室町将軍の家臣から甥今川氏親の駿河守護擁立で今川家の重臣となり、関東公方足利家・関東管領上杉家の内紛に乗じて伊豆・相模二国と小田原を奪取、関東の覇者後北条氏の礎を築いた戦国下克上の先駆者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
北条 早雲
1432年 〜 1519年
80点※
北条早雲と関連人物のエピソード
- 戦国時代の先駆け北条早雲には多くの伝説がある。一説によると、応仁の乱に嫌気がさした足利義視は一時伊勢に隠退したが、随従した北条早雲は義視の帰京後も伊勢に留まり、同地で意気投合した仲間6人(御由緒六家;荒木兵庫・多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・大道寺太郎・在竹兵衛)と盟約し関八州制覇を志して共に駿河今川家に乗り込み、早雲が城持ちになると盟友達は家老として一軍を率い後北条氏の覇業を支えたという。伊豆征服直後の正月二日「一匹の子鼠が杉の大木二本をかじり倒すと、鼠は虎に化した」初夢をみた北条早雲が「子年の早雲が両上杉を倒して関東を征する瑞夢」と喜んだ話も伝わる。所領と兵力を持たない今川家の謀臣が伊豆・相模二国を征するまでに謀略を駆使したのは事実だろう。一説には、伊豆を征服し関東に野心を研ぐ北条早雲は小田原城を望んだが、城主で扇谷上杉家重臣の大森氏頼は一筋縄ではいかない人物で、油断を誘おうと手厚い贈物を遣わして懇親を申し込むも逆に警戒され撥ね付けられた。北条早雲は冒険を避けて堀越公方足利茶々丸追討に専念したが、茶々丸を滅ぼした頃に運よく大森氏頼が病没し子の大森藤頼が立った。それでも早雲はすぐには攻めず、再びせっせと贈物をして若い藤頼を篭絡し攻守同盟まで結ぶに至り、扇谷上杉氏当主定正の落馬死の機に満を持して腰を上げた。使者を小田原に遣って「狩りのため勢子を箱根山に入れたい」と申入れると、油断しきった大森藤頼は機嫌よく了承、勢子に化けた軍勢をまんまと越境させ、日没を待って千頭の牛の角に松明を結びつけ小田原城を急襲、周章狼狽した大森藤頼は命からがら逃げ落ちた。小田原を得た早雲は再び猫被りに戻り、しおらしくも扇谷上杉氏への帰順を願い出て報復をかわし、以後は伊豆・相模の領国経営に専念して上杉氏打倒と関東制覇の夢は子孫に託した。領国からの盲人追放に擬して他国にスパイを送り込んだという話も伝わる。一方、富国強兵の現実的要請からであろうが、占領地の豪族や領民には大いに仁政を施し歓迎をもって迎えられたという。
- 北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。
- 北条氏康の政治力は祖父早雲譲りで戦国時代随一といわれる。領国拡大よりも統治に重きを置き、無理な外征を控えて戦費を抑え他国より低い税負担を実現した。北条領を引き継いだ徳川家康は税率引上げに苦労し、忍者の風魔小太郎(江戸幕府創設直後に処刑)や鳶沢甚内(幕府に帰順し目明し兼古着商支配役を世襲)など北条家遺臣が成した盗賊団の跳梁にも手を焼いた。義戦の名の下に実益乏しい外征に明け暮れ重い戦費負担を強いた上杉謙信とは好対照で、局地戦では敵わなかったものの、家臣と領民の支持が長期持久戦を可能にし広い領土を保つことができた。豊臣政権の太閤検地に先駆けで領内の検地を徹底し度量衡も統一、検地即ち隠田摘発は農民の反発を買うものだが、徴税体制強化の代わりに減税の恩恵を施した。中間搾取排除で領民の負担を減らしつつ一極支配体制を固め、目安箱を設置し、凶作や飢饉の際には柔軟に税の減免を施して酷いときには徳政令を施行、それでも領主層=家臣団や豪商を手懐け得たのは政治力の成せる業であった。北条氏康は、城下町小田原の都市開発にも鮮やかな手腕を見せた。