はこのときの恩義を忘れず、明治後年になって中岡慎太郎の彰徳碑を建立した。向学心旺盛な中岡慎太郎は、16歳で高知城下へ出て間崎哲馬の私塾に入門、翌年武市半平太の剣術道場に入門し以後は志士活動一筋の生涯を送った。なお、間崎哲馬は、幼時から神童といわれた秀才で、江戸へ出て安積艮斎の私塾「見山楼」で塾頭を務め山岡鉄舟や清河八郎と交流、3年の遊学を終え帰国したが郷士身分のため藩政への道は閉ざされており、高知城下の江の口村に私塾を開いた。門人には、中岡慎太郎・吉村寅太郎・岩崎弥太郎などがいる。間崎哲馬は、武市半平太が土佐勤皇党を結成すると幹部に迎えられ土佐藩に藩政改革を促したが、青蓮院宮令旨事件が山内容堂の逆鱗に触れ平井収二郎と共に切腹に処された。
- 武市半平太(瑞山)は、剣術道場主から久坂玄瑞に啓発され「土佐勤皇党」を結成、吉田東洋暗殺で藩政を握り長州藩と連携して「破約攘夷」運動を牽引したが下克上を嫌う山内容堂に誅殺され土佐藩は中央政局から脱落した。文武両道の達人で謹厳実直、大柄で威厳も備えた武市半平太は、吉田松陰と西郷隆盛を兼ねたような絶対的存在だったが、「挙藩勤皇」に固執し大業を成す前に不肖の主君に殺された。白札格郷士の武市半平太は剣術家を志し21歳で高知城下の麻田直養に入門、皆伝を授かって剣術道場を開業し、江戸遊学を許され「江戸四大道場」の士学館に入門するとすぐに皆伝を授かり塾頭に任じられた。高知の武市道場は100人を超える門人で賑わい中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕も名を連ねた。武市半平太は、30歳過ぎまで勤王家の田舎道場主に過ぎなかったが、桜田門外の変で尊攘運動が沸立つと藩庁に願出て江戸へ出向し薩長の志士と交流、長州藩の久坂玄瑞に感化された。土佐へ戻った武市半平太は、門人を母体に「土佐勤皇党」を結成し、薩長土三藩主上洛の盟を果たすべく「破約攘夷」への藩論転換に奔走したが、執政の吉田東洋は「下級藩士や浪人共の騒動」と相手にせず、連絡係の坂本龍馬がもたらす久坂情報に焦った武市は吉田暗殺を決行した。吉田の専断を憎む重臣連を抱込み軽格ながら藩政を握った武市半平太は、晴れて京都政界へ乗出し久坂玄瑞の長州藩に合流、和宮降嫁を弾劾して岩倉具視を隠遁させ、将軍上洛と攘夷決行を促す勅旨を得て長州藩世子毛利定広の江戸下向に随い、岡田以蔵や田中新兵衛を操って天誅騒動を巻起し、攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を得て土佐藩主山内豊範の江戸下向を差配し、将軍徳川家茂の初上洛を実現させ攘夷決行の約束をとった。が、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の山内容堂は、郷士の台頭を嫌悪し土佐勤皇党の粛清を断行、佐幕派追放を図った平井収二郎・間崎哲馬を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し武市半平太を投獄、禁門の変で長州藩の尊攘運動が瓦解すると武市に「不敬罪」を着せ切腹させた。
- 武市半平太は、「身長六尺(182cm)、鼻高く、あご長く、眼中に異彩があり、顔面蒼白、深沈で喜怒色にあらわさず、音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があった」と評された偉丈夫で、性格は超真面目・謹厳実直・誠実の極みでほとんど笑ったことがなかったという。その威徳は薩摩藩の西郷隆盛と並び称され、土佐藩の志士は皆「オラ」「オンシ」と気さくに呼び合ったが武市半平太にだけは「先生」をつけたといい、ただ親友で土佐勤皇党の副首領格である坂本龍馬とは「アザ」(坂本は顔に数点のほくろがあった)「アゴ」(武市はアゴが長かった)と砕けた調子で親しんだ。そんな武市半平太だが幼時より絵心があり、徳弘董斎から南画・弘瀬友竹から和画を学び、武市が描いた巧みな文人画や美人画が現存する。また義太夫が上手だったというが、妻の富子によると「下手の骨頂」で真相は不明である。武市半平太をモデルにしたといわれる行友李風の戯曲『月形半平太』は、1919年の初公演以来大人気を博して映画化され「春雨じゃ、濡れてまいろう」の台詞で親しまれた。「月形」の方は福岡藩尊攘派(首領は平野国臣)の月形洗蔵からとったものと考えられる。
- 江戸で薩長の志士と交流し長州藩尊攘派を率いる久坂玄瑞に感化された武市半平太は、土佐藩も薩長に負けず挙藩体制で尊攘運動に乗出すべく門人らを糾合して「土佐勤皇党」を結党した。武市半平太が首領、坂本龍馬が副首領格で、大石弥太郎・間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村寅太郎・那須信吾・田中光顕・土方久元・岡田以蔵らが名を連ね最終的に192人が加盟したが、上士は2人だけで他は郷士以下の身分だった。土佐勤皇党の絶対的領袖である武市半平太は、志士の間で久坂玄瑞を最も尊敬し、遅れて中央政局に出た土佐藩は長州藩の「破約攘夷」「草莽崛起」運動に追随し京都に「天誅」旋風を巻起すなど最も過激に活動した。久坂が武市へ宛てた手紙には(坂本龍馬が両雄の連絡役を務めた)、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」が明記されている・・・「諸侯たのむに足らず、公卿もたのむに足らず、草莽の志士を糾合して義挙のほかに道はないと、私共話し合っています。失礼ながら貴藩も幣藩も滅亡しようと、大義が生かされれば苦しからず、両藩生きながらえても、大義が貫かれなくては無意味だと、友人たち話しています。」。武市半平太と久坂玄瑞の運動は、江戸幕府への勅使派遣で最高潮を迎えたが、八月十八日政変で一夜にして瓦解、自藩に退いた両名は失地回復かなわず共に非業の死を遂げた。
- 薩長の動きに追いつこうと焦る武市半平太は、藩主山内豊範の参勤交代出立に際し遂に挙藩勤皇を阻む吉田東洋の暗殺を決断した。武市は、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の3人を刺客に定めて隙を探らせ、重臣の山内民部に暗殺計画を告げて挙行後の対処を依頼、東洋が藩主に『日本外史』の講義をした帰路を襲うことに決し那須らを差し向けた。暗殺現場は凄惨であった。真暗な闇夜で、東洋が城を退出したのは10時過ぎ、供をしていた甥の後藤象二郎と別れた後、帯屋町の自宅付近で那須が後ろから切りつけた。吉田は持っていた傘を投げつけ「不届き者!」と連呼しながら猛然と反撃したが、安岡の背後からの一刀が致命傷となり「無念!」と一声あげて斃れた。那須らは吉田の首級を河野万寿弥ら同志に渡し、脱走して周防三田尻に向かった。吉田の首級は高知西部の雁切河原の高札場に斬姦状をつけて晒された。犯行後、新おこぜ組(後藤象二郎・板垣退助など)ら東洋派と土佐勤皇党は一触即発の事態となったが、吉田の専断を憎む山内民部ら重臣の多くが武市を支持し東洋派を一掃、武市が白札郷士小頭の卑職ながら土佐藩政を掌握することとなった。吉田家は家名取潰しとなり、暗殺事件は不問にふされた。
- 吉田東洋を暗殺した武市半平太は重職連を懐柔し後藤象二郎ら「新おこぜ組」を排斥したが、身分の低い岩崎弥太郎は連座を免れ下横目に補され吉田暗殺犯の捜索を命じられた。軽輩揃いの土佐勤皇党の捜査に同じ郷士をもってあたらせるという岡引き式の追捕策であった。岩崎弥太郎は藩主山内豊範の随員に加えられ上方へ上ったが、端から気乗り薄で故意か偶然かミスを犯し土佐へ召還された。同役で熱心に職務を遂行した井上佐市郎は、中岡慎太郎らの襲撃をかわすも大阪で岡田以蔵の一味に捕まり絞殺、筆舌に出来ないほど無残な方法で死骸を晒された。危うく難を逃れた岩崎弥太郎は、藩職を辞して井ノ口村へ戻り猛然と農業に励んだ。安芸川の両岸に広がる荒野を開墾し、綿栽培を興し、林業と薪炭製業を企画して山林を取得、帰国3年後に長男の岩崎久弥が誕生する頃には貧乏だった岩崎家は富豪となっていた。
- 薩摩藩・長州藩・土佐藩が参集した京都は尊攘派志士のルツボとなり「天誅」と称して開国主義者や公武合体派を殺傷する事件が頻発、なかでも薩摩藩の田中新兵衛と中村半次郎・熊本藩の河上彦斎・土佐藩の岡田以蔵の四人は「人斬り」と呼ばれ恐怖の対象となった。岡田以蔵と田中新兵衛は武市半平太の影響下にあり(岡田は子分で田中は義兄弟)、武市は「攘夷の元締め」「暗殺問屋」と恐れられ暗殺を依頼する公家もあったという。田中新兵衛は長州系公卿の姉小路公知の暗殺嫌疑を掛けられ割腹自殺(朔平門外の変)、中村半次郎(桐野利秋)は薩摩「私学校党」の主戦派で西郷隆盛と共に西南戦争で戦死、佐久間象山を斬殺した河上彦斎は明治政府に反抗し斬刑に処された。岡田以蔵は、高知城下の麻田直養の剣術道場で武市半平太と出会い武市道場へ移籍、足軽の出自を蔑まない武市の信奉者となり土佐勤皇党に加盟した。武市半平太は岡田以蔵の激しく敏捷な剣法を評価し、岡田は志士仲間に認められたい一心で田中新兵衛と競うように暗殺を繰返した。武市半平太が山内容堂に召還されると、袂を別ち京都に残った岡田以蔵は単なる狂犬となり、遊郭に入浸りで身を持崩し、坂本龍馬ら同志からも見放され(岡田は坂本の依頼で勝海舟の用心棒を務めた)、遂に盗賊に落ちぶれて強盗を犯し幕吏に逮捕された。土佐藩へ送還された岡田以蔵は、志士時代に追い求めた「武士の誇り」の欠片もなく、拷問に怯えて武市半平太と土佐勤皇党の所業を洗いざらい自白したのち「無宿人以蔵」として斬首された。
