結婚で長州閥に食込み、首相に上り詰めて「初の本格的政党内閣」を実現したが、政党政治の限界を示す役割を演じた虚構の平民宰相
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
原 敬
1856年 〜 1921年
30点※
家系・子孫
- 原敬は、祖父の原直記芳隆が盛岡藩の家老という名門の出自で、決して「平民宰相」ではなかった。奥羽越列藩同盟に加担した東北諸藩士は維新後「賊軍」扱いされたが、原敬は中井弘の娘貞子との結婚で出世の糸口を掴んだ。中井弘は、薩摩藩を脱藩し、後藤象二郎の世話でイギリスに留学、長崎で坂本龍馬らと交わり、幕末時の身分は宇和島藩士という奇人で、維新後は外国事務局に出仕し同職の伊藤博文や大隈重信らと親しく付き合い、パークス英公使襲撃事件で頭を斬られながら暴漢を倒し有名人になった。中井弘は新橋芸者の新田武子を内妻とし貞子を産ませたが、脱藩罪尋問で鹿児島へ召還され武子を大隈重信に預けて単身帰郷した。が、いつの間にか武子は井上馨と恋仲になり、井上は戻って来た中井弘に「一生添遂げる」と誓って武子と結婚した。井上馨が「鹿鳴館外交」を打上げると美貌の外務卿夫人井上武子は「鹿鳴館の華」と賞された。中井弘の方は、薩摩人ながら井上馨・伊藤博文の長州閥に属し滋賀県知事・京都府知事・貴族院議員と栄進した。さて原敬は、政界首脳に顔が広い中井弘の実子で養父は井上馨外務卿という貞子を妻に迎えた直後に天津領事に大抜擢され、陸奥宗光外相の腹心として活躍、伊藤博文の政友会に迎えられ総裁を継いで首相に上り詰めた。令嬢育ちの原貞子は家事が一切出来ないうえ病弱で子も産まなかったが、原敬は東北人らしい辛抱強さで甲斐甲斐しく妻に仕えた。が、中井弘が没し政界に地歩を固めた原敬が新橋芸妓の浅を囲い妾宅に転居すると、貞子はなんと不倫の男児を懐妊、原は「不貞の妻」を離縁し浅を正妻とした。「平民宰相」原敬は終生受爵を固辞し、無嗣のため兄の次男貢を養子にとり家督を継がせた。
原敬と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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