「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み「魔王」長野主膳の暗躍で大老に就き安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で反抗勢力を大弾圧したが桜田門外の変で横死し尊攘運動・幕府不要論が勃興
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照井伊 直弼
1815年 〜 1862年
40点※
井伊直弼の寸評
井伊直弼の史実
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1815年
13代彦根藩主井伊直中の十四男井伊直弼が彦根城にて出生(当時の彦根藩主は長兄の井伊直亮)
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1817年
イギリス船が浦賀に来航
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1824年
イギリス捕鯨船員の常陸上陸事件、徳川斉昭の水戸藩を中心に攘夷熱が高まる
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1825年
水戸藩の会沢正志斎が尊王攘夷の思想書「新論」を著作
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1825年
異国船打払令
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1828年
シーボルト事件
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1829年
徳川斉脩の急死に伴い弟の徳川斉昭が9代水戸藩主に就任、水戸学に基づき尊皇攘夷運動を牽引
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1830年
鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる
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1837年
水戸藩主徳川斉昭と水戸学派が実権を掌握し藩校弘道館を開設し藩政改革を始動
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1841年
天保の改革(~1845)~老中水野忠邦による重農主義復古政策
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1842年
部屋住みの井伊直弼が国学者の長野主膳と親交を結ぶ
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1844年
水戸藩守旧派の工作により幕府が徳川斉昭を隠居・謹慎処分、嫡子の徳川慶篤が10代藩主となる
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1845年
水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる
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1846年
フランスが琉球の開国を要求
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1846年
井伊直元が死去し弟の井伊直弼が彦根藩世子となる
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1850年
薩摩藩で島津斉彬の襲封を支持する西郷隆盛・大久保利通らが若手藩士グループを結成(精忠組に発展)
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1850年
12代将軍徳川家慶・老中阿部正弘が薩摩藩主島津斉興に引退勧告
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1850年
佐賀藩が日本初の反射炉の実証炉を建設し洋式砲の鋳造を開始
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1851年
島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手
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1851年
佐賀藩が洋式技術導入のため精煉方を開設
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1852年
オランダ商館長が長崎奉行にペリー来航を予告、佐賀藩主鍋島直正が軍備を増強
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1852年
松平容敬が死去し養嗣子の松平容保が9代会津藩主となる
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
徳川斉昭が江戸防備のため大砲74門を幕府に献上、老中安倍正弘の要請により幕府海防参与に就任
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1853年
海防参与徳川斉昭の献策により幕府が大船建造を解禁
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1853年
徳川家定が13代将軍就任、将軍継嗣問題が勃発
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1853年
老中阿部正弘に抜擢された江川坦庵が佐賀藩主鍋島直正の技術支援を得て伊豆韮山に反射炉を設置
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1853年
結城朝道ら諸生党が井伊直弼を後ろ盾に藩政に復帰し松平頼胤(支藩の讃岐高松藩主)の水戸藩主擁立を画策
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
ロシア艦隊が長崎に来航し通商を求める
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1854年
薩摩藩主島津斉彬が参勤交代で江戸入り、中小姓として随行した西郷隆盛を江戸藩邸で御庭方役に任じ直属の謀臣に抜擢
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1855年
安政の大地震、徳川斉昭のブレーン藤田東湖が圧死
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1855年
徳川斉昭の要求により南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭、堀田正睦が老中首座就任
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1855年
幕府がオランダから蒸気船観光丸の寄贈を受け長崎に海軍伝習所を開設、旗本の勝海舟ら1期生が入学
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
水戸藩の石川島造船所(IHIの前身)が洋式帆船「旭日丸」を建造し幕府に献上
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1856年
徳川斉昭と水戸天狗党が藩主徳川慶篤の暗殺未遂罪により諸生党首領の結城朝道を死罪に処す
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1856年
薩摩藩主島津斉彬が一門の島津敬子(篤姫)を将軍徳川家定に入輿させる・西郷隆盛が諸業務を担当
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1857年
阿部正弘死去
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1858年
佐賀藩主鍋島直正が洋式船舶の建造・修理・運用のため三重津海軍所を開設
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
佐賀藩主鍋島直正が大老井伊直弼と交流を深める
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
徳川家茂が14代将軍就任、一橋派が将軍継嗣問題に敗北
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1858年
薩摩藩主島津斉彬が幕府抗議のため藩兵5千を動員し上洛を計画
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1858年
西郷隆盛・有馬新七が島津斉彬に先発して上洛し準備工作
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1858年
薩摩藩主の島津斉彬が急死し率兵上洛計画が頓挫(享年50。毒殺説あり)、養嗣子(島津久光の子)の島津忠義が12代藩主に就任し10代藩主の島津斉興(斉彬・久光の父)が実権を奪回
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1858年
江戸城無断登城事件、大老井伊直弼が無断で江戸登城した徳川斉昭・徳川慶喜・松平春嶽・徳川慶勝を謹慎に処す
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