- 武市半平太の土佐藩と久坂玄瑞・木戸孝允の長州藩が連携して朝廷に工作し攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使を得て江戸の幕府へ派遣した。正使三条実美・副使姉小路公知を奉じ、土佐藩主山内豊範が警護役として兵数百人を率いて江戸に入り、幕府に破約攘夷の早期実行と京都警護の御親兵提供を迫った。破約攘夷は誤魔化したが幕閣は丁重に対応し、、御親兵提供については実施を約束した。これを受けて京都守護職に任じられた会津藩主松平容保が藩兵と新撰組を擁して京都に駐留し志士狩りを断行、尊攘派は自ら宿敵を呼込む最も皮肉な結果となった。
- 山内容堂は、「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公である。西郷隆盛ら他藩士をも「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」と憤慨させた。12代土佐藩主の弟の子ながら嫡流が相次いで没し幸運にも土佐藩主となった。「鯨海酔侯」と豪傑を気取り学識も豊富な山内容堂は、織田信長に自己投影し中央進出を志したが襲封当初は家老連の圧迫で思うに任せず、吉田東洋に不遇を救われた。大目付の吉田東洋は、家老や家族の私生活をスパイし非行を見つけて失脚へ追込み、重臣に分散した権力を藩庁の直轄下におく中央集権化を断行、安政の大獄も追い風となり藩主専制を確立した。山内容堂は恩人の吉田東洋に藩政を託し(参政)吉田はよく期待に応えたが、特権を奪われた重臣連は吉田を憎み武市半平太の吉田暗殺に加担した。山内容堂は島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城と共に「四賢候」と称され将軍継嗣問題に乗出したが、書類作成や藩外折衝は専ら吉田東洋が担い、吉田の死で舵を失った。山内容堂は、武市半平太が長州藩と提携し「破約尊攘」運動を牽引すると気前良く外交を委ねたが、下克上に機嫌を損ね突如弾圧へ転換、第一次長州征討が起ると勇み足で武市を誅殺し土佐勤皇党を掃討した。が、長州藩では高杉晋作が功山寺決起で藩政を奪回し薩長同盟を結び第二次長州征討で幕府軍に完勝、慌てた山内容堂は後藤象二郎(吉田東洋の義理甥)を参政に任じ、後藤は坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込んで薩摩藩に接近し大政奉還建白で政局復帰を果した。が、武力討幕を期す薩摩藩は小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行、徳川家擁護を図る山内容堂は猛反発するが泥酔状態で遅参し暴言を吐いて自滅し、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても出兵を逡巡、板垣退助が土佐勤皇党の残党「迅衝隊」を率い独断参戦し土佐藩は辛くも「薩長土肥」に食込んだ。山内容堂は下克上の明治政府に馴染めず隠退、薩長専制に「武市半平太が生きていれば」と憤りつつも酒池肉林の生活を続け46歳で没した。
- 土佐藩を興した山内一豊は、父盛豊と主家(岩倉織田家)を滅ぼした織田信長に出仕し豊臣秀吉の庇護下で遠州掛川6万石に累進、妻の方が有名なくらい武勲は乏しいが、小山評定で福島正則の次に東軍参加を表明し掛川城の明渡しを申出たことで運が開け関が原合戦後に土佐20余万石へ大増封された(幕末には24万2千石)。感謝感激の山内一豊は徳川家康に「ご恩のほど子々孫々に至るまで申し伝えて、決して遺忘させません」と誓い、幕末に至るまで土佐藩は佐幕の気風を受継いだ。山内一豊は、領地の3倍増に見合う家臣を急募し浪人も多数召抱えたが、幕府を憚って長曽我部遺臣の採用を控え逆に弾圧しため大反発を招き、桂浜の相撲興行へ誘き寄せ73人を磔刑で虐殺したが火に油を注ぐ結果となった。2代藩主山内忠義の代となり執政に抜擢された野中兼山は、藩士登用を餌に原野を開放し開墾を奨励、応じた地侍の多くが「郷士」となり反抗は鎮まったが、正規藩士(上士)への配慮から身分差別を徹底し政治参加を著しく制限、郷士内に上級の「白札格」を設け分断を図った。郷士株は売買が認められ売って帰農した家は「地下浪人」と呼ばれた。後藤象二郎・板垣退助・福岡孝弟らは歴とした上士、吉田東洋と谷干城の家は長曽我部遺臣だが山内一豊に召出され上士、武市半平太は郷士で白札格へ昇格、坂本龍馬の本家才谷屋は豪商だが分家が郷士株を取得、逆に岩崎弥太郎の家は地下浪人であった。幕藩体制に虐げられ怨念を溜めた土佐郷士は幕末の尊攘運動へ飛付き、明治維新後の自由民権運動の土壌となった(土佐派)。一方、「四賢侯」に数えられた山内容堂と執政の吉田東洋は開明的で学識豊富ながら佐幕的公武合体論の枠に捕われ過激な尊攘思想を毛嫌いした。山内容堂・後藤象二郎(東洋の甥)は、武市半平太を殺し土佐勤皇党を根絶して吉田東洋暗殺に報いたが自ら中央政局への手蔓を絶ち、大慌てで脱藩浪士の坂本竜馬や中岡新太郎に接近して大政奉還建白の功を浚い徳川家の辞官納地に反対するも薩長は無視、板垣退助が独断で戊辰戦争に参戦し辛うじて「薩長土肥」の末席に滑り込んだ。
- 後藤象二郎は、山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻させた。武市半平太に暗殺された土佐藩執政の吉田東洋は義理の叔父で、板垣退助は竹馬の友、下僚の岩崎弥太郎を商事に引込み弟の岩崎弥之助に娘を嫁がせた。中岡慎太郎の遺志を継いだ板垣退助が戊辰戦争に独断参戦し土佐藩は「薩長土肥」へ食込み、板垣退助と後藤象二郎は新政府首脳に採用されたが、明治六年政変で征韓派に属し下野、板垣は薩長藩閥に対抗すべく民衆を動員して自由民権運動を牽引し後藤も行動を共にした。良く言えば豪快な後藤象二郎は、豪遊で公金を散財し、高島炭鉱など事業で失敗を重ね借金まみれだった。板垣退助が立憲政治・議会制度視察のため洋行を志向し金策中との情報を得た山縣有朋は、陸軍省御用商人でもある三井の番頭に命じ2万ドルの大金をあるとき払いの催促なしで拠出させ、金を受取った後藤象二郎は板垣を促しヨーロッパへ旅立った。が、山縣有朋のリークだろう、洋行費が政府から出ているとの噂が立ち自由党内は騒然、後藤象二郎は2万ドルの件を隠し一人で費消したうえにシラを切り、板垣退助は支持者から3千ドルを借りて弁済にあてたが窮地に追込まれた。山縣有朋の分断工作は図に当り自由党は分裂、板垣退助の権威は失墜し総理の地位も失った(後に復帰)。伊藤博文が最初の内閣を発足した翌年、後藤象二郎は民権諸派に大同団結運動を提唱したが、次の黒田清隆内閣で逓信大臣の餌に飛付いて懐柔され、第二次伊藤博文内閣で農商務大臣に就くも収賄事件で引責辞任、60歳で生涯を閉じた。大町桂月は後藤象二郎を「たとえていえばナイル河の水で、氾濫して人びとをさわがせるが、土地を肥やしもする」と評したが、後半部分は三菱への便宜供与を指すかも知れない。新貨条例の施行を前に後藤象二郎から新政府が各藩札を買上げるとの情報を得た岩崎弥太郎は、10万両を調達し安値で買叩いた藩札を政府に転売して巨利を積んだというが、後藤の放漫経営で破綻した高島炭鉱を押付けられ(後に巨利を生むが)死ぬまでに相当な金を貢いだと考えられる。