街区や上水道(小田原早川上水)を整備し、全国から商人・職人を呼び寄せて商工業を振興、文化人・芸人を招聘して活気も演出し、清掃にも気を配り、西の山口と並び称される東国最大の都市を築き上げた。戦国期の城郭は、松永久秀の信貴山城や斎藤道三の稲葉山城に代表される山城から経済活動に有利な平城へ移り、末期には堀と防塁で城下を囲い込む巨大要塞(総構え)へ発展したが、小田原城はその画期を為す傑作であり、攻低守高の時代にあって難攻不落を誇った。海外貿易と重商主義を成功させ兵農分離まで到達した織田信長ほど派手ではないが、北条氏康の政治手腕は封建領主としては抜群で領民にとっては最も有難い名君であった。
- 今川氏は、北条早雲を先鋒に駿河・遠江・三河を制圧し海道一の弓取りと称されたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、武田信玄・徳川家康に滅ぼされた名門戦国大名である。1476年駿河守護今川義忠が戦死、扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退けて妹の産んだ氏親を今川家当主に擁立した北条早雲は、論功行賞によって60歳で一城の主となり、今川軍を率いて東奔西走、守護斯波氏を追い払って遠江を今川領に組み込み、自身は伊豆・相模を奪って独立を果した。駿河・遠江の反抗勢力を討平し両国守護に就いた今川氏親は、甲斐・三河へ勢力を伸張、検地や金山開発で経済基盤を固め、分国法『今川仮名目録』を遺し病没した。1536年氏親の嫡子氏輝が後嗣無く死去、次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す国人衆が反乱挙兵するが、北条氏綱の援軍を得た義元が家督争いに勝利した(花倉の乱)。今川義元は三河侵攻に集中すべく武田信虎の娘を妻に迎え和睦するが(甲駿同盟)、怒った北条氏綱は氏親・早雲以来の駿相同盟を解消し東駿河へ侵攻、尾張の織田信秀も三河に攻め寄せた。今川義元は東西挟撃の窮地に立ったが、武田信虎追放、北条氏綱死去、斎藤道三の美濃国獲りに伴う濃尾戦線の加熱と幸運が続き、関東管領上杉氏と結ぶ遠交近攻策で北条氏康を追い詰め東駿河と駿相同盟を回復、1548年三河で織田信秀軍を撃退し(第2次小豆坂の戦い)、岡崎城主松平広忠の死と後嗣(徳川家康)の身柄確保で松平家を属国化した。織田信秀急死と嫡子信長の家督相続で尾張が内乱に陥ると、今川義元は、上杉謙信との対戦で忙しい武田・北条と甲相駿三国同盟を結んで尾張侵攻を開始、松平軍を先鋒に三河の織田勢を掃討し、1560年自ら4万の大軍を率いて攻め込んだが、田楽狭間で織田信長の急襲に遭い討取られた(桶狭間の戦い)。怯懦で享楽に溺れるばかりの嫡子今川氏真は隣国の好餌となり、織田へ寝返った徳川家康に三河を攻め取られ、1569年家康・信玄に遠江・駿河を分捕りにされ滅ぼされた。
- 今川氏は、足利将軍家の連枝で、内部分裂で衰退した本家の三河吉良氏を臣従させて駿河守護となり、足利宗家に次ぐ名門と仰がれた。三河の一土豪に落ちた吉良氏は、桶狭間合戦後に勢力を盛り返し、三河一向一揆の旗頭に担がれて徳川家康を苦しめたが征伐された。江戸時代に入ると、松平清康(家康の祖父)の妹を母とする吉良義定が取り立てられ、吉良荘3000石と高家筆頭の家格を与えられ、儀典の家元として繁栄したが、吉良上野介義央が赤穂浪士に討取られ世論に押された幕府は吉良家を改易に処した。さて、今川氏の繁栄は南北朝争乱で足利尊氏を支えた今川頼国に始まり、頼国の子頼貞は丹後・但馬・因幡の守護に、頼国の末弟範国は駿河・遠江の守護に任じられ、範国の嫡子範氏の系統が今川氏嫡流として駿河守護を世襲した。