吉田松蔭の妹文を娶った松下村塾の筆頭門人で長州藩尊攘派のエース、松蔭の「草莽崛起論」を受継ぎ「破約攘夷」で中央政局をリードしたが八月十八日政変で突如瓦解し禁門の変で戦死、長州藩は朝敵にされ窮地に陥る
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照久坂 玄瑞
1840年 〜 1864年
80点※
久坂玄瑞の寸評
久坂玄瑞の史実
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1840年
長州藩の藩医久坂良迪の三男に久坂玄瑞が出生
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1848年
久坂玄機(玄瑞の長兄)が緒方洪庵の適塾の塾頭となるが翌年長州藩に召還され医学所好生館の都講に就任、適塾塾頭は大村益次郎が後継
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1851年
吉田松陰が東北旅行へ出奔、手続き不備のため脱藩の罪を得る
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1852年
江戸桜田藩邸に戻った吉田松陰が萩へ召還され脱藩罪により士籍・家禄剥奪のうえ杉百合之助の「育み」とされる
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1853年
長州藩主毛利敬親の温情により吉田松陰が10年間の諸国遊学を許され江戸へ出立
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1853年
久坂玄瑞が藩校明倫館・医学所好生館に入学
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1853年
久坂玄瑞の両親が病死
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
吉田松陰が藩主毛利敬親に上書し長州藩の国防論を提言
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1853年
攘夷を決意する吉田松陰が京阪で梁川星厳・梅田雲浜と会談し江戸で長州藩主毛利敬親に『海戦策』を上書
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1854年
久坂玄機が病死し弟の久坂玄瑞が家督を継ぎ医者坊主となる
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
吉田松陰が江戸伝馬町の獄舎で取調べを受け幕府より自藩幽閉を命じられる
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1854年
吉田松陰が罪人として萩へ護送され野山獄に投獄される
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1855年
長州藩主毛利敬親の温情により吉田松陰が病気保養の名目で野山獄を出され実家の杉家で閉門蟄居
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
長州藩主毛利敬親の尊攘方針により周布政之助らが要路に就く
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1856年
久坂玄瑞が九州遊歴、熊本で宮部鼎蔵と会い吉田松陰を紹介される
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1856年
萩郊外の松本村で蟄居する吉田松陰のもとへ近郷の若者が参集し私塾となる
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1857年
吉田松陰の門人が増えたため杉家邸内に塾舎を設置し(松陰神社内に現存)叔父の玉木文之進から「松下村塾」の塾名を承継
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1857年
久坂玄瑞が松下村塾に入門、吉田松陰は妹の文を愛弟子の久坂に嫁がせる
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1857年
高杉晋作が吉田松陰の松下村塾に入門
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1858年
伊藤博文が主人来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、来原の長崎出張に随行
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1858年
久坂玄瑞が京都・江戸へ遊学
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1858年
木戸孝允が長州藩に出仕し大検使となり江戸番手を命じられる
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1858年
大村益次郎が長州藩江戸藩邸に招かれ兵学書を講義、木戸孝允は大村を長州藩へスカウト
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1858年
吉田松陰が長州藩庁に度々上書し藩政改革を提言、若手藩士の遊学や軍制改革の諸献策が容れられ松下村塾が活気付く(松陰の後押しで多くの塾生が遊学を許される)
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1858年
長州藩庁が吉田松陰に家学教授の許可を与え松下村塾が公認となる
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
破約攘夷を主張する吉田松陰が長州藩主毛利敬親に度々上書、周布政之助ら藩政府首脳と対立
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1858年
久坂玄瑞が梅田雲浜・梁川星厳らと連携し京都で尊攘運動を開始
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
山縣有朋が2ヶ月の京都・江戸外遊を許され長州に戻り松下村塾に入門(吉田松陰の最後の門人)
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1858年
大老井伊直弼の意を受けた老中間部詮勝が入洛し安政の大獄を断行
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1858年
吉田松陰盟友の梅田雲浜が幕府に逮捕され翌年獄死(拷問死とも)
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1858年
吉田松陰が公然と老中間部詮勝要撃計画を策動
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1858年
吉田松陰が野山獄に再投獄され松下村塾は廃止
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
吉田松陰が獄中で反幕府運動を画策、高杉晋作・久坂玄瑞の諫止に逆ギレ
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1859年
獄中の吉田松陰が長州藩討幕挙兵を画策するが挫折
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1859年
吉田松陰が幕命で江戸に召喚され評定所の尋問を受ける
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1859年
吉田松陰が老中間部詮勝襲撃計画を自白し江戸小塚原刑場にて斬首(享年30)、江戸に居た木戸孝允・伊藤博文らが小塚原に埋葬
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
