堺の豪商出身の侘茶の完成者で見方によっては大山師、茶頭として織田信長に出仕し本能寺事変後は豊臣秀吉に仕え「利休道具」の錬金術と「一期一会」の接待術で大名統治に貢献するが突如逆鱗に触れて死罪、子孫の「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて本願寺と並ぶ巨大教団に発展
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千 利休
1522年 〜 1591年
50点※
家系・子孫
- 千利休の本姓は田中氏で、清和源氏新田義重の庶長子で安房里見氏の祖である里見義俊の子孫を自称したが信憑性は低い。祖父の千阿弥は時宗の阿弥号を称したから遊芸民であったと考えられ、8代将軍足利義政の同朋衆を務めたというが応仁の戦乱を逃れ和泉堺に移住した。子の田中与兵衛は魚問屋で財を成し倉庫業も兼ねて有力会合衆・納屋十人衆に数えられ、阿弥号を外して千氏を名乗った。嫡子の千利休は、三好長慶の妹とされる宝心妙樹を娶り嫡子の千道安をもうけ、宝心妙樹の死後宗恩を後妻とし二児を生したが共に夭逝、娘は高弟の千紹二・万代屋宗安らに嫁がせた。妹の宗円は久田実房に嫁ぎ子の久田宗栄は茶道久田流を開いた。千道安は、幼少にして茶道に入り非凡な才を示すも利休に狷介な性質を嫌われ一時千家を離脱、後に赦され豊臣秀吉の茶頭八人衆に数えられた。利休死罪で千家は閉門となり豊臣家茶頭は高弟の古田織部に引継がれたが、数年後に「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しで赦免された。本家堺千家を継いだ千道安は細川忠興(利休七哲で茶道三斎流の祖)の招きで細川家茶道となり豊前水崎に3百石を拝領したが後嗣が無く利休の嫡流は断絶、蒲生氏郷(利休七哲筆頭)の庇護下で蟄居していた宗恩の連子で利休娘婿の千少庵が家督を継ぎ京都に移った(実父は観世流能役者の宮王三入とされるが松永久秀説もある)。少庵は、秀吉から下賜された京都本法寺前の土地に大徳寺門前の利休旧宅茶室を移し住居とした(表千家不審庵として現存)。嫡子の千宗旦は、家督争いを避けるため大徳寺塔頭聚光院(三好長慶の菩提寺で千利休の墓塔がある)の渇食となっていたが還俗して少庵の後を継ぎ、秀吉から利休所持の茶道具類と洛北紫野に5百石の知行を与えられ利休後継者として名誉回復が成った。宗旦自身は生涯仕官を控えたが嫡子宗拙と四男宗室を加賀前田家・次男宗守を高松松平家・三男宗左を紀州徳川家に出仕させた。宗守は官休庵武者小路千家・宗左は不審庵表千家・宗室は今日庵裏千家を興し「三千家」として今日まで繁栄を続ける。
千利休と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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