山本権兵衛を支えて海軍の軍政を取り仕切り、優れた決断力で国際協調路線・軍縮に舵を切った頭脳明晰なエリート海軍人
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
加藤 友三郎
1861年 〜 1923年
80点※
家系・子孫
- 加藤藤七郎兵衛は広島藩士だが家禄13石の最下層クラス、三男の加藤友三郎は藩校修道館(私立修道学園の前身)に学び海軍兵学校に進んだ(7期生)。幕末広島藩では隣接する長州藩の影響により尊攘運動が盛んで、執政の辻将曹は薩長同盟に加わったが(薩長芸倒幕三藩同盟)、土佐藩の大政奉還論にも加担する二面外交に奔り、切所の鳥羽伏見戦で怯える公家を相手に「薩長の私闘にすべし」と言ったことで面目を失い、広島藩は土壇場で「薩長土肥」から滑り落ちた。さて、男児の無い加藤友三郎は船越隆義を養子に迎えたが、実父の船越衛は辻将曹の子分で戊辰戦争に従い賞典禄を賜るも山縣有朋の山城屋事件に連座し内務官僚に転進、千葉・石川・宮城県知事を歴任し男爵・貴族院議員となった人物である。加藤友三郎の没後、子爵を継いだ加藤隆義は養父と同じ海軍大将に栄達した。加藤友三郎の甥にあたる小林躋造・早川幹夫の兄弟も海軍で大将・中将まで昇進している。加藤友三郎は海軍エリートらしく無愛想で木で鼻をくくる態度を通したが、孫の加藤昇を溺愛し、相好を崩した友三郎が昇を抱く写真が残っている。
加藤友三郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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