長州藩と水戸藩が幕政改革の盟約(成破の盟約)
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1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860年
宇和島藩士で幕府講武所教授の大村益次郎が木戸孝允の招聘で故郷の長州藩へ転籍、最先端の西洋知識で洋式軍制改革を推進
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1861年
尊攘運動に目覚めた武市半平太が土佐藩庁に願出て江戸出向、薩長の志士と交流し久坂玄瑞に感化される
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1861年
武市半平太が土佐藩郷士を糾合し土佐勤皇党を結成、坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・岡田以蔵ら192人が加盟
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1861年
和宮降嫁の勅許、薩長土の尊攘派志士が三藩主上洛を約束
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1861年
武市半平太が帰国、破約攘夷への藩論転換運動
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1861年
長井雅楽の航海遠略策が藩論となり長州藩が公武周旋に乗出すが吉田松陰門下の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞らは猛反対
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1861年
久坂玄瑞が長井雅楽の公武周旋を弾劾し和宮降下への反対運動を展開
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1861年
久坂玄瑞・周布政之助が長州藩主毛利敬親の江戸参勤阻止を企てるが失敗し帰国を命じられる
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1862年
坂下門外の変~水戸浪士が老中安藤信正を襲撃
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1862年
和宮降嫁~孝明天皇妹宮の和宮親子内親王と将軍徳川家茂の婚礼
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1862年
武市半平太の土佐勤皇党が佐幕派の執政吉田東洋を暗殺し藩政を掌握、土佐藩主山内容堂は怒りを堪え黙認
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1862年
平野国臣が『尊攘英断録』を薩摩藩に献じ武力討幕を提案、大久保利通は追払うが有馬新七ら精忠組急進派が賛同し上洛した平野は「島津久光の討幕挙兵近し!」と吹聴し尊攘派は狂奔
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1862年
久坂玄瑞が長州で尊攘運動を展開
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1862年
久坂玄瑞が京都へ戻り朝廷に長井雅楽弾劾の建白書を提出
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1862年
長州藩が長井雅楽の「航海遠略策」を朝廷に建白するが老中安藤信正の失脚により公武周旋を断念、長井は失脚し木戸孝允・久坂玄瑞ら尊攘派が優勢となる
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1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らが「四奸二嬪」を弾劾し岩倉具視を辞官隠居へ追込む
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1862年
久坂玄瑞が長井雅楽の襲撃を企てるが中止し自主して京都長州藩邸で謹慎を命じられる
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1862年
武市半平太の工作により土佐藩主山内豊範が京都へ立寄り国事周旋の勅命を受ける
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1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
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1862年
久坂玄瑞が『廻瀾條議』を長州藩に上書
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
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1862年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
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1862年
久坂玄瑞が『解腕痴言』を長州藩に上書
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
久坂玄瑞が江戸入り、長土連携のため世子毛利定広と山内容堂の酒宴をアレンジ
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1862年
平井収二郎・中岡慎太郎土佐勤皇党の「五十人組」が東上
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士が神奈川外人襲撃を企てるが土佐藩の横槍で中止
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士がイギリス公使館焼き討ち
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1862年
会津藩主松平容保が京都守護職として入洛
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1863年
伊藤博文・山尾庸三が江戸で国学者の塙次郎(保己一の子)を暗殺
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1863年
京都守護職松平容保の配下に壬生浪士組(新撰組)結成
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1863年
久坂玄瑞・中岡慎太郎・山縣半蔵が志士を歴訪し京都へ凱旋
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1863年
高杉晋作・伊藤博文らが吉田松陰の遺骸を掘出し世田谷若林に改葬
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1863年
長州藩で久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作ら尊攘派が実権を掌握し公武合体派の長井雅楽が自害
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
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1863年
久坂玄瑞が長州に戻り入江九一・吉田稔麿・山縣有朋ら松下村塾生を糾合し光明寺党を結成
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1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
