戦後「自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」を掲げトランジスタラジオで台頭、「東芝のモルモット」と揶揄されつつ新分野に挑み続け盛田昭夫と二人三脚で「世界のソニー」を築いた「技術立国」の立役者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
井深 大
1908年 〜 1997年
80点※
家系・子孫
- 井深大の家系は会津藩の上級藩士で、飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎は親戚であるという。父の井深甫は東京高等工業学校(東京工大)電気化学科卒の技術者で古河鉱業へ進んだが結核性カリエスに罹り31歳で早世、3歳の井深大は母さわと共に父方の祖父母を頼り愛知県安城市へ移住した。母が再嫁したため井深大は祖父母に養育されたが、猛勉強して神戸第一中学校(神戸高校)に合格し神戸の母宅へ転居、のち上京し第一早稲田高等学院から早稲田大学理工学部へ進み亡父と同じ技術者となった。なお、母の学友野村ハナは『銭形平次』を著した野村胡堂の妻であり、野村夫妻から厚情を受けた井深大は生涯恩人と敬慕した。井深大は前田多門の娘勢喜子と結婚し一男二女をもうけた。前田多門は東大卒の内務官僚で後藤新平の側近、戦後最初の東久邇宮稔彦王内閣で文相となったが公職追放に遭難した。社会復帰した前田多門は石坂泰三・石橋湛山ら財界人を紹介するなど井深大を後援し、名誉職ながら東京通信工業(ソニー)の初代社長に就いている。井深大は勢喜子夫人と不仲で長年別居を続けたが前田多門の死に伴い協議離婚、57歳で黒沢淑子と再婚し幸福な晩年を送った。前妻が産んだ長男の井深亮は『父 井深大』を上梓している。なお次女は知的障害者であり、井深大が積極的に社会奉仕活動を行う動機になったとされる。
井深大と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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