勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
丸目 長恵(蔵人)
1540年 〜 1629年
70点※
丸目長恵(蔵人)と関連人物のエピソード
- 上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
- 柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
- 柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
- 柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
- 古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
- 塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3~4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
- 中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
- 伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
- 佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
- 宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
- 島津義弘は、薩摩・大隅を切り従え日向の伊東義祐・肥後の相良義陽・肥前の龍造寺隆信を滅ぼし大友宗麟を追詰めた島津四兄弟の次男坊、九州制覇の野望は豊臣秀吉に破られたが、朝鮮役泗川の戦い・関ヶ原「島津の退き口」で勇名を馳せた西国最強武将である。島津勝久から島津宗家と薩摩・大隅守護職を奪った島津貴久の次男で、兄義久が家督を継ぐと日向方面を受け持ち伊東義祐の猛攻を凌いだ。1572年貴久の死に乗じて伊東の精兵3千が飯野城を急襲、雑兵300で迎え撃った島津義弘は「釣り野伏せ」戦法で「九州の桶狭間」に快勝(木崎原の戦い)、南九州に武威を轟かせると、翌年長年争った肝付氏らが降伏して島津氏は薩摩・大隅を平定した。1577年伊東義祐を追出して三州統一を達成(伊東崩れ)、翌年大友宗麟の大軍が日向に来襲したが島津義久・家久が撃退(耳川の戦い)、多くの武将を討取られた名門大友氏は骨抜きとなった。矛先を九州西辺に転じた島津軍は、1581年肥後人吉城主の相良義陽を降伏させ、1584年大友氏から独立した龍造寺隆信を攻撃、島原城主有馬晴信の救援に兵3千で乗込んだ島津家久は2万5千の龍造寺軍を湿地帯に誘い入れて殲滅(沖田畷の戦い)、隆信以下重臣悉くを討取る大勝利で肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取、義弘が阿蘇氏を降して肥後も掌中にした。1586年島津氏は総仕上げの大友征伐を開始、筑前・筑後の義久軍は立花宗茂に苦戦したが、肥後から義弘・日向から家久が本拠の豊後へ侵攻、豊臣秀吉の援軍2万を敵失と「釣り野伏せ」で撃退し府内城を落として宗麟を臼杵城に追詰めた(戸次川の戦い)。しかし翌年、徳川家康を従えた豊臣秀吉が九州征伐を号令、20万余の大軍を前に諸豪は悉く秀吉に靡き、島津軍は日向へ退いて決戦を挑むも敗北(根白坂の戦い)、義弘は徹底抗戦を主張したが当主義久は降伏を選び、島津氏は薩摩・大隅などの本領を安堵された。義久から当主を継いだ島津義弘は、梅北一揆・庄内の乱で家臣を引締め朝鮮出兵で大活躍、西軍に参陣した関ヶ原合戦では敵陣強行突破で武名を上げ、戦後の難局を武備恭順策で乗切り薩摩藩56万石を子の島津忠恒に譲り渡した。
- 島津家久は、「釣り野伏せ」を駆使して耳川・沖田畷・戸次川の戦いで芸術的快勝を収め龍造寺隆信はじめ名立たる武将を討取った戦国随一の野戦指揮官である。島津貴久の四男だが妾腹のため嫡出の兄義久・義弘・歳久とは別扱いで育ち、発奮して武芸軍略を磨き15歳の初陣で敵将工藤隠岐守を鑓合せで討取る活躍、祖父島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と嘱目された。1570年肥後人吉城主相良義陽から大口城を奪回して薩摩平定へ導き、1578年北部九州の支配者大友宗麟が日向に押寄せると、田原親賢率いる3万余の大軍を迎え撃ち田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛を含む3千名を討取る完勝、島津氏は南九州の覇権を確立した(耳川の戦い)。敗走を装って囮部隊を退却させ追走する敵を伏兵の鉄砲攻撃で包囲殲滅する「釣り野伏せ」は家久のお家芸となった。深手を負った大友氏が衰退すると、被官の肥前国主龍造寺隆信が台頭し盛んに大友領を侵食したが、過酷な国人統治に離反が相次ぎ島原城主有馬晴信が島津氏へ寝返り、決戦を決意した隆信は大軍(2万5千とも6万とも)を率いて島原へ侵攻した。肥後・日向戦線で手一杯の島津義久は取り急ぎ島津家久の先発隊(3千とも)を派遣、圧倒的劣勢ながら撃滅を企図する家久は敵を湿地帯に誘い込んで鉄砲隊で急襲、大混乱に陥った龍造寺軍を撫で斬りにし龍造寺隆信・康房兄弟に成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直を討取る奇跡的勝利を収め(沖田畷の戦い)、後継の龍造寺政家を降伏させて肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取した。1586年島津氏が総力挙げて大友討伐に乗出すと、宗麟の哀訴に応じた豊臣秀吉は長宗我部元親率いる先発隊2万を派遣し、日向から豊後へ向かう島津家久軍1万3千は戸次川で対峙、軍監仙石秀久が無謀な冬季渡川で戦端を開くと家久は鮮やかに「釣り野伏せ」を決め、壊走する敵を殲滅して長宗我部信親・十河存保を討取った。が、20万余に膨れ上がった秀吉軍には成す術無く、日向佐土原城に退いて逸早く降伏、九州征伐の顛末を見ることなく病没した。