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1863年
青蓮院宮から令旨の一件を聞いた山内容堂が土佐へ戻り吉田東洋暗殺犯の捜索と土佐勤皇党の粛清を開始
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1863年
長州藩の高杉晋作が奇兵隊を創設、一流蘭学者の大村益次郎が長州藩諸隊の洋式軍制改革・軍備増強を推進、久坂玄瑞の光明寺党から幹部を出す
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1863年
高杉晋作の奇兵隊が下関の前田砲台を再建し対岸の小倉藩領田の浦を占拠し砲台を建設
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1863年
尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺される
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1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
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1863年
福井藩の松平春嶽・横井小楠が挙藩上洛計画を企てるが中根雪江ら守旧派の反対で決行直前に中止
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1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
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1863年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
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1863年
山内容堂が武市半平太ら土佐勤皇党幹部を投獄
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1863年
中岡慎太郎が七卿落ちの情勢を探るため周防三田尻へ出向
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1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
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1863年
長州藩で俗論党が盛返すが高杉晋作が奇兵隊を小郡へ転陣し山口政庁を威嚇、高杉と久坂玄瑞が政務座役に就く(高杉は奇兵隊総管を退き河上弥市・滝弥太郎に託す)
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1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1863年
長州藩で世子毛利定広の上洛決定、真木和泉の扇動により出兵論が過熱
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1863年
土佐浪士の中岡慎太郎が上京し長州藩復権運動
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1863年
久坂玄瑞が長井藩主毛利敬親の使者として京都に先発
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1863年
長州藩尊攘派が俗論党の坪井九右衛門を逮捕し野山獄で処刑
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1864年
高杉晋作が暴発寸前の遊撃軍の制止に赴くが来島又兵衛に妨害され二度目の脱藩事件を起し上方へ出奔
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1864年
高杉晋作が来島又兵衛・久坂玄瑞らの激発を抑えるべく京都で長州藩復権運動、島津久光要撃を企てる
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1864年
長州藩が高杉晋作を召還し脱藩罪により野山獄へ投獄
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1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
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1864年
参預会議瓦解を受けて久坂玄瑞が長州藩庁に即時出兵を進言
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1864年
徳川慶喜が将軍後見職を辞して江戸幕府を離れ禁裏御守衛総督となり京都政局を牛耳る
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1864年
天狗党の乱~武田耕雲斎ら水戸尊攘派の暴発と瓦解
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1864年
伊藤博文・井上馨がイギリス留学から急遽帰国、横浜でオールコック英公使より藩主宛親書を授かり長州藩で不戦工作
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1864年
池田屋事件
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1864年
長州藩世子毛利定広の上洛・出兵に最後まで反対した周布政之助が逼塞に処される
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1864年
来島又兵衛の遊撃軍300人が上方へ発進し久坂玄瑞・真木和泉が率いる諸隊が続く
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1864年
禁門の変、久坂玄瑞が京都鷹司邸にて自刃(享年25)
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1891年
吉田松蔭・高杉晋作・久坂玄瑞・周布政之助・武市半平太・中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎・平野国臣・有馬新七・宮部鼎蔵ら明治維新の功労者に追贈正四位(有馬のみ従四位)
久坂玄瑞の交遊録
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毛利敬親
主君にして良き理解者
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毛利定広
敬親養嗣子の長州藩世子
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吉松淳蔵
寺子屋の先生
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吉田松陰
大師匠
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高杉晋作
松下村塾の双璧
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吉田稔麿
松下村塾の四天王・光明寺党同志
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入江九一
松下村塾の四天王・光明寺党同志
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伊藤博文
松下村塾生・高杉舎弟
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山縣有朋
