中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅
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佐々木 小次郎
1555年 〜 1612年
60点※
佐々木小次郎と関連人物のエピソード
- 中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
- 伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
- 宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
- 古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
- 塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3~4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
- 上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
- 柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
- 柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
- 柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
- 丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
- 朝倉氏は、平安時代から武士団を形成して栄えた日下部氏の一流で、本貫地の但馬国養父郡朝倉から名字を採り、越前朝倉氏は南北朝時代に越前へ移住し守護斯波氏に仕えた朝倉広景に始まる。斯波氏は足利将軍家に次ぐ三管領(他は細川・畠山)の名門で、越前・尾張・遠江などの守護を世襲した。斯波氏の重臣に朝倉・織田・甲斐の三家があり、朝倉は越前・織田は尾張の守護代を世襲するうち次第に斯波氏を圧迫して実権を掌握した。応仁の乱が起ると、朝倉孝景(英林)は守護代甲斐常治と共に斯波義敏を追い落とし、甲斐氏も追放して越前守護の座を掴み一乗谷城に拠って戦国大名となった。孝景(英林)の家督は嫡流の氏景・貞景・孝景(宗淳)へ受け継がれたが、いずれも幼少の後嗣を残して早世したため、孝景(英林)の八男で武勇の誉れ高い朝倉宗滴が死ぬまで事実上の当主として君臨した。朝倉宗滴は、越前内戦や応仁の乱で武功を挙げ兄孝景(英林)の政権奪取を支えた敦賀郡司朝倉景冬の娘を妻に迎え、その与党となったが、景冬の嫡子景豊が当主貞景に謀反を起すと寝返って討伐軍に加わり、武功により敦賀郡司職を得た。朝倉宗滴には一児があったが、廃嫡して僧籍に入れ(京都大徳寺住職となった蒲庵古渓といわれる)、貞景の四男景紀を養嗣子とした。豊臣秀吉も織田信長の四男秀勝を養子に迎えて忠誠を顕示しているが、賢明な宗滴は実力者故にお家騒動回避を優先したのかも知れない。朝倉氏は目立って一族の反乱が多い家で、孝景(英林)の五男元景は上述の景豊に加担し、孝景(宗淳)の弟景高も謀反の末に逃亡している。朝倉宗滴没後、孝景(宗淳)の嫡子義景が名実共に朝倉家当主となったが、一族や家臣の内紛が噴出して屋台骨が傾き、陪臣(尾張守護代織田氏の家臣)と見下し続けた織田信長に敗れて根絶やしにされた。徳川幕府の旗本に朝倉氏があるが、家祖の在重は景高の子であるという。
- 浅井氏は、藤原北家閑院流を称する近江の土豪(小谷城主)で北近江守護京極氏に仕えたが、京極騒乱で台頭した浅井亮政が浅見氏らを切従え京極高延を傀儡化して北近江を掌握、南近江守護の六角定頼に圧迫されたが越前の朝倉宗滴に助けられ領国支配を固めた。嫡子の浅井久政は軟弱で、家督相続に逆らう田屋明政(亮政の婿養子)が京極高延を担ぎ反乱、久政は六角義賢(定頼の嫡子)に臣従し越前朝倉氏に助勢を乞うて保身を図った。父の弱腰を見兼ねた嫡子の浅井長政と家臣団はクーデターで家督を奪い六角氏に手切れを通告、攻め寄せた六角軍を撃退し(野良田の戦い)、畿内へ浸出した織田信長と同盟を結び「近国無双の美人」と賞された市を娶って茶々・初・江の三姉妹を生し(信長は少年期に同母妹の市を犯したため「たわけ」と呼ばれたとも)、三好三人衆に通じて敵対する六角義賢を信長と共に滅ぼした。信長が朝倉義景を攻めると浅井長政・久政は反旗を翻したが、金ヶ崎の退き口で挟撃の好機を逃し姉川の戦いで大敗、信長包囲網を結成し抵抗するも近江領を守る豊臣秀吉・竹中半兵衛を攻め破れず、頼みの武田信玄が急死すると直ちに小谷城を攻められ越前一乗谷城の朝倉氏諸共に滅ぼされた。浅井の男系は絶たれ市は再嫁した柴田勝家に殉じたが、女児は数奇な運命を辿った。茶々(淀殿)は、柴田勝家・市を滅ぼし伯父織田信長の天下を奪った豊臣秀吉の側室となり嫡子豊臣秀頼を産んで事実上の当主となったが、無謀にも徳川家康に挑戦し秀頼と豊臣家を破滅へ導いた。初は信長・秀吉に拾われた京極高次に嫁ぎ、江は徳川秀忠(家康の後嗣)に入輿して3代将軍家光を産み、庶女のくすは松の丸殿の侍女・刑部卿局は千姫の乳母で淀殿の側近となった。なお京極高次は、高延の弟高吉の子で人質として信長に仕え、秀吉側室の松の丸殿(妹)・淀殿(従妹)の七光りで出世した「蛍大名」の分際で関ヶ原で東軍に属し若狭小浜藩9万2千石に大出世、嫡子京極忠高は初姫(秀忠の四女)を娶り松江藩26万4千石へ躍進したが無嗣没により讃岐丸亀藩6万石へ減転封となった。淀殿は生家浅井氏の旧主である京極氏出身の松の丸殿を敵視し側室筆頭を争った。
- 細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
- 毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。
佐々木小次郎と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照