範氏の弟今川了俊は九州探題として南朝勢力の強い全九州を平定し、戦国初期の今川範忠は古河公方足利成氏の軍勢を撃退して鎌倉を制圧するなど(享徳の乱)、室町幕府の用心棒として強勢を誇った。範忠の嫡子義忠は、斯波氏に守護職を奪われた遠江の奪回に奮戦したが土豪一揆に遭い落命、家督争いが起ったが、北条早雲が上杉氏・太田道灌が推す小鹿範満(義忠の従兄弟)を廃して今川氏親(義忠と早雲の妹北川殿の子)を擁立した。氏親は娘を北条氏康に入輿させ関係を深めた。氏親没後は嫡子氏輝が後を継いだが、10年後に次男彦五郎と同時に死去(謀殺説あり)、正室寿桂尼の子で五男の今川義元が異母兄玄広恵探の反乱挙兵を討平して当主となった(花倉の乱)。氏輝・彦五郎の同時死といい、側室腹の玄広恵探の挙兵といい、太原雪斎による一連の陰謀劇であった可能性が高い。今川義元は、同盟した武田信虎の娘を妻に迎え、娘を武田義信に嫁がせた。徳川家康の悪妻築山殿は義元の姪で養女である。嫡子今川氏真は、再同盟した北条氏康の娘を妻に迎え、北条氏直を猶子に戴いて助勢を哀願したが挽回ならなかった。が、家は滅んでも子作りには励み、範以・高久の二男が誕生、氏真は徳川家康の庇護下で77歳の長寿を全うし、範以の今川氏と高久の品川氏は高家旗本に取り立てられ幕末まで存続した。
- 太田道灌は、江戸城を拠点に東奔西走し古河公方足利成氏を降して関東管領上杉氏に勝利をもたらしたが(享徳の乱)、下克上を恐れる主君に謀殺された戦国初期関東の最高実力者である。中国古典を渉猟して兵法に精通し、30余度の合戦で獅子奮迅の活躍、「山内上杉家が武蔵・上野両国を支配できるのは、私の功である」との自認に値する大功を立てたが、「狡兎死して走狗煮らる」の諺を地で行ってしまった。下克上の時勢が熟す数十年後に登場していれば、主家上杉氏を追落として関東に覇を唱え、同年生の北条早雲を退けたかも知れない。関東管領上杉氏は、山内・扇谷・犬懸・宅間の四家に分れたが、山内家が関東管領を独占し他の三家は分家的存在となった。1416年上杉禅秀の乱を機に上杉氏と鎌倉公方足利氏の対立抗争が激化、1438年将軍足利義教を味方に付けた上杉憲実が足利持氏を討ち鎌倉公方は一旦滅亡するも(永享の乱)、上杉氏が持氏の末子成氏を擁立して鎌倉公方を再興した。が、1454年傀儡の立場を潔しとしない足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺、将軍足利義政の支持を得た上杉氏は成氏勢を下総古河へ押しやり(古河公方)、関東諸豪は真二つに割れ利根川を挟んで対峙し30年に及ぶ大乱へ発展(享徳の乱)、将軍義政は成氏への対抗馬に弟足利政知を送り込むも鎌倉入りを阻まれて伊豆堀越に留まった(堀越公方)。父太田資清から扇谷上杉家家宰を継いだ太田道灌は、武蔵国に河越城・江戸城・岩槻城・五十子陣を築いて防衛体制を敷き、関東管領山内上杉房顕に主君扇谷上杉政真まで合戦で喪いながらも死闘を征し、長尾景春の反乱を討ち平げて、1483年上杉氏勝利で関東大乱を終息させた(都鄙合体)。が、太田道灌の活躍で主家扇谷家の権勢が関東管領山内家を凌駕し両上杉家の対立抗争が勃発、そして3年後太田道灌は権勢を妬む主君扇谷上杉定正に謀殺された。柱石を失った関東諸豪は再び動揺し山内・扇谷の両陣営に別れ再び争乱に突入(長享の乱)、両上杉家は共倒れの途を辿り道灌末期の「当家滅亡」の叫びどおり60年を経て漁夫の利をさらった後北条氏に滅ぼされた。
- 長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
- 長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。
北条早雲と同じ時代の人物
-
戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照