- 大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。
- 立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。
- 立花宗茂(高橋統虎)は、養父立花道雪亡き後孤軍奮闘で島津氏の猛攻を凌ぎ豊臣秀吉から「西国無双」と激賞され、碧蹄館の戦いで朝鮮役屈指の武勲を挙げたが関ヶ原合戦で西軍に属し改易、放浪生活の末に筑後柳川藩主に返咲いた幸運な勇将である。大友宗麟の耳川惨敗で主家が衰亡へ向かうなか、1581年立花道雪の婿養子に迎えられて家督を継ぎ14歳で初陣、岩戸の戦いで早良城・許斐山城・龍德城を攻め落し島津勢を追って筑後奪還の一翼を担うが、1585年大黒柱道雪の死で寝返りが相次ぎ筑前へ撤退した。翌年島津氏と国人衆の連合軍10万余が来襲、実父の高橋紹運は岩屋城で城兵763人と共に玉砕して果て、実弟高橋統増の宝満山城も降伏開城したが、立花山城の立花宗茂は詐降の計で油断を誘い豊後攻めに転じた島津軍を痛撃、原田・秋月勢を追払い星野鎮胤の高鳥居城を落として岩屋城・宝満山城も奪回、秀吉の九州征伐まで凌ぎ切って筑後柳川城13万2千石を与えられた。秀吉直臣となった立花宗茂は、肥後国人一揆を討平し朝鮮出兵に従軍、1593年李如松率いる明の大軍の侵攻で日本軍が漢城に追詰められると弱腰の宇喜多秀家・石田三成を叱咤して自ら迎撃戦の先鋒を務め小早川隆景と協力して撃退に成功(碧蹄館の戦い)、蔚山城の戦いでは加藤清正を救援して勝利に貢献した。1600年関ヶ原の戦いで西軍の近江大津城攻めに参陣し、敗戦後は大阪城の毛利輝元に籠城抗戦を説くも容れられず憤慨して柳川へ帰還、黒田官兵衛・加藤清正・鍋島直茂の大軍に攻囲されて降伏し清正に庇護された。1602年立花宗茂は共回り19人と共に肥後を出奔、乞食同然の放浪の身ながら加賀藩主前田利長からの10万石での招聘を「腰抜けの分際で生意気申すな」と撥ね付け、将軍家への仕官を求めて京都から江戸高田宝祥寺に移動、1604年虚無僧姿の十時摂津が狼藉者3人を斬捨てた事件が将軍徳川家忠の耳に届き5千石の相伴衆に取立てられ、2年後に奥州棚倉藩1万石で大名に復活し大坂陣で活躍、1620年10万9千石で筑後柳川藩主に返咲いて悠々自適の大名生活を過ごし、養嗣子忠茂に家督を譲って74歳まで長寿を保った。
- 龍造寺隆信は、一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者である。馬場頼周の反乱で父と祖父を殺されたが曽祖父の龍造寺家兼に伴われて筑後柳川城主蒲池鑑盛に身を寄せ、家兼が復讐を果した直後に病死したため17歳で家督を相続した。周防の大内義隆に臣従して主家の少弐冬尚を追放し傀儡の本家から家督を奪ったが、1551年陶晴賢の謀反で後ろ盾の義隆を失い立花道雪の猛攻を受けて敗走、再び蒲池鑑盛に救われて2年後に肥前に帰還すると、1559年大友宗麟に帰服して旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前支配を確立した。1563年肥前の領袖有馬義貞・大村純忠兄弟を撃退し(丹坂峠の戦い)、1567年高橋鑑種・秋月種実の反乱に呼応して大友氏に反旗、筑前・筑後を鎮圧した立花道雪の討伐軍が来襲するも毛利軍の九州侵攻で難を逃れ、1570年宗麟率いる6万の大軍を夜襲で破り干渉を排除した(今山の戦い)。1578年宗麟が耳川の戦いで惨敗すると道雪が堅持した防衛ラインが決壊、龍造寺隆信は島原半島の大村純忠・有馬晴信を降して肥前を平定し、一気に筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏を広げ九州三強の一角に躍り出た。が、冷酷で猜疑心が強く「肥前の熊」と称された龍造寺隆信は酷薄な恐怖政治に陥り、蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の後嗣で娘婿)を族滅して柳川城を奪った暴挙を機に離反者が続出、武威を示すべく北上する島津氏に決戦を挑み有馬晴信の島原城へ攻込んだが、寡兵の島津家久に戦国史上最悪の惨敗を喫し隆信自身と龍造寺四天王全員(成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直)が討取られた(沖田畷の戦い)。嫡子の龍造寺政家は、島津氏を降した豊臣秀吉に肥前佐賀城32万石を安堵されたが、秀吉に取り入った鍋島直茂に家を乗取られ、嫡子高房が抗議の自殺を遂げた直後に死去し龍造寺の嫡流は断絶した。
丸目長恵(蔵人)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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