- 開成館は、遅ればせながら富国強兵に目覚めた土佐藩が1866年に設立した巨大機関で、軍艦・貨殖・捕鯨・税課・鉱山・火薬・鋳造・原泉(貨幣鋳造)・医局(漢方)・訳局(洋書翻訳)の部局からなり、山内容堂の命を受けた後藤象二郎が藩政改革の旗振り役となり財政・軍備・藩営事業などの諸機能を全てここに統合した。貨殖局は特に重要で、樟脳など土佐藩物産の振興と外国輸出、獲得した外貨での武器輸入を目的とし、長崎・大阪・兵庫に出張所が置かれた。洋式軍備の調達を急ぐ後藤象二郎は、藩交易を活性化すべく長崎へ赴くも大雑把な性格で商才は皆無、下僚の岩崎弥太郎を呼出して丸投げした。貨殖局勤務を命じられた岩崎弥之助は「小鳥の餌鉢をこね回すようなせこい仕事だ」と嫌がり僅か40日間で辞職したが、後藤象二郎の命令で長崎出張所(土佐商会)に引張り出されると外国人の懐柔と強談判で忽ち頭角を現し主任に上って業務を差配、金喰虫である坂本龍馬の土佐海援隊の会計係も押付けられた。明治維新後、岩崎弥太郎は事業より政治を志し後藤象二郎に新政府への斡旋を嘆願したが、後藤は便利な土佐藩の経済官僚を失うのを嫌い無情にも却下した。土佐商会が大阪商会、九十九商会、三川商会へ改組するなか岩崎弥太郎は商事に励みつつ猟官運動を続けたが、1873年政治への夢をきっぱり諦め自らの資本で三菱商会を設立した。後藤象二郎から長崎へ呼出されたことが岩崎弥太郎の人生最大の転機となり、三菱財閥の起点となった。一方の後藤象二郎は、板垣退助の自由民権運動に従うも大臣ポストに釣られて薩長藩閥に懐柔され、「官有物払い下げ」で高島炭鉱を得るも放漫経営により僅か2年で経営破綻させ岩崎弥太郎に買取らせ、借金漬けになっても豪遊を続けた。三菱の金をあてにする後藤象二郎は娘の早苗を岩崎弥之助(弥太郎の弟で三菱2代目)に嫁がせたが、愛想を尽かした岩崎弥太郎は板垣・後藤の自由党ではなく大隈重信(実は福澤諭吉)の立憲改進党に肩入れし資金源となった。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 木戸孝允・久坂玄瑞・真木和泉・平野国臣・吉村寅太郎ら長州藩系尊攘派志士が三条実美ら公卿を動かし攘夷親征計画(大和行幸)を画策した。孝明天皇を大和へ移し諸藩に綸旨を下して勤皇の義軍を召集する企てで、東征して幕府を討つ密謀も含んでいた。先発隊として吉村寅太郎らが挙兵するが殲滅され(大和天誅組の変)、過激な攘夷運動を嫌う孝明天皇の決断による八月十八日の政変で大和行幸計画は頓挫、巻返しを図る平野国臣らの挙兵も失敗した(生野の変)。
- 徳川慶喜・会津藩主松平容保に薩摩藩が加担し、孝明天皇の支持を得て、得意の絶頂で大和行幸を画策した長州藩と尊攘派公家を武力クーデターにより京都から追放した(八月十八日の政変)。薩摩・会津藩兵が御所を囲むかなかで朝議が行われ、大和行幸の中止、長州藩主毛利敬親・定広父子と尊攘派公家の処罰等を決議した。堺町御門警備の任を解かれた長州藩士千余人は京都から追出され失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公卿7人を伴い長州へ下った(七卿落ち)。長州藩の久坂玄瑞・木戸孝允と土佐藩の武市半平太が主導した「破約攘夷」「草莽崛起」運動は、病的な外国人嫌いながら過激な攘夷運動を嫌う孝明天皇の叡慮と徳川慶喜・松平容保と薩摩藩の共同謀議により一夜にして瓦解し、勤皇藩を自認し朝廷の権威回復を志した長州藩は皮肉にも天皇に掣肘された。
- 久坂玄瑞・木戸孝允と提携し長州藩の「破約攘夷」運動を朝廷で支えた三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公卿7人は、八月十八日政変で長州藩へ亡命し周防三田尻に留め置かれた(七卿落ち)。錦小路頼徳は翌年病没し、澤宣嘉は生野の変を起すも軍資金を盗んで敵前逃亡した。七卿のもとへは京都を追われた尊攘派浪士が参集、長州藩から宿舎「招賢閣」を提供された浪士群は、六時起床で皇居を礼拝し夕食まで文武講習という規則正しい生活を送りつつ活発に同志を招致し志士活動を展開、招賢閣は全国尊攘派の参謀本部の様相を呈した。招賢閣では真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎・土方久元らが「会議員」を構成して指揮を執り、長州藩士の前原一誠と佐々木男也が世話掛を務めた。長州藩は招賢閣浪士を中核に脱藩浪士の混成部隊「忠勇隊」を創設し諸隊に組込んだ。忠勇隊は、禁門の変を扇動した首領の真木和泉が戦死し、後継の長谷川鉄之助(越後浪士)が脱退したため真木外記(和泉の弟)と中岡慎太郎が総督となったが、第一次長州征討の渦中に分解した。さて八月十八日政変が起ると、中岡慎太郎は、強硬に出兵上洛を主張し忠勇隊の有志を率いて来島又兵衛の「遊撃隊」に合流、禁門の変で戦闘に加わるも危うく難を逃れ、長州藩が幕府に恭順すると諸隊と共に五卿が移された下関長府の功山寺に参集、中岡率いる遊撃隊(浪士隊)60人は高杉晋作の功山寺挙兵の中核部隊となり(他に従ったのは伊藤博文の力士隊30人のみ)長州維新の立役者となった。中岡慎太郎は、薩摩系土佐浪士の坂本龍馬と連携して薩長同盟に奔走し、遅れて中央政局に乗出した土佐藩に招聘され板垣退助と西郷隆盛の「薩土密約」を斡旋、京都白川の土佐藩邸に浪士75人を集め陸援隊を結成し討幕戦に備えた。長州系の中岡慎太郎は土佐藩の後藤象二郎・坂本龍馬が主導した大政奉還に反対し討幕の刃を砥いだが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に非業の死を遂げた。その後、山内容堂と後藤象二郎は幕府擁護に固執したが、中岡慎太郎を慕う板垣退助が独断で戊辰戦争に参戦、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 三条実美は、久坂玄瑞・武市半平太らに担がれ朝廷の「破約攘夷」を牽引した過激公卿、八月十八日政変で「七卿落ち」するが尊攘派志士の大義名分として長州藩の討幕運動を支え明治政府の最高位に栄達した。三条実美は、「五摂家」に次ぐ名門「清華家」の当主ながら過激で鳴らし尊攘派志士と結託、幕府のために和宮降嫁を強行した岩倉具視ら「四奸二嬪」を追放し、姉小路公知と共に京都朝廷を長州藩の破約攘夷一色に染めた。攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使となり山内容堂と土佐藩兵を従え江戸幕府に乗込んだ三条実美は、一世一代の晴れ舞台に高揚し、勅使を将軍より上位に置くよう勅使待遇の儀礼改善を幕府に強制した。盟友の姉小路公知は暗殺されたが逆に尊攘派は勢いを増し、長州藩の攘夷決行(下関事件)、攘夷親征計画(大和行幸)と続いたが、徳川慶喜と薩摩藩が過激な攘夷行動を嫌う孝明天皇を抱込み八月十八日政変が勃発、三条実美ら七卿は長州へ亡命し在所の周防三田尻「招賢閣」には真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎らが参集し全国尊攘派の参謀本部の様相を呈した。招賢閣浪士の扇動に乗った来島又兵衛らが池田屋事件に激発し率兵上洛を強行、禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり久坂玄瑞・真木和泉は戦死し木戸孝允は行方不明、徳川慶喜が第一次長州征討を起すと長州藩主毛利敬親は恭順を選んだ。火種である三条実美ら「五卿」は大宰府へ移されたが、高杉晋作・中岡慎太郎が功山寺で挙兵し奇兵隊ら諸隊を引込んで長州藩政を奪回、帰還した木戸孝允が指導者に座り、長州藩は第二次長州征討に大勝利を収め、薩長同盟は王政復古・戊辰戦争へと突進んだ。孝明天皇崩御に伴う大赦で赦免された三条実美は長州藩兵を従え京都に凱旋、「五卿応接掛」中岡慎太郎の仲介で薩摩系の岩倉具視と和解し、長州藩の旗印として岩倉と共に明治政府の最高位に就いた。三条実美は、岩倉使節団派遣に伴い「留守政府」で太政官最高位の太政大臣に就任、大久保利通政府でも地位を維持し薩長の利害調整に努めたが、第一次伊藤博文内閣の発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)で名誉職の内大臣に退き55歳で病没した。
- 久留米水天宮の神職から京都へ出た真木和泉は、尊攘派浪士の首魁にして幕末一のトラブルメーカーであった。有馬新七ら薩摩藩過激派と提携した真木和泉は寺田屋騒動に遭遇し一党28人と共に薩摩藩士に逮捕され、久留米藩へ引渡された。久留米藩では真木らの処遇を巡って対立が起り、佐幕派が優勢となって全員の死罪が決定されたが、同志の久坂玄瑞は学習院御用掛の立場を活かし朝廷から助命を促す勅諚を得て久留米藩主有馬頼成に働きかけ、無罪放免を勝取った。真木和泉らは、堂々と久留米藩を立去って京都へ戻り長州藩に属して大和行幸を共謀、八月十八日政変が起り七卿に随従して長州へ逃れると最も過激な出兵論者となり『出師三策』を諸卿に献策し尊攘派長州藩士を扇動した。真木和泉の京都制圧計画は希望的観測に基づく無謀な作戦であったが、来島又兵衛らが感化され、池田屋事件が起ると遂に長州藩は激発した。木戸孝允と周布政之助は出兵論だけでなく世子上洛にも猛反対し、高杉晋作は世子が上洛して大義名分を明らかにすることは士気の高揚に繋がると考え最初は賛成したが、無謀な出兵論が過熱するに従い世子上洛も否定へ転じた。一方、吉田松陰譲りの「草莽崛起論」を唱えて真木和泉ら他国志士を巻込み八月十八日政変まで京都政局をリードした久坂玄瑞は、率兵上洛して君側の奸を追払えば朝議を回復できるものと信じ終始賛成の立場を貫いた。