安政の大獄で大老井伊直弼が一橋派諸侯の処分を断行、徳川斉昭・慶喜は蟄居に処される
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1859年
安政の大獄により吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らが処刑される
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1859年
島津斉興の死により島津久光が藩主島津忠義の国父として薩摩藩の実権を掌握
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
幕府が通商条約批准のための遣米使節を派遣、勝海舟艦長の咸臨丸が同行(随員に福澤諭吉ら)
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
幕府が井伊直弼の大老免職後に死を公表、庶長子の井伊直憲が16代彦根藩主となる
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1862年
彦根藩が長野主膳を縛り首で処刑
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1862年
彦根藩が井伊直弼の安政の大獄を咎められ30万石から20万石へ減封される(後に3万石加増)
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1884年
華族令公布、井伊直憲が伯爵を受爵
井伊直弼の交遊録
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井伊直政
偉大な彦根藩祖
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井伊直中
父・13代彦根藩主
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井伊直亮
長兄・14代彦根藩主
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井伊直元
早世した次兄
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井伊直憲
庶長子・16代彦根藩主
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長野主膳
異能の謀臣
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徳川家斉
11代将軍
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徳川家慶
12代将軍
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徳川家定
篭絡した13代将軍
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徳川家茂
擁立した14代将軍
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安倍正弘
一橋派寄りの老中
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松平乗全
子分の老中
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松平忠固
子分の老中
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間部詮勝
子分の老中
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堀田正睦
自派だと思っていた老中
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水野忠央
紀州の盟友
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松平容保
会津の盟友
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鍋島直正
佐賀の親友
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島左近
長野の密偵
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猿の文吉
長野の密偵
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徳川斉昭
政敵一橋派の首領
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徳川慶喜
斉昭七男・一橋派の旗印
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徳川慶篤
斉昭嫡子・10代水戸藩主
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会沢正志斎
斉昭の師
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藤田東湖
斉昭謀臣
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関鉄之助
桜田門外事変指揮者
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結城朝道
斉昭が殺した諸生党首領
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島津斉彬
一橋派の四賢候
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篤姫
徳川家定に入輿した斉彬従妹
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西郷隆盛
取り逃がした斉彬寵臣
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月照
取り逃がした勤皇僧
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有村雄助
桜田門外事変有志
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有村次左衛門
桜田門外事変有志
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松平春嶽
一橋派の四賢候
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橋本左内
処刑した春嶽謀臣
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山内容堂
一橋派の四賢候
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吉田東洋
容堂謀臣
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伊達宗城
一橋派の四賢候
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黒田長溥
斉彬大叔父・福岡藩主
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梅田雲浜
処刑した尊攘派志士
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吉田松陰
処刑した尊攘派志士
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頼三樹三郎
処刑した尊攘派志士
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ペリー
条約交渉の相手
井伊直弼と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 70点
井伊直弼は、ペリー来航後の混迷期に「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み大老の強権を発動して安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で一橋派諸侯と尊攘派志士を弾圧したが桜田門外の変で水戸浪士に殺害された。幕末一の悪役である井伊直弼の登場と劇的な大老の暗殺劇は、武力政権たる徳川幕府の権威を著しく損なわせ、幕府不要論を呼起す契機となり、雄藩や志士の政治運動がエスカレートする一大画期となった。事なかれ主義の幕閣で敢えて憎まれ役を買って出た勇気と野心、有能を謳われた徳川斉昭・島津斉彬・松平春嶽を打倒し独裁体制を築いた行動力は政治家として評価すべきだろう。
減点 -30点
開国政策を断行した井伊直弼だが、外圧への対応策とか政治体制をどうすべきかといった政治理念よりも「攘夷の姿勢を見せつけてから開国し洋式軍備を整え西洋列強と対峙すべし」と主張する「四賢候」への対抗上、安政五ヶ国条約の無勅許調印を強行したに過ぎないようにみえる。徳川家茂の将軍擁立も同様で、徳川慶喜を推す一橋派を退け自身が幕政を握るための政治的行動だった。徳川慶喜が「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評したように、現代風にいえば井伊直弼は政治家ならぬ政治屋であり、また長野主膳への依存度が強すぎたせいか意外にキャラクターも薄い。極めつけは桜田門外の変の大失態で、最高位の大老が白昼しかも江戸城で襲撃され落命した事件は前代未聞・驚天動地の出来事であり、武力に拠って立つ徳川幕府の威信を大きく傷つけた。