松下村塾生・光明寺党同志
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前原一誠
松下村塾生
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品川弥二郎
松下村塾生
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山田顕義
松下村塾生
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赤根武人
松下村塾生・光明寺党同志
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寺島忠三郎
松下村塾生
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野村和作
入江弟
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富永有隣
松陰舎弟
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木戸孝允
松蔭門下の兄貴分
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大村益次郎
木戸舎弟
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井上馨
高杉舎弟
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周布政之助
正義派首領
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長井雅楽
正義派だが政敵
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滝弥太郎
光明寺党同志
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河上弥市
光明寺党同志・生野の変で戦死
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来島又兵衛
困った過激派
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浦靱負
正義派家老
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益田弾正
正義派家老
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椋梨藤太
俗論党首領
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宮部鼎蔵
松陰の親友
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梅田雲浜
貧乏同志
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加藤有隣
水戸の先輩
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佐久間象山
松陰の師匠
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横井小楠
福井の先輩
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三条実美
長州系公卿
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姉小路公知
長州系公卿
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岩倉具視
「四奸二嬪」の政敵
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真木和泉
困った扇動家
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平野国臣
困った扇動家
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山内容堂
武市を殺した土佐国主
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武市半平太
土佐勤皇党首領・尊攘運動のパートナー
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吉村寅太郎
土佐の同志
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坂本龍馬
薩摩系土佐浪士
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中岡慎太郎
長州系土佐浪士
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島津久光
薩摩藩国父・政敵
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西郷隆盛
薩摩の謀臣
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大久保利通
薩摩の謀臣
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小松帯刀
薩摩の謀臣
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有馬新七
薩摩の過激派
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井伊直弼
松蔭の仇
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徳川家茂
上洛させた将軍
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徳川慶喜
禁門の変の戦争相手
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松平容保
禁門の変の戦争相手
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松平定敬
容保実弟の京都所司代
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近藤勇
新撰組局長
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土方歳三
新撰組鬼の副長
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松平春嶽
慶喜の傅役
久坂玄瑞と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 90点
久坂玄瑞は、吉田松蔭の「草莽崛起論」を忠実に受継いで土佐藩の武市半平太や真木和泉の浪士グループと提携し、長州藩尊攘派志士のリーダーとして藩論を「破約攘夷」へ転換し一時は中央政局を主導した。八月十八日政変・禁門の変で木っ端微塵に砕け散ったが長州藩を維新運動の最前線へ引きずり出し、久坂玄瑞の遺志を継いだ高杉晋作や木戸孝允が藩政を奪回して幕府に再挑戦し第二次長州征討を撃退、薩摩藩を引込んで討幕を果した。
減点 -10点
久坂玄瑞は、吉田松蔭譲りの観念論者で自作自演の朝廷の権威を過大評価し、過激な攘夷運動を嫌う孝明天皇の真意を見誤り八月十八日政変に至っても朝議回復に固執し禁門の変の暴発を引起した。久坂玄瑞は、才気煥発で信念を貫いた一流の志士であったが環境適応力や柔軟性に難があり、吉田松蔭が「志壮気鋭、これをめぐらすに才をもってす」と懸念したように策士策に溺れる結果となった。結局、討幕を成遂げたのは早々に朝廷の権威や志士運動に見切りを付け幕府に対抗するには長州藩が実力を養うしかない(防長割拠論)と喝破した高杉晋作と、融通無碍で逃亡を恥とせず禁門の変を生延びた木戸孝允らであり、久坂玄瑞は維新の導火線役は果したが硬骨過ぎて自ら非業の死を選んだ。