高杉晋作の長州維新に貢献、維新後は貪官汚吏の筆頭格と批判されつつも親友伊藤博文の政策を支え三井財閥・渋沢栄一・原敬らを援助した明治政財界の重鎮
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
井上 馨
1836年 〜 1915年
60点※
家系・子孫
- 井上氏は清和源氏の一流で安芸に土着し国人領主となったが、同格の国人から勢力を伸ばした毛利弘元の家臣団に組込まれた。井上元兼ら「井上党」は弘元次男の毛利元就の家督相続を援けたことで主家を凌ぐ権勢家となり、専横を憎む元就の謀略により粛清された。ただ、一門の多い井上党のなかには粛清を免れ存続を赦された家もあり井上就在もその一つ、子孫の井上馨の家は家禄100石の大組士で、高杉晋作(200石)・桂太郎(125石)らと同じ中級藩士であった。井上馨は志道家に入嗣した後に井上家に復籍したが、志道家も毛利元就の代から続く譜代長州藩士で禄高は250石であった。井上馨は男児を生さず、兄井上光遠の次男勝之助を養嗣子とし侯爵井上家を継がせたが、勝之助も男児に恵まれなかった。男系の幸薄い井上馨だが閨閥づくりに励み、特に桂太郎とは濃い縁戚関係を結んだ。桂太郎の次男三郎を実娘千代子の婿養子にとって侯爵井上家の3代目とし、桂太郎の最後(5番目)の妻可那子を養女にした。井上三郎・千代子夫妻の間に生れた井上光貞は、昭和初期に『日本国家の起源』『日本の歴史第一巻・神話から歴史へ』など一般読者に分り易い概説書を著して古代史ブームに火をつけ、大戦後はマルクス主義全盛期にあっても実証主義的立場を貫き歴史学に独自の方法を築いた。「光貞史学」の根底には、常に貴族の誇りが貫かれていると評する人もいる。男児の無い伊藤博文は井上馨の甥の博邦に公爵伊藤家を継がせ、原敬は井上馨の後妻武子の連子(実父は薩摩人の中井弘)貞子を妻に迎えたことで出世し、鮎川義介は母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し日産コンツェルン創業者となった。閨閥家の井上馨は養子女縁組を乱発したが、岸信介・佐藤栄作兄弟の大叔父(母である佐藤茂世の伯父)井上太郎も養子の一人といわれる。
- 原敬は、祖父の原直記芳隆が盛岡藩の家老という名門の出自で、決して「平民宰相」ではなかった。奥羽越列藩同盟に加担した東北諸藩士は維新後「賊軍」扱いされたが、原敬は中井弘の娘貞子との結婚で出世の糸口を掴んだ。中井弘は、薩摩藩を脱藩し、後藤象二郎の世話でイギリスに留学、長崎で坂本龍馬らと交わり、幕末時の身分は宇和島藩士という奇人で、維新後は外国事務局に出仕し同職の伊藤博文や大隈重信らと親しく付き合い、パークス英公使襲撃事件で頭を斬られながら暴漢を倒し有名人になった。中井弘は新橋芸者の新田武子を内妻とし貞子を産ませたが、脱藩罪尋問で鹿児島へ召還され武子を大隈重信に預けて単身帰郷した。が、いつの間にか武子は井上馨と恋仲になり、井上は戻って来た中井弘に「一生添遂げる」と誓って武子と結婚した。井上馨が「鹿鳴館外交」を打上げると美貌の外務卿夫人井上武子は「鹿鳴館の華」と賞された。中井弘の方は、薩摩人ながら井上馨・伊藤博文の長州閥に属し滋賀県知事・京都府知事・貴族院議員と栄進した。