- 長州で来島又兵衛ら遊撃軍の制止に失敗した高杉晋作は、脱藩上京して久坂玄瑞を説得したが激発論は高まるばかりであった。孤立し自暴自棄になった高杉晋作は、乾坤一擲、島津久光を要撃して薩摩藩から主導権を奪回し長州藩の暴発を封殺しようと図った。しかし機会を探るうちに長州藩に計画が顕露、高杉と久坂は帰国を命じられ、高杉は萩の野山獄へ投獄された。高杉帰国後も同志の中岡慎太郎らは島津久光襲撃の機を窺ったが決行には至らなかった。あるとき酩酊した周布政之助は、「高杉晋作の首を斬ってやる」と刀を振回し乗馬のまま野山獄に乱入し「どうじゃ晋作、すこしは合点が参ったか。この牢屋で三年くらい学問して、すこし人物になって出てこい。その首は他日入要じゃからあずけておく。しっかり読書せい」と叫び引上げた。このため周布は50日の逼塞に処され、藩庁にただ一人残る上洛反対派を退けた翌日に来島又兵衛率いる遊撃軍300人が三田尻を進発した。
- 八月十八日政変の巻返しを期す長州藩が池田屋事件を受け激発、藩主毛利敬親の冤罪雪辱と京都守護職松平容保らの排除を名目に京都へ攻込み、徳川慶喜(禁裏御守衛総督)の指揮のもと京都御所を守る会津・桑名藩兵と市街戦に及んだ(禁門の変または蛤御門の変)。西郷隆盛率いる薩摩藩兵が慶喜方で参戦し敗北した長州藩は久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉・平野国臣ら尊攘派中核メンバーを喪い(木戸孝允は逃亡失踪)朝敵に堕した長州系人士は京都から一掃され中央政局は徳川慶喜・会津藩・桑名藩の天下となった(一会桑政権)。この挙兵に際し木戸孝允・高杉晋作・周布政之助らは慎重論をとなえたが、真木和泉ら過激派浪士の扇動に乗った来島又兵衛・久坂玄瑞らの主戦論を抑えられなかった。戦闘は一日で終了したが、京都市外は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ3万戸の家屋や社寺が消亡した。この事件による長州人の薩摩・会津に対する怨念は深く(薩奸会賊)維新後も尾を引いた。
- 山内容堂は、佐幕的公武合体から逸脱した武市半平太ら土佐勤皇党の暴走と京都での天誅騒ぎに不快感を募らせ、恩人で腹心の吉田東洋を殺した恨みも忘れていなかった。そんな折に青蓮院宮が平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太に藩政改革を促す令旨を与えた一件を軽率にも暴露し山内容堂は土佐勤皇党の粛清を決断、土佐へ戻った容堂は、平井ら3人を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し、武市半平太を京都から呼戻して獄に繋ぎ厳しく尋問した。武市の身を案じる久坂玄瑞は長州藩への亡命を勧めたが、武市は断り「挙藩勤皇」の初志を貫徹するため従容と帰国の途についた。盗賊に落ちぶれ武士の誇りを失った岡田以蔵は拷問に怯え自供したが、武市半平太らは結束し断固否認を続けたため吉田東洋暗殺の罪状を明らかにすることはできなかった。業を煮やした山内容堂は「主君に対する不敬行為」という曖昧な罪を押し着せ断罪、武市半平太を切腹・岡田以蔵ら4名を斬首・9名を永牢に処した。武市半平太は三度腹を切り裂く「三文字割腹法」で見事な最期を遂げた。生残った志士らもほとんどが土佐藩を脱藩し土佐勤皇党は壊滅、武市半平太が志した「挙藩勤皇」の夢は費え去り、自ら薩長への手蔓を絶った土佐藩は時流に取り残された。
- 大酒呑みの山内容堂は「鯨海酔候」と自称し豪傑を気取ったが、アルコール中毒症が疑われ重度の歯槽膿漏も患っていた。そのためか、根気と集中力を欠き、体調不良を理由に重要な会議にも欠席しがちで、気に入らないと物事を投出す場面が多々あった。四候会議の根回しで高知を訪れた西郷隆盛は、山内容堂から上洛の承諾を得るも「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」を懸念し、シラフの容堂が「此度は東山の土となるつもりぞ」と決意表明したことを福岡孝悌から聞いてから高知を去り伊達宗城を説くため宇和島へ向かった。大恩ある徳川家の運命を決した小御所会議(最初の三職会議)は山内容堂の一世一代の見せ場であったが、「鯨海酔候」はこの日も泥酔状態で遅参したうえ大声で喚き散らす醜態を演じ「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し権威を恣にしようとしている」との失言(事実だが)を岩倉具視に叱責され沈黙、松平春嶽も徳川慶喜の出席要請を断念した。山内容堂は徳川慶喜が目論む「徳川宗家を中心とする列候会議」(徳川家を盟主とする大名共和制)を代弁したが無視され、西郷隆盛の「ただ、ひと匕首あるのみ」(慶喜1人を殺せば片付く簡単なことだ)という気迫が議場を制し、後藤象二郎は大久保利通に丸め込まれ、薩摩藩の思惑通り徳川慶喜の辞官納地が決議された。最初の難関を突破した西郷隆盛と大久保利通は武力討幕へ邁進、幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し「朝敵」徳川慶喜を討つ大義名分を獲得した。
- 幕府軍艦奉行の勝海舟から「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と長州宥和を促された薩摩藩(征長軍大参謀)の西郷隆盛は、征長総督徳川慶勝に武力衝突を回避する穏当策を提言、慶勝は西郷を征長軍全権に任じ長州藩との折衝を委ねた。西郷隆盛は、岩国藩主吉川監物を通じて禁門の変で上京した国司信濃・益田弾正・福原越後の三家老切腹、四参謀斬首、三条実美ら五卿の追放を降伏条件として提示、長州藩主父子が謝罪文書を提出し恭順したため開戦は回避された(第一次長州征討)。これに対し、奇兵隊などの諸隊には不満を抱く者が多く、高杉晋作は即時挙兵を主張したが、俗論党に懐柔された奇兵隊総督赤根武人をはじめ諸隊の長官は応じなかった。徳川慶喜政権の後ろ盾であった薩摩藩は長州征討を機に幕府批判へ転じ薩長同盟・討幕へ突進んだが、西郷隆盛を長州宥和へ転換させた勝海舟の役割は非常に大きかった。西郷隆盛は大久保利通への書簡で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と評している。勝海舟は幕臣でありながら雄藩諸侯や尊攘派志士と広く交流、西郷隆盛が神と仰いだ島津斉彬とも懇意であり、開国の利と幕藩体制変革の必要性を説いて反幕府陣営に大きな影響を与えた。幕府首脳で軍艦奉行も務めた勝海舟の言葉は非常に重く、討幕を奨励するような言説は志士たちを大いに勇気づけたに違いない。この3年後に薩摩藩が戊辰戦争を引起すと、勝海舟は徳川慶喜を説いて絶対恭順を決意させ、幕府代表として西郷隆盛に会い江戸城無血開城を成遂げた。
- 幕府に恭順した長州藩が呑まされた講和条件の一つに、三条実美ら五卿を他藩へ移すという「五卿遷座」があった。長州藩正義派の反対で難航したが、中岡慎太郎は西郷隆盛ら薩摩藩士の協力を得て五卿を大宰府へ移すことで両者を納得させ実行に移した。
- 奇兵隊などの諸隊は、長州藩庁による解散を免れるため、三条実美ら五卿を擁して長府に転陣し藩庁と交渉を続けた。奇兵隊総管赤根武人は俗論党に懐柔されて藩庁の政務座役に兼任され、山縣有朋や福田侠平らの幹部連中も赤根に引きずられて「正俗調和」の慎重論へ傾いた。高杉晋作は必死の説得を試みたが諸隊長の反応は鈍く、決起に応じたのは河瀬真孝・中岡慎太郎ら遊撃隊士(浪士軍)と伊藤博文・前原一誠らごく少数で、諸隊750人のうち従う兵力は遊撃隊60人と力士隊30人ばかりであった。しかし高杉晋作は、長府功山寺に在する五卿に「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と宣言し颯爽と兵を挙げ、三田尻で藩の軍艦3隻を奪い、東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固め、遂に長州藩正規軍を破り長州回天を成功させた。伊藤博文は後に高杉晋作の墓所がある下関郊外清水山の「東行碑文」に「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。衆目駭然としてあえて正視するものなし。これわが東行高杉君にあらずや。」と揮毫したが、功山寺の情景を眼前に現す名文である。功山寺には、三条実美ら七卿の御在所が現在も保存されており、境内には馬上挙兵に乗出す高杉晋作を映した見事な一鞭回天像があるが、傍らに「一将功成って万骨枯る」の碑が立つ。力士隊を率い決死の行軍に参じた伊藤博文は大功労者だが、肝心要の功山寺挙兵で日和見しながら位人臣を極め椿山荘やら無鄰菴やらを築いた山縣有朋への面当てのようでもある。実際、山縣の汚点となったに違いなく、伊藤の生存中はこれを憚り軍事に徹して政治に距離を置いたとされる。なお赤根武人は、高杉の反乱軍が優勢になると上方へ逃亡、幕府に捕縛されて走狗となり、第二次長州征討で大目付永井尚志の随員として長州入りし不戦を説いたが全く相手にされず、逆に捕らえられ1866年に山口で処刑された。
