室町将軍の家臣から甥今川氏親の駿河守護擁立で今川家の重臣となり、関東公方足利家・関東管領上杉家の内紛に乗じて伊豆・相模二国と小田原を奪取、関東の覇者後北条氏の礎を築いた戦国下克上の先駆者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
北条 早雲
1432年 〜 1519年
80点※
家系・子孫
- 北条早雲は、小説などで素浪人から成り上がった戦国下克上の嚆矢とされてきたが、室町将軍家の重臣で伊勢平氏を継ぐ名門の出自とするのが通説となっている。通説によると、伊勢氏当主で母方の祖父貞国は政所執事を勤め、同職を継いだ伯父の貞親は8代将軍足利義政の傅役で「おやじどの」と呼ばれ信任が厚かった。父の盛定も伊勢氏の出で、将軍義政の申次衆にして備中荏原荘の領主であった。とはいえ衰亡する足利将軍家の郎党程度では象徴的権威しかなかったであろう、40歳を過ぎた北条早雲は妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川家の被官となり、甥龍王丸(今川氏親)の当主擁立に働いて出世の糸口を掴んだ。北条早雲は、室町幕府奉公衆小笠原政清の娘で正室に迎えた南陽院殿に嫡子氏綱を産ませたほか、多くの男児に恵まれた。伊豆韮山城主北条氏の名跡を継ぐ際に未亡人の婿に納まったとする説もある。早雲の家督を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を公称して武蔵国に勢力を伸ばし、その嫡子北条氏康の代に関東全域に覇を唱えたが、次代の北条氏政・氏直父子が豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぼされた。北条早雲は「三代目の頃には両上杉家は亡んで関東一円は北条家のものになるに相違ない。金銀の蓄財は三代目まででよく、大国主となれば金銀を使わずとも国主の徳望を以て人心を掌握できる」と語ったというが、上方勢の圧倒的な物量戦術と天下統一の時流には歯が立たなかった。氏直病没により後北条氏の嫡流は絶えたが、家督を継いだ叔父の氏規が河内狭山藩を立藩して大名の末席に連なり幕末まで存続した。なお、氏直の落胤が伊達政宗の仙台藩士となり桑島に改姓して存続したとする異聞があり、幕末の勤皇志士桑島孟を経て子孫は今日に続いているという。
北条早雲と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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