会津蘆名氏を滅ぼして南奥羽150万石を領し佐竹義重・上杉景勝を脅かした「独眼流」、豊臣秀吉・徳川家康の隙を窺い減封されるも外交と演出で仙台藩62万石・伊予宇和島藩10万石を保ち野望を秘めて慶長遣欧使節を派した天下御免の横着者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
伊達 政宗
1567年 〜 1636年
90点※
家系・子孫
- 伊達氏は、藤原北家山蔭流の常陸豪族で、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従った常陸入道念西が陸奥伊達郡を与えられ所名を冠した。室町幕府に接近し陸奥守護職を得た伊達稙宗は、分国法「塵芥集」など統治体制を整備し、主筋の奥州探題大崎義直(斯波氏)を降して次男義宣を入嗣させ、葛西氏には七男晴清を送込み、羽州探題最上義守(斯波氏)・相馬・蘆名氏も臣従させて南奥羽11郡余に君臨した。勢い盛んな伊達稙宗は娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、自重を説く嫡子晴宗に幽閉されるも脱出し奥羽諸豪を巻込んで6年に及ぶ天文の乱に発展、将軍足利義輝の仲裁により晴宗の家督相続で決着するが伊達氏は求心力を失い、晴宗勝利の立役者蘆名盛氏が台頭した。西山城から出羽米沢城に移った伊達晴宗は、弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し、岩城重隆の娘を娶って六男五女を生し男児は岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児は二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力を回復、将軍義輝より奥州探題に補されたが、相馬盛胤(顕胤の嫡子)の反抗に手を焼いた。後嗣の伊達輝宗は、権臣中野宗時を追放して晴宗を隠居に追込み、蘆名氏と協調しつつ勢力を拡大、織田信長・柴田勝家・北条氏政と提携し新発田重家を支援して上杉景勝を圧迫し、田村清顕の娘愛姫を嫡子政宗の正室に迎え宿敵相馬氏から伊具郡を奪い還して稙宗旧領を回復、蘆名盛隆の横死後幼君亀王丸を後見した。輝宗は最上義守の娘義姫を娶って三児をなし、長男政宗を嫌い次男政道擁立を図る義姫を抑えて18歳の政宗に家督を譲った。伊達政宗は、拉致された輝宗を畠山義継諸共に銃殺し融和路線を放棄、弟の政道を亀王丸の後釜に据える企ては佐竹義重に敗れたが(次男義広が蘆名氏を承継)、義広を攻め滅ぼし諸豪を靡かせて150万石の太守となり、最上義光(義守嫡子)に通じる母義姫を追出し火種の政道を盛毒嫌疑で暗殺した。伊達政宗は十男四女をもうけ、次男忠宗に仙台藩62万石を継がせ、庶長子の秀宗(豊臣秀吉の人質)は宇和島藩10万石を立藩、他の男児は分家の当主に据え、長女は松平忠輝(家康の六男)に嫁がせた。
- 最上氏は、室町幕府管領斯波氏の庶流で、出羽国按察使に任じられ寒河江氏等南朝勢力を平らげた斯波兼頼が山形城に留まり「最上屋形」号から名字を採った。最上氏は羽州探題職を世襲したが(奥州探題は同じ斯波一門の大崎氏)同族の「最上八楯」(天童・延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生)・寒河江氏などが割拠し、伊達稙宗に敗れ軍門に降った最上義定は出羽国人に見放された。家督を継いだ養子の最上義守は、伊達稙宗・晴宗父子の抗争(天文の乱)に乗じ長谷堂城を奪回して独立を果し、将軍足利義輝を後ろ盾に勢力拡大を図るも寒河江兼広に敗れ挫折、娘の義姫を伊達輝宗に縁付けて帰参した(政宗・政道を産む)。長男義光の廃嫡を企てた義守が最上八楯ら国人衆と伊達輝宗に担がれ天正最上の乱が勃発、対抗馬の次弟義時を葬り義守派を確固撃破し伊達氏を退けた最上義光は、大崎義直・清水義氏・天童頼貞の娘を娶って六児を生し、次男家親を徳川家康・三男義親を豊臣秀吉の人質に差出し美貌の駒姫を関白秀次の側室に献上して家の安泰を図った。が、秀次事件に連座した15歳の駒姫が斬刑に処され秀吉を憎んだ義光は家康に臣従、関ヶ原の戦いで上杉景勝の侵攻を防ぎ出羽山形城24万石から57万石へ加増され、家康の覚えが目出度い家親に後を継がせるため長男義康を廃嫡(暗殺)した。最上家親は、不仲の弟義親を攻め殺し、徳川氏への忠勤に励んだが37歳で急逝した(毒殺説あり)。嫡子の最上義俊は酒色に溺れ暴政を敷いたため楯岡光直(義光弟)・鮭延秀綱ら重臣が山野辺義忠(同四男)擁立を画策、孤立した義俊は佞臣松根光広(同甥)を通じて幕府に泣付くも6万石への減封を命じられ、家臣団が頑なに義俊更迭を主張したため最上家は取潰された(最上騒動)。上野山義直(義光五男)と大山光隆(同六男)は配流先で切腹したが、張本人の義俊は近江大森1万石を供され子孫は5千石の交代寄合として存続した。山野辺・楯岡・松根は10余年後に赦免され水戸藩・熊本藩・宇和島藩に仕え子孫は家老職を世襲した。なお鮭延は赦免後に家臣を伴って流転し「乞食大名」と揶揄されたが晩年に5千石で土井利勝に仕官した。
伊達政宗と同じ時代の人物
-
戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照