- 中岡慎太郎と土方久元は、下関で木戸孝允・伊藤博文・井上馨らと薩長和解を協議し京都に潜入、薩摩屋敷に迎えられ薩摩藩士に薩長和解を説いた。西郷隆盛は、勝海舟との会談で長州宥和へ転じ第一次長州征討では征長軍全権として寛大な措置を差配、幕府と徳川慶喜を牽制すべく上京する構えをみせた。中岡慎太郎は西郷隆盛が上洛途中に下関へ立寄り木戸孝允と会談することを提案、薩摩藩士は賛同し岩下方平を鹿児島へ派遣した。中岡慎太郎は岩下と共に西郷隆盛の説得にあたり、土方久元は木戸孝允を説くため下関へ向かった。
- 坂本龍馬の西郷隆盛評:「西郷というのは、分からぬ男だ。小さく、たたけば、小さく響き、大きく、たたけば、大きく響く。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大きな利口だろう。」。中岡慎太郎の西郷隆盛評:「人となり、肥大にして御免(土佐の地名)の要石に劣らず、古の安倍貞任などもかくの如きかと思ひやられ候。この人、学識あり、胆略あり、常に寡言にして、最も思慮雄略に長じ、たまたま一言を出せば、確然、人の腸を貫く。且つ徳高くして、人を服し、しばしば艱難を経て頗る事に老練す。その誠実、武市半平太に似て、学識あることは優り、実に知行合一の人物なり。これ即ち、当世、洛中第一の英雄に御座候」。板垣退助の西郷隆盛評:「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸・大久保の間には、零が幾つあるか分らぬ。西郷、その次に0000といくら零があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う」。1898年、上野の西郷隆盛像の除幕式に参加したイト夫人は「アラヨウ!ウチンシは、こげんお人じゃなかったこてェ!」と声をあげ、隣にいた西郷従道(隆盛の弟)に「シッ」と足を踏まれたという逸話がある。写真嫌いだった西郷隆盛のモデルについては、西郷従道と従弟の大山巌をミックスさせたとも、孫のなかで最も似ている西郷隆治(西郷隆盛が奄美大島でアイガナに産ませた菊次郎の長男)ともいわれが、定かではない。
- 西郷隆盛の意を汲んだ坂本龍馬は、中岡慎太郎とは別に薩長和解工作に動き始め、大宰府で三条実美ら五卿のお墨付きを得て下関に入り木戸孝允・高杉晋作の説得に努めたが、京都から下関へ来た土方久元から西郷・木戸の下関会談の策動を聞き連携して事にあたった。
- 西郷隆盛は、薩長和解に賛成であり中岡慎太郎が勧める木戸孝允との下関会談を一旦了承したが、幕府との関係を重視したか上洛はしたものの下関寄港を急遽中止、中岡単身下関へ入り西郷を待ち侘びる坂本龍馬と木戸孝允・高杉晋作に招致失敗を告げた。中岡慎太郎は、落胆憤慨する木戸らを励まし引続き薩長和解に尽力することを約束し、西郷を説くため再び京都へ向かった。
- 第二次長州征討を前に長州藩が生残る道は薩長同盟しかなかったが、政府首脳の木戸孝允は禁門の変の恨み「薩賊会奸」に感情を捕われ西郷隆盛が下関会談を反故にし面子を潰された一件を言い募り上洛を逡巡した。現実的な高杉晋作は「薩摩の芋が何を」と言いつつも藩論を薩長和解に纏め、長州藩主毛利敬親に受けの良い井上馨の奔走で藩命を取付け、高杉を代役に立てようとする木戸に対し「木戸さん1人が殺されても長州藩は問題ない」と突撥ね背中を押した。会津藩兵・新撰組が厳重に警護する京都に潜入した木戸孝允は、京都の小松帯刀邸で西郷隆盛・小松帯刀と会談し軍事同盟たる薩長同盟を締結した(攻守同盟だが第二次長州征討について薩摩藩は表面上中立を保ち後方支援に留める)。土佐浪士の坂本龍馬は薩摩方・中岡慎太郎は長州方として両藩の斡旋に奔走、薩長同盟の場に同席した坂本は木戸の要請で約定書に裏書した。浪人で薩摩方の坂本に担保力は無く、非命に散った武市半平太や吉村寅太郎に報いるためか、土佐藩の参加を含んだものと考えられる。実際この直後に土佐藩は、中岡慎太郎の斡旋で板垣退助・谷干城が薩土密約を、坂本龍馬の仲介で後藤象二郎が薩土同盟を結んでいる。薩土同盟は大政奉還と共に無視されたが、板垣退助は独断で戊辰戦争に賛成し薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の末座に滑り込んだ。中岡慎太郎は三条実美ら五卿の世話を焼くため大宰府に行っており会盟の場面に立会えなかったが、同志の福岡藩士早川勇曰く・・・「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというても過言でないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州藩の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおり、ことに遊撃隊に身をおいてその苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国にかえった後に長州に来た人であるから、どれだけの功労があったか知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」。
- 徳川慶喜の策動により第二次長州征討が勃発し幕府軍は芸州口・石州口・大島口・小倉口から山口へ進軍したが(四境戦争)、山陽道を守る高杉晋作の軍艦奇襲により大島口から撃退され、山陰道では大村益次郎が浜田城を攻落し石州口を封鎖した。小倉口が決戦場となったが、作戦上の意見対立から熊本藩兵が戦線離脱し、大阪城に陣取る将軍徳川家茂の急死を知った小倉藩主・老中の小笠原長行は本営を抜け出し長崎へ逃走、孤立した小倉藩兵は自ら城に火を放ち小倉城は落城、長州藩の勝利が決定的となった。家茂から徳川家の家督を継いだ徳川慶喜は、自身の長州大討入りを宣言したが小倉城陥落を知り断念した。徳川慶喜から講和交渉を一任された勝海舟は、安芸厳島へ赴き長州藩代表の井上馨・広沢真臣と会談し止戦協定を結んだが、徳川慶喜は二面外交の策を弄し朝廷に工作して征長停止の停戦の勅命を得たうえ小栗忠順が推進するフランスとの同盟(売国的条件による借款と軍事支援)に飛付いた。決死の覚悟で敵地に乗込んだ勝海舟は激怒し辞職願いを叩き付けて江戸へ帰った。翌年長州藩は小倉藩とも講和し完勝で四境戦争を終結、武力政権たる徳川幕府の権威は地に落ちたが、面従腹背の徳川慶喜はフランスを頼りに巻返しを図った。戦勝の立役者である高杉晋作は、病身に鞭打ち最前線で戦闘指揮にあたったが肺結核の病状が悪化、小倉城陥落を見届けると遂に動けなくなり、井上馨や伊藤博文に「ここまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」の言葉を遺し27歳の若さで病没した。山縣有朋は結核の感染を恐れ見舞いを避けたという。
- 第二次長州征討の最中に大阪城に陣取る将軍徳川家茂が急逝、徳川慶喜は喪を秘して戦争を継続し自ら出馬すべく「長州大討入り」を勇ましく宣言し、孝明天皇に頼み岩清水八幡宮への戦勝祈願までやらせた。が、小倉城陥落の敗報を聞くとあっさり進発を撤回し薩長に近い勝海舟に講和交渉を命令、直後に孝明天皇が崩御した。孝明天皇は、病的な外国人嫌いだが長州藩の過激な尊攘運動を嫌い徳川慶喜に好意的で禁門の変や長州征討を支持し続けた。徳川慶喜は大きな後ろ盾を喪い、14歳で即位した明治天皇は後に岩倉具視ら薩長派公卿の傀儡となる。さて、嗣子の無い将軍徳川家茂は、江戸を発つとき万一のときには田安亀之助(徳川家達)を跡継ぎにと言い残したが、老中の板倉勝静や小笠原長行は3歳の将軍では難局に対処できないとして徳川慶喜に将軍就任を要請した。徳川慶喜は「将軍継嗣問題のとき野心を疑われて不愉快な思いをした。いま将軍職を引受ければ、その悪評を裏付けることになろう」などと逡巡、このため先ず徳川宗家のみを相続し4ヶ月の間をおいて孝明天皇の説得により将軍就任という体裁をとった。徳川慶喜の説得にあたった松平春嶽は「ねじあげの酒飲み」(口ではもう飲みたくないといいながら、杯を勧めないと機嫌が悪くなり、結局はまた飲む)と評している。徳川慶喜は将軍就任に際し側近に王政復古を匂わせる発言をし諌められたともいわれる。