さて原敬は、政界首脳に顔が広い中井弘の実子で養父は井上馨外務卿という貞子を妻に迎えた直後に天津領事に大抜擢され、陸奥宗光外相の腹心として活躍、伊藤博文の政友会に迎えられ総裁を継いで首相に上り詰めた。令嬢育ちの原貞子は家事が一切出来ないうえ病弱で子も産まなかったが、原敬は東北人らしい辛抱強さで甲斐甲斐しく妻に仕えた。が、中井弘が没し政界に地歩を固めた原敬が新橋芸妓の浅を囲い妾宅に転居すると、貞子はなんと不倫の男児を懐妊、原は「不貞の妻」を離縁し浅を正妻とした。「平民宰相」原敬は終生受爵を固辞し、無嗣のため兄の次男貢を養子にとり家督を継がせた。
- 位人臣を極めたした伊藤博文には藤原姓とか河野道有の子孫といった付会がなされたが、伊藤家も父の生家である林家も庶民の家柄である。父の林十重蔵は周防熊毛郡の農民だったが「中間」水井武兵衛に入嗣し、養父が足軽伊藤弥右衛門に入嗣したため伊藤姓となった。足軽は中間よりワンランク上だが、いずれも藩士の雇人たる卒族身分であり、実態は農民同然で武士扱いされなかった。吉田松陰の松下村塾に学んで正義党に連なり木戸孝允の計いで長州藩士となった伊藤博文は、「松下村塾の四天王」入江九一の妹すみ子を娶り新婦は伊藤家に住したが、新郎は間もなくイギリス留学へ旅立ち翌年帰国してから初対面、一夜限りの契りを交した後は一度も家に寄り付かず、結婚3年ですみ子を離縁し下関稲荷町の置屋「いろは」の芸妓(体裁は養女)の梅子を落籍せて妻とした。罪滅ぼしのつもりか、伊藤博文は明治維新後にすみ子の再婚相手に官職を世話している。長女の生子が嫁いだ末松謙澄は、新聞記者から政界入りして岳父の伊藤博文に仕え、伊藤内閣で逓信大臣・内務大臣を務め枢密顧問官として大日本帝国憲法の策定にあたった。末松謙澄が幕末長州藩の動向を鮮明に著した『防長回天史』は今なお史料的価値が高い。男児を授からなかった伊藤博文は井上馨の甥の博邦を養嗣子に迎え公爵伊藤家を継がせた。伊藤博邦は、ドイツ留学を経て宮廷官僚となり貴族院議員を務めた凡庸な人物、妻たまの父親は横浜屈指の豪商で明治政府のスポンサー役を果した高島嘉右衛門である。博邦嫡子の伊藤博精の妻は高橋是清の孫娘福子、次男の伊藤博春は旧長州藩家老の清水家に入嗣し、次女の十四子は三共製薬の創業家である塩原家に嫁いだ。伊藤博文は男児が無かったこともあり閨閥や家産に恬淡だったが、伊藤家は現代でも知る人ぞ知る名門である。
- 桂太郎の父桂與一右衛門は知行125石の馬廻役で長州藩の上士身分であった。母喜代子の兄中谷正亮は藩校明倫館きっての秀才といわれ、吉田松陰の親友で松下村塾の後援者であり、木戸孝允とも親交があった。桂太郎は好色で、しばしば新聞ダネにもなった。最初と2番目の妻は離婚、3番目と4番目の妻はそれぞれ一男一女をもうけたが病没、5番目の可那子(井上馨の養女)が二男一女を産んだ。日露戦争勝利で公爵に栄達した桂太郎は方々で浮名を流し、日比谷焼打事件の折には愛人お鯉の妾宅に怒れる民衆が押しかける騒ぎとなった。