- 第二次長州征討で幕府権威は失墜し諸藩は動揺、土佐藩でも、再び勤皇派の人士を登用し薩摩藩に接触して真意を探るなどの動きをみせたが、武市半平太と土佐勤皇党を葬ったことで薩長志士人脈を失い自力で中央政局に復帰する力を欠いていた。慌てた執政の後藤象二郎は、長崎で福岡孝悌と会談し(共に吉田東洋門下の新おこぜ組)薩摩系の坂本龍馬と長州系の中岡慎太郎の起用を決定、両者の脱藩罪を赦免し志士活動後援で懐柔し、坂本・中岡は旧怨を忘れて周旋に協力した。坂本龍馬の亀山社中は、薩長同盟締結に伴い薩摩藩での役割を失い、海難事故もあって経営は破綻に瀕しており、土佐藩の援助は渡りに船だった。土佐藩の傘下に改めて発足した海援隊は、菅野覚兵衛・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・坂本直・長岡謙吉・中島信行ら土佐浪士に陸奥宗光ら神戸海軍操練所出身者を加えた50人ほどの組織であった(坂本龍馬の暗殺後、土佐藩は求心力を失い分裂した海援隊を解散し、土佐藩の商社機能は土佐商会へ引継がれ主宰の岩崎弥太郎が独立し三菱財閥へ発展)。坂本龍馬の差配で薩土同盟を結び将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した土佐藩と後藤象二郎は穏健な王政復古路線の主役に躍り出たが、薩長と共に武力討幕を期す中岡慎太郎は、同志の板垣退助(新おこぜ組)に西郷隆盛と薩土密約を結ばせ、土佐藩に京都藩邸と資金を拠出させ浪士群を集めて陸援隊を結成したが、開戦直前に坂本龍馬と共に見廻組に暗殺された。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通は岩倉具視と結んで朝廷を掌握し山内容堂の猛反対を抑えて辞官納地を断行、討幕の密勅で大政奉還を有名無実化して戊辰戦争の火蓋を切った。徳川家擁護に固執する山内容堂と後藤象二郎は動けなかったが、中岡慎太郎の遺志を継ぐ板垣退助は急ぎ洋式銃器を購入し土佐勤王党系人士を糾合して迅衝隊を結成、独断で戊辰戦争に参戦した。東山道軍の参謀に就いた板垣退助は軍事的才能を発揮、甲州勝沼の戦いで近藤勇ら新撰組残党を撃破し、会津若松城攻略で東北戦争の殊勲者となり、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 薩長同盟の成立直後に京都へ戻った中岡慎太郎は再び西へ向い、下関で薩摩へ向かう西郷・坂本と別れ、大宰府の五卿に報告した後しばらく長州で骨を休めた。下関長府で三吉慎蔵と祝杯をあげたが、よほど嬉しかったのだろう、中岡は珍しく大酔した。中岡は後日三吉へ手紙を送り「大酔してしまい、翌朝目が覚めると茫然自失、宴席では例のくどい議論などをして反省しきりです」と詫びている。なお三吉慎蔵は、伏見寺田屋で襲われた坂本龍馬を救った長州藩の剣豪である。
- 幕府の動きを探るすべく上京した中岡慎太郎は、在京の土佐藩士と会合し時勢を説明したうえで藩上層部の上京を勧め、土佐藩庁は大監察の福岡孝悌と小笠原唯八を京都へ派遣した。中岡慎太郎は福岡・小笠原を西郷隆盛に紹介、両者は薩土両藩の提携を促すべく山内容堂を上京させ朝議に参与させる方針で合意した。中岡慎太郎は、開国して洋式軍備を導入しその力で外圧を跳ね返すべしとする「大攘夷」が時流であり、そのために幕府は大政奉還し朝廷のもとに挙国一致体制を整えるべきであるとし、そうした流れのなかで土佐藩が採るべき詳細な藩政改革案を示し特に洋式兵器の調達と精兵主義を強調した。
- 薩長による討幕の機運が濃くなると、京都に潜伏する諸国浪士の動きが活発化し、新撰組や見廻組による探索は峻烈を極めた。中岡慎太郎は、佐々木高行らと交渉し京都白川の土佐藩邸と食費等費用を拠出させ浪士群を保護、薩長に呼応して挙兵すべく武器と軍事系統を整備するなど密かに討幕戦の準備を進めた。坂本龍馬の土佐海援隊に対し陸援隊と呼ばれた浪士団は、中岡慎太郎を土佐浪士の田中顕助・那須盛馬・大橋慎三・香川敬三らが補佐した。陸援隊士の出身藩は土佐18人・水戸14人・三河9人・京都9人と続いて総勢は75人に達し、十津川郷士隊50人が合流し合計125人の一団を形成した。明日をも知れぬ浪士らの風紀は甚だ悪く土佐藩は厄介視し、新撰組のスパイも紛れ込んでいた(長州人と称した村山謙吉など)。が、坂本龍馬の死で分裂解消した海援隊と異なり陸援隊は中岡慎太郎の死後も組織を保ち、戊辰戦争に従軍したあと薩長土3藩供出の御親兵に吸収された。
- 中岡慎太郎の斡旋により、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩板垣退助・谷干城らと薩摩藩西郷隆盛・吉井友実らが武力討幕の密約を結んだ(薩土密約)。戊辰戦争に際して、山内容堂は最後まで武力討幕に反対であったが、板垣退助が土佐勤皇党の流れを汲む迅衝隊を率いて独断挙兵し、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の一角に滑り込むこととなった。板垣退助は、土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府参謀として戊辰戦争を転戦し、軍人として華々しい勲功を重ねた。甲州勝沼の戦いで近藤勇の甲陽鎮撫隊を粉砕し、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩の攻略戦を指揮して勝利に導いた。戊辰戦争で抜群の軍才を示した板垣であったが、薩長が牛耳る軍部には進めず、明治政府では政治家の道を歩むこととなった。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 坂本龍馬の斡旋により、京都三本木の料亭にて、土佐藩後藤象二郎・福岡孝悌らと薩摩藩小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通とが、両藩協力して大政奉還と王政復古を実現させることを約した。この後、土佐藩は山内容堂を促し大政奉還の建白書を提出する。しかし、薩摩藩の腹は既に武力討幕で固まっており、同盟を解消して戊辰戦争に踏切ることとなる。中岡慎太郎も有志代表として陪席したが、真意は薩長と同じく武力討幕路線であった。
- 中岡慎太郎は、坂本龍馬と共に、和宮降嫁で尊攘派志士から嫌われて逼塞していた岩倉具視の政局復帰を後押しした。旧知の三条実美を口説いて岩倉と提携させたほか、西郷隆盛や木戸孝允ら薩長の中心人物との周旋にも尽力した。岩倉具視は中岡慎太郎を信頼し陸援隊が討幕の尖兵として活躍することを大いに期待していた。中岡は死の間際、同志の香川敬三に「岩倉卿に、王政復古のことはひとえに卿の御力にたよっていると伝言をたのむ」と述べ、中岡の訃報を聞いた岩倉は「自分は片腕をもがれた」と号泣したといい、大久保利通に「この恨み必ず報ぜざるべからず」と書き送り武力討幕の決意を固めた。
- 岩倉具視は、大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対した。1851年から1994年まで流通した五百円札の肖像画にみるように岩倉具視は公家らしからぬイカツイ容貌で、幼少期は「岩吉」長じて「山賊の親分」などと形容されたが、見た目どおり豪傑肌で胆力があり、洛北岩倉村での蟄居時代には糊口を凌ぐため自宅を賭場として博徒に貸与したといわれる。和宮降嫁の首謀者として久坂玄瑞・武市半平太に打倒され5年間も隠遁したが、希少な硬骨公家を大久保利通は見逃さず、孝明天皇没後に薩摩藩の名代として朝廷に乗込んだ岩倉具視は偽勅批判を恐れず討幕の密勅を強行し、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行採決した。が、他に見るべき業績は無く、岩倉具視は政治理念よりも朝廷の発揚と自身の出世のために動いたようにみえる。少壮期より世襲公卿に反発した岩倉具視は、関白九条尚忠が推す条約勅許に異を唱え同類の軽輩公家を扇動して「八十八卿列参事件」を起したが、安政の大獄で佐幕へ転じ、井伊直弼暗殺に伴い公武合体派が盛返すと意を受けて和宮降嫁を推進したが、尊攘派の猛攻で失脚した。蟄居中に大久保利通と邂逅した岩倉具視は忽ち武力討幕論に迎合し、大政奉還が成ると王政復古の大号令に摂関と朝臣の世襲制排除を盛込み、三条実美と共に太政官の最上位に就き宿願を果した。なお、本心佐幕派の孝明天皇の崩御は討幕への一大転機で毒殺が噂されたが、真先に疑われたのは岩倉具視だった。新政府の重鎮となってからも岩倉具視は大久保利通を支える役割を果し、「岩倉使節団」から戻り明治六年政変が起ると西郷隆盛ら征韓派の追放に加担したが、秩禄処分で士族特権を奪いながら旧公家のみを優遇する政策が士族反乱に油を注ぎ、自由民権運動には決して妥協しなかった。反動勢力の首魁と化した岩倉具視が没すると、伊藤博文は華族令で旧武士層に幅広く爵位を振舞い、太政官制を廃止して内閣制度を発足させた。
- 土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静を尋ね、山内容堂の建白書と副書一通を呈出した。討幕挙兵を決意した薩長はこの動きを無視した。なお、この建白は坂本龍馬が後藤に提唱した「船中八策」に基づくとされるが、大政奉還論は坂本の独創ではない。幕府では大久保一翁が早くから唱え、朝廷の攘夷要求に手を焼いた将軍徳川家茂は征夷大将軍返上を仄めかした。民主主義の開祖である福井藩の横井小楠は、松平春嶽が政治総裁職に就任した1862年に『国是七条』を献策し大政奉還論を説いている。