- 鮎川家は中級以上の長州藩士だったが、明治維新後に没落し一家は困窮した。鮎川義介は、母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し出世コースに乗った。鮎川義介には3人の姉妹があり、妹のキヨは久原財閥創始者の久原房之助に、フジは「福岡の炭鉱王」貝島太市に嫁いだ。鮎川義介は、高島屋創業家の飯田二郎の長女美代を妻に迎え、二男一女をもうけた。長男の鮎川弥一は、第二次大戦後に鮎川義介が興した中小企業助成会を引継ぎ、テクノベンチャーに改組してベンチャーキャピタル事業を行ったが、日産・日立の事業には関与できず鮎川家は創業家の名を留めるのみとなった。テクノベンチャーを承継した子の鮎川純太は「日産創業家」の名声を支えに細々と世過ぎするが、日本振興銀行を経営破綻させ実刑を受けた木村剛など怪しい人脈と繋がり、また杉田かおるとの離婚騒動がマスコミを賑わせた。義介次男の鮎川金次郎は、雪村いづみとの婚約を一方的に宣言して話題を集め、史上最年少の30歳で参議院議員に当選するも選挙違反容疑で議員辞職に追込まれ、同じく参議院に議席を得ていた父の鮎川義介も引責辞任する羽目になった。義介娘の春子が嫁いだ西園寺不二男は西園寺公望の孫で、ゾルゲ事件で逮捕され廃嫡された兄の西園寺公一に代わり37代当主を継いだ人物である。長州閥政商の鮎川義介には著名人の縁戚が多く、大叔父井上馨の閨閥関係のほか、岸信介・佐藤栄作兄弟は縁戚で松岡洋右はその親戚、日本水産創業者の國司浩助は兄弟同然に育った幼馴染である。
- 長州藩士の佐藤信寛は明治維新後に島根県令に任じられ長州閥の伊藤博文らと誼を通じ、弟の太郎を井上馨の養子に出したといわれ(陸軍少佐井上太郎)、日産コンツェルン創業者の鮎川義介も佐藤家の親戚である。信寛の嫡子で山口県議会議員を務めた佐藤信彦は、娘の茂世の婿養子に同郷田布施の岸要蔵の三男で山口県庁官吏をしていた秀助を迎え分家を立てさせた。田布施に戻り酒造業を営んだ佐藤秀助は、茂世夫人との間に5子を生し、長男の市郎に佐藤家を継がせ、次男の信介は実兄岸信政の一人娘良子の婿養子に出し、三男の栄作は生家に留めた。佐藤秀助の妹さわは山口中学教諭の吉田祥朔に嫁ぎ、長男の吉田寛は吉田茂(家系は別)の長女桜子と結婚している。さて、岸信介・良子夫妻は一男一女を生し、長男の岸信和は地元の宇部興産の勤め人となったが(西部石油会長へ転出)、長女の洋子が嫁いだ安倍晋太郎が政界へ進み岸信介の後継者となった。なお、岸信和に子が無かったため、安倍晋太郎の兄信夫が入嗣し岸家を継いでいる。安倍晋太郎は、東大法学部を出て毎日新聞記者となったが、石橋湛山内閣で外相の任にあった岸信介の秘書となり洋子と結婚、岸の首相在職中に亡父安倍寛の地盤を継ぎ(旧山口1区)衆議院議員に初当選した。安倍晋太郎は、1963年の選挙で落選し岸信介を慌てさせたが、次回選挙から没するまで議席を守り(当選11回)自民党幹事長・通産相・外務相などを歴任した。岸信介直系の「政界のプリンス」安倍晋太郎は、脇が甘いので「プリンスメロン」と揶揄されつつ、共に「ニューリーダー」と称された竹下登・宮澤喜一を凌ぎ次期総理総裁は確実といわれたが目前で病没した。地盤を継いだ次男の安倍晋三は、首相となって亡父の無念を晴らし、祖父岸信介が果たせなかった憲法改正・再軍備に挑んだ。さて、岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父(茂世の兄)佐藤松介の妻藤枝は松岡洋右の妹であり、娘の寛子は従兄弟の佐藤栄作に嫁いで二男を産み、次男の佐藤信二が栄作の地盤を継いで衆議院議員となった。
井上馨と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照