- 徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎(桑名藩の飛び領地)を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
- 大政奉還の直後、京都近江屋で会食中の坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われ、頭蓋を斬られた坂本はほぼ即死、中岡は後頭部の傷が悪化し3日後に死去した。「坂本龍馬暗殺の謎」は面白おかしく語られ、フリーメーソン(イギリス)の謀略説や、薩長が遣わした中岡が坂本を斬ったという珍説まである(長州系の中岡は強硬な討幕論者で、土佐藩の大政奉還を差配した坂本は徳川家擁護に動いていた)。が、元新撰組の大石鍬次郎および元見廻組の今井信郎(函館戦争で投降)・渡辺篤の供述により、佐々木唯三郎ら見廻組7人の犯行であることが明らかになった。見廻組は新撰組と同じく京都守護職松平容保(会津藩主)の指揮下で京都の治安維持にあたった警察組織である。新撰組の実態は過激浪士の傭兵集団だが、歴とした幕臣からなる見廻組は統率のとれた幕府機構であり、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺も上層部の命令によるものと考えられ、命令者は松平容保とも京都所司代松平定敬(容保の実弟で伊勢桑名藩主)ともいわれる。会桑両藩と松平容保・定敬兄弟は、藩兵と新撰組・見廻組を駆使して京都に厳戒体制を敷き池田屋事件などで尊攘派志士を多数殺害したことから目の敵にされ、後戻りできない立場故に最強硬な佐幕派であった。ここで将軍徳川慶喜が大政奉還を遵守し薩長に取込まれると会桑両藩は完全に宙に浮いてしまうが、大政奉還を差配した坂本龍馬は幕臣の永井尚志を通じて幕府に現実的妥協案を呑ませる根回しに動いており会桑両藩にとっては危険人物となっていた。雄藩の後ろ盾がなく身辺警護も脆弱な坂本が真先に狙われ、中岡慎太郎は巻添えを喰ったと考えられる。暗殺事件後、激昂する海援隊・陸援隊に対し土佐藩は復讐禁止令を敷いたが、陸奥宗光ら16人は「いろは丸事件」を恨む紀州藩士三浦休太郎を首謀者と断じ、明る正月一日に油小路花屋町天満屋の酒宴の場を襲撃した。斎藤一ら護衛の新撰組隊士数名が居たため接戦となり、陸奥一派は中井庄五郎を殺され三浦は討ち漏らしたが数名を殺害し逃走、官軍の天下で陸奥宗光らにお咎めは無かった。
- 久坂玄瑞は、吉田松蔭の妹文を娶った松下村塾の筆頭門人で「草莽崛起」を受継ぎ「破約攘夷」で中央政局をリードしたが八月十八日政変で突如瓦解し禁門で戦死、長州藩は朝敵にされ窮地に陥った。久坂玄瑞は、長州藩医の三男坊で幼少から英才を謳われ、熊本の宮部鼎蔵の勧めで吉田松陰に会い過激な攘夷論を披瀝したが空理空論と論破され学門に降り、1つ年長の高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と称された。吉田松陰の名代として江戸・京都へ出た久坂玄瑞は、梅田雲浜・梁川星厳の導きで中央政界へ乗出し、安政の大獄が起り吉田松陰は江戸で刑死したが、大老井伊直弼が斃れると先輩の木戸孝允・土佐藩の武市半平太と共に活発な尊攘運動を展開、和宮降嫁を幕府の謀略と糾弾して岩倉具視を退隠させ、長井雅楽の「航海遠略策」を幕主朝従と排撃し薩摩藩の島津久光に対抗して長州藩論を「破約攘夷」へ転換、長州藩世子毛利定広と勅旨を奉じて幕府に攘夷を迫り、圧力に屈した徳川家茂は将軍として230年ぶりに上洛し朝廷に5月10日の攘夷決行を約束した。草莽崛起(全国志士の決起)を目指す久坂玄瑞は、長州藩の外国船砲撃で天下に攘夷決行の実を示し(下関事件)「光明寺党」を率いて奮戦するも米仏軍艦に惨敗、京都へ戻り討幕含みの攘夷親征計画(大和行幸)を策動するが八月十八日政変で一夜にして瓦解した。朝敵とされた長州藩では藩主の上洛釈明・出兵論が沸き起り、木戸孝允・高杉晋作・周布政之助は自重論を唱えたが、久坂玄瑞は来島又兵衛・真木和泉らと強硬論を唱え参預会議瓦解を機に即時出兵を断行、池田屋事件で激発した長州藩は京都御所を攻めたが西郷隆盛率いる薩摩軍の参戦で大敗し首謀者の久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉は戦死した。続く第一次長州征討・四国連合艦隊との馬関戦争で長州藩は存亡の危機に陥り久坂玄瑞の野望は費えたが、久坂の「草莽崛起」を批判し続けた高杉晋作が奇兵隊・諸隊を率いて政権を奪回し薩長同盟して討幕を実現した。明治維新後、西郷隆盛は木戸孝允に「お国の久坂先生が今も生きておられたら、お互いに参議だなどといって威張ってはおられませんな」と語ったという。
- 高杉晋作は、吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄である。維新直前に早世し他藩や朝廷との交流に批判的だったことから知名度は「維新の三傑」に及ばないが、高杉晋作なくして長州藩の復活は無く、薩長同盟の形で討幕が実現することも無かった。高杉晋作は、松下村塾の師匠である吉田松蔭や尊攘派同志の枠から離れて独創的な「防長割拠論」を唱え、討幕戦に備えて洋式軍備の導入に取組み、日本初の近代的民兵組織である奇兵隊などの諸隊を創設した。同志が公武周旋や過激な攘夷論に浮かれるなか、一人冷静に現実を見据えていた。「松下村塾の双璧」と並び称された久坂玄瑞は、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」に則り諸国の志士と提携して京都政局で破約攘夷運動を主導、孤立した高杉晋作は自暴自棄となったが、禁門の変で久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。続く四国連合艦隊の襲来で窮地に陥った長州藩は高杉晋作を呼戻し、高杉は有利な条件で講和交渉を纏め、兵員不足を補うため庶民から徴兵して奇兵隊を創設、第一次長州征討が起ると伊藤博文・井上馨と共に徹底抗戦を叫んだが長州藩は幕府に恭順した。絶望した周布政之助は自決し俗論党(佐幕派)政権は正義派を弾圧し井上馨は瀕死の重傷、高杉晋作は筑前へ逃れたが、すぐに長府へ舞戻り奇兵隊などの諸隊に決起を呼掛け、応じたのは伊藤博文・前原一誠の手勢と中岡慎太郎ら遊撃隊(浪士隊)の90名のみだったが功山寺挙兵を断行した。三田尻で藩の軍艦3隻を奪い東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固めると、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が呼応し大田・絵堂の戦いで長州藩正規軍を撃破した。高杉晋作は、奪回した政権を木戸孝允に譲渡し、逡巡する木戸の背中を押して薩長同盟を締結、第二次長州征討が起ると自ら最前線に乗込み大島口奇襲で緒戦を制し老中小笠原長行が守る小倉城を攻落して勝利を決定付けた。が、肺結核で動けなくなり「おもしろき ことをなき世を おもしろく」の辞世を遺し27歳で死去した。
- 高杉晋作は一貫して「防長割拠論」を主張し長州藩の正義派同志と折合わず、久坂玄瑞の「破約攘夷・公武周旋」が全盛の頃には孤立して自暴自棄になり出家・脱藩騒ぎまで起した。高杉晋作は、無謀な空論と大言壮語を吐くばかりの過激な尊攘派志士を心底軽蔑して距離を置き、真木和泉・来島又兵衛らが暴発した禁門の変では木戸孝允・周布政之助らと抑止に奔走したが果たせなかった。防長割拠論は、公武周旋へのアンチテーゼであり、朝廷と幕府の関係に介入するよりも、先ずは長州藩として洋式軍備を整え実力を養い独立の気勢を挙げて幕府と対等の立場で天下に乗出そうという考え方で、幕府や朝廷をあてにしない独立独歩の路線であった。高杉晋作が19歳で著した『益田弾正君にたてまつるの書』において既にその萌芽がみられる・・・「長州より檄を十万石以上の諸列候にとばし、列候みな賛同すれば共に幕府を論じ、服さなければ、わが藩公卓然として独立し、筋を曲げず神州の大義を論じて幕府を諫めよ。幕府が諫言をきかずアメリカのいうがままになれば、長州卓然として大義をまもり、天朝を奉じて士気を鼓舞し、武備をととのえて外国を撃滅すればよい。そのためには古臭い兵法を捨てて洋式兵術と武器を取り入れなくてはならない。志願者を選んで長崎へやり、オランダ人に学ばせ、かれらを中心に長州で軍艦を造り砲台を築くべきである。」・・・論旨は吉田松陰が説く「大尊攘」だが、具体的方策を列挙したところが高杉晋作らしく、表現は「諫言」に抑えているが公武合体は眼中に既に無く幕府に対し挑戦的な内容である。この頃は「諫幕」の枠を出てなかったが、吉田松蔭の処刑で復讐を誓った高杉は、禁門の変、長州征討と長州藩が追詰められるに従い「討幕」へと先鋭化した。
- 木戸孝允(桂小五郎)は、吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没した。先を見通す識見に優れ、久坂玄瑞と「破約攘夷」運動を主導したが池田屋事件・禁門の変を間一髪で生延び、明治政府ではリベラルな政策を牽引した。木戸孝允は、長州藩医の和田家に生れ中級藩士桂家に入嗣、藩校明倫館で俊秀を謳われ兵学教授の吉田松陰に兄事した。幼少から剣術に打込み、19歳で江戸四大道場の練兵館に入門すると翌年には免許皆伝、塾頭・師範代を任され剣名を馳せたが、ペリー来航で国事に目覚め江川坦庵や中島三郎助から海外知識を習得した。長州藩に出仕した木戸孝允は、大村益次郎を招聘して洋式軍制改革を推進し、久坂玄瑞と共に「航海遠略策」の長井雅楽を斃して藩論を「破約攘夷」へ転換し外国船砲撃(下関事件)や攘夷親征計画(大和行幸)を主導したが八月十八日政変で一夜にして瓦解、周布政之助・高杉晋作と共に出兵論を抑えたが池田屋事件で決壊し禁門の変が勃発、久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。開戦直前に失踪した木戸孝允は、変装して京都を脱出し但馬出石に潜伏、第一次長州征討・馬関戦争で長州藩が窮地に陥っても動かず、高杉晋作が藩政を奪回すると指導者に迎えられ、薩長同盟を結び討幕へ突進んだ。明治政府の首班に就いた木戸孝允は、「五箇条の御誓文」で民主主義を宣言し、版籍奉還・廃藩置県を断行、四民平等・学制制定で国民皆学の平等社会を実現し、奇兵隊など長州諸隊の反乱を断固鎮圧した。岩倉使節団から戻った木戸孝允は、教育・政体優先の立場から征韓論に反対し憲法制定へ動いたが、大久保利通と対立し台湾出兵に抗い下野、立憲を条件に参与に復帰すると立憲政体の詔書を発布し地方官会議を開いたが大久保の内務省に無効化され、病状が悪化した木戸は秩禄処分を機に大久保政府を去った。木戸孝允の予見通り特権を奪われた不平士族の反乱が続発し、西南戦争が起ると自ら鎮撫使を希望したが「西郷、もういい加減にせんか」の言葉を残し病没した。
- 毛利敬親は、改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」である。いつも「そうせい」と家臣に丸投げした毛利敬親の政治能力を疑う向きもあるが、激変する対幕関係と藩内闘争のなか持論の尊攘方針を堅持し重要事項は自ら決断、有能な家臣を登用し細事を任せ切った。18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、「俗論党」に配慮しつつ「正義派」の村田清風を後押しし藩政改革・財政再建に成功し長州藩は「雄藩」となった。21歳の毛利敬親は10歳の吉田松陰の御前講義に感服し弟子の礼をとったといい、脱藩事件で家名断絶に処された松蔭に10年間の諸国遊学を許し、ペリー来航後先鋭化する攘夷論に耳を傾け、密航を企てた松蔭が幕府に捕まり萩の野山獄へ投獄されると病気保養の名目で出獄させ「松下村塾」を黙認、遊学奨励や軍制改革などの諸献策を採用し、門人の木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作らを取立て中央政界へ送り出した。松下村塾は公認され尊攘派の拠点となったが、安政の大獄に激昂した吉田松陰は急速に過激化し老中間部詮勝の襲撃を公然と画策、毛利敬親は上書を許しガス抜きを図ったが、松蔭が門弟17人と血盟を結び周布政之助ら尊攘派要人に協力を要請するに及び、周布が求める松蔭の再投獄を認めざるを得なかった。毛利敬親は冷却期間のつもりだったと思われるが、別件で幕府に召喚された吉田松陰は間部襲撃計画を自白してしまい斬首に処された。が、井伊直弼が暗殺され尊攘派が盛返すと、毛利敬親は松陰の遺志を継ぐ久坂玄瑞・木戸孝允の「破約攘夷」へ藩論を切替え決然と幕府(薩摩藩の島津久光が主導する公武合体運動)に挑戦、禁門の変・第一次長州征討・四国連合艦隊の来襲(馬関戦争)と凶変が続き滅亡寸前に追詰められた長州藩は幕府への恭順を余儀無くされたが、高杉晋作が武力クーデターを成功させると毛利敬親は政権交代を容認し薩長同盟して討幕へ邁進、明治維新後は木戸の要請に応じ真先に版籍奉還を是認した。「わしはいつ将軍になるのか」と木戸に尋ねたという話は創作だろう。
- 周布政之助は、村田清風から受継いだ正義派の首領として俗論党や長井雅楽と戦い木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松蔭門下生を支援した長州藩執政、禁門の変の暴発を抑えられず絶望し自殺した。周布氏は毛利家譜代の名門益田氏の庶流で、禁門の変で引責切腹した家老の益田弾正は本家筋である。中級藩士の家督を継いだ周布政之助は、藩政改革を成功させた村田清風を尊敬し政治少年を集めて「嚶鳴社」を結党、14歳で出仕すると村田の腹心となり藩校明倫館の拡充などで長州藩主毛利敬親の信任を得て19歳にして政務役に大抜擢されたが、村田の死を機に椋梨藤太ら俗論党との政争が激化した。尊皇攘夷論者の周布政之助は、ペリー来航に際して武備主戦論を建言して採用され、蟄居中の吉田松陰を庇護し門人に便宜を図った。安政の大獄で暫し逼塞したが、大老井伊直弼の暗殺で尊攘派が台頭、長州藩は長井雅楽の「航海遠略策」で公武合体運動に乗出したが、主導権奪回を図る周布政之助は木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞と連携して藩論を「破約攘夷」へ転換し長井を切腹に追込んだ。門閥重臣ながら過激行動を辞さない周布政之助は久坂らにとって得難い後ろ盾であった。久坂玄瑞に引きずられた周布政之助は、外国船砲撃による攘夷決行(下関事件)、高杉晋作による奇兵隊創設と大村益次郎の洋式兵制改革、攘夷親征計画(大和行幸)へと長州藩を導いたが八月十八日政変が起り一夜にして瓦解した。「無実」を晴らすべく長州藩では世子毛利定広の上洛を決定し出兵論が沸騰、周布政之助は、藩首脳で唯一人反対を貫き木戸孝允・高杉晋作と共に鎮撫に奔走したが池田屋事件で決壊、周布が逼塞に処された翌日来島又兵衛率いる遊撃軍が周防三田尻から先発した。禁門の変に敗れた長州藩は朝敵とされ徳川慶喜が第一次長州征討を発動、便乗した四国連合艦隊が馬関海峡に来襲し(馬関戦争)風前の灯となった長州藩は三家老・四参謀の死刑と五卿の追放を呑んで降伏恭順、出兵に反対した周布政之助は無罪ながら心折れて自決した。が、間もなく高杉晋作が功山寺で挙兵し奇兵隊など諸隊を率いて正規軍を撃破し椋梨藤太ら俗論党を一掃して藩政を奪回した。
- 大村益次郎(村田蔵六)は、木戸孝允の招聘で長州藩に出仕し適塾仕込みの洋式兵学と武器輸入で近代的軍隊を創建、浜田城制圧や上野彰義隊との戦争を指揮し維新後は徴兵制・近代的国軍建設を進めたが暴漢に襲われ横死した「日本陸軍の創始者」である。周防の村医の嫡子に生れた大村益次郎は、防府の梅田幽斎(シーボルトの弟子)に師事し豊後日田の咸宜園にも遊学、22歳で大坂の適塾に入門し長崎遊学を経て塾頭に就いたが、父の懇請で帰郷し村医を開業した。が、2年後のペリー来航で蘭学者の需要が急増し、無愛想の治療下手で評判の悪い大村益次郎は早々に医業を畳み宇和島藩に仕官、砲台建設や洋式軍艦製造を差配し、藩主伊達宗城に従い江戸へ出ると麹町に蘭学塾「鳩居堂」を開講、幕府に招聘され蕃書調所を経て最高学府の講武所教授に栄達した。一流洋式兵学者の名声を博した大村益次郎は、長州藩に軍制改革を託され藩政に参画(政務座役)、藩校明倫館や私塾「普門塾」で兵卒を熱血指導し「火吹き達磨」と渾名された。尊攘運動に関与せず俗論党からも重宝された大村益次郎は、禁門の変後も重職に留まり、高杉晋作が藩政を奪回すると但馬出石から木戸孝允を呼戻して指導者に迎え、正規軍と奇兵隊など諸隊を統合再編して軍事教練を施しミニエー銃・ゲベール銃を大量購入して長州藩軍を洋式軍隊へ変貌させた。第二次長州征討では山陰方面軍を指揮、新式兵器と巧みな用兵で浜田城を攻落し「その才知、鬼の如し」と評された。薩摩藩嫌いの大村益次郎は戊辰戦争出兵に反対し左遷されたが、すぐに上京を命じられ諸藩献上の御親兵を訓練し伏見に兵学寮を開設、江戸の治安回復を託されると兵員不足を危惧する薩摩藩士を一喝し西郷隆盛を説伏せて武力討伐を断行し上野彰義隊を殲滅した。大村益次郎は、明確なプランのもと近代的国軍建設に邁進、持論の徴兵制は兵制論争で退けられたが、軍政のトップ(兵部大輔)に就いて京都河東操練所・兵学寮の開設や軍事工場建設を進めたが兇漢に襲われ横死、「西国(薩摩)から敵が来るから四斤砲をたくさんこしらえろ」との遺言は8年後の西南戦争で的中した。靖国神社境内には今も大村益次郎の銅像が聳える。
中岡